2016年1月31日日曜日

テモテへの手紙第一6章17節~19節「献金~惜しまずに、喜んで~」


古いユダヤの諺に「金銭は無慈悲な主人だが、有益な召使いにもなる」とあります。いつもお金のことを考え、心配し、神経をすり減らす。お金と言う主人に支配されている人と、お金を有益に使いながら人間らしい生活を営む、お金の主人として生きる人。お金が主人の人生か、自分が主人となりお金を使う人生か。私たち人間はどちらになりうる可能性も持っている者であることを教えられる諺です。

 今月は礼拝説教で信仰生活の基本を扱ってきましたが、第四回目のテーマは献金です。そして、献金について考える際理解しておく必要のあることがあります。それは、神様は何故私たちに牛や羊などの家畜、農作物、土地や家、それに金銭などのいわゆる財産を与えてくださったのかという問題です。

 聖書は、神様がこの世界を六日で創造した時「すべてのものを良し」と見られたと教えています。しかし、その後この良い世界をさらに良いものとすることが神様のご計画であり、その為のパートナーとして人間を創造されたとも教えているのです。

 

 詩篇8:3、4、6「あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。」

 

 これは、旧約時代の信仰者の告白です。この詩人は、測り知れない程広く大きな宇宙を創造した神様が、小さなチリの様な人間に心を留め、この世界を良いものとしてゆくための協力者として立てられたことに心底驚き、恐れています。神様の偉大さと自分の卑小さを思う時、私たちも心から同意することのできることばです。

 そして、神様は人間に他の生き物にはない賜物を与えてくださいました。農業や工業など産業を興す能力、音楽、絵画、文学、建築など文化を作り出す能力等々、様々な賜物がありますが、それら賜物の一つが財産なのです。しかし、問題は人間が神様に背いて以来、これら良き賜物を専ら自分のために使うようにこと、間違った使い方をするようになったことでした。

その結果何が起こったのか。物質主義金銭崇拝がはびこる弱肉強食の世界です。持つ者が持たざる者を苦しめ、持たざる者は持つ者を妬み、持つ者も持たざる者も金銭物質を追い求めながら、それでは満たされない虚しさ、痛みを抱えるようになったのです。

しかし、この様な世界にイエス・キリストは来てくださり、十字架の死によって私たちの内に物や金銭の正しい用い方、管理能力を回復してくださいました。献金について考える時、イエス様が十字架で死なれたのは私たちが死後天国に行く為だけではなく、与えられた物や金銭を正しく使い、私たちが暮らす世界を神様のみこころにかなった場所へ整えてゆくためであることを覚えておきたいと思います。

但し、今イエス様が私たちの内に正しい管理能力を回復してくださったと言いましたが、それは植物にたとえればまだ小さな芽の状態にあります。私たちの管理能力は教え養われ、訓練される必要があるのです。ですから、物質金銭の管理についての教えは聖書の至る所にありますが、今日選んだのはパウロがテモテにあてた教えです。

先ずは、財産によって高ぶらないように、財産に望みを置かないようにと言う注意、警告から始まります。

 

6:17「この世で富んでいる人たちに命じなさい。高ぶらないように。また、たよりにならない富に望みを置かないように。」

 

旧約聖書にアハブと言う王様が登場します。アハブはイスラエルに偶像崇拝をもたらしました。この偶像崇拝は今で言うなら物質崇拝富崇拝です。そのアハブ王が王宮の隣にあるナボテと言う農夫の葡萄畑が欲しくなります。必要だからではなくただただ欲しくなったのです。しかし、ナボテは先祖伝来の大切な畑は売れないと、いくら金を積まれてもこれを拒みました。すると、王は権威をないがしろにされたと怒り、ナボテを罪に定め処刑し、葡萄畑を手に入れたのです。

富には自分を偉大なものと思わせる魔力があります、自分の思う通りに行動しない人をさばき、攻撃するという高慢な生き方へと導く危険性があるのです。ですから、聖書は私たちに「高ぶらないように」と命じていました。

さらに、富には富を求め富に望みを置く者自身の人生を悲惨なものにする力があります。イスラエル史上最高の栄華、つまり経済的豊かさを経験したソロモン王はこう告白しています。

 

5:10~14「金銭を愛する者は金銭に満足しない。富を愛する者は収益に満足しない。これもまた、むなしい。財産がふえると、寄食者もふえる。持ち主にとって何の益になろう。彼はそれを目で見るだけだ。働く者は、少し食べても多く食べても、ここちよく眠る。富む者は、満腹しても、安眠をとどめられる。私は日の下に、痛ましいことがあるのを見た。所有者に守られている富が、その人に害を加えることだ。その富は不幸な出来事で失われ、子どもが生まれても、自分の手もとには何もない。」

 

