2015年11月8日日曜日

成長感謝礼拝 ヨハネの手紙第Ⅰ1章1節~4節「いのちを感謝する」


 十一月になり秋が深まりました。私たちの国では、十月から十一月、様々な記念日があります。体育の日があり、文化の日があり、勤労感謝の日があります。(私たちにとっては、十月三十一日の宗教改革記念日も大事な日です。)一年のいつでも、体を動かし、文化に親しみ、勤労を尊ぶことは大事なこと。記念日だけ意識すれば良いというものではないのですが、記念日は思いを新たにする一つのきっかけとなります。

今日は、成長感謝礼拝の日です。一年のいつでも、神様から与えられたいのちを大切にし、成長を感謝することは大事なことですが、今日の礼拝が一つのきっかけとなりますように。神様との関係を再度考えること。今の時代、この場所でいのちが与えられていることの意味を再確認出来るようにと願っています。皆様とともに、「いのちを感謝する」とは、どのような生き方なのか、考えたいと思います。

 

 神様が世界を造られた時、神様の目で世界を見て、どのように思われたのか。聖書には次のように記されています。

 創世記1章31節

そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常に良かった。こうして夕があり、朝があった。第六日。

 

 世界は非常に良い状態でした。ところで「良い」というのは、どのような意味でしょうか。通常、「良い」というのは、目的に沿っていることを意味します。例えば、「良いボール」というのは、投げるという目的に適した物。「良いペン」というのは、書くという目的に沿っている物。

少し変な表現ですが、「良いボール」で何かを書こうとしても書けないですし、「良いペン」を投げ合うことは危険なことです。「良いボール」はペンとしては良くないですし、「良いペン」はボールとしては良くないのです。「良い」というのは、目的に沿っているということ。

 神様が世界を見られた時、それは非常に良かったと言われています。それはつまり、世界には、神様が定めたもう目的があり、全てのものが、その目的に沿っている状態。神様の考えられた目的に適した状況になっていたということです。

 それでは、人間に対する神様の目的は何だったでしょうか。人間はどのような目的に沿っている状態だったのでしょうか。

 ウェストミンスター小教理問答の第一問とその答えは次のようなものでした。

「問一 人の主な目的は、何ですか。」

「答え 人の主な目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。」

 人間が造られた目的は、神の栄光をあらわし、神を喜ぶこと。言い換えると、神様ご自身と、神様が下さったものを感謝するということです。人間は、神様に感謝する者として造られました。(創造論から考えて、神様に感謝することは私たちにとって大事なことです。)

 

ところが、最初の人間、アダムとエバが罪を犯し、堕落します。行った行為としては、禁じられていた、木の実を食べるということ。その意味するのは、神様を無視するということ。アダムとエバが堕落した結果、罪あるアダムとエバからは、罪ある人間が生まれることになる。残念無念。私たち自身、罪ある者として生まれ、今も罪の影響があります。

 それでは罪の本質とは何でしょうか。それは神様を無視すること。神様抜きで生きることが出来ると思うこと。神様の喜ばれない生き方をすること。

 もともと、神様に感謝をあらわす存在として創られた私たちですが、罪ある状態は、その目的に沿って生きることが出来ないのです。当然のことですが、神を無視して生きる者は、神様に感謝することはないのです。罪がいかに悲惨であるのか。色々な表現が出来ますが、神様の意図に沿って生きることが出来ないというのも、罪の悲惨の一つです。

 

 罪の悲惨から私たちを救うために来られたのが、イエス・キリストです。キリストを信じる者は、罪から解放さていく者。神の民、クリスチャンである私たちは、神様に感謝して生きるという、創られた目的に沿って生きることが出来るようにされた者。神様に感謝をする者へと変えられた者です。(救済論から考えても、神様に感謝することは私たちにとって大事なことです。)

 このように考えますと、聖書の教える感謝する者として生きるためには、どうしても、イエス・キリストを信じる必要があります。今日お集まりの皆様の中で、主イエスを信じていない方は、イエスキリストこそ、罪からの救い主であると信じることを心からお勧めいたします。

