2016年1月1日金曜日

元旦礼拝 詩篇16篇1~11節「いつも私は目の前に主を」


皆様明けましておめでとうございます。2015年が終わり2016年が今日から始まるわけですが、2015年の世相を漢字一文字で表すと何であったか。人々が何を選んだのか。皆様はご存知でしょうか。当初の予想では景気上昇を期待する人あるいは逆に物価上昇を心配する人が多く「上」がトップ。政治から自然災害まで思わぬ事態が起こる年かもしれないと考えた人々もいて「乱」が二位だったそうです。結局年末に行われた公募で最も多くの人が今年の漢字として挙げたのは「安」の一文字でした。

昨年は安保関連法案が審議され採決に国民の関心が高まったことや、世界で頻発するテロ事件や異常気象など人々を不安にさせた年であったこと、芸人・とにかく明るい安村の「安心してください穿いてますよ」のフレーズが流行したこと等が主な理由だそうです。皆様はどう思われるでしょうか。

ところで世界世相の一年を振り返ることも大切ですが、これからの一年を自分がどの様に歩んでゆきたいか。それを考えることはより大切と思われます。2016年皆様の願い、この様に歩んで行きたいと言う思い、テーマを漢字一文字で表すとしたら、それは何でしょうか。もし、既に考えたと言う人がいましたら、是非後で教えて頂きたいと思います。

私は神様との交わり、人々との交わりを喜びとしてゆきたい、その為に時間を取ることに取り組みたいと願い「喜」を今年の一文字として選びました。その様な訳で、今日選んだ詩篇16篇は詩人が神様との交わり、兄弟姉妹との交わりを喜び歌う詩篇となっています。

最初に出てくる「ダビデのミクタム」のダビデは詩の作者です。ミクタムは贖いの詩篇とか黄金の詩篇等様々な説があります。詩篇は元々讃美歌でしたから歌の種類かリズムを表わすと推測されていますが定説はなく、ミクタムとそのままのことばが載せられています。

 

16:1、2「神よ。私をお守りください。私は、あなたに身を避けます。私は、主に申し上げました。「あなたこそ、私の主。私の幸いは、あなたのほかにはありません。」」

 

詩人は神様のことを1節では神と呼び、2節では主と呼び代えています。神はこの世界を創造したお方の力強さ、全能を表わし、主は私たち人間に対しどこまでも真実で、いつくしみ深い神様の姿を示すと言われます。力強さといつくしみ深さを兼ね備えた主なる神様に「私を守って欲しい」と願い、「あなたに身を避けます」と語り、「私の幸いはあなたの他にありません」と信頼するダビデの姿が目に浮かびます。

しかし、ちょっと待てよという気がします。これがイスラエル史上最強の兵士にして最高の王と言われたダビデのことばであると考えると意外な気がします。普通王が身を避けるのは神ではなく、自分が築いた王宮か砦でしょう。「私の幸いは主にある」ではなく「私の幸いは私の富にある」と言うのが本音ではないでしょうか。

それをダビデは、幼子が力強いお父さんに守ってもらい安心する様に、慈しみ深いお母さんの胸に抱かれて幸せである様に、ただ無心に神様を信頼しているのです。

この世では最強の戦士も神様の前ではひとりの無力な幼子となる。この世では栄華を極めた王も何も持たない幼子の如く神様に頼り切る。神と言えば困った時の神頼みとか、一年に一度初詣に出かけ、健康も商売繁盛も大学合格も全部まとめてお願いするご利益宗教とは全く違う人と神との人格的な関係、交わりがここには展開しています。

また、ここには「幼子のようにならなければ、誰も神の国に入ることはできません」と言われたイエス様のことばも響いてきます。この世では大人が幼子の模範です。しかし、信仰の世界では幼子が大人の模範と言うことです。社会的な肩書やプライド、財産や能力が邪魔をし神様に身も心も任せ切ることが苦手なのが大人と言う生き物でした。 

そんな私たちにとって、このダビデの姿は何を物語っているのでしょうか。私たちも後生大事に守っている肩書やプライド、しがみついている財産や能力を手放し、ひとりの幼子になって神様の前に出る。そんな交わりを持つことの大切さを教えられる気がします。しかし、ダビデが喜んでいたのは神様との交わりだけではありません。兄弟姉妹との交わりも大きな喜びであったのです。

