2016年1月3日日曜日

ヨハネの福音書9章1節~9節、35節~38節「礼拝~新しい人生の歩み~」


新年明けましておめでとうございます。2016年の聖日礼拝の歩みが始まりました。この一年、教会の歩み、礼拝の歩み、私たち一人一人の歩みが祝福されたものとなりますようお祈りしています。

 例年通りですが、年始の礼拝説教は、信仰の基本的事柄を扱います。一年のうち一回は、礼拝説教で信仰の基本的な事柄を確認したいと思いますが、それならば、年の初め、気持ちを新たにした時が良いと考えてのことです。今日は「礼拝」について。ある人が、主イエスに出会い変えられていく場面を見ます。キリストに出会う、主イエスを信じるとは、どのような意味があるのか。神の民、クリスチャンとはどのような存在なのか。私たちはこの一年、何を大切に生きていくのか、皆様とともに考えたいと思います。(説教のテーマは礼拝ですが、礼拝そのものを扱うのではなく、礼拝者となることを確認します。)

 

 開くのはヨハネの福音書九章。ヨハネの福音書は、主イエスと特定の一人のやりとりに焦点を当てて記された記事が多くあります。ニコデモ(三章)、サマリヤの女(四章)、ベテスダの男(五章)。そして、この九章では生まれつき盲目の男とイエス様の出会いの記事となります。多くの人に愛された記事、印象深い箇所。

 

 ヨハネ9章1節

「またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。」

 

 安息日のことです(九章十四節)。おそらくは、皆が祈りや礼拝のため神殿に向かう道に、盲人は座ります。神殿に向かう、あるいは神殿から帰ってくる人たちに物乞いをするためでした。当時の社会で、生まれつきの盲人が出来ることと言えば、非常に限定されていました。生きるためには、物乞いするしかない人生。

 この人は生まれつきの盲人ですから光を見たことがありません。暗やみの中で生きてきた人。しかしこの日、生まれて初めて光を知ることになる。それも、陽の光がその目に差し込むだけでなく、世の光である方を心に迎え入れることになる。これ以上ない出会いの場面。

 ここで主イエスは、生まれつきの盲人を見ました。おそらく、立ち止まったのだと思います。周りにいる弟子たちも、イエス様の視線を意識し、質問が出てくるのです。

 

 ヨハネ9章2節

「弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。『先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。』」

 

 目は見えなくても、耳は聞こえる男を前に、失礼な質問、ひどい言葉。しかし、おそらくはこの男にとっては、これまでの人生でよく耳にした言葉だったと思います。そして、この会話は、次のような展開が予想されました。

 「律法には、『わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代四代にまで及ぼす。』とあるのだから、やはり両親、その祖先がひどい罪人であったのでしょう。」と。しかしまた、「預言者は、『罪を犯した者はその者が死に、子は父の咎については負い目がない。』とも教えているから、やはりこの人本人に罪の問題があるのだろう。」

おそらくこの人は、「生まれつきの盲目という不幸は、両親も悪い、本人も悪い。」という絶望的な解釈を聞き続けてきたのです。私たちの周りにも、このような考え方があります。親の因果が子に報う。先祖供養が足りないから、このような不幸な目に会うのだという声。「祟り」と言ったり「呪い」と言ったり。親に原因がある、本人に原因があるとして、だからどうするということも出来ないのに、勝手な解釈をつけたがる。

 このような人々の声、考え方に囲まれて生きてきたこの男に、この日は初めて聞く言葉が飛び込んできます。驚きの言葉。

 

 ヨハネ9章3節

「イエスは答えられた。『この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。』」

 

 自分について語られる言葉を聞いていたこの人にとって、このイエス様の言葉がどのように響いたのか、想像出来るでしょうか。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもない。神のわざがこの人に現れるためです。」

 このイエス様の言葉、私の存在にも関係のある言葉です。私の父は生まれて四十日目に小児マヒに罹り、右足が細く、短くなりました。父の母、私の祖母は、そのような子をもつことで、かなり苦労したそうです。田舎町の中で、それこそ、「親の因果が子に報い」と言われながら生きる。私の父が幼い時、一緒に川に飛び込んで死のうかと思ったこともあったそうです。その祖母が、ある伝道集会で聞いたのが、この聖書の言葉でした。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもない。神のわざがこの人に現れるためです。」と。祖母は、その説教が終わった後に、説教者にその言葉は本当のことなのかとにじり寄ったそうです。それまで聞いたことのない言葉に、衝撃を受け、信じて良いのかとにじり寄った。この主イエスの言葉がなければ、もしかしたら、祖母は私の父とともに死を選んだかもしれない。そうなると、私も存在しなかったことになります。

 

