2016年1月17日日曜日

ヨハネの福音書13章34節、35節「交わり~愛された者として~」


新しい年を迎えて半月。あっという間に半月が経ちました。年初めは、自分の歩みを再確認し、どのように生きて行くのか目標を立てるのに良い時期。皆様は、この一年をどのように生きるのか、考えたでしょうか。日々の忙しさに目を回す前に、新たに目標を見据え、計画を立てる。自分の願いは何なのか考えたいと思います。

とはいえ、その目標が自分勝手なもの、罪にまみれた欲望に基づいた目標とならないように。神様の前で、自分は何者なのか。どのように生きることが幸いなのか。確認しつつ、自分の歩みを見据えたいと思います。

 そのようなわけで、年初めの数回の説教で、キリストを信じる私たちは何者なのか、再確認しているところです。前回が礼拝。(例年では、第二週が伝道ですが、今年はウェルカム礼拝を実施したため、伝道は別な機会にまわします。)今日は「交わり」がテーマです。キリストによって私たちは、交わりを大切にするよう召されましたが、それでは私たちが目指す交わりとはどのようなものか。キリスト者の交わりとはどのようなものか。皆様とともに考えたいと思います。

 

 ところで皆さまは教会の交わり、キリスト者の交わりは好きでしょうか。お互いのことを知り合うこと、教会の仲間とともに過ごすことがとても好きという方。特に用事があるわけではないけれども、教会で仲間との時間を大切にしたいという方。いらっしゃると思います。教会の仲間と良い関係を持ち、その交わりが本当に楽しい、嬉しいと感じられるとしたら、それは本当に大きな恵みです。

しかし、教会での交わりが苦手という方もいらっしゃると思います。一人でいる方が良い。他の人にどのように思われるのかとても気になる。これまでクリスチャンの交わりの中で傷ついたことがある。あるいは、他の人を傷つけてしまい、また同じことをしてしまうのではないかと恐れている。

 信仰生活、教会生活が長くなると、交わりの喜びと、交わりの難しさ、その両方味わうのが一般的だと思います。交わりが楽しいと感じる時もあれば、交わりが怖い、教会での交わりを避けたくなる時もあります。

 

 私もこれまでの信仰生活の中で、(四日市キリスト教会に来る前のことですが)教会の方にひどく傷つけられたと感じたことがあります。そのような時は、その人の顔を見て、悪い感情が出てくるのが嫌で、あまり教会にいたくないと感じました。あるいは、自分の発言や行動で、教会の方をひどく傷つけてしまったこと。自分のあまりの未熟さに、他の人と関わらない方が良いのではないかと考えたこともあります。皆さまはそのような経験があるでしょうか。

 交わりを避けたい。交わりを望まないという時。神様を信じるだけで十分ではないか。聖書を読み、祈る時間を充実させれば良いではないか。教会の人と顔を会わせるのは礼拝の時だけで良いではないか、という思いが沸き出てきます。

このような思い。交わりを避けたい、交わりを望まないというのは、多くのキリスト者が味わうものです。聖書が記された時代にも、交わりを避ける人がいました。交わりを避けるのには、それぞれ事情があったと思いますが、それでも聖書は明確に交わりの重要性を訴えていました。

 

 ヘブル10章25節

ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。

 

 集まることをやめないように。キリスト者の交わりをやめないように。信仰生活を一人で送らないように。共に生きることに取り組むようにとの勧めです。交わりを避けたいと思っている時、このような御言葉に応じることは難しく感じますが、とはいえ聖書は明確に交わることを勧めていることは覚えておくべきことでしょう。

 

 より積極的な表現で交わりを勧めている箇所もあります。礼拝の冒頭、招詞として読んだ箇所。

 詩篇133篇1節~3節

見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。それは頭の上にそそがれたとうとい油のようだ。それはひげに、アロンのひげに流れてその衣のえりにまで流れしたたる。それはまたシオンの山々におりるヘルモンの露にも似ている。主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。」 

 

聖書の中央、大詩篇に含められた交わり賛歌。仲良し万歳という歌です。表題に都上りの歌とついていまして、神を信じるものが共に礼拝出来る喜び、その幸せを歌ったもの。短い詩で、テーマは一つ。一点集中。神の民の交わりが楽しい、幸せであるというだけの内容です。その最後が印象的で「主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じた」と結ばれます。なぜ交わりが楽しいのか、幸いなのか。それは主なる神様が、交わりにおいて、私たちが恵みを受けるように、祝福を命じたからというのです。