 

 ところでキリストを救い主と信じたら、いつでも神様に感謝をしているのかと言えば、そうでもありません。クリスチャンは、罪の影響から、徐々に解放されていく者。それはつまり、罪の影響があるということです。この一週間で自分が口にした言葉のうち、感謝の言葉はどれ位あったのか。考えてみると恥ずかしくなります。

 

聖書の中に、感謝する人、感謝しない人の対比で、有名なエピソードがあります。ツァラアトという重い皮膚病を患った十人の人が、キリストに癒された場面。

 ルカ17章11節~19節

そのころイエスはエルサレムに上られる途中、サマリヤとガリラヤの境を通られた。ある村に入ると、十人のツァラアトに冒された人がイエスに出会った。彼らは遠く離れた所に立って、声を張り上げて、「イエスさま、先生。どうぞあわれんでください」と言った。イエスはこれを見て言われた。「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。」彼らは行く途中できよめられた。そのうちのひとりは、自分のいやされたことがわかると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリヤ人であった。そこでイエスは言われた。「十人きよめられたのではないか。九人はどこにいるのか。神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だれもいないのか。」それからその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰が、あなたを直したのです。」

 

 特別に難しいことはない。読んでそのままの出来事。不治の病、それも社会から隔離される病を患った絶望の十人が、皆、同じように癒された。それが、感謝のために戻ってきたのは、一人であった。感謝した者は、十分の一であったという痛恨の記録。

 自分の受けた恵みを確認した時、あまりのことに絶叫しながら神をほめたたえ、急いでイエス様のもとに帰って、全身全霊で感謝を表した人。その純粋さ、清々しさに憧れます。この人のようでありたいと願います。

同時に、イエス様の「九人はどこにいるのか。」という声が胸に刺さる場面。どこまでも忘恩の民。無礼な者たち。苦しい時の神頼みに尽きて、自由気ままに恵みを食い漁って、感謝することはない。その姿が、実は私の姿ではないかと、胸に手を当てます。

 

 また自分が感謝したことの内容を振り返りますと、その殆どが、良かったこと、祝福だと感じたこと、特別な恵みだと思うことに対してです。今日、いのちがあること、いのちを支えるのに必要なものが与えられていることを、どれだけ真剣に感謝してきたのか。

 特別な恵みに感謝することすら出来ていないと思う時に、日々の恵みに感謝しているのか問われると、ますます居心地が悪くなります。とはいえ、いのちを感謝しない生き方は、危険なことでもありました。イエス様が語られた譬え話が思い出されます。

 

 ルカ12章16節~21節

それから人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。

 

 「愚かな金持ち」の譬えと言われる話。イエス様の譬え話には、難解なもの。どう考えたら良いのか悩むものも多いですが、この譬えは至極簡単。最後にはどんでん返しがあり、印象的な話です。

 畑が豊作となった男。豊作ということは、天候の影響もありますが、農家の働きも関係があるでしょう。土地を耕し、肥料をまき、水を注ぎ。やれることをやっての豊作。それも、これまでの倉には収まりきらない。より大きな新しい倉を建てなければという程の大豊作ですので、農家としては大成功でした。

勤勉であり、知恵も働き、計画性もある人。「愚かな金持ち」と評されるわりには、しっかりした人物。では、何が愚かなのかと言えば、いのちを感謝することをしなかった点です。自分のいのちは自分で守ることが出来る。自分のいのちは、財産や食べ物があれば大丈夫と考えていた。いや、そこまで明確に、財産や食べ物があればいのちは大丈夫と考えていなかったかもしれませんが、少なくとも、そのような生き方をしていたのです。

 神様から、いのちを与えられていることを意識しない。感謝しない男の姿です。いのちがあるのは当たり前。自分のいのちは、自分で守ることが出来ると思っている。このような思いが、私たちの心の中にないか確認する必要があります。心のどこかで、お金があれば、学歴があれば、この会社に就職していれば、この能力を身につけていれば、この人と良い関係にあれば、これで私のいのちは大丈夫と思っていないか。

