2016年1月24日日曜日

詩篇119篇1節~8節「聖書~主のみ教えに従って歩む~」


 世界の三大ベストセラーと言えばどの様な本があげられるのか。皆様はご存知でしょうか。一般的には聖書、資本論、星の王子様の三冊と言われますが、聖書以外の二冊については様々な説があり一定していません。しかし、聖書はどの様な場合も三大ベストセラーに入り、必ず第一位でその座を他の本に譲ってはいないのです。しかも、他の本はどれも時代と共に出版される数が減っているのに、聖書は今でも部分訳を含め毎年5億冊出ているとされます。さらに、他のベストセラーが多くても20か国語程度の翻訳にとどまるのに対し、聖書の場合翻訳された言語は既に1500語以上。群を抜いています。

英語ではザ・ブック、本の中の本とも表現され、聖書を心の糧にしていると言う人は世界中に広まり、絵画、音楽、文学、映画など、聖書のことばが様々な所に登場してくるのを私たちも眼にします。

 しかし、聖書と言う本の存在は誰もが知っていても、実際に読んだことがあると言う人はどれ位いるでしょうか。そもそも、聖書をこの世界を創造した神様からのメッセージと信じる私たちクリスチャンはどれ程聖書に親しんでいるのか。私たちの人生にどれ程聖書は影響を与えているのでしょうか。

新年の冒頭、信仰生活の基本を礼拝説教で扱ってきました。第一回は礼拝、第二回は交わり。今日のテーマは聖書となります。そして、今日選んだ箇所は詩篇119篇。聖書中最長の章で全部で176節、日本語聖書で12ページ。22もの段落がありますが、全体のテーマはただ一つ「神のことば」でした。

その神のことばが「みおしえ」「道」「さとし」「戒め」「おきて」「仰せ」「さばき」「ことば」「みことば」「真実」など様々なことばで表現され、褒め称えられています。詩篇119篇を「みことば讃歌」と呼ぶ人もいる程です。今日はこの長い詩篇の第一段落目、1節から8節を読み進めて、私たちとみことばとの関係を振り返り、考えてみたいと思うのです。

 

119:1、2「幸いなことよ。全き道を行く人々、主のみおしえによって歩む人々。幸いなことよ。主のさとしを守り、心を尽くして主を尋ね求める人々。」

 

幸いなこと、幸福と言われて、果たして皆様は幸福とは何だと考えているでしょうか。経済的祝福、家族の団欒、健康、仕事の成功など、人それぞれ置かれた状況や価値観によって幸福の形は異なるかもしれません。

しかし、これらの所謂幸福に恵まれても恵まれなくても、神様の眼から見る時、幸いな人がいる。それが「全き道を行く人々、主のみおしえによって歩む人々」であり、「主のさとしを守り、心を尽くして主を尋ね求める人々」だと言われるのです。むしろ、経済的に豊かでも、聖書を知らない人、健康であっても、聖書のメッセージを聞いたことのない人、仕事に成功しても、聖書を読んだことのない人は不幸ではないかと言うメッセージも聞こえてきます。

ある方と聖書の学びをしていた時のことです。「山崎先生、聖書の教えには共感できることもあるんです。あるんですが、もし洗礼を受けたら「~しなければならない」「~してはいけない」と言う、聖書の教えを全部守らなければならないんでしょ。それが何とも不自由な気がして引っかかるんですよね。」と言われました。

信仰生活イコール聖書に縛られる不自由な生活。この様なイメージを抱いている方が結構おられます。しかし、死後のいのちも含め人生を全体として考える時、神様のことばは私たちを様々な危険から守り、人として最も幸いな道を進むことができるようにと配慮された教え、戒めであることを、私は経験してきました。

また、ここには聖書の教えを守ればこういうご利益があるとも言われていません。ただ全き道を行くこと、主のみおしえによって歩むこと、主のさとしを守ること、心を尽くして主を尋ね求めること、その様な生き方自体が幸いなのだと言い切っているのです。

経済的祝福、家族の団欒、健康、仕事の成功。ある意味で、これらは周りの状況に左右される幸い、ひと時の幸福です。けれども、どんな状況に置かれても、主のみ教えによって歩む者はそこに幸いを見出すことができる。主のみ教えによって歩む人の幸いについて考えさせられるところ、確認したいところです。

それでは、主のみ教えによって歩むとはどういうことでしょうか。それはこの現実の世界で、物事をみことばによって考え、善悪を判断選択し、実行することです。

 