これらのことばはソロモン王程の富を持っていない私たちにもよく分かります。持てば持つ程もっと欲しくなる。持てば持つ程満足できない。持てば持つ程自分の財産を目当てにする人が多くなり人間関係が煩わしい。持てば持つ程それが何の益ももたらさないことを実感するようになる。持てば持つ程心配の種が増える。持てば持つ程それに縛られ自分を傷つけることになる。持てば持つ程失うものも増える。金銭を愛し、金銭に望みを置く人生は実に悲惨だと言うことです。

「メカをいじる仕事をしていた時の方が幸せだった」と言うのは、自動車王フォードのことばです。「何百万もの富を築いたが、私の心はいつも心労で一杯で何の楽しみもなかった」。これは石油王ロックフェラーのことば。自動車王も石油王もソロモン王も、私たちが思う程幸せではなかったようです。だからこそ、聖書は「頼りにならない富に望みを置くな」と強く勧めているのでしょう。

それでは、多くの人の心が物や金銭に支配されているこの世にあって、私たちはどう財産と付き合ったら良いのでしょう。私たちの心をも蝕む物質主義を癒す道はあるのでしょうか。私たちが財産をささげることが助けになると聖書は教えています。

 

6:17b,18「むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。また、人の益を計り、良い行ないに富み、惜しまずに施し、喜んで分け与えるように。」

 

ささげると言う行いは、私たちが楽しむことのできる良いものが神様から来ること、神様がこの世界とそこに満ちるすべてのものの造り主であることを思い起こさせます。本来なら、それら良きものをひとつたりとも受け取る資格のない私たちが、ただただ神様の一方的な愛により、それを受け取り楽しむことができると言う恵みを覚える機会、心から神様が主であることを認め、感謝する機会となるのです。

もし、人生にささげると言う機会がないとしたら、それも定期的にそれを行うことがないとしたらどうでしょう。どの様な財産であっても自分がその所有者だと思い込み、手放すことなど考えもしなくなるかもしれません。些細な財産を巡って夫婦親子友人同士で争うことも多くなりそうです。

しかし、ささげることを通して、私たちの思いは明確になります。神様が真の所有者であり、自分はそのしもべ、管理者であるとわきまえることができるのです。ことばを代えれば、ささげることにより、私たちは財産にではなく神様に望みを置くことができるようになるのです。

この世の人は言うでしょう。「神に望みを置くなど愚かなこと。もっと確かなもの、眼で見、手で触れる財産にこそ頼るべし」と。その様な声は、私たちの内にも時々響いて心を迷わせます。しかし、富に望みを置いた人々がどんな人生を送ったことか。その虚しさその悲惨は、神に望みを置く者が持つ平安とは比べようがないと思われます。

よく私たちは「神様のためにささげる」と言います。もし、神様が私たちのささげ物を必要としていると考えての事なら、それは間違いです。神様は私たちがささげものが一つもなくとも神様として永遠に生きることのできるお方なのです。

そう考えますと、ささげものはむしろ私たちのため、私たちの魂のためと言えるのではないでしょうか。ささげることで物質主義や金銭崇拝から解放される。人生の様々なトラブルから守られる。真に望みを置くべきお方を知る。ささげ物は、私たちを人間本来の生き方へと導く第一歩であることを心に刻みたいと思います。

さらに大切なのは、神様が与えてくださる物質や金銭には私たちの生活を守り、豊かにし、様々なものを楽しませてくださると言うこと以上の高い目的があると知ることです。与えられた物や金銭によって、私たちはこの世界を良くする、共に生きる人々を助けると言う神様の働きに協力することができるのです。ですから聖書は「人の益を計り、良い行ないに富み、惜しまずに施し、喜んで分け与えるように」と勧めていました。

神様が経済的に祝福してくださった時、私たちはそれを祝福だと思い感謝します。確かにそれは感謝すべきこと、祝福であることに間違いはありません。しかし、もうひとつ、それは神様からの期待のあらわれ、ある意味でのテストと考えることも、聖書の教えにかなっているように思われます。神様はご自分が与えたものを私たちがどのように用いるのか見ておられると言うことです。

勿論、ささげることができるのはお金や物だけではないでしょう。時間、知恵、専門的知識、重い荷物を運ぶ手、病める人を見舞うのに使う足。これらも素晴らしいささげ物です。どの様な形であれ、私たちはささげることで神様とともに働く協力者となれるのです。

そして、人にとって最大の益となること、私たちがなしうる最高の良い行いと言えば、人の魂の救い、救霊、伝道のわざでしょう。これは、この世界を良いものへと回復するために最も必要なことでもあります。神様に望みを置く政治家、神様の栄光を表わすため仕事をする実業家、神様の愛をもって人々の生活に必要な物を作り、運び、売る労働者。あらゆる人々が神様を信頼し、活躍する社会。それが私たちの目指す社会です。

