2015年12月27日日曜日

マタイの福音書5章7節「山上の説教(5)~あわれみ深い者は~」


ここ一か月、私たちは待降節とクリスマスの礼拝をささげ、イエス・キリスト誕生の意味をともに考えてきました。今日は再びマタイの福音書の山上の説教に戻り聖書が教える幸福論について学びたいと思うのです。

山上の説教からのお話しとしては五回目。イエス様が故郷ガリラヤの山から語られた説教の最初の部分にある「あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです」について考えてゆきます。

マタイの福音書5章1節から12節で、イエス様は八つのことを教えていますが、いずれも「幸いです」と言うことばで始まるため幸福の使信とか八福の教えと呼ばれてきました。今の日本語聖書はそうなっていないので、ちょっと分かりにくいかもしれません。昔の文語訳のように「幸いなるかな心の貧しき者。幸いなるかな悲しむ者、幸いなるかな柔和な者、幸いなるかな義に飢え渇く者、幸いなるかなあわれみある者…」と続く方が、実際にイエス様が語られた雰囲気を良く伝えています。

これら八つの教えを通して人間本来の最も幸いな生き方がここに教えられているわけですが、読んでいて気がつくのは、イエス様が考える私たちの幸せと私たちが感じる幸せ、幸福感とは随分異なるということです。

例えば、「悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです」とあります。これは自分の罪を悲しむ人は幸いと言う意味ですが、その人は本当に悲しんでいるわけで、いわゆる幸せな気持ちなど全く持てない状態にあります。それなのに、どうしてイエス様は幸いと考えているのでしょうか。

皆様二人の人を想像してください。ひとりは自分が深刻な病気に罹っていることを知り、悲しんでいる人。他方、同じ病気に罹っていながら、それに気がつかず楽しそうに笑っている人。どちらの人が幸いな状態にあるでしょうか。

勿論前者でしょう。自分の病気を知り悲しんでいる人は医者の所に行って癒されることができる。しかし、自分の病気に気がついていない人は医者に行くことを思いもせず、従って癒されることがない。非常に悲惨な状態にあるわけです。

イエス様が言われたのはこういう意味での幸いです。自分の罪を認め、自分の力では解決できないと思い悲しむ人はイエス様を求める。イエス様が自分の罪のため十字架に死んでくださったことを信じて慰められる。だから幸いなるかなと言われるのです。

さて、今日は八つのうち五番目の教えを扱いますが、これまでの四つの教えと五番目以降ではその内容に変化が見られます。

神様の前に心の思い、ことば、行動において多くの罪を持つ者、神様に愛される資格のない罪人であることを認める心の貧しい人。神様の前で罪に対して全く無力な自分を悲しむ人。神様の前で自分には頼りとすべきものが何一つないことを認める柔和な人。神様の前で自分は本当の義をもっていないと感じ、義に飢え渇く人。これまでイエス様は、神様との関係で私たちが自分を見つめた時にどうなるのかを教えてきました。

そして、今日の「あわれみ深い人は幸いです」から後では、神様との関係で自分をその様に感じている人が、隣人との関係においてどの様な態度、行動を示すようになるのかを教えておられるのです。

聖書は私たちの人生にとって神様との関係がどれほど重要なものか、繰り返し語っています。神様との関係が土台とすれば、隣人との関係はその上に立つ建物。土台がしっかりしていないと良い建物は建ちません。神様との関係を考えずに、人間関係だけを良くしようと努力しても難しいと言えます。

それは、骨折して骨が砕けた状態の人がリハビリに励む姿に似ています。先ずは骨が成長し結合すること、次に歩く訓練に進むと言う順番が必要なのです。同じく、私たちにとって神様との正しい関係にあることが土台です。神様の前に自分が罪人であると認める人、自分の罪の酷さを悲しむ人、自分の力に頼まず神様を頼る柔和な人、義に飢え渇く人。その様な人が他の人に対してあわれみ深い人になれると、ここでイエス様は教えておられるのです。