 

16:3「地にある聖徒たちには威厳があり、私の喜びはすべて、彼らの中にあります。」

 

このことばにも驚かされます。兵士としての戦闘力、王としての統率力、詩人としての表現力。様々な点で人よりも秀で、一目置かれていたダビデが自分の周りにいる人々のことを尊敬すべき人、素晴らしい人、誇りとすべき人とほめたたえているからです。私の喜びは全て兄弟姉妹との交わりの中にあると言い切っているからです。

私たちが持つ罪の一つの現われは高慢です。高慢とは周りの人を低く見、己を高くすることです。一人孤立して交わりを軽視し、遠ざかることです。

しかし、ダビデは謙遜な人でした。様々な能力、王としての地位、豊かな経済力、それらすべてを何ひとつ良いものを受け取るに価しない自分の様な者に神様が与えてくださった贈り物と心から認めていました。そして、自分が神様の前に無力無価値な存在であることを認める謙遜な人の眼には、周りの人々の美点、長所が良く分かるのです。

 

ピリピ2:3「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。」

 

もし、周りに置かれた兄弟姉妹が尊敬すべき人、素晴らしい人、自分より優れた人と思えないとしたら、それは相手の問題ではなく、自分中心に人を見ることしかできない私たちの高慢に問題ありと聖書は教えているのです。

ある婦人がご主人に酷いことを言われたと言って、相談に来られました。と言うより怒りをぶつけに来られたと言う感じでした。「何と言われたんですか」と尋ねると「お前は最低レベルの妻だ」と言われたそうです。確かに酷いことばです。怒りを感じて当然でしょう。

そこで私が「奥さんのことを最低レベルと言うご主人の方こそ、最低レベルの夫かもしれませんね」と言いましたら、その婦人は私に向かって怒り始めました。「私の主人を最低レベルとは言いすぎです。主人にはこんな良い所も、こんな優しい所もあるんです」と反論してきました。それで私は「よく分かりました。あなたは本当に素晴らしい男性と結婚したことがよく分かりました。それを是非ご主人に伝えてあげてください」と助言したんです。

人に対して批判的な状態にある時、私たちの心は往々にして自己中心状態にあります。そんな時私たちの眼には人の弱点、欠点しか眼に入ません。ですからその様な時こそ、心落ち着けて相手の美点、長所を見てそれを伝えることにつとめる。その様な努力が交わりを深めるためには必要と教えられるところです。

次にその様な喜びを持っている自分に比べるとと、ダビデは他の神を頼り生き甲斐とする人々の悲惨な生活を思い遣ります。他の神は聖書では偶像とも呼ばれていました。

 

16:4「ほかの神へ走った者の痛みは増し加わりましょう。私は、彼らの注ぐ血の酒を注がず、その名を口に唱えません。」

 

真の神を離れて生きる人の心には他の神偶像があると、聖書は教えています。木や石の像は拝んでいないかもしれませんが快楽を生きがいとする人、お金や物質的豊かさを頼りとする人、社会的地位や名声を求めてやまない人は大勢います。そして、それらを生きがいとし、頼りとする時、私たちの人生はそれらの物に縛られ、支配されてしまうのです。

ここに「彼らの注ぐ血の酒」とあります。恐らく古代この地方で拝まれていたモレクと言う神から御利益を得るために行われていた人身御供の風習を指していると考えられます。

一体何故そんなことまでしてと思われるかもしれませんが、現代でも地位を守るために違法行為をする会社役員、お金に縛られて犯罪を犯す人、ゲームの快楽に支配され本来の仕事や学びができない若者等がいるのではないでしょうか。

主なる神以外のもので心満たそうたとしても満たされず、かえってそれらに縛られ支配される悲惨な人生を送る人は今もいるのです。それに対して、神様を信頼し神様と交わる人は何と自由で幸いなことかと詩人は歌います。

 

16:5、6「主は、私へのゆずりの地所、また私への杯です。あなたは、私の受ける分を、堅く保っていてくださいます。測り綱は、私の好む所に落ちた。まことに、私への、すばらしいゆずりの地だ。」

 