その為に活動する教会、キリスト教団体、キリスト教大学や神学校。これらにささげ物をすることも私たちの働きであることを確認したいと思います。

ささげることには犠牲が伴います。しばしばそれが私たちの思いや行動を押しとどめることがあります。しかし、ささげることがこの世界に対する神様のご計画の中で非常に重要なものであること、神様が私たちの経済を守り、祝福してくださるその意味を理解できたら、私たちは惜しみなく、喜んでささげやすくなるのではないでしょうか。

ささげ物をする際、私たちはどれぐらいささげるのかを考えます。そこに気を取られがちです。しかし、神様の眼は私たちの心の思い、動機に向けられていることを忘れてはいけないとも、教えられるところです。

最後に、聖書が勧めるのは、未来に備えてこの地上でささげることでした。

 

6:19「また、まことのいのちを得るために、未来に備えて良い基礎を自分自身のために築き上げるように。」

 

有名なエジプトの王ツタンカーメンはわずか17歳でこの世を去っています。その遺体は黄金の杖、黄金の器、黄金の馬車など金でできた何千もの装飾品と共に埋葬され、黄金の棺が黄金の墓に収められました。その黄金の量は何十トンともしれず、見る者を圧倒するのだそうです。

エジプト人は死後の世界を信じていました。死後の世界では地上で蓄えた富を受け取ることができるとも信じていたそうです。しかし、その富は1922年に探検家が発見するまで放置されていたとのこと。何と虚しい事かと思わされます。

しかし、聖書が勧め、私たちが目指すのは地上に財産を蓄え、残してゆく生き方ではありません。むしろ、地上で与えられたものを惜しみなく、喜んでささげる生き方です。

イエス様は、私たちがなすどんな小さな親切も見逃されず、永遠の報いを受け取ることになると約束しています。

 

マタイ10:42「わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。」

 

神様は私たちが神様のためにすること、隣人のためにすること、社会を良くするためになすこと。それらすべてを記録し続けておられ、そこには、私たちがささげたものも含まれているのです。

隣人のために差し上げた一杯の食事。体の不自由な人のために差し出した手足。教会や宣教師や生活困難な方々への献金などすべてが書き込まれ、その一つ一つに私たちの想像をこえる報いが惜しみなく与えられると言うのです。

いつかはごみの山となり捨てられるしかない物にしがみついて生きるのか。それとも、未来に備えて良い基礎を築きあげる生き方を選ぶのか。一人一人問われるところです。

最後に、皆様がこの地上の人生において四つの銀行口座を持つことをお勧めしたいと思います。一つはこの世での生活に必要なお金の口座。もう一つは保険、貯金などこの世における将来に備えるお金のための口座。三つ目は自分の住む社会、世界を良くするため、人を助けるためにささげるお金のための口座。四つ目は人の魂を救う働き、あるいはそれを行う人、教会や団体にささげるお金の口座です。

最初の二つは誰もが持っているでしょう。しかし、イエス・キリストの救いにあずかった者が後の二つの口座を持っていないとしたら、残念な気がします。この2016年惜しみなく、喜んでささげることにおいて成長、成熟してゆきたいと思います。

2016年1月24日日曜日

詩篇119篇1節~8節「聖書~主のみ教えに従って歩む~」


 世界の三大ベストセラーと言えばどの様な本があげられるのか。皆様はご存知でしょうか。一般的には聖書、資本論、星の王子様の三冊と言われますが、聖書以外の二冊については様々な説があり一定していません。しかし、聖書はどの様な場合も三大ベストセラーに入り、必ず第一位でその座を他の本に譲ってはいないのです。しかも、他の本はどれも時代と共に出版される数が減っているのに、聖書は今でも部分訳を含め毎年5億冊出ているとされます。さらに、他のベストセラーが多くても20か国語程度の翻訳にとどまるのに対し、聖書の場合翻訳された言語は既に1500語以上。群を抜いています。

英語ではザ・ブック、本の中の本とも表現され、聖書を心の糧にしていると言う人は世界中に広まり、絵画、音楽、文学、映画など、聖書のことばが様々な所に登場してくるのを私たちも眼にします。

 しかし、聖書と言う本の存在は誰もが知っていても、実際に読んだことがあると言う人はどれ位いるでしょうか。そもそも、聖書をこの世界を創造した神様からのメッセージと信じる私たちクリスチャンはどれ程聖書に親しんでいるのか。私たちの人生にどれ程聖書は影響を与えているのでしょうか。

新年の冒頭、信仰生活の基本を礼拝説教で扱ってきました。第一回は礼拝、第二回は交わり。今日のテーマは聖書となります。そして、今日選んだ箇所は詩篇119篇。聖書中最長の章で全部で176節、日本語聖書で12ページ。22もの段落がありますが、全体のテーマはただ一つ「神のことば」でした。

その神のことばが「みおしえ」「道」「さとし」「戒め」「おきて」「仰せ」「さばき」「ことば」「みことば」「真実」など様々なことばで表現され、褒め称えられています。詩篇119篇を「みことば讃歌」と呼ぶ人もいる程です。今日はこの長い詩篇の第一段落目、1節から8節を読み進めて、私たちとみことばとの関係を振り返り、考えてみたいと思うのです。