ところで、真にあわれみ深い者としてこの地上を歩まれた人は誰かと言えば、それはイエス様を置いて他にはいないと聖書は語っていました。

 

ヘブル4:15「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」

 

私たちの大祭司とはイエス様です。「弱さに同情する」と言うことばが「あわれみ深い」に当たります。あわれみ深いとは人の弱さに同情できる者、ことばを代えれば、他人の苦しみを我がことのように受けとめる者ということになるでしょうか。

そして、イエス様を救い主と信じた者はイエス様のあわれみ深い性質を受け継いでいると、聖書は教えています。しかし、私たちの内に宿るあわれみの心はまだ小さな種の様なもの。それを養い育てるために取り組むことが私たちに求めています。

その様なイエス様が、あわれみ深い人の例として語られたのが善きサマリヤ人の譬えです。自分では隣人愛について良く知っているつもりのある聖書の専門家が「わたしの隣人とは誰のことですか」と質問したのに対し、その頭でっかちぶりをつく為イエス様がなされた有名な譬えで、恐らく実際の出来事を基にしたものと考えられています。

 

ルカ10:30~37「イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎとり、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」

 

主人公のサマリヤ人が旅行の途中で強盗に襲われ傷ついた旅人を見つけます。彼は立ち止り、道を横切って、息も絶え絶えに苦しむ人に近づきました。祭司やレビ人ら普段人々に隣人愛の大切さを説いている宗教家も旅人を見ましたが、通り過ぎてしまいます。彼らもこの人を見て気の毒に思い同情したかもしれませんが、それ以上何もしませんでした。

しかし、サマリヤ人は旅人を可哀想に思い、そばに行き、傷に包帯を巻き、宿屋に連れてゆくと、更に必要な費用を与えたと言うのです。これがあわれみ深い人でした。あわれみ深いとはただ可哀想に思うだけではありません。相手を苦しみから解放するため実際に行動すること、骨を折ることと私たち教えられるところです。

イエス様がこの譬えを語られた聖書の専門家の頭でっかちは、他人ごとではありません。隣人愛について論じることは得意でも実際に隣人となるために行動しない自分、心に同情の思いを抱いても手も足も出そうとしない自分。そんな自分を発見する時、私たち何度でもこの物語を読み、サマリヤ人のように生きることに取り組む必要を覚えるのです。

また、この譬え話のように相手が瀕死の重傷と言う場合、同情心が湧いてくるのはある意味で自然なことでしょう。しかし、もし相手が私たちのことを意地悪く扱う人、苦々しい気持ちや怒りを表わす人だとしたら、どうでしょうか。私たちはあわれみの心を起こし、手を差し伸べることができるでしょうか。

旧約聖書には、この点に関し非常に興味深い教えがあります。

 

出エジプト23:4,5「あなたの敵の牛とか、ろばで、迷っているのに出会った場合、必ずそれを彼のところに返さなければならない。あなたを憎んでいる者のろばが、荷物の下敷きになっているのを見た場合、それを起こしてやりたくなくても、必ず彼といっしょに起こしてやらなければならない。」

 

人生で出会う人すべてと友となり、親しい仲間となれたらどんなに良いだろうと思いますが、残念ながら現実は異なります。些細なことで対立する。こちらには思い当たることがないのに敵視される。やむを得ない事情があり相手からは敵と見られても仕方のない立場に立たされる。様々な理由で私たちの人生には敵があらわれます。

「あなたを憎んでいる者のろばが、荷物の下敷きになっているのを見た場合、それを起こしてやりたくなくても…」と言うことばは、神様がその様な人生の現実と、私たちの気持ちをよくよくご存知であることを示していて、安心できます。

親しい友人が困っていたらすぐに助けることができても、自分を憎む人の場合気の毒に思ったり、助けの手を差し伸べることは簡単ではありません。至難の業と言っても良いでしょう。その様な場合、聖書にある様に「相手を助けてやりたくない」と感じるのは、私たちにとって自然な反応です。しかし、親しい友なら助けても自分に嫌な態度を取る人は助けないとしたら、私たちの意思と行動は相手の言動に左右されるもの、相手のことばや行動に縛られ支配されていることになります。

