2016年1月10日日曜日

ウェルカム礼拝 ピリピ人への手紙3章13節~15節「真の大人とは~自由と責任~」


 大人であること。今回のテーマは非常に難しいものでした。自分自身が大人と見られ、自覚もしているつもりですが、大人であることについて話すとなると迷ってしまう、悩んでしまう。そんな不思議な経験をしました。

 考えてみると、一言で大人と言っても年齢の幅が広いことがあります。大人をテーマとした川柳にこんなものがありました。「二十歳すぎ 年取るスピード 2倍速」。昔のことばで言えば「光陰矢のごとし」でしょうか。

 皆さんも、大人になると子どもの頃より一日や一年が短く感じることがあると思います。それが2倍なのか、矢の様に速いのかはともかくとして、子どもの頃は一年が長く夏休みやお正月を心待ちにする位でしたのに、大人になってみるとあっという間の10年20年と感じられます。

この間ある青年の話を聞いていて大いに共感するところがありました。そこで「よ~くわかる。僕もついこの間まで大学生だった気持ちがするんだよ。その頃読んだ本、感動した映画、好きだった人、尊敬していた人。どれも強烈に覚えているからね」と言った所、彼曰く「でも山崎先生のギャグって、典型的なおやじギャグですよね」と言われてしまったのです。こちらは仲間の気持になっていたのに、「そうじゃないぞ~」と突き放された感じがして、ちょっと寂しい思いがしました。

青年、壮年、老年。大人にはこの三世代が含まれますが、それを一括りにして大人とは何かを考える。そこで何か手がかりはないかと図書館に行き、大人と言うことばが題名に入った本を出来る限り読んでみました。大人の常識、大人の考え方、大人の品格、大人の流儀、大人のわきまえ、出来る大人の交際術、大人の見識等々。読んでみて分かったのは大人についての考え方は人それぞれ十人十色。これをまとめるのは不可能だと言うことです。

しかし、それらの本に共通することがありました。それは一言で言えば成熟です。多くの場合子どもが本能的に、自然に生きているのに対し、大人は社会の常識をわきまえたり、自分なりに行動のルール、考え方、人生観を持ち、それを意識しながら生きていると言えるのではないでしょうか。そういう意味で成熟した人、あるいは成熟を目指し努力している人。そういう人が一般的に大人と考えられているように思います。

実は今読みました聖書に「成人である者はみな、このような考え方をしましょう」とありますが、成人、大人と訳されたことばの意味は成熟です。つまり、聖書も大人を成熟した人と定義しているわけです。それでは、真の大人、聖書が教える大人、成熟とは何でしょうか。今日はこれを自由と責任と言う視点から考えてみたいと思います。

リクルートと言う会社が20代の青年に行ったアンケートがあります。「あなたはどんな時大人になったと感じましたか」。この質問に対する答えの第一位が「お酒が飲めるようになった」。その後に「自分で稼いだお金で欲しい物を大人買いした。」「選挙権が与えられた」「車の運転免許を取った」「一人暮らしを始めた」「親孝行を考えるようになった」等の答えが続きます。

家庭や学校で制約の中を歩んできた子供時代に比べると、大人は経済的自由、行動の自由、恋愛の自由等、生活の自由度が広がります。他方、大人にも弱点があります。青年は情欲に悩み、壮年は物欲に捕われ、老年は名誉欲に縛られると言われる様に、様々な欲望が私たちを正しい道から離れさせ、足を掬われてしまうことがあります。

聖書は私たちは自分が思う程自由ではないと教えていました。

 

ローマ7:18、19「私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。」

 

情欲に溺れる快楽人間、お金を稼ぐことが生きがいの物欲人間、自分のプライドに拘って人と協力できず、人が離れて行くプライド人間、怒りの感情に縛られて人を責めてしまう短気人間。皆さんは、この様な欲望や感情から自由ではない自分に気がついているでしょうか。この様な弱さが自分のうちにあることを知っているでしょうか。

今日の聖書の箇所でパウロは「私はすでに捕えたなどと考えてはいません」と言っています。自分はまだ完全な自由を捕えてはいない、本当の自由を持ってはいない。つまり、自分には欲望や感情に支配される弱さがあることをよく自覚しているわけです。