譲りの地所とは相続地を、杯は渇きを癒す飲み物を指します。そして、測り綱は土地の広さをはかり、境を決めるために使われた道具でした。

この告白も、ダビデがいかに主を喜び尊び、身近な存在と感じていたかが伺われます。富と権力を持つ王ダビデが主ご自身を相続し、その愛によって心の渇きを癒されたことに感謝しています。主が自分のために測り、与えてくださった土地が素晴らしいと満足しているのです。母国イスラエルの自然、文化、人々を神様からの恵みとして愛し喜ぶダビデの姿が目に浮かぶようです。

さらに、人々とともに働き、語り、過ごす昼間が終わり夜になると、今度は神様と一対一、聖書を通して大切な助言アドバイスを与えてくださる神様との交わりを楽しむのです。

 

16:7「私は助言を下さった主をほめたたえる。まことに、夜になると、私の心が私に教える。」

 

こうして昼も夜も、いつも神様とともに生きる生活をダビデはこう言い表わします。

 

16:8「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。」

 

心から信頼できる力強い神、慈しみ深い主が私の右に、私とともにおられるので、私は揺るぐことがない。私たちの心は財産の多少、他人のことばや態度、様々な出来事によって揺れ動きます。左右上下に揺れるのです。

しかし、ダビデは「私は揺るぐことがない」と告白しました。財産の多少、人のことばや態度に左右されず、苦しみや困難に直面しても大きく揺れることなく、みこころに従い続け心を、神様との親しい交わりの中で恵まれたと語っているのです。努力や修行によってではなく、あくまでも神様のおかげと言い切るところが印象的でした。

しかし、神様が与えてくださる揺るがない心は、岩や鉄のように固く血の通わない冷たい心ではありません。神様が創造したもの、神様が与えてくださるものを喜び楽しむ、自由で柔らかな心でもあります。しかも、その喜びはこの地上で終わりではなく、死後も永遠に続くと歌われています。

 

16:9~11「それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」

 

死は昔も今も人間にとって恐れの対象でした。昔イスラエルの人々も死者の世界をよみと呼びそこに行くことを恐れたのです。しかし、ダビデは違いました。彼は自分の魂をよみに捨て置かず、墓の中からよみがえらせることのできる神様を知っていたのです。

ここは旧約聖書が復活について教えている数少ない箇所の一つでした。イエス様の弟子ペテロもこのことばを用いて、イエス・キリストの復活が事実であり、神様のわざであること、キリストを信じる者も同じく死後復活することを人々に説明しています。それはともかく、ダビデの思いは死をも越えて永遠に進み、私たちが心から満ち足り楽しむ世界を描いて結ばれていました。

これを読むと神様を信じる人の歩みは順風満帆。苦しみとは無縁であるのは喜びのみと思われるかもしれません。しかし、実際のダビデの生涯は宿敵ペリシテとの命を懸けた戦い、義理の父サウルに妬まれ迫害される苦しみ、王になって油断した時に犯した姦淫の罪に対する悩み、息子に裏切られ国を追われる辛さ等決して順調ではありませんでした。むしろ緊張、苦難、心の痛み、悲しみの連続でした。そうした思いはこの詩篇でも告白され、歌われています。

しかし、その様な中に今日の詩篇をおいて見る時、ダビデが決して順調なことばかりではなかったその人生を歩み通すことができたのは、決して奪い去られることのない喜びを持っていたからと教えられるのです。それは神様との交わり、他人との交わりでした。

ダビデほどではないかもしれませんが、私たちの人生も決して順調な時ばかりではないと思います。緊張、苦難、痛み悲しみの谷に落ちることもあるでしょう。しかし、そうであるからこそ神様との親しい交わり、兄弟姉妹との親しい交わりを避け所としたいと思うのです。 本来幼子のように何の力もない私たちが神様を喜び、神様が与えてくださった恵みを喜ぶ交わりを大切にしてゆきたいと思います。私たち皆が昼も夜も、教会でも職場でも、人々といる時もひとりの時も「いつも私の前に主を置くこと」。いつも主が自分の右にそばにおられることを覚えて考え、語り、行動することができる様に。交わりを喜ぶ一年の歩みを実践できたらと願います。

 

16:8「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。」

0 件のコメント:

コメントを投稿