119:3~6「まことに、彼らは不正を行なわず、主の道を歩む。あなたは堅く守るべき戒めを仰せつけられた。どうか、私の道を堅くしてください。あなたのおきてを守るように。そうすれば、私はあなたのすべての仰せを見ても恥じることがないでしょう。」

 

聖書はこの世界を神に背き、堕落した世界としています。神のことばが無視され、不正や悪が横行する世界です。そして、聖書は人間が皆目先の利益、幸せのために不正や悪を選ぶ心をもっている罪人であることも教えているのです。

家庭、学校、職場や地域社会など、日々私たちは不正を選ぶか主の教えを選ぶか選択しながら生きています。小さなことから大きなことまで、どの様な点においても不正を選ばず、主の喜ばれる道を歩むよう意識し、つとめること。これが、私たちの目指す人生です。

詩人が「不正を行わず」と言い、「堅く守るべき教え」と告白したのは、みことばがある時はブレーキ、ある時はガードレールとなって、自分を守ってくれた経験を思い起こしているのかもしれません。

しかし、私たちの決意決心は非常に弱く脆いものです。他方私たちを不正や悪に引いてゆく誘惑の力は強力です。主の教えを守ろうとする熱意はあっても、それを貫くことは容易ではありません。心ならずも主の教えに背き、罪を犯す自分に気がつき、自分を責め、恥じ入る。誰もがその様な経験を持っているはずです。

その様な弱点を良く自覚していたのでしょう。この詩人は「どうか私の道を堅くしてください」と神様の助けを求めています。たとえ罪を犯しても、神様の赦しの恵みを頂くことができれば、良心に恥じることなく平安であると告白することができたのです。

神のことばを実践しようとする熱心。だからと言って自分の熱心に頼らず、むしろ己の弱さを自覚して、神様の赦しの恵みにより頼む信仰。行いと信仰、熱心と謙虚さ。主のみ教えによって歩む人は、二つのものをバランスよく保つことのできる人、神様と二人三脚で歩む人と教えられます。

更に、詩人が神様と「あなたと私」と言う非常に親しい関係にあったことにも注目したいと思います。詩人は神様の愛を知り、神様を愛していたからこそ、「主よ。あなたの示す道を歩み、あなたの戒めを守ります」。そう心から告白できたのです。

 

Ⅰヨハネ5:3「神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。」

 

私たち夫婦は結婚して30年になります。余り思い出したくはありませんが、何度かぎくしゃくした関係になったことがありました。原因は様々ですが、ぎくしゃくした関係と言うのは多くの場合、自分の態度や行動が相手に赦されていない、相手の愛を確信できない状態にある時生じるように思われます。その様な状態で、相手の願いに従うことはとても難しいものです。しかし、謝るべきことを謝り、相手から赦しをもらい愛を確認できたら、相手の願いに従うことは易く、喜びとも感じられるでしょう。

神様のことば、命令は無味乾燥な法律やルールではありません。神様の私たちに対する愛と信頼の表現なのです。神様と「あなたと私」と言う親しい関係の中にあること。それが、私たちの内にみことばに従いたいとの思いを最も高める土台であることを覚えたいのです。

それでは、この詩人がこの様に主のみ教えによって歩むと言う幸いな人生を送ることができたのは、何故なのでしょうか。

 

119:7、8「あなたの義のさばきを学ぶとき、私は直ぐな心であなたに感謝します。私は、あなたのおきてを守ります。どうか私を、見捨てないでください。」

 

ここでは神のことばが「義のさばき」と呼ばれています。詩人はみことばを学ぶことに取り組み、その時間を感謝し喜んでいたのです。「学ぶ」ということばを「親しむ」という言葉に置きかえて考えてみたいと思います。皆様はどのようにしてみことばに親しんでいるでしょうか。

今日は五つの方法を紹介したいと思います。みことばを聞く、みことばを読む、みことばを覚える、みことばを黙想する、みことばを実践する。この五つです。

何故五つなのでしょうか。今私は手に野球のボールを持っています。皆様がこのボールをしっかり握ろうとしたらどうするでしょうか。小指だけで握るでしょうか。親指だけで握るでしょうか。小指と親指を使うでしょうか。このボールをしっかり握り自分のものとするために誰でも五本の指をすべて使うはずです。

同じ様に、もし神様のことばを自分のものにしようと願うなら、それを聞くだけでなく読む、覚える、黙想する、実践する。五つのことを目指しつつ、できることから挑戦してゆく必要があると思うのです。