イエス様がこの世界に来たのは、私たちの意思と行動を相手のことばや態度に左右され、縛られている状態から解放されるためでした。イエス様によって罪赦された私たちは、相手のことばや態度に支配されず、あわれみの心をもって応答する自由を与えられているのです。ですから、「あなたを憎んでいる者のろばが、荷物の下敷きになっているのを見た場合、それを起こしてやりたくなくても、必ず彼といっしょに起こしてやらなければならない」と神様は命じていました。

そして、あわれみ深い者に対する祝福は、あわれみを受けることです。「あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受け取るからです」とある通り、あわれみ深い生き方をする人はこの地上においても神と人からあわれみを受け取り、天国では完全な形で神と人からあわれみを受け取ることができると、イエス様は約束しているのです。

最後に皆様と考えたいのは、イエス様のあわれみ深い性質を受け継いだ私たちが小さな種の様なあわれみの心を養い育て、あわれみ深い人となるにはどうしたらよいのかです。

お勧めしたいことが二つあります。一つは、神様の前に出て自分の罪を悔い改め、心を整えることです。旧約聖書の時代、神様に背いたイスラエルの民がバビロン軍に敗れ、捕囚されると言う苦しみを経験しました。その時生き残った預言者エレミヤが告白したことばがあります。今日の聖句です。

 

哀歌3:22「私たちが滅び失せなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。」

 

エレミヤは、自分たちが神様のさばきの他何ものにも価しないことを理解していました。自分たちが赦され生かされているのは、神様のあわれみによるのであって、その他の何もののおかげでもないと告白しています。

皆様はこのことばに同意するでしょうか。本当に罪を悔い改めるとは、当たり前の権利のように考えていた健康な体も、日々の食物も、水も、空気も、仕事も、収入も、家族も、友も、すべては本来受け取る資格のない自分に対する神様のあわれみによると考えることです。罪の赦しも、神の子とされたことも、神様のあわれみにのみよると覚え、感謝することです。神様のあわれみがなければ一日たりとて生きることができない立場に自分があることを思い、生活のあらゆる分野で神様のあわれみを求めることなのです。

現代は権利の時代、権利主張の時代と言われます。誰も彼もが自分の権利を主張してやみません。「政府にこれこれをしてもらう権利がある」「親から子どもから、これをしてもらう権利がある」「自分は学校に、社会に、夫に、妻にこの様に扱ってもらう権利がある」。

この様な時代にあって神様から良きものを受け取る価値のない自分の立場を自覚し、すべてを神様のあわれみによると考え、感謝する生き方は人々から好まれないかもしれません。狭き道かもしれません。しかし、「私たちが滅び失せなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。」と言う信仰で心を整えて、イエス様が最も幸いと教えてくださった生き方を私たち選び目指してゆきたいと思います。

二つ目は、その様な思いで心を整える時、私たちの他の人に対する見方や態度は180度変わらざるを得ないということです。

末期がんの方々へのケアで大切なのは「あなたは死にゆく人で、私は生きる人」という姿勢ではなく、「私も同じように死にゆく存在」と言う態度で接することと、日野原重明先生が書いています。そうしないと本当のケア、配慮はできないと。

相手が友であろうと敵であろうと、悩み苦しむ方々に接する場合も同じではないでしょうか。今は特別な問題を抱えていなくても、私たちもいつ同じ様に悩み苦しむ状況に直面するか分かりません。今は大丈夫と思っていても、相手と同じ状況に置かれたら思いもしなかった自分の弱さに失望するかもしれないのです。

自分も相手も同じく神様のあわれみを必要としているという点では全く同じ立場にいるとわきまえて接してゆくこと。そうでないと、たとえ助けようとしても私たちの態度に上からするようなものが混じっているなら、相手から拒絶されることがあるかもしれません。

イエス様が私たちの弱さに心から同情しあわれみ深く接してくださるように、私たちも隣人に対しあわれみ深いことばと態度で接してゆけたらと思います。

 

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