2016年1月31日日曜日

テモテへの手紙第一6章17節~19節「献金~惜しまずに、喜んで~」


古いユダヤの諺に「金銭は無慈悲な主人だが、有益な召使いにもなる」とあります。いつもお金のことを考え、心配し、神経をすり減らす。お金と言う主人に支配されている人と、お金を有益に使いながら人間らしい生活を営む、お金の主人として生きる人。お金が主人の人生か、自分が主人となりお金を使う人生か。私たち人間はどちらになりうる可能性も持っている者であることを教えられる諺です。

 今月は礼拝説教で信仰生活の基本を扱ってきましたが、第四回目のテーマは献金です。そして、献金について考える際理解しておく必要のあることがあります。それは、神様は何故私たちに牛や羊などの家畜、農作物、土地や家、それに金銭などのいわゆる財産を与えてくださったのかという問題です。

 聖書は、神様がこの世界を六日で創造した時「すべてのものを良し」と見られたと教えています。しかし、その後この良い世界をさらに良いものとすることが神様のご計画であり、その為のパートナーとして人間を創造されたとも教えているのです。

 

 詩篇8:3、4、6「あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。」

 

 これは、旧約時代の信仰者の告白です。この詩人は、測り知れない程広く大きな宇宙を創造した神様が、小さなチリの様な人間に心を留め、この世界を良いものとしてゆくための協力者として立てられたことに心底驚き、恐れています。神様の偉大さと自分の卑小さを思う時、私たちも心から同意することのできることばです。

 そして、神様は人間に他の生き物にはない賜物を与えてくださいました。農業や工業など産業を興す能力、音楽、絵画、文学、建築など文化を作り出す能力等々、様々な賜物がありますが、それら賜物の一つが財産なのです。しかし、問題は人間が神様に背いて以来、これら良き賜物を専ら自分のために使うようにこと、間違った使い方をするようになったことでした。

その結果何が起こったのか。物質主義金銭崇拝がはびこる弱肉強食の世界です。持つ者が持たざる者を苦しめ、持たざる者は持つ者を妬み、持つ者も持たざる者も金銭物質を追い求めながら、それでは満たされない虚しさ、痛みを抱えるようになったのです。

しかし、この様な世界にイエス・キリストは来てくださり、十字架の死によって私たちの内に物や金銭の正しい用い方、管理能力を回復してくださいました。献金について考える時、イエス様が十字架で死なれたのは私たちが死後天国に行く為だけではなく、与えられた物や金銭を正しく使い、私たちが暮らす世界を神様のみこころにかなった場所へ整えてゆくためであることを覚えておきたいと思います。

但し、今イエス様が私たちの内に正しい管理能力を回復してくださったと言いましたが、それは植物にたとえればまだ小さな芽の状態にあります。私たちの管理能力は教え養われ、訓練される必要があるのです。ですから、物質金銭の管理についての教えは聖書の至る所にありますが、今日選んだのはパウロがテモテにあてた教えです。

先ずは、財産によって高ぶらないように、財産に望みを置かないようにと言う注意、警告から始まります。

 

6:17「この世で富んでいる人たちに命じなさい。高ぶらないように。また、たよりにならない富に望みを置かないように。」

 

旧約聖書にアハブと言う王様が登場します。アハブはイスラエルに偶像崇拝をもたらしました。この偶像崇拝は今で言うなら物質崇拝富崇拝です。そのアハブ王が王宮の隣にあるナボテと言う農夫の葡萄畑が欲しくなります。必要だからではなくただただ欲しくなったのです。しかし、ナボテは先祖伝来の大切な畑は売れないと、いくら金を積まれてもこれを拒みました。すると、王は権威をないがしろにされたと怒り、ナボテを罪に定め処刑し、葡萄畑を手に入れたのです。

富には自分を偉大なものと思わせる魔力があります、自分の思う通りに行動しない人をさばき、攻撃するという高慢な生き方へと導く危険性があるのです。ですから、聖書は私たちに「高ぶらないように」と命じていました。

さらに、富には富を求め富に望みを置く者自身の人生を悲惨なものにする力があります。イスラエル史上最高の栄華、つまり経済的豊かさを経験したソロモン王はこう告白しています。

 