聖書が言う大人とは完全な人ではありません。自分の力では克服しがたい弱さを持っていることを認めている人のことです。自分の弱点、失敗、間違った行いを認め、自分の考え方や行動を改めることに取り組む人を指しています。「私はこの一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前に向かって進み」ということばは、この様な意味で真の大人としての生き方を私たちに教えてくれるものと考えられます。

ところで、日本では成人式と言うと二十歳と言うのがしきたりですが、世界的に見ると十八歳を成人とする国が多いようです。しかし、ユダヤでは昔から今に至るまで十三歳が成人式で、家族や親しい人が集まりバアル・ミツバ―という盛大なお祝いをする風習があるのだそうです。

そして、成人式を終えた者はユダヤ教の教えを記したトーラー、律法集を覚えておき、それを礼拝の場で朗読することができ、さらに婚約をすることも許されます。つまり、大人とは、所属する社会において人々のために責任ある仕事を求められる者でもあるわけです。

日本でも昔はある一定の農作業ができる十五歳になると村の青年団に入り、大人の仲間入りとされました。つまり、大人イコール社会人と言う考え方です。

 しかし、最近責任ある立場に立つことを嫌がる若者が増えてきたとも言われます。大人をテーマにした川柳の中にこんなものがあります。「二十歳すぎ 責任・税金 大人イヤ」。

 以前「モラトリアム人間の時代」と言う本がよく読まれました。モラトリアムと言うのは元々借金の返済を先延ばしすることです。そこから作られたモラトリアム人間と言うことばは負うべき責任を避け、先延ばしする人を指します。豊かな境遇に育ち社会や組織に属そうとしない大人、特に青年の特徴を表わすことばとして有名になりました。

 ところで責任とは何でしょうか。与えられた仕事を終わらせることでしょうか。聖書はもっと広い意味で私たちの責任を教えています。神様は私たちに能力、財産、人間関係、時間、行動力等を与えてくださった。それをどう管理し、どの様に用いるのか、私たちは神様と人々に対し責任を負っていると言う考え方です。

 皆さんは、神様に背いた人類の先祖アダムとエバが最初にしたことを知っているでしょうか。禁断の木の実を取って食べた時、神様に理由を聞かれたアダムは「あなたが与えてくれたあの女が、私に勧めたからです」と答え、エバにまた暗に神様にも責任転嫁しました。エバもまた蛇に騙されたと言って、責任転嫁したんですね。責任は昔から人間が避けようとしてきた問題だったのです。

 我が家の子どもたちが小さかった時、時々兄弟げんかが起こりました。何事にもマイペースな長男と完全主義的な長女の喧嘩です。何故仲良くできないのかと尋ねると、長男は「妹がすぐに怒鳴るから」と言い、長女に「どうして怒鳴るのか」と質問すると、「お兄ちゃんがやるべきことをやらないから、だらしないから」と答えます。自分がこういう行動をとるのは相手のせいだと言い合うだけではダメだと私が怒ると、長女が「パパだってママのせいにしてるじゃない」と言うので、こちらも二の句が継げないと言うのが良くあるパターンでした。

 自分が表わす感情、態度、自分の能力を誠実に使うのか使わないのか。それは自分の問題であって他の誰にも社会にも責任転嫁できないと聖書は教えているのです。そして、聖書は神様から与えられた自由を愛をもって人に仕えるために使いなさいと勧めています。

 

 ガラテヤ5:13「兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。」

 

 肉と言うのは肉体のことではなく、人間が生れながらにして持っている自己中心の性質です。つまり、私たちは自分の態度や能力を肉の働く機会、つまり相手を責めたり、傷つけるために用いてしまう弱点があります。しかし、その弱点をしっかりと受けとめつつ、それらを愛をもって相手に仕えるため用いるよう努めよと言う勧めです。

 勿論、「ローマは一日してならず」ではありませんが、この様な大人の生き方、成熟した生き方は簡単に身に着くつくものではありません。前進する時もあれば後退する時もあるでしょう。しかし、自己中心の考え方や行動を改め、焦らずたゆまず愛をもって人に仕える生き方を追い求める。それが聖書の教える大人でした。「私は、ただこの一事に励んでいます。すなわち、うしろのもの、自己中心の生き方を忘れ、ひたむきに前のもの、愛をもって人に仕える生き方に向かって進む」と言うことばはここにも響いているように思われます。

