2015年11月29日日曜日

ルカの福音書1章26節~38節「待降節(1)~おことばどおりこの身に~」


皆さまもご存知のように、全くキリスト教国とは言えない程、クリスチャンの少ない私たちの国日本でも、何故かクリスマスは好まれ、定着し、今では冬の風物詩の一つとなっています。私の家はクリスチャンホームではありませんでしたが、ケーキにプレゼントなど、子どもの頃クリスマスがとても楽しみな行事であったことは覚えています。

 それでは、このクリスマスを人々はいつ頃からお祝いし出したのでしょうか。昔ギリシャ・ローマの時代には、有名な人物の誕生日を祝う慣習があったそうです。しかも、生きている間にとどまらず、死後にも行われることがあったようで、哲学者のプラトンの誕生日などが祝われていました。その様な事から、キリスト教迫害の時代が終わりを告げた四世紀半ばから、ローマでは1225日にキリストの誕生を祝い出します。初めは日にもまちまちで、東方の教会では16日に行っていましたが、四世紀の終わりごとになると1225日が世界的に広まったと言われます。

 何故、1225日となったかと言うと、聖書的な根拠ではなく、当時ローマ人たちが「太陽の誕生日」として、この日を祝っていたことに関係していると言う説が有力なのだそうです。冬至を境に、日が長くなってゆく様子から、当時はこの日が太陽の誕生日とされていました。そして、太陽の誕生と言えば、世の光、義の太陽であるイエス・キリストとその誕生が連想され、教会では1225日がキリスト誕生をお祝いする日と決まったようです。

 昔は、クリスマスが何かキリスト教のお祭りの一つだとは思っても、それが何のお祝いであるのか知らなかった日本人も、今ではキリストの誕生を祝うことと理解しているように思われます。しかし、そのキリスト誕生の意味はと問われると、答えるに困る人が多いかもしれません。

 それに対して、キリスト誕生の意味を知っている私たちも、その意味を考え、思い巡らし、味わうことにどれ程時間を割いているかと問われると、心もとない気がします。そんな日々の生活の忙しさに追われがちな私たちのために用意されたのが待降節の礼拝です。今日から始まる待降節を、キリスト誕生の意味を考え、味わい、キリストを心にお迎えする時として過ごしてゆけたらと思います。

 さて、今日取り上げたのは、御使いガブリエルがマリヤに「あなたは神の子を宿している」と告げた、有名な受胎告知の場面です。

 

 1:26~29「ところで、その六か月目に、御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤといった。御使いは、はいって来ると、マリヤに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。」

 

 マリヤは、ガリラヤのナザレと言う町に住んでいたとあります。その頃、ガリラヤ地方は都の人々から「異邦人の地ガリラヤ」と呼ばれ、見下されていました。ユダヤ人以外の外国人が多く住み、その影響を受けたガリラヤの人々も異邦人、つまり聖書の神様を信じることにおいて不熱心な、汚れた人々と考えられていました。特に、ナザレの町に関して言えば、「ナザレから何の良いものが出るか」と言われるほど、人々から蔑まれていたのです。

 さらに、マリヤは名もなき、十代の女性。いいなづけのヨセフも、有名なダビデ王の家系に属していましたが、今は貧しき村の大工にすぎません。もし、この様な夫婦から男の子が誕生したとして、その子に一体誰が注目するだろうかと思われるような人々だったのです。

 しかし、神様のみ心はここにあらわれていました。この世界を創造した神様の御眼は、社会から見下され、のけ者にされている人々に向けられている。神様の心は、いつも貧しさに悩み苦しむ、名もなき人々に向けられている。私たちの信じる神様はその様な人々のことを決して忘れず、心砕いておられるお方。この様な神様の姿、み心を確認したいところです。

 それにしても、です。突然現れた御使いに「おめでとう、恵まれた方」と言われたマリヤは、このことばにひどくとまどい、これは一体何のあいさつかと考え込んだとあります。当然のことと思われます。そこで、御使いガブリエルは彼女が受けた恵みとは何であるのかを語り始めます。

 

 1:30~33「すると御使いが言った。「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」

 

 御使いが告げたことばは、すべて旧約聖書において、神様がイスラエルの民に対し約束したことを背景としています。約束は聖書では預言と言われています。イスラエルとは、ここに登場するヤコブと言う人の別名で、ヤコブから生まれた子孫全体を指します。イスラエルは神の民として特別に選ばれ、養われた人々で、旧約聖書の多くの部分は、このイスラエル民族の歩みを記していたのです。

 そのイスラエルに対し、神様がしばしば語られた預言のことばのなかに、将来出現する救い主に関する約束がありました。それらは非常に多く、様々な箇所で語られているのですが、今日の箇所に関係するものの中から、ふたつご紹介したいと思います。

 

 イザヤ7:14「それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。」

 イザヤ9:6、7「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」

 

 ひとりの処女がみごもって、男の子を生むこと。その男の子が「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」であり、ダビデ王の家系に属し、永遠に続く平和の王国を治める王となる。この預言は紀元前8世紀に活躍したイザヤに託されたもの。イエス・キリスト誕生から遡ること、およそ800年ほど前に告げられた約束と言うことになります。

 注意したいのは、この約束が与えられ時、イスラエルの王も人々も、神様を信頼せず、偶像を崇拝し、罪の中を歩んでいたということです。この約束だけでなく、将来出現する救い主についての約束は、いずれもイスラエルが神様に背き、反逆した時に語られています。イスラエルの人々は、神様のことばを語る預言者を迫害しました。その言葉を聞こうとはしませんでした。それにもかかわらず、神様は何度でも預言者を送り、約束のことばを語り続けたのです。