 

119:1、2「幸いなことよ。全き道を行く人々、主のみおしえによって歩む人々。幸いなことよ。主のさとしを守り、心を尽くして主を尋ね求める人々。」

 

幸いなこと、幸福と言われて、果たして皆様は幸福とは何だと考えているでしょうか。経済的祝福、家族の団欒、健康、仕事の成功など、人それぞれ置かれた状況や価値観によって幸福の形は異なるかもしれません。

しかし、これらの所謂幸福に恵まれても恵まれなくても、神様の眼から見る時、幸いな人がいる。それが「全き道を行く人々、主のみおしえによって歩む人々」であり、「主のさとしを守り、心を尽くして主を尋ね求める人々」だと言われるのです。むしろ、経済的に豊かでも、聖書を知らない人、健康であっても、聖書のメッセージを聞いたことのない人、仕事に成功しても、聖書を読んだことのない人は不幸ではないかと言うメッセージも聞こえてきます。

ある方と聖書の学びをしていた時のことです。「山崎先生、聖書の教えには共感できることもあるんです。あるんですが、もし洗礼を受けたら「~しなければならない」「~してはいけない」と言う、聖書の教えを全部守らなければならないんでしょ。それが何とも不自由な気がして引っかかるんですよね。」と言われました。

信仰生活イコール聖書に縛られる不自由な生活。この様なイメージを抱いている方が結構おられます。しかし、死後のいのちも含め人生を全体として考える時、神様のことばは私たちを様々な危険から守り、人として最も幸いな道を進むことができるようにと配慮された教え、戒めであることを、私は経験してきました。

また、ここには聖書の教えを守ればこういうご利益があるとも言われていません。ただ全き道を行くこと、主のみおしえによって歩むこと、主のさとしを守ること、心を尽くして主を尋ね求めること、その様な生き方自体が幸いなのだと言い切っているのです。

経済的祝福、家族の団欒、健康、仕事の成功。ある意味で、これらは周りの状況に左右される幸い、ひと時の幸福です。けれども、どんな状況に置かれても、主のみ教えによって歩む者はそこに幸いを見出すことができる。主のみ教えによって歩む人の幸いについて考えさせられるところ、確認したいところです。

それでは、主のみ教えによって歩むとはどういうことでしょうか。それはこの現実の世界で、物事をみことばによって考え、善悪を判断選択し、実行することです。

 

119:3~6「まことに、彼らは不正を行なわず、主の道を歩む。あなたは堅く守るべき戒めを仰せつけられた。どうか、私の道を堅くしてください。あなたのおきてを守るように。そうすれば、私はあなたのすべての仰せを見ても恥じることがないでしょう。」

 

聖書はこの世界を神に背き、堕落した世界としています。神のことばが無視され、不正や悪が横行する世界です。そして、聖書は人間が皆目先の利益、幸せのために不正や悪を選ぶ心をもっている罪人であることも教えているのです。

家庭、学校、職場や地域社会など、日々私たちは不正を選ぶか主の教えを選ぶか選択しながら生きています。小さなことから大きなことまで、どの様な点においても不正を選ばず、主の喜ばれる道を歩むよう意識し、つとめること。これが、私たちの目指す人生です。

詩人が「不正を行わず」と言い、「堅く守るべき教え」と告白したのは、みことばがある時はブレーキ、ある時はガードレールとなって、自分を守ってくれた経験を思い起こしているのかもしれません。

しかし、私たちの決意決心は非常に弱く脆いものです。他方私たちを不正や悪に引いてゆく誘惑の力は強力です。主の教えを守ろうとする熱意はあっても、それを貫くことは容易ではありません。心ならずも主の教えに背き、罪を犯す自分に気がつき、自分を責め、恥じ入る。誰もがその様な経験を持っているはずです。

その様な弱点を良く自覚していたのでしょう。この詩人は「どうか私の道を堅くしてください」と神様の助けを求めています。たとえ罪を犯しても、神様の赦しの恵みを頂くことができれば、良心に恥じることなく平安であると告白することができたのです。

神のことばを実践しようとする熱心。だからと言って自分の熱心に頼らず、むしろ己の弱さを自覚して、神様の赦しの恵みにより頼む信仰。行いと信仰、熱心と謙虚さ。主のみ教えによって歩む人は、二つのものをバランスよく保つことのできる人、神様と二人三脚で歩む人と教えられます。

更に、詩人が神様と「あなたと私」と言う非常に親しい関係にあったことにも注目したいと思います。詩人は神様の愛を知り、神様を愛していたからこそ、「主よ。あなたの示す道を歩み、あなたの戒めを守ります」。そう心から告白できたのです。

 

Ⅰヨハネ5:3「神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。」

 

