2015年11月1日日曜日

マタイの福音書5章6節「山上の説教(4)~義に飢え渇く者は~」


イエス・キリストが故郷ガリラヤの山から語られた説教は、山上の説教と呼ばれています。イエス様の説教の中でも非常に有名なもので、今日はその四回目。説教の冒頭「幸いなるかな」で始まる八つのことば、幸福の使信とか八福の教えと呼ばれる所の、第四番目「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです」から、私たち学んでゆきます。

「飢え、渇く」は、いつも飢えている状態、常に渇いている状態を指すことばです。「飢えた動物がエサを、渇いた動物が水を求めるような本能的な行動を意味している」と説明されてもいます。「飢え、渇く」とは、私たちが何かを絶えずまた熱心に、強く言えば死に物狂いで追い求めている状態を描いているのです。

ところで、普通人間が熱心に、時には死に物狂いで追い求めるものとは何でしょうか。政治家なら権力、お役人なら肩書き、ビジネスに携わる人なら経済的成功、芸能人なら名声、スポーツ選手なら優勝でしょうか。そして、権力も肩書きも経済的成功も名声もいらないとしても、私たちは皆、形は違っても幸福を熱心に追い求めていると言えるのではないかと思います。自分の幸福、家族の幸福、社会全体の幸福。幸福こそ、人間のすべての行動の背後にある動機、願いなのです。

しかし、注目したいのは、ここでイエス様は「幸福に飢え、渇く者は幸いです」とは語ってはいないと言うことです。「義に飢え、渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです」と教えているのです。

ここに出てくる「義」は、この世界と人間を創造した神様のみこころ、神様が私たちに望む考え方や行動を示していました。聖書は、世界の創造の最初、神様と親しい交わりを持っていた人間が、今はそれを失い、神様を無視し、神様から離れて生きていると教えています。その様に、人間が神様との正しい関係を失った状態を罪と呼んでいるのです。

そして、罪にある人間は、自分の思い描く幸福を求め、それを自分の力で実現しようと努力しますが、決して心満たされることがないと繰り返し教えていました。つまり、人間は熱心に追い求めるべきものが分からなくなっていると言う悲惨な状況にあると言うことです。ですから、ここでイエス様は幸福をではなく、義を追い求めよと語り、その人こそ満ち足りる、つまり本当の意味で幸福になるからと教えておられるのです。

ことばを代えて言うなら、私たちが熱心に、常に求めるべきは神様のみこころであって、幸福感ではない。幸福は私たちが義を、神様のみこころを追い求める生き方を実践する時、その結果としてもたらされるものと言うことになるでしょうか。先ず私たちは、熱心に追い求めるべきものの順番を間違ってはならないと、イエス様から教えられる所です。

このことを病人と医者の関係を例にして考えてみたいと思います。病人の第一の願いは、痛みからの解放です。しかし、医者が痛みを癒すための治療だけを行って、痛みの原因を取り除こうとしないなら、それは悪い医者でしょう。痛みから解放されて満足する患者に、痛みの根本的な原因を教え、それを取り除くよう勧めないとしないなら、患者の生命に極めて危険なことをしていることになるからです。

ですから、イエス様は良い医者として、個人の、家族の、社会全体の不幸や悲惨の原因は、私たちが義に飢え、渇いていないこと、即ち私たちを大切に思い、愛してくださる神様のみこころを、常に、熱心に求めてはいないことと語られたのです。

それでは、義に飢え、渇くとは、どういうことでしょうか。抑えておきたいのは、「義に飢え、渇く者は幸い」と言う勧めが、第一の心の貧しい者、第二の悲しむ者、第三の柔和な者と深く関係していることです。

心の貧しい者とは、自分が神様に造られた人間、被造物であって、物質的にも霊的にも生きるのに必要なすべてのものは神様が与えてくださっていること、自分は神様以外に頼るべきものを何一つ持っていない無力な存在であることを認める人でした。

悲しむ者とは、神様の前に自分の罪を認め、その罪が自分の努力では解決できない程深刻なものであることを悲しむ人です。柔和な者とは、その様な自分が本来なら受けとる資格がないにもかかわらず、神様が生きるのに必要な環境、食物、健康、様々な能力、家族、友人、罪の赦し、神の家族の交わり、永遠の命までも惜しみなく与え、良くしてくださることに満足している人です。

そして、「義に飢え、渇く」とは、本来なら神様のさばきにのみ価する自分が、受けとるに価しない良きものすべてを与えてくださる恵みの神様に感謝し、心からの愛をもって応答したいと言う願い、思いから生まれてくる生き方なのです。

ですから、第一に義に飢え、渇く人は、自分には本当の義がないこと、自分が正しいと考えていた行いなど、神様の眼から見れば全く価値がないと感じている人です。

 

イザヤ64:6「私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです。…」

 

私たちの義、私たちが善い行いと考えているものは不潔な着物のように価値がないと言う告白です。神様の前に出て振り返ると、私たちの善行はしばしば自己満足です。その動機も評判、世間体、お義理、相手からの報いを求めて等、自己中心です。良い行いをすると自分の力と誇り、神様の恵みがあったからとは考えようとしません。しかし、義に飢え、渇いている人は、その様な心の罪を自覚し、自分に本当の義はないと自覚しているのです。

第二に、義に飢え、渇く人は罪の力から解放されたいと切に願っている人です。使徒パウロがこう告白していました。

 

ローマ7:18、19「私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。」

 

罪は心に働く重力の様なものです。私たちが為すべき正しいことをしたいと願う時、その意思に反して、反対方向に引きずりおろそうとする罪の力。皆様も経験することがないでしょうか。寛容であろうとする意思に反して短気を起こす。親切にすべしと思いながら、力を惜しみ、物を惜しんで、冷淡な態度を取る。喜ぶべき友の活躍を妬んでしまう。時には敢えて、あるいは好んで罪を犯す邪悪な自分の姿に気がつくこともあるでしょう。この様に自分を縛る罪の力の強さを知れば知るほど、イエス・キリストの恵みに頼るのが義に飢え、渇く人なのです。

 

ローマ7:24,25「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。 私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。」

 

罪に対する自分の弱さ、無力を思えば思う程に、イエス様により頼み、力