 つまり、御使いがマリヤに告げたのは、その様なイスラエルの人々の神様に対する不信仰と反逆の歩みを知りながら、約束通り本当に救い主をあたえるという神様の真実でした。イスラエルの民が繰り返し逆らい、何度離れて行っても、どこまでも真実を尽くす神様の姿だったのです。

 この神様の姿を何にたとえたら良いでしょうか。繰り返し約束を破る友に対して、自分の側は約束を守り、果たし続ける人。何度悪の道に走り、逆らって家を出て行っても、その子を捜し続け、帰りを待ち望む親。どれほど配偶者が不倫を重ねても、赦し、仕え続ける夫あるいは妻。

真実を受け取るに価しない相手のために、身を削り、犠牲を払い、力の限り、真実を尽くし続けること。聖書ではこれを恵みと呼んでいます。神様が背信の民イスラエルに約束通り救い主を与えることは、正に恵みと呼ぶ他はない真実な行いでした。だから、御使いは、救い主誕生の知らせを告げたマリヤに対し、「こわがることはない。あなたは神から恵みを受けたのです」と告げたのです。

こうして、自分と自分が属する民族が途方もない恵みを受けることを知ったマリヤでしたが、迷いのすべてが解消したわけではありませんでした。彼女は御使いに尋ねています。

 

1:34~37「そこで、マリヤは御使いに言った。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です。神にとって不可能なことは一つもありません。」」

 

いくら神様を信じるマリヤであっても十代の若き女性。それに、何よりマリヤはいいなづけのヨセフとまだ結婚式をあげてはおらず、こんな大事なことを相談できる相手がいません。たとえ、ヨセフに相談したとしても、理解してもらえず、別れると言う事態も考えられます。

事実、マタイの福音書には、マリヤから話を聞き、悩みに悩んだヨセフがひそかに離縁することを決めたとあります。正式に結婚していない状態での出産に対し、世間が向けるであろう冷たい視線に対する恐れ。信頼するヨセフがどう対応するのかと言う不安。マリヤが胸を痛め、恐れと不安を抱いたとしても無理からぬことと思えます。

そして、勿論神様はマリヤの心をご存知でした。だからこそ、御使いは「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます」と語るとともに、マリヤの親類エリサベツも不妊の女性でありながら、神様によって胎に男の子を宿しているのですよと教えたのです。

この後、マリヤはエリサベツの家に出かけ、お互いに神様によって男の子をみごもった者同士、語り合い、励まし合うことになります。神様は直接みことばによって私たちを励ましてくださるだけでなく、同じ境遇に生きる兄弟姉妹を置いてくださり、その様な兄弟姉妹との交わりの中で、私たちは励まされ、慰められ、信仰に立つことができる。そう教えられるところです。

こうして、ついにマリヤの信仰の告白がなされました。

 

1:38「マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」こうして御使いは彼女から去って行った。」

 

「はしため」と言うのは、女性の奴隷のことです。マリヤは、社会的立場に置いては奴隷ではありませんでした。彼女は、「ほんとうに、私は主のはしためです」と告白したのです。

このことばを通してマリヤは、自分には神様に真実を尽くして頂く資格がないことを認めています。自分が神様の前に汚れた罪人であり、何の良きものも受け取る価値のない者であることを認めています。それと同時に、その様な自分が神の子、救い主を宿すと言う途方もない恵みを受けたので、心から主なる神様のしもべとしてお仕えしたいと言う思いをも言い表しているのです。そして、その様なマリヤの心から生まれた宝石のような信仰の告白が、「あなたのおことばどおりこの身になりますように」でした。

さて、こうして有名な受胎告知の場面を読み終えた今、私たちが確認しておきたいことがふたつあります。ひとつは、神様の真実と恵みについてです。今日の聖句です。

 

ローマ3:3、4「では、いったいどうなのですか。彼らのうちに不真実な者があったら、その不真実によって、神の真実が無に帰することになるでしょうか。絶対にそんなことはありません。たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。」

 

皆様は、ご自分が救い主イエス・キリストを与えられることは当然のこと、自分にはその資格、権利があると思っているでしょうか。それとも、全くそのような資格も、権利もないとお考えでしょうか。

もう一度言いますが、神様にはこの世に救い主を与える義務も責任もありませんでした。あのイスラエルのように、私たちはみな神様に対して不真実な者ですから、私たちに相応しいのは神様のさばきであり、滅びなのです。そんな私たちにキリストが与えられたのは、私たちが受け取る資格のない真実を神様が尽くしてくださったから。ただただ神様の恵みによるのです。私たちの信じる神様が、真実と恵みの神であることを感謝したいと思います。

ふたつめは、おことばどおりこの身なりますようにと言う信仰です。私たちはよく、おことばどおり、あるいはみこころがなりますようにと口にします。その様に祈りもします。

しかし、良く考えてみると、マリヤがそうであったように、みこころがこの身に、私自身になるようにと言うことは、様々な苦しみや困難をも受け取りますと言う意志の表明ではないでしょうか。最終的には幸いな状態に導かれるとしても、そこに至るまでに起こる喜びも悲しみもすべを、神様が与えてくださる恵みとして受け取ると告白することは、決して簡単なことではないと思います。

しかし、これが私たちの目指す信仰です。漠然とみこころがなるようにと祈ることは簡単です。私たちはいかなる状況でも、みことば通り、みこころがこの身になりますようにと言う信仰に立ち、そう祈る者でありたいと思います。

 

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