私たち夫婦は結婚して30年になります。余り思い出したくはありませんが、何度かぎくしゃくした関係になったことがありました。原因は様々ですが、ぎくしゃくした関係と言うのは多くの場合、自分の態度や行動が相手に赦されていない、相手の愛を確信できない状態にある時生じるように思われます。その様な状態で、相手の願いに従うことはとても難しいものです。しかし、謝るべきことを謝り、相手から赦しをもらい愛を確認できたら、相手の願いに従うことは易く、喜びとも感じられるでしょう。

神様のことば、命令は無味乾燥な法律やルールではありません。神様の私たちに対する愛と信頼の表現なのです。神様と「あなたと私」と言う親しい関係の中にあること。それが、私たちの内にみことばに従いたいとの思いを最も高める土台であることを覚えたいのです。

それでは、この詩人がこの様に主のみ教えによって歩むと言う幸いな人生を送ることができたのは、何故なのでしょうか。

 

119:7、8「あなたの義のさばきを学ぶとき、私は直ぐな心であなたに感謝します。私は、あなたのおきてを守ります。どうか私を、見捨てないでください。」

 

ここでは神のことばが「義のさばき」と呼ばれています。詩人はみことばを学ぶことに取り組み、その時間を感謝し喜んでいたのです。「学ぶ」ということばを「親しむ」という言葉に置きかえて考えてみたいと思います。皆様はどのようにしてみことばに親しんでいるでしょうか。

今日は五つの方法を紹介したいと思います。みことばを聞く、みことばを読む、みことばを覚える、みことばを黙想する、みことばを実践する。この五つです。

何故五つなのでしょうか。今私は手に野球のボールを持っています。皆様がこのボールをしっかり握ろうとしたらどうするでしょうか。小指だけで握るでしょうか。親指だけで握るでしょうか。小指と親指を使うでしょうか。このボールをしっかり握り自分のものとするために誰でも五本の指をすべて使うはずです。

同じ様に、もし神様のことばを自分のものにしようと願うなら、それを聞くだけでなく読む、覚える、黙想する、実践する。五つのことを目指しつつ、できることから挑戦してゆく必要があると思うのです。

先ずは、聞くことから考えてみましょう。

神様のことばを聞くためにお勧めしたいのは、準備をすることです。礼拝説教を聞く時単なる聖書のお話を聞くと言うのではなく、自分に対する神様のメッセージを聞くと言う意識をもつこと、説教の箇所を事前に読んでおくことが助けになります。心がざわついた状態ではなく、神様からの語りかけに耳を傾けるという姿勢で臨めるよう備えたいと思います。

また、みことばを聞く機会を増やすこともお勧めです。説教が録音されたCDを聞く、これは病室でも車の中でもできることです。聖書そのものを朗読したCDも出ていますから、これを使うのも良いでしょう。年末に無事退院されましたが、富倉兄は入院中奥様と二人礼拝のCDを聞いておられ、「教会よりも集中できたような気がする」と喜ばれ、「でもこれを聞いていると、早く教会に行きたくなって困った」とも仰っていました。

第二に神のことばを読むことです。聖書は一生の間それを読むよう勧めています。

 

申命記17:18,19「…自分のために、このみおしえを書き写して、自分の手もとに置き、一生の間、これを読まなければならない。それは、彼の神、主を恐れ、このみおしえのすべてのことばとこれらのおきてとを守り行なうことを学ぶためである。」

 

自分のためにこのみおしえを書き写し、自分の手もとに置き、一生の間これを読む。印刷技術が発達せず、個々人が聖書を持つことができなかった時代、人々がどのようにしてみことばを自分のものにしようとしたか。その熱意が伝わってきます。

日々聖書を読むためには、それを習慣とする必要があります。但し、習慣が義務重荷にならぬ様完全主義は捨てた方が良いかもしれません。決めただけ読めなくても、あるいは全く読めない日があっても、自分を責めない。少しでも読めればよい、明日読めばよいと考え修正してゆく余裕が肝心と思われます。

また、意外に良いと思うのは聖書日記をつけることです。日記と言っても長い文章ではなく、読んだ箇所だけ記すのでも良いですし、その箇所で心に残ったことやことばを書き留めておくだけでも、次を読み進める励ましを受け取ることができるからです。

第三は、みことばを覚えることです。私には心に刻んでいるみことばが三つあります。一つは神様を信じた時のみことば、二つ目は洗礼を受けた時のみことば、三つ目は神学校に行き、神様に仕える仕事につくことを決めた時のみことばです。

これらのみことばは、大事な決断をする時、ストレスを受けた時、人生の目的を見失いそうな時私を支えてくれます。聖書がなくてもこれを思い出して、神様と親しく交わることができるからです。数は多くなくても良いと思います。皆様もみことばを覚えることお勧めします。