5:10~14「金銭を愛する者は金銭に満足しない。富を愛する者は収益に満足しない。これもまた、むなしい。財産がふえると、寄食者もふえる。持ち主にとって何の益になろう。彼はそれを目で見るだけだ。働く者は、少し食べても多く食べても、ここちよく眠る。富む者は、満腹しても、安眠をとどめられる。私は日の下に、痛ましいことがあるのを見た。所有者に守られている富が、その人に害を加えることだ。その富は不幸な出来事で失われ、子どもが生まれても、自分の手もとには何もない。」

 

これらのことばはソロモン王程の富を持っていない私たちにもよく分かります。持てば持つ程もっと欲しくなる。持てば持つ程満足できない。持てば持つ程自分の財産を目当てにする人が多くなり人間関係が煩わしい。持てば持つ程それが何の益ももたらさないことを実感するようになる。持てば持つ程心配の種が増える。持てば持つ程それに縛られ自分を傷つけることになる。持てば持つ程失うものも増える。金銭を愛し、金銭に望みを置く人生は実に悲惨だと言うことです。

「メカをいじる仕事をしていた時の方が幸せだった」と言うのは、自動車王フォードのことばです。「何百万もの富を築いたが、私の心はいつも心労で一杯で何の楽しみもなかった」。これは石油王ロックフェラーのことば。自動車王も石油王もソロモン王も、私たちが思う程幸せではなかったようです。だからこそ、聖書は「頼りにならない富に望みを置くな」と強く勧めているのでしょう。

それでは、多くの人の心が物や金銭に支配されているこの世にあって、私たちはどう財産と付き合ったら良いのでしょう。私たちの心をも蝕む物質主義を癒す道はあるのでしょうか。私たちが財産をささげることが助けになると聖書は教えています。

 

6:17b,18「むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。また、人の益を計り、良い行ないに富み、惜しまずに施し、喜んで分け与えるように。」

 

ささげると言う行いは、私たちが楽しむことのできる良いものが神様から来ること、神様がこの世界とそこに満ちるすべてのものの造り主であることを思い起こさせます。本来なら、それら良きものをひとつたりとも受け取る資格のない私たちが、ただただ神様の一方的な愛により、それを受け取り楽しむことができると言う恵みを覚える機会、心から神様が主であることを認め、感謝する機会となるのです。

もし、人生にささげると言う機会がないとしたら、それも定期的にそれを行うことがないとしたらどうでしょう。どの様な財産であっても自分がその所有者だと思い込み、手放すことなど考えもしなくなるかもしれません。些細な財産を巡って夫婦親子友人同士で争うことも多くなりそうです。

しかし、ささげることを通して、私たちの思いは明確になります。神様が真の所有者であり、自分はそのしもべ、管理者であるとわきまえることができるのです。ことばを代えれば、ささげることにより、私たちは財産にではなく神様に望みを置くことができるようになるのです。

この世の人は言うでしょう。「神に望みを置くなど愚かなこと。もっと確かなもの、眼で見、手で触れる財産にこそ頼るべし」と。その様な声は、私たちの内にも時々響いて心を迷わせます。しかし、富に望みを置いた人々がどんな人生を送ったことか。その虚しさその悲惨は、神に望みを置く者が持つ平安とは比べようがないと思われます。

よく私たちは「神様のためにささげる」と言います。もし、神様が私たちのささげ物を必要としていると考えての事なら、それは間違いです。神様は私たちがささげものが一つもなくとも神様として永遠に生きることのできるお方なのです。

そう考えますと、ささげものはむしろ私たちのため、私たちの魂のためと言えるのではないでしょうか。ささげることで物質主義や金銭崇拝から解放される。人生の様々なトラブルから守られる。真に望みを置くべきお方を知る。ささげ物は、私たちを人間本来の生き方へと導く第一歩であることを心に刻みたいと思います。

さらに大切なのは、神様が与えてくださる物質や金銭には私たちの生活を守り、豊かにし、様々なものを楽しませてくださると言うこと以上の高い目的があると知ることです。与えられた物や金銭によって、私たちはこの世界を良くする、共に生きる人々を助けると言う神様の働きに協力することができるのです。ですから聖書は「人の益を計り、良い行ないに富み、惜しまずに施し、喜んで分け与えるように」と勧めていました。