この御言葉に沿って言うならば、交わりを避けることは勿体ない。交わりを持たないことは、神様が用意した恵みを受け取らないことになっていると言えます。これもまた、交わりをテーマにした時、覚えておきたい聖句の一つ。

 

 (他にも色々と聖句を挙げることが出来ますが)このように聖書は繰り返し、交わりを大切なものとして伝えています。なぜ交わりが大切なのか。もう少し具体的に確認すると、一つの意味は私たちの成長のためです。

 箴言27章17節

「鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる。」

 

 私たちは日々の生活の中で、様々な事柄から影響を受けます。テレビ、インターネットにより、家の中でも世界中の情報を手にすることが出来る時代。意識していなくても、様々な影響を受けて生きています。

 影響は良いものもあれば、悪いものもある。私たちを整える好影響もあれば、乱す、壊す悪影響もあります。それでは私たちを良い状態へと整えるものは何か。聖書の一つの答えは「友」でした。鉄をあるべき形に整えるのに、粘土では出来ない。鉄を整えるのには鉄が必要なように、私たちを整えるのには「友」が必要だと言われます。私たちの人格は、人格によってとがれる。友との交わり、友との関係の中で、私たちは成長していくという言葉。

 もちろん、私たちが成長するのは、キリスト者の交わりだけではありません。他にも色々と挙げることが出来ますが、しかし聖書は、私たちを整えるものとして特に「友」との関係を挙げています。実際、「自分の信仰生活に良い影響を与えたものは何か。」とアンケートをとると、最上位にくるのは「交わり」でした。

 

 神様は私たちに多くの恵みを下さるお方。ありとあらゆる方法で恵みを下さるお方。中でも、キリストにある仲間を通して頂く恵みは格別なものです。ともに祈り、ともに礼拝をささげ、ともに奉仕をし、ともに教会を建て上げてきた仲間との時間。励まし合い、支え合い、時には罪を指摘し注意し合う。苦しみ、悲しみも、感動、喜びも分かち合える交わり。

仮に、自分の人生にそのような人間関係、そのような交わりがなかったとしたら、私たちの人生はどれ程寂しいものになっていたでしょうか。寂しいだけの問題ではない。そのような人間関係がなければ、今の自分とは全くことなる自分になっていたはずです。

私たちは自分に与えられたキリスト者の交わり。その関係を通して与えられた多くの恵みに、どれだけ感謝をささげてきたでしょうか。また、教会に来る時に、交わりによって自分が整えられること、成長することをどれだけ期待しているでしょうか。

 

 ところで箴言の言葉は「人は人によってとがれる」ではありませんでした。「人は『友』によってとがれる」として、その関係が良いものであることを教えています。良い関係によってこそ、私たちは整えられる。

それでは、聖書が教える友の関係。良い関係とはどのような関係でしょうか。今日の聖書の箇所に、明確に記されていると思います。

 

 ヨハネ13章34節

あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

 

 十字架にかかる直前、イエス様の遺言説教の中の言葉。「互いに愛し合う」、これこそ聖書が教えている良い関係であり、私たちの目指す交わりの姿です。

 とはいえ、思うがまま愛するというのではありません。残念なことに私たちに対する罪の影響は実に大きく、愛することすら自己中心的になることがある。

そのためでしょう、はっきりと、キリストが弟子たちを愛したように、「互いに愛し合う」よう教えられています。つまり、主イエスが弟子たちに願っていることの第一は、イエス様の愛を味わうこと。ともかく仲間を愛するというのではなく、じっくりとイエス様の愛に憩うことです。

 私たちも自分勝手に愛し合うのではなく、イエス様がどのように弟子たちを愛したのか、よく知る必要があります。もっと言えば、自分自身がどのようにイエス様に愛されたのか、味わう必要があります。

 

 私たちは、世界の創り主、王の王、主の主に愛されています。イエス様はどのように私たちを愛されたのか。王として私を導き、羊飼いとして私を養い、盾として私を守り、友として私を励まし、しもべとして私に仕え、花婿として私とともにいることを喜ばれ、救い主として命をかけて私を救って下さいました。愛されるに値しないはずの私が、これ以上ないほど、徹底的に愛された。そのキリストの愛を、私たちは、どれだけ味わっているでしょうか。