第四は、みことばの黙想です。黙想と言うのは聖書の一節に焦点を絞り、みことばの真理をどのように自分の生活に適用したらよいのかを考えることです。

旧約聖書ではきよい動物と汚れた動物が区別され、きよい動物であることの一つの条件が「反芻する」こととされています。反芻と言うのは聞き慣れないことばですが、例えば牛が一度飲み込んだ物を口内に戻しそれを再び飲み込むという動作を繰り返すことを指します。これにより、食物の栄養分を最大限摂取することができます。

聖書はみことばに対する私たちの姿勢も同じであるべきことを教えていました。思いをみことばに集中し、じっくり思い巡らす。その真理を余すところなく吸収してゆくこと。みことばの黙想をお勧めします。

第五は、みことばの実践です。みことばの実践については、具体的な目標を考える必要があります。隣人を愛する事を神様からのメッセージとして聞いたなら、誰に対して、いつ、どのような方法で愛を表わすのかを考え決めること、そのために必要な力を神様に乞い願うことが第一歩です。

その際、余りハードルを高く設定しないよう注意したいものです。自分にとって愛しにくい人がいたなら、一気にその人と仲良くなることを目指すより、先ずその人の顔を見たら挨拶をすることを目指すと言う様に、現実的で、実践可能なところから始めてゆくのが良いと思います。

山登りも頂上を見ると「登れるかな」と不安ですが、先ず一合目次に二合目と一歩一歩近づいてゆくと言う方法がベストとされます。みことばの実践も山登りと同じ考え方で取り組むのが良いのではないでしょうか。

以上、みことばに親しむ方法を五つ紹介しました。2016年私たちが神様に与えられた心、頭脳、体そのすべてをフルに使って、みことばに親しむ歩みを進めてゆきたいと思います。今日の聖句です。

 

119:14~16「私は、あなたのさとしの道を、どんな宝よりも、楽しんでいます。私は、あなたの戒めに思いを潜め、あなたの道に私の目を留めます。私は、あなたのおきてを喜びとし、あなたのことばを忘れません。」

2016年1月17日日曜日

ヨハネの福音書13章34節、35節「交わり~愛された者として~」


新しい年を迎えて半月。あっという間に半月が経ちました。年初めは、自分の歩みを再確認し、どのように生きて行くのか目標を立てるのに良い時期。皆様は、この一年をどのように生きるのか、考えたでしょうか。日々の忙しさに目を回す前に、新たに目標を見据え、計画を立てる。自分の願いは何なのか考えたいと思います。

とはいえ、その目標が自分勝手なもの、罪にまみれた欲望に基づいた目標とならないように。神様の前で、自分は何者なのか。どのように生きることが幸いなのか。確認しつつ、自分の歩みを見据えたいと思います。

 そのようなわけで、年初めの数回の説教で、キリストを信じる私たちは何者なのか、再確認しているところです。前回が礼拝。(例年では、第二週が伝道ですが、今年はウェルカム礼拝を実施したため、伝道は別な機会にまわします。)今日は「交わり」がテーマです。キリストによって私たちは、交わりを大切にするよう召されましたが、それでは私たちが目指す交わりとはどのようなものか。キリスト者の交わりとはどのようなものか。皆様とともに考えたいと思います。

 

 ところで皆さまは教会の交わり、キリスト者の交わりは好きでしょうか。お互いのことを知り合うこと、教会の仲間とともに過ごすことがとても好きという方。特に用事があるわけではないけれども、教会で仲間との時間を大切にしたいという方。いらっしゃると思います。教会の仲間と良い関係を持ち、その交わりが本当に楽しい、嬉しいと感じられるとしたら、それは本当に大きな恵みです。

しかし、教会での交わりが苦手という方もいらっしゃると思います。一人でいる方が良い。他の人にどのように思われるのかとても気になる。これまでクリスチャンの交わりの中で傷ついたことがある。あるいは、他の人を傷つけてしまい、また同じことをしてしまうのではないかと恐れている。

 信仰生活、教会生活が長くなると、交わりの喜びと、交わりの難しさ、その両方味わうのが一般的だと思います。交わりが楽しいと感じる時もあれば、交わりが怖い、教会での交わりを避けたくなる時もあります。

 

 私もこれまでの信仰生活の中で、(四日市キリスト教会に来る前のことですが)教会の方にひどく傷つけられたと感じたことがあります。そのような時は、その人の顔を見て、悪い感情が出てくるのが嫌で、あまり教会にいたくないと感じました。あるいは、自分の発言や行動で、教会の方をひどく傷つけてしまったこと。自分のあまりの未熟さに、他の人と関わらない方が良いのではないかと考えたこともあります。皆さまはそのような経験があるでしょうか。

 交わりを避けたい。交わりを望まないという時。神様を信じるだけで十分ではないか。聖書を読み、祈る時間を充実させれば良いではないか。教会の人と顔を会わせるのは礼拝の時だけで良いではないか、という思いが沸き出てきます。