先ずは、聞くことから考えてみましょう。

神様のことばを聞くためにお勧めしたいのは、準備をすることです。礼拝説教を聞く時単なる聖書のお話を聞くと言うのではなく、自分に対する神様のメッセージを聞くと言う意識をもつこと、説教の箇所を事前に読んでおくことが助けになります。心がざわついた状態ではなく、神様からの語りかけに耳を傾けるという姿勢で臨めるよう備えたいと思います。

また、みことばを聞く機会を増やすこともお勧めです。説教が録音されたCDを聞く、これは病室でも車の中でもできることです。聖書そのものを朗読したCDも出ていますから、これを使うのも良いでしょう。年末に無事退院されましたが、富倉兄は入院中奥様と二人礼拝のCDを聞いておられ、「教会よりも集中できたような気がする」と喜ばれ、「でもこれを聞いていると、早く教会に行きたくなって困った」とも仰っていました。

第二に神のことばを読むことです。聖書は一生の間それを読むよう勧めています。

 

申命記17:18,19「…自分のために、このみおしえを書き写して、自分の手もとに置き、一生の間、これを読まなければならない。それは、彼の神、主を恐れ、このみおしえのすべてのことばとこれらのおきてとを守り行なうことを学ぶためである。」

 

自分のためにこのみおしえを書き写し、自分の手もとに置き、一生の間これを読む。印刷技術が発達せず、個々人が聖書を持つことができなかった時代、人々がどのようにしてみことばを自分のものにしようとしたか。その熱意が伝わってきます。

日々聖書を読むためには、それを習慣とする必要があります。但し、習慣が義務重荷にならぬ様完全主義は捨てた方が良いかもしれません。決めただけ読めなくても、あるいは全く読めない日があっても、自分を責めない。少しでも読めればよい、明日読めばよいと考え修正してゆく余裕が肝心と思われます。

また、意外に良いと思うのは聖書日記をつけることです。日記と言っても長い文章ではなく、読んだ箇所だけ記すのでも良いですし、その箇所で心に残ったことやことばを書き留めておくだけでも、次を読み進める励ましを受け取ることができるからです。

第三は、みことばを覚えることです。私には心に刻んでいるみことばが三つあります。一つは神様を信じた時のみことば、二つ目は洗礼を受けた時のみことば、三つ目は神学校に行き、神様に仕える仕事につくことを決めた時のみことばです。

これらのみことばは、大事な決断をする時、ストレスを受けた時、人生の目的を見失いそうな時私を支えてくれます。聖書がなくてもこれを思い出して、神様と親しく交わることができるからです。数は多くなくても良いと思います。皆様もみことばを覚えることお勧めします。

第四は、みことばの黙想です。黙想と言うのは聖書の一節に焦点を絞り、みことばの真理をどのように自分の生活に適用したらよいのかを考えることです。

旧約聖書ではきよい動物と汚れた動物が区別され、きよい動物であることの一つの条件が「反芻する」こととされています。反芻と言うのは聞き慣れないことばですが、例えば牛が一度飲み込んだ物を口内に戻しそれを再び飲み込むという動作を繰り返すことを指します。これにより、食物の栄養分を最大限摂取することができます。

聖書はみことばに対する私たちの姿勢も同じであるべきことを教えていました。思いをみことばに集中し、じっくり思い巡らす。その真理を余すところなく吸収してゆくこと。みことばの黙想をお勧めします。

第五は、みことばの実践です。みことばの実践については、具体的な目標を考える必要があります。隣人を愛する事を神様からのメッセージとして聞いたなら、誰に対して、いつ、どのような方法で愛を表わすのかを考え決めること、そのために必要な力を神様に乞い願うことが第一歩です。

その際、余りハードルを高く設定しないよう注意したいものです。自分にとって愛しにくい人がいたなら、一気にその人と仲良くなることを目指すより、先ずその人の顔を見たら挨拶をすることを目指すと言う様に、現実的で、実践可能なところから始めてゆくのが良いと思います。

山登りも頂上を見ると「登れるかな」と不安ですが、先ず一合目次に二合目と一歩一歩近づいてゆくと言う方法がベストとされます。みことばの実践も山登りと同じ考え方で取り組むのが良いのではないでしょうか。

以上、みことばに親しむ方法を五つ紹介しました。2016年私たちが神様に与えられた心、頭脳、体そのすべてをフルに使って、みことばに親しむ歩みを進めてゆきたいと思います。今日の聖句です。

 

119:14~16「私は、あなたのさとしの道を、どんな宝よりも、楽しんでいます。私は、あなたの戒めに思いを潜め、あなたの道に私の目を留めます。私は、あなたのおきてを喜びとし、あなたのことばを忘れません。」

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