想像するに、この男にとって、このイエス様の言葉は、これ以上ない言葉として響いたでしょう。周りにいる人たちは過去に目を向ける。それでどうにかなるというわけでもないのに、過去に目を向ける。ところが、イエス様は今と、未来に目を向けている。罪の結果ではない。神様の素晴らしさが現わされるため。人間の視点と、主イエスの視点のコントラストです。

 

 さて、「神のわざが現わされる」と言われた主イエスは、ご自身を世の光と宣言し、この男の目を開くようにします。

 ヨハネ9章6節~7節

「イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。『行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。』そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。」

 

 少し不思議な場面。イエス様は、言葉一つで、この男の目を開かせることが出来る方。何故、このような面倒なことをされたのでしょうか。イエス様の唾には、何か効力があるのか。手で触ることで、何かしらの心のケアをされたのか。あるいは、この男がイエス様の言葉を信じて、シロアムに行くかどうか試したということか。

 何故わざわざ、つばで泥を作り、目に塗り、洗いに行けと言われたのか。色々な理由を考えられますが、最も大事なのは、この日が安息日であったということ。つまり、イエス様は、当時の安息日にまつわる戒律をあえて破るようなことをされたのです。泥を練るというのは、当時の戒律主義者からすれば、労働であり、安息日にすべきではないこと。そのような規定が聖書に定められているわけではありません。人々が勝手に決まりを作り、自らを縛りあげていたわけです。つまり主イエスは、ここであえてつばきで泥を作り、目に塗ることを通して、当時の本来あるべき安息日の姿からかけ離れた状態に一石を投じたということです。(事実、後でこのことが問題となるのです。)

 

ところで、旧約聖書では、盲人の目が開かれること、耳が聞こえない者が聞こえるようになることは、救い主の到来のしるしと言われていました。この出来事は、イエスが救い主であることを示すものであり、神のわざが現れる出来事でした。

 更にいいますと、この九章の直前、八章の終わりでは、主イエスがご自身をまことの神であることを強く表明しているところです。

 

 ヨハネ8章58節

「イエスは彼らに言われた。『まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。』」

 

 この「わたしはいる」という表現は、ヨハネの福音書の中で繰り返し出てくる言葉で、重要な言葉。イエスが、まことの神であることを表明する大事な言葉。英語で言えば「I am」ですが、ギリシャ語で「エゴー・エイミー」。この「エゴー・エイミー」という言葉は、出エジプト記三章に出てくる、主なる神様が自分の名を名乗る場面。「わたしはある」と言われたのと、強い関係があるのが「エゴー・エイミー」です。

 イエス様は言葉においても、行いにおいても、ご自身、神であることを表明している。しかし、人々はそれを受け入れず、かえって石を投げつけようとしたというのが、八章の終わりでした。

 このような状況なので、この盲人の癒しも、その場ですぐではなく、「シロアムの池」へ行くようにと言われました。生まれつきの盲人でも行くことが出来る道のり。とはいえ、主イエスのことを全く信じていなければ、行かなかったはず。ですので、この男はイエス様を信頼して、シロアムまで行きました。期待を胸に、水を掬って目に当てる。おそらく、イエスと弟子たちと別に、彼だけがシロアムまで来たのです。

 生まれて初めて世界を見る。いったいどれほどの感動、喜びであったのか。ヨハネも、その場にいたわけではなく、実に慎ましく「見えるようになって、帰って行った。」とだけ記しています。この時の感動、喜びがどのようなものであったのか。天国で聞きたい証リストの上位に来るものでしょう。

 

 それはそれとして、このヨハネの九章において、本当に大事なのは、この後に続く出来事。この男がパリサイ人たちに問い詰められ、両親も引っ張り出され、その過程の中で、自分の目を開いた方が誰なのか、確信を得ていく姿。

この男は心の目も開かれ、キリストを信じる信仰も明確にされていく。片や、見えていると思っている宗教指導者たちの心の目は、全く見えていないというコントラストが展開します。実に面白いのですが、今日の説教では扱うことが出来ません。是非とも、続きはお読み頂くとして、今日は目が見えるようになった男が、人々の前に最初に現れた場面と、再度イエス・キリストに出会う場面に注目して終わりにします。

 

 ヨハネ9章8節~9節

「近所の人たちや、前に彼がこじきをしていたのを見ていた人たちが言った。『これはすわって物ごいをしていた人ではないか。ほかの人は、『これはその人だ。』と言い、またほかの人は、『そうではない。ただその人に似ているだけだ。』と言った。当人は、「私がその人です。』と言った。」

 

 もともと彼を知らない人からすれば、この人は普通の人。彼を以前から知っている人にとっては、驚くべき状況。困惑する場面。周りにいる人たちは、無責任に、ああでもない、こうでもないと言います。彼らは何も経験していないのです。しかし、生まれて初めて世界を見ているこの人には、大きな変化が起こっています。それは、肉体の目が見えるようになったというだけでなく(これだけでも十分に、神のわざがおこっていると言えるのですが)、それ以上に、彼の存在自体に大きな変化、神のわざが起こっていると読めるのです。