このような思い。交わりを避けたい、交わりを望まないというのは、多くのキリスト者が味わうものです。聖書が記された時代にも、交わりを避ける人がいました。交わりを避けるのには、それぞれ事情があったと思いますが、それでも聖書は明確に交わりの重要性を訴えていました。

 

 ヘブル10章25節

ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。

 

 集まることをやめないように。キリスト者の交わりをやめないように。信仰生活を一人で送らないように。共に生きることに取り組むようにとの勧めです。交わりを避けたいと思っている時、このような御言葉に応じることは難しく感じますが、とはいえ聖書は明確に交わることを勧めていることは覚えておくべきことでしょう。

 

 より積極的な表現で交わりを勧めている箇所もあります。礼拝の冒頭、招詞として読んだ箇所。

 詩篇133篇1節~3節

見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。それは頭の上にそそがれたとうとい油のようだ。それはひげに、アロンのひげに流れてその衣のえりにまで流れしたたる。それはまたシオンの山々におりるヘルモンの露にも似ている。主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。」 

 

聖書の中央、大詩篇に含められた交わり賛歌。仲良し万歳という歌です。表題に都上りの歌とついていまして、神を信じるものが共に礼拝出来る喜び、その幸せを歌ったもの。短い詩で、テーマは一つ。一点集中。神の民の交わりが楽しい、幸せであるというだけの内容です。その最後が印象的で「主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じた」と結ばれます。なぜ交わりが楽しいのか、幸いなのか。それは主なる神様が、交わりにおいて、私たちが恵みを受けるように、祝福を命じたからというのです。

この御言葉に沿って言うならば、交わりを避けることは勿体ない。交わりを持たないことは、神様が用意した恵みを受け取らないことになっていると言えます。これもまた、交わりをテーマにした時、覚えておきたい聖句の一つ。

 

 (他にも色々と聖句を挙げることが出来ますが)このように聖書は繰り返し、交わりを大切なものとして伝えています。なぜ交わりが大切なのか。もう少し具体的に確認すると、一つの意味は私たちの成長のためです。

 箴言27章17節

「鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる。」

 

 私たちは日々の生活の中で、様々な事柄から影響を受けます。テレビ、インターネットにより、家の中でも世界中の情報を手にすることが出来る時代。意識していなくても、様々な影響を受けて生きています。

 影響は良いものもあれば、悪いものもある。私たちを整える好影響もあれば、乱す、壊す悪影響もあります。それでは私たちを良い状態へと整えるものは何か。聖書の一つの答えは「友」でした。鉄をあるべき形に整えるのに、粘土では出来ない。鉄を整えるのには鉄が必要なように、私たちを整えるのには「友」が必要だと言われます。私たちの人格は、人格によってとがれる。友との交わり、友との関係の中で、私たちは成長していくという言葉。

 もちろん、私たちが成長するのは、キリスト者の交わりだけではありません。他にも色々と挙げることが出来ますが、しかし聖書は、私たちを整えるものとして特に「友」との関係を挙げています。実際、「自分の信仰生活に良い影響を与えたものは何か。」とアンケートをとると、最上位にくるのは「交わり」でした。

 

 神様は私たちに多くの恵みを下さるお方。ありとあらゆる方法で恵みを下さるお方。中でも、キリストにある仲間を通して頂く恵みは格別なものです。ともに祈り、ともに礼拝をささげ、ともに奉仕をし、ともに教会を建て上げてきた仲間との時間。励まし合い、支え合い、時には罪を指摘し注意し合う。苦しみ、悲しみも、感動、喜びも分かち合える交わり。

仮に、自分の人生にそのような人間関係、そのような交わりがなかったとしたら、私たちの人生はどれ程寂しいものになっていたでしょうか。寂しいだけの問題ではない。そのような人間関係がなければ、今の自分とは全くことなる自分になっていたはずです。

私たちは自分に与えられたキリスト者の交わり。その関係を通して与えられた多くの恵みに、どれだけ感謝をささげてきたでしょうか。また、教会に来る時に、交わりによって自分が整えられること、成長することをどれだけ期待しているでしょうか。

 

 ところで箴言の言葉は「人は人によってとがれる」ではありませんでした。「人は『友』によってとがれる」として、その関係が良いものであることを教えています。良い関係によってこそ、私たちは整えられる。

それでは、聖書が教える友の関係。良い関係とはどのような関係でしょうか。今日の聖書の箇所に、明確に記されていると思います。

 

 ヨハネ13章34節

あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

 

 十字架にかかる直前、イエス様の遺言説教の中の言葉。「互いに愛し合う」、これこそ聖書が教えている良い関係であり、私たちの目指す交わりの姿です。

 とはいえ、思うがまま愛するというのではありません。残念なことに私たちに対する罪の影響は実に大きく、愛することすら自己中心的になることがある。

そのためでしょう、はっきりと、キリストが弟子たちを愛したように、「互いに愛し合う」よう教えられています。つまり、主イエスが弟子たちに願っていることの第一は、イエス様の愛を味わうこと。ともかく仲間を愛するというのではなく、じっくりとイエス様の愛に憩うことです。