 この一年、イエス様の愛が分かるように。イエス様の愛を深く味わえるように。それも頭だけ、観念的に理解して終わることのないように。私たちの全存在をもって、イエス様の愛を味わいたいのです。

 

 ところで、私たちがこのイエス様の戒めに取り組むとしたら、何が起こるのか。想像出来るでしょうか。

 私が教会の仲間に会う時。そこに、イエス様が私を愛したように、私を愛してくれる人がいることになります。それはどれ程の喜びとなるのか。キリストを信じる仲間に会うことが、どれ程の楽しみとなるのか。教会の仲間に会うことが心待ちになるでしょう。

また、私自身が他の人にとって、キリストの愛を示す存在となる。これ程偉大な使命は、そうはありません。

互いにキリストの愛を示し合う。その交わりの中で、互いに整えられていく。友によってとがれることを経験していく。本当にこのような教会でありたい。このような交わりを持ちたいと思います。

 

 このイエス様の愛を互いに示し合う交わりは、私たちを整える以外にも、もう一つ大事な意味がありました。

 ヨハネ13章34節~35節

あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もしあなたがたの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。

 

 イエス様による「教会論」、「教会のしるし」です。キリストの弟子が最もキリストの弟子らしくあるのは、イエス・キリストの愛で、互いに愛し合うとき。それこそキリストの弟子。それこそ教会。その関係性は、他に類を見ないもので、キリストを知らない者に衝撃を与えるもの。

 交わりは私たちのために有益でしたが、それだけではない。この交わりの外にいる人にも、キリストの素晴らしさを示すものとなるのです。「交わり」は私たちの成長に有益であると同時に、伝道としても重要でした。キリストをまだ知らないこの地域の方々に、私たちの交わりを見てもらいたい。この交わりに加わってもらいたい。そう思える程、互いに愛し合う教会でありたいと思います。

 

 以上、私たちはこの一年、どのように生きていくのか。交わりを中心に考えました。

第一に取り組みたいことは、イエス様の愛がどのようなものか確認することです。キリストが愛するという時、何をされたのか。どのように愛を示されたのか。聖書を読み、答えを探したいと思います。

知識として、愛するとは何かを確認することは大事。しかし、それで終わることのないように、と思います。「イエス様は弟子たちを愛していた。」「聖書はイエスを愛の人と描いている。」と知っていることと、イエス様は私を愛していると告白することには大きな違いがあります。他でもない、私がいかに愛されているのか。深く味わいたいのです。

 

それでは、どのようにしたら、キリストの愛を実感出来るでしょうか。いかに愛されているのか、深く味わうことが出来るでしょうか。

祈ること。聖書を読むこと。「イエス様の愛がより分かるように」と祈り、聖書を読むことは、私たちが一生涯かけて取り組むこと。しかし、今日特にお勧めしたいのは、キリストの愛を深く味わっている方と時間を過ごすことです。イエス様の愛を味わうことにおいて祝福された人と交わることです。

 イエス様の愛を深く味わっている方と過ごすと、どのように愛を受け止めているのか。その信仰の姿勢、その喜びが伝わってきます。皆様は誰が思い浮かぶでしょうか。あの人、この人と思いつく方は幸いです。誰も思い浮かばないという方は、紹介したいと思いますので、どうぞ聞きに来てください。

 

 私たちが取り組むべきことは、イエス様の愛を味わうこと。そして、その愛をもって、仲間を愛すること。良い交わり、友との交わりによって、私たちは整えられ、成長すると教えられます。また、互いに愛し合う関係が、キリストの弟子であることの証。キリストの素晴らしさをあらわすことだと確認しました。まだキリストを知らない多くの人がこの交わりに加われるようにと願います。

 これからの一年、キリスト者の交わりが嫌になること。避けたいと思うことが起こるかもしれません。愛する思いを持ちつつも、仲間をひどく傷つけてしまうことがあるかもしれません。しかし、目標はイエス様の愛をもって互いに愛し合う交わりを持つこと。愛された者として愛していく。その交わりが広がる教会であるよう皆で祈りつつ、取り組んでいきたいと思います。

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