 

 この成長感謝礼拝を一つの記念として、私たちは自分のいのちの所有者が誰であるのか。しっかりと再確認したいと思います。

考えてみますと、私たちが生きてゆくのに必要なもので、自分で用意したものは一つもありません。私たちの体の仕組みで、自分で作ったものもない。生きるのに必要な水、空気、光、土、植物、動物などで、自分で用意したものもない。生きるのに必要な環境、太陽、地球、星、様々な法則などで、自分で作ったものもありません。もちろん、いのちそのものも、自分で作っていません。驚くほど良く出来ている私たちの体、心、この世界。これら、全て自分で作ったものはなく、用意したものはないのに、自分のいのちは私の所有であり、自分のいのちを自分で何とか出来ると考えるのは、あまりにおかしな話。

いのちそのものも、いのちを支えるのに必要なあらゆるものも、喜んで生きることが出来るように備えられたものも、全て神様が下さったものであることを覚え、意識しながら、この一週間を生きていきたいと思います。

 

 ところで、私たちはこの肉体のいのちを神様から頂きましたが、もう一つ、より重要ないのちを頂いた者です。キリストを信じることで頂いたいのち。永遠のいのち、キリストのいのちです。

先に確認しましたように、永遠のいのちがあるからこそ、正しく感謝する歩みが出来るようになりました。ただ生きているのではない。キリストによって救われた者として生きることが出来ている。この永遠のいのちを、私たちはどれだけ感謝しているでしょうか。

過去の罪も、未来の罪も完全に赦されていること。キリストに似る者に、変えられていること。神の子とされ、天国を受け継ぐ者とされたこと。神様と交わることが許されていること。生きる意味を知り、有意義な人生を送れること。本当の意味で神を愛し、人を愛することが出来ること。これがどれだけ大きな恵みであるのか。

 

 パウロは、永遠のいのちと、地上のいのちを比較して、次のように言っていました。

 ピリピ1章23節

私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。

 

 パウロが地上のいのちを軽視していたわけではありません。肉体のいのちの尊さを十分わきまえつつ、それでも、永遠のいのちの方が、より素晴らしいとの告白です。この地上のあらゆることも、肉体のいのちあってのこと。その肉体のいのちよりも、更に良いものを頂いている。ありとあらゆるものの中で、最上のものを頂いているという告白です。

 

 ヨハネは、永遠のいのちを頂いたことの喜び、感謝を次のように表現していました。

 Ⅰヨハネ1章1節~4節

初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、――このいのちが現われ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現わされた永遠のいのちです。――私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全きものとなるためです。

 

 イエスキリストとの出会い、交わり。イエス様に救われ、永遠のいのちを頂いた喜び、感謝が、ヨハネならではの表現で記されています。主イエスの言葉を聞き、目で見、手で触ることが出来た。それがどれ程、ヨハネにとって感謝なことであったのか。生々しく、実感のこもった表現。

 そして、この手紙を読む者に、このイエスを知ってもらいたい。イエスを知ることで、神の民の交わり、神様との交わりに加わってもらいたいと言います。

 ヨハネの強調点に従えば、永遠のいのちを感謝するとは、神様との交わり、神の民の交わりを喜ぶことだと確認出来ます。

 与えられた永遠のいのちを感謝する生き方とは何かと言えば、神様との交わり、神の民の交わりを喜ぶこと。そのように確認して、礼拝の恵み、教会の恵みを、ますます味わうものでありたいと思います。

 

 以上、私たちにとって、神様に感謝することがいかに大切なことか。中でも、いのちを感謝すること、肉体のいのちも、永遠のいのちも神様から頂いたことを、感謝すること。神様との交わり、神の民の交わりを喜びたいと思います。

あれやこれやとある過密スケジュールの中で忙殺されて生きるのではなく、この日曜日、しっかりと時間をとって、頂いた恵みがどのようなものなのか、私たち皆で再確認したいと思います。

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