 私たちも自分勝手に愛し合うのではなく、イエス様がどのように弟子たちを愛したのか、よく知る必要があります。もっと言えば、自分自身がどのようにイエス様に愛されたのか、味わう必要があります。

 

 私たちは、世界の創り主、王の王、主の主に愛されています。イエス様はどのように私たちを愛されたのか。王として私を導き、羊飼いとして私を養い、盾として私を守り、友として私を励まし、しもべとして私に仕え、花婿として私とともにいることを喜ばれ、救い主として命をかけて私を救って下さいました。愛されるに値しないはずの私が、これ以上ないほど、徹底的に愛された。そのキリストの愛を、私たちは、どれだけ味わっているでしょうか。

 この一年、イエス様の愛が分かるように。イエス様の愛を深く味わえるように。それも頭だけ、観念的に理解して終わることのないように。私たちの全存在をもって、イエス様の愛を味わいたいのです。

 

 ところで、私たちがこのイエス様の戒めに取り組むとしたら、何が起こるのか。想像出来るでしょうか。

 私が教会の仲間に会う時。そこに、イエス様が私を愛したように、私を愛してくれる人がいることになります。それはどれ程の喜びとなるのか。キリストを信じる仲間に会うことが、どれ程の楽しみとなるのか。教会の仲間に会うことが心待ちになるでしょう。

また、私自身が他の人にとって、キリストの愛を示す存在となる。これ程偉大な使命は、そうはありません。

互いにキリストの愛を示し合う。その交わりの中で、互いに整えられていく。友によってとがれることを経験していく。本当にこのような教会でありたい。このような交わりを持ちたいと思います。

 

 このイエス様の愛を互いに示し合う交わりは、私たちを整える以外にも、もう一つ大事な意味がありました。

 ヨハネ13章34節~35節

あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もしあなたがたの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。

 

 イエス様による「教会論」、「教会のしるし」です。キリストの弟子が最もキリストの弟子らしくあるのは、イエス・キリストの愛で、互いに愛し合うとき。それこそキリストの弟子。それこそ教会。その関係性は、他に類を見ないもので、キリストを知らない者に衝撃を与えるもの。

 交わりは私たちのために有益でしたが、それだけではない。この交わりの外にいる人にも、キリストの素晴らしさを示すものとなるのです。「交わり」は私たちの成長に有益であると同時に、伝道としても重要でした。キリストをまだ知らないこの地域の方々に、私たちの交わりを見てもらいたい。この交わりに加わってもらいたい。そう思える程、互いに愛し合う教会でありたいと思います。

 

 以上、私たちはこの一年、どのように生きていくのか。交わりを中心に考えました。

第一に取り組みたいことは、イエス様の愛がどのようなものか確認することです。キリストが愛するという時、何をされたのか。どのように愛を示されたのか。聖書を読み、答えを探したいと思います。

知識として、愛するとは何かを確認することは大事。しかし、それで終わることのないように、と思います。「イエス様は弟子たちを愛していた。」「聖書はイエスを愛の人と描いている。」と知っていることと、イエス様は私を愛していると告白することには大きな違いがあります。他でもない、私がいかに愛されているのか。深く味わいたいのです。

 

それでは、どのようにしたら、キリストの愛を実感出来るでしょうか。いかに愛されているのか、深く味わうことが出来るでしょうか。

祈ること。聖書を読むこと。「イエス様の愛がより分かるように」と祈り、聖書を読むことは、私たちが一生涯かけて取り組むこと。しかし、今日特にお勧めしたいのは、キリストの愛を深く味わっている方と時間を過ごすことです。イエス様の愛を味わうことにおいて祝福された人と交わることです。

 イエス様の愛を深く味わっている方と過ごすと、どのように愛を受け止めているのか。その信仰の姿勢、その喜びが伝わってきます。皆様は誰が思い浮かぶでしょうか。あの人、この人と思いつく方は幸いです。誰も思い浮かばないという方は、紹介したいと思いますので、どうぞ聞きに来てください。

 

 私たちが取り組むべきことは、イエス様の愛を味わうこと。そして、その愛をもって、仲間を愛すること。良い交わり、友との交わりによって、私たちは整えられ、成長すると教えられます。また、互いに愛し合う関係が、キリストの弟子であることの証。キリストの素晴らしさをあらわすことだと確認しました。まだキリストを知らない多くの人がこの交わりに加われるようにと願います。

 これからの一年、キリスト者の交わりが嫌になること。避けたいと思うことが起こるかもしれません。愛する思いを持ちつつも、仲間をひどく傷つけてしまうことがあるかもしれません。しかし、目標はイエス様の愛をもって互いに愛し合う交わりを持つこと。愛された者として愛していく。その交わりが広がる教会であるよう皆で祈りつつ、取り組んでいきたいと思います。