神様が経済的に祝福してくださった時、私たちはそれを祝福だと思い感謝します。確かにそれは感謝すべきこと、祝福であることに間違いはありません。しかし、もうひとつ、それは神様からの期待のあらわれ、ある意味でのテストと考えることも、聖書の教えにかなっているように思われます。神様はご自分が与えたものを私たちがどのように用いるのか見ておられると言うことです。

勿論、ささげることができるのはお金や物だけではないでしょう。時間、知恵、専門的知識、重い荷物を運ぶ手、病める人を見舞うのに使う足。これらも素晴らしいささげ物です。どの様な形であれ、私たちはささげることで神様とともに働く協力者となれるのです。

そして、人にとって最大の益となること、私たちがなしうる最高の良い行いと言えば、人の魂の救い、救霊、伝道のわざでしょう。これは、この世界を良いものへと回復するために最も必要なことでもあります。神様に望みを置く政治家、神様の栄光を表わすため仕事をする実業家、神様の愛をもって人々の生活に必要な物を作り、運び、売る労働者。あらゆる人々が神様を信頼し、活躍する社会。それが私たちの目指す社会です。

その為に活動する教会、キリスト教団体、キリスト教大学や神学校。これらにささげ物をすることも私たちの働きであることを確認したいと思います。

ささげることには犠牲が伴います。しばしばそれが私たちの思いや行動を押しとどめることがあります。しかし、ささげることがこの世界に対する神様のご計画の中で非常に重要なものであること、神様が私たちの経済を守り、祝福してくださるその意味を理解できたら、私たちは惜しみなく、喜んでささげやすくなるのではないでしょうか。

ささげ物をする際、私たちはどれぐらいささげるのかを考えます。そこに気を取られがちです。しかし、神様の眼は私たちの心の思い、動機に向けられていることを忘れてはいけないとも、教えられるところです。

最後に、聖書が勧めるのは、未来に備えてこの地上でささげることでした。

 

6:19「また、まことのいのちを得るために、未来に備えて良い基礎を自分自身のために築き上げるように。」

 

有名なエジプトの王ツタンカーメンはわずか17歳でこの世を去っています。その遺体は黄金の杖、黄金の器、黄金の馬車など金でできた何千もの装飾品と共に埋葬され、黄金の棺が黄金の墓に収められました。その黄金の量は何十トンともしれず、見る者を圧倒するのだそうです。

エジプト人は死後の世界を信じていました。死後の世界では地上で蓄えた富を受け取ることができるとも信じていたそうです。しかし、その富は1922年に探検家が発見するまで放置されていたとのこと。何と虚しい事かと思わされます。

しかし、聖書が勧め、私たちが目指すのは地上に財産を蓄え、残してゆく生き方ではありません。むしろ、地上で与えられたものを惜しみなく、喜んでささげる生き方です。

イエス様は、私たちがなすどんな小さな親切も見逃されず、永遠の報いを受け取ることになると約束しています。

 

マタイ10:42「わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。」

 

神様は私たちが神様のためにすること、隣人のためにすること、社会を良くするためになすこと。それらすべてを記録し続けておられ、そこには、私たちがささげたものも含まれているのです。

隣人のために差し上げた一杯の食事。体の不自由な人のために差し出した手足。教会や宣教師や生活困難な方々への献金などすべてが書き込まれ、その一つ一つに私たちの想像をこえる報いが惜しみなく与えられると言うのです。

いつかはごみの山となり捨てられるしかない物にしがみついて生きるのか。それとも、未来に備えて良い基礎を築きあげる生き方を選ぶのか。一人一人問われるところです。

最後に、皆様がこの地上の人生において四つの銀行口座を持つことをお勧めしたいと思います。一つはこの世での生活に必要なお金の口座。もう一つは保険、貯金などこの世における将来に備えるお金のための口座。三つ目は自分の住む社会、世界を良くするため、人を助けるためにささげるお金のための口座。四つ目は人の魂を救う働き、あるいはそれを行う人、教会や団体にささげるお金の口座です。

最初の二つは誰もが持っているでしょう。しかし、イエス・キリストの救いにあずかった者が後の二つの口座を持っていないとしたら、残念な気がします。この2016年惜しみなく、喜んでささげることにおいて成長、成熟してゆきたいと思います。

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