 彼は言いました。「私がその人です。」と。この言葉、「エゴー・エイミー」です。ギリシャ語で、八章から読み進めますと、八章でイエス様が繰り返し「エゴー・エイミー」と言い、自分が神であることを示される。そして、この九章九節で、それに呼応するかのように、この男が「エゴー・エイミー」と言ったような印象になるのです。

 

 この点についてある神学者が次のように言っています。「お前が盲人だった者かと問われて、彼は『エゴー・エイミー』と答えている。これは明らかにキリスト論的な文脈の中で、しかし、イエスではなく、癒された人が言った言葉。そうすると「エゴー・エイミー」という言葉は、ただ自分が神であることを宣言するための言葉ではないと言える。この「エゴー・エイミー」は自分の存在を確認し、神によって与えられた自分の命を自分のものとした者の言葉である。」

 つまり、人は人として、当たり前のように存在しているのではない。人は、造り主であり、救い主である神と出会って、人となる。という意味です。実に味わい深く、興味深い言葉。

自分が何者なのか分からない者が、イエス・キリストと出会って初めて、本当の自分を見出すことが出来る。初めて、本当の自分になっていく道が開かれていく。そのような神のわざが、この人に始まった。何のために生きているのか分からない。どのようい生きたら良いのか分からない。人生の闇の中に座っていた者が、世の光である救い主と出会って、本当の自分を見出す。本当の自分を見つける。イエス様との関係の中でこそ、私はこのような者だと言える。それこそが、神のなさるわざということです。

 

 この本当の自分を見出すということは、具体的にはどのような生き方になるのか。再度イエスに出会い、信仰を告白する場面に明確に出てきます。

 ヨハネ9章35節~38節

イエスは、彼らが彼を追放したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。『あなたは人の子を信じますか。』その人は答えた。『主よ。その方はどなたでしょうか。私がその方を信じることができますように。』イエスは彼に言われた。『あなたはその方を見たのです。あなたと話しているのがそれです。』彼は言った。『主よ。私は信じます。』そして彼はイエスを拝した。

 

 本当の自分を見出した者。新しい人生、新しいアイデンティティを見出した者が何をするのか。主イエスを拝したのです。礼拝者の歩みが始まったのです。

キリストに出会う、主イエスを信じるとは、どのような意味があるのか。キリストの贖いの御業は、私たちをどのように変えるのか。この人の姿から教えられることは、礼拝者となること。礼拝者として生きることです。

 

 以上、ヨハネ九章より、ある人がキリストに出会う場面を見てきました。私たちは、二千年前に、生まれつき盲目の男に対してなされた神のわざが、イエス・キリストを信じる全ての者にもたらされると信じます。自分の中で始まっている神のわざを認め、自分は何者なのか、自分はどのように生きるべきなのか。造り主、救い主との関係で、見定めていきたいと思います。

 皆様は礼拝を喜んでいるでしょうか。楽しみにしているでしょうか。礼拝者として生きることがアイデンティティとなっているでしょうか。礼拝者であることが、最も大事なことでしょうか。

 私自身のことを言いますと、母のお腹の中にいる時から礼拝に出席しました。自分のこととしてキリストを信じてから二十数年。牧師になり教会に仕えるようになってから十年。礼拝への思いが少しずつ変えられてきました。

 これまでの礼拝についての信仰生活を振り返りますと、頭では礼拝が大事と分かっても、心では上の空。積極的に礼拝するというより、義務的に感じていることもしばしばありました。個人的に説教を聞くのは好きでしたので、説教の時間は良い。しかし、それ以外の時間は早く過ぎないかと思う。日によって、思いがバラバラ。積極的に礼拝に出たいと思う時もあれば、そうでない時もある。

 しかし、少しずつ変えられていき、一週間の中で日曜日が楽しみになりました。愛するあの人、この人と顔を合わせて、神様を賛美する。招詞、交読文、聖書朗読、説教を通して、神様は私に何を語られるのか味わう。それが心からの喜びとなってきました。礼拝が喜びであると感じるまで、時間がかかりましたが、キリストの恵みによって、ここまで変えられたことを大変感謝しています。

それと同時に、今の私もまだまだ礼拝者として未熟者であると理解しています。これまでお会いした先輩クリスチャンの中に、比べものにならない程、礼拝を大切にしている人、喜びとしている人がいました。四日市キリスト教会にも、お手本にしたい礼拝者が多くいます。まだまだ、これから。今よりもっと、礼拝を愛する者へと変えられる。

 キリストを信じる者は、確かに変えられる。キリストの贖いの恵みは、私を礼拝者というあるべき姿へと変えて下さる。そのように、神の業が私たちの人生にも現れることを期待し、祈りつつ、この一年の歩みを送りたいと思います。

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