2016年2月7日日曜日

マタイの福音書5章8節「山上の説教(6)~心のきよい者は~」


一月は第二週のウェルカム礼拝を除き、信仰生活の基本について礼拝説教で扱ってきました。12月最後の週以来となりますが、今日からは再び山上の説教を皆様とともに読み進めてゆきたいと思います。

今日の5章8節は、イエス様が故郷ガリラヤの山で語られた山上の説教の冒頭に置かれた幸福の使信の中のことばです。ここは「心の貧しい者は幸いです」から始まり「義のために迫害されている者は幸いです」で終わる八つの幸いな生き方が教えられていることから、八福の教えとも呼ばれてきました。

そして、八福の教えは最初と最後が「天の御国はその人のものだからです」という共通の祝福で始まり閉じられていることから、イエス様を救い主と信じ救われた者、つまり私たちクリスチャンのための教えと考えられます。

しかし、八福の教えの中でも今日のことばは昔から難しいものとされてきました。何故なら、少し前の4節では「悲しむ者つまり自分の罪、心の汚れを悲しむ者は幸いです」とイエス様は言われたのに、ここでは「心のきよい者は幸いです」とまるで正反対のことを教えているように見えます。また、聖書の他の箇所では「神様は霊であり眼に見えない方」と言われていますのに、イエス様は「心のきよい者は神を見ることができる」と断言しておられる。一体どう考えればよいのでしょうか。

何よりも、心の思いにおいても、行いにおいても自分がきよいとは全く思えない者にとっては、「心のきよい者は幸いです」と言われても、ちっとも嬉しく思えない。むしろ「自分にはどうにもならない。自分などとてもこの様な生き方はできない」とガッカリしてしまう人が多いのではないでしょうか。

そこで、この教えを理解するため、最初に皆様と読んでみたいのがイエス様が語られた「パリサイ人と収税人」のと譬えです。

 

ルカ18:9~14「自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。

パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』

あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」

 

先ず登場するのはパリサイ人の姿です。パリサイ人とはその頃の宗教指導者、人々の尊敬厚いエリートでした。この人はそれにふさわしい生活を送っているように見えます。人を強請る、不正を働く、姦淫等の汚れた行いには決して手を染めず、断食や献金など正しい行いに人並み以上に励んでいるからです。彼がこの様な生活に満足し、幸福を感じていることがそのことばから伺えます。

しかし、イエス様は「この人は神様から義と認められなかった」と言われます。この人自身は自分の生活、生き方を幸いと感じていましたが、神様の眼から見るなら全く幸いではない、悲惨な状態にあったと言うことです。それは、この人が自分を義人つまりきよい人間と思い込む高慢と隣にいた収税人を見下す、馬鹿にすると言う罪で一杯であったのに、心の汚れに気がついていなかったと言う点にあります。

想像してみてください。今皆様の前に深刻な病気を抱えているのに、自覚症状がないかあるいはそれを軽く考えているために、自分は全く健康だと思い込んでいる人がいたとしたら、その人は幸いでしょうか。むしろ、病気を自覚せず医者を頼る必要すら感じていないその状態は極めて悲惨と言えるのではないでしょうか。

自分は神様のあわれみを必要としないきよい人間だと思う高慢と、人を見下すと言う、イエス様の教えによれば心の殺人と言う罪に気がついていないパリサイ人は、この様な意味で、イエス様から悲惨であると言われたのです。

それに対して、収税人は世間の嫌われ者。パリサイ人が言ったように人を脅す、不正を働く、姦淫等様々な酷いことを行ってきたのでしょう。しかし、この時彼は神様の前に出て、自分の心と行いとがいかに罪で汚れているかを思い、深く悲しんでいます。「遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った」と言う行動が、自分に対する失望、罪に対する悲しみを表わしているように思えます。そして、彼が願ったのはただ一つ神様のあわれみでした。「神様。こんな罪人の私をあわれんでください。」

取税人は自分の行いと心の汚れを悔い、悲しむ思いで一杯でした。あのパリサイ人の様に満足や幸福を感じていなかったでしょう。しかし、イエス様は「この人こそ神様から義と認められた人」、つまり神様から見て幸いな人と言われたのです。

イエス様が「幸い」と言われた心のきよい人とは、この収税人の様な人と考えられます。自分の罪を心底悲しみ神様のあわれみによる赦しを求める人。自分の汚れた心、ことば、行いをきよめてくださるよう神様にお願する人。これが心のきよい人です。

それでは、心のきよさを求める人は具体的に何をするのでしょうか。旧約聖書詩篇の中に、私たちの参考になる信仰者の行動が記されています。

 

詩篇139:23,24「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」

 

この詩篇の作者はダビデとされています。ダビデと言えばイスラエル史上最高の王。最強の戦士。音楽の名手にして詩人。ダビデこそ自分を誇ってもおかしくない人と思われます。

しかし、ダビデは自分の生活を調べること、心の動機、口にしたことば、行動の調査を神様にお願しているのです。自分が反省するだけでは気がつかない罪の思いや行動を神様に調べてもらい、教えて欲しいと願っています。自分にはその力がないので、神様に自分をとこしえの道に導いてほしい、つまりきよい生き方へ導いてほしいと切に願っているのです。

果たして、私たちはどれ程きよい生き方を求めているでしょうか。その点における自分の無力を認め、神様により頼み、お願いしているでしょうか。憎しみや怒り欲情でどうにもできない心を神様が変えていただく、きよめていただくと言う経験があるでしょうか。