 この間新聞を読んでいましたら、アメリカのある学校では子どもたちに対しお金について教える授業を行っていると言う記事が載っていました。お金の稼ぎ方ではなく、お金の意味、お金の用い方を教えるクラスです。それによると、貯金箱を四つに区切ることでお金には四つの使い方があることを分かりやすく伝えているそうです。

 ひとつは生活に必要なものを買うお金、二つ目は今は買えないけれど自分が本当に欲しい物を買うために貯めるお金、三つ目は自分の将来の成長のために投資するお金、四つ目は社会で困っている人を助けるため、あるいは世界で苦しむ人を助ける活動をしている人々に寄付するお金です。

 私はこれを読んでいて大人の考え方生き方だと感じ、お金だけでなく時間や能力についても当てはまることではないかと思いました。子どもは今を生きています。しかし、大人は今を生きるだけでなく、将来を見据え目標を立ててそこに近づいてゆくと言う努力が求められます。子どもは主に自分のために生きています。しかし、大人は広く社会や世界に目を向け、少しでも自分が生かされている社会や世界を良くするために考え、行動する責任があるのではないでしょうか。

最後にお勧めしたいのは、聖書の神様を信頼することが大人として生きる上で非常に助けになるということです。聖書の神様はこの世界の造り主です。神様が私たちのことをどう思っているのか。私たちに対するメッセージがこの言葉に込められています。

 

イザヤ43:4「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」

 

神様から見て私たち一人一人の存在は非常に大切でかけがえのないもの。私たちの人生はまるごと神様の愛によって祝福され、守られているというメッセージです。

皆さんは、明日の記憶と言う映画をご存知でしょうか。渡辺謙さんと樋口可南子さんが夫婦を演じていて、ちょっと悲しくなる場面があります。主人公はある会社の部長で同期では出世頭、自信満々で仕事をするサラリーマンです。この主人公が打ち合わせの日時や場所を忘れたり、間違えたりするので病院で見てもらった所、若年性アルツハイマーと診断されます。やがて自分の仕事力が衰えたことを感じた主人公は自ら退職届を出しますが、会社はそれを受けとらず残るよう勧め、いわゆる窓際族になりました。

しかし、かっての自分を思うとその部署にいることが屈辱的で我慢できない主人公が奥さんに「俺は会社を辞める」と伝えると、奥さんは「絶対にやめないで。娘の結婚式までは辞めないでほしい。父親が肩書なしじゃ、あんまりあの子が可哀想よ」と訴える場面です。それを聞いた主人公は最初怒りますが、やがて諦め受入れ、忍耐して働き続けることを決断するのです。

この世では、能力、学歴、肩書、収入等で人は自分の、そして他の人の価値を判断します。しばしば愛情もこれらのものに左右されます。この映画の主人公も奥さんも娘のためにそれを受け入れました。しかし、最後主人公が妻に関する記憶を失った時、それでも妻は夫を大切な存在として愛そうとするのです。神様も同じです。この世界を創造した神様が私たちの存在そのものを大切に思い、その愛によって私たちの人生を丸ごと守ってくださる。こんなに安心できることがあるでしょうか。

「成人である者、大人である者は皆この様な考え方、生き方をしましょう」と勧めるパウロも、神様に愛され守られていることを信じていたからこそ、自己中心の生き方を改め、ひたすら大人としての生き方を追い求めることができたのです。

聖書には「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、その目標を目指して一心に走っている」と言うパウロのことばが記されています。この世の旅路を終えた時、そこには私たちを待っていてくださり、歓迎してくださり、褒めてくださる神様がいる。その様な神様の存在がどれ程私たちの心を励ましてくれることでしょうか。

最後に神様を信頼して歩む者の祈りとして有名なニーバーと言う人の祈りを、紹介したいと思います。「神よ。変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気を私たちに与えてください。変えることのできないものについては、それを受け入れる冷静さを与えてください。そして、変えることのできるものと変えることのできないものとを、識別する知恵を与えてください。」

0 件のコメント:

コメントを投稿