聖書において、ダビデは何度も神様に愛された人と呼ばれています。彼がそう呼ばれたのは罪を犯さないきよい人だったかったからでもありません。事実彼はさばかれるべき酷い罪を何度も犯しています。

それならば、何故神様に愛されたのか。それは、ダビデが生涯を通して、自分の罪に目を留め、それを悔い悲しんだからです。罪人の自分を神様に変えて頂くことを切に願い続けたから、自分をきよめてくださるお方としてただお一人神様を信頼していたからです。

私たちも「心のきよい者は幸いです」と言うことばを聞いて、自分は心がきよくないから駄目だと思うのではなく、これ程心の汚れた自分でも神様は心のきよい者へと造り変えてくださると信頼すること。これが、心のきよい人の生き方、真に幸いな生き方であることを心に刻みたいと思います。

それでは、心のきよい人が受ける恵みとは何でしょうか。それは神を見ることとイエス様は言われます。しかし、私たちはどのようにして神様を見るのか。昔から様々に議論されてきた問題です。聖書が約束しているのは、私たちは最終的に天国において顔と顔を合わせる様にして神様を見ることができるということです。

イエス様は肉体を持っていますから、少なくともイエス様のお顔をこの眼で見ることはできると思います。しかし、霊である父なる神様と聖霊の神様をどのようにして見ることができるのか。聖書は明確に教えていないように見えます。けれども、「見る」と言うことばには「眼で見る」と言う意味の他に「知る」と言う意味もありますから、父なる神様、聖霊なる神様とも顔と顔を合わせるのと同じぐらい身近で、親しく知りあう関係に入ることは間違いないでしょう。いずれにしても天国における三位一体の神様との出会いは、私たちにとって心からの楽しみです。

しかし、この地上においても、私たちは神を見ることができるのです。この大自然の中に神様の御手を見ていたのはイエス様です。野の花をご覧になったイエス様は弟子たちに向かいこう言われました。

 

マタイ6:29、30「しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。」

 

イスラエル史上最高と言われたソロモン王の繁栄。それ以上に美しく野の花を創造した神様をイエス様は見ていたのです。

昆虫記で有名なファーブルは「虫の詩人」と言われます。子どもの頃私はこの本が大好きでした。小さな虫たち、何のためにいるのか分からない様な昆虫や生き物が、驚くべき能力を持つ生き物であることを教えてくれ、夢中になりました。

ファーブルは当時流行していた進化論に反対で、小さな昆虫それぞれが神様に造られた独自の生き物と考えていたそうです。カマキリ、ミノムシ、モンシロチョウ、セミ、アリにフンコロガシ等々。数え切れない程の小さな生き物の中にファーブルは神様の存在を見ていたのです。

また、「宇宙は第二の聖書」と語ったニュートンは木から落ちたリンゴと万有引力の法則の発見で有名です。晩年「あなたは本当に多くの発見をしてきましたね」と人から賞賛されたところ、「私が発見したものなど、神様が造られた自然法則のごく一部に過ぎない。砂浜の中の小さな砂粒の様なもの」と答えたそうです。ニュートンは自然法則にこの世界を創造した神様を見ていたと言えるでしょうか。

私たちも、イエス様やファーブル、ニュートンの様に大自然の中に神様を見る心の眼を与えられています。ある人は海に沈む夕日に、ある人は聳え立つ山に、ある人は季節ごとに色を変える木々の葉に、ある人は野に咲く花に、ある人は動物や昆虫に。ある人は夜空に煌めく星に。様々な自然に神様を見ることができる眼が開かれたことを感謝したいと思います。

さらに、私たちは人生の様々な出来事のなかにも神様を見ることができます。

神様を知らなかった時、仕事での成功、経済的な豊かさは、私たちにとって自分の才能と努力の結果でした。しかし、今はそこにそれらの良きものを受け取る資格のない罪人をあわれみ祝福してくださる神様を見ることができます。

神様を知る以前は病から回復した時、良い医者良い病院にかかることができて幸運だったと考えそれで終わりでした。しかし、今はそれらすべての中に神様の癒しの御手を見ることができます。

神様を知らなかった時、苦しいことがあると「どうして自分だけがこんな目に会うのか」と嘆き、「神などいるものか」と不平、不満の山を築いて心腐らせていました。しかし、今は「この苦しみを通して、神様は私に何を教えようとしておられるのか」と考え、そこにわが子を訓練する神様の愛を見ることができるのです。

以上、八福の教えの六番目を学んできました。最後にもう一度確認したいと思います。イエス様を信じる者に与えられる恵みは「心がきよくなる」ことでした。私たちは自分の心の状態にどれ程関心があるでしょうか。自分の心がきよいかどうかに関心があるでしょうか。それは自分の生活の中で優先順位が高いことでしょうか。

私たちはもっと自分の心について関心を持つべきではないかと思います。憎しみで心が覆われる時、怒りに捕われる時、欲望の奴隷になる時、神様が私たちの心を清めることができるお方であることを思い起こし、「神様、私をあわれんでください。心をきよめてください」と祈り、願うこと。それを生涯続けてゆくこと。これが真に幸いな生き方であることを覚えたいのです。

そして、心のきよい者に与えられる祝福、神を見ると言うこの祝福をもっと体験し、味わいたいと思います。この世界のあらゆるもの、人生に起こるあらゆる出来事に神様を見ることが、どれ程幸いなことなのか。味わってゆきたく思います。そうした経験をお互いにもっと分かち合うことのできる教会となりたいと思うのです。今日の聖句です。

 

詩篇51:10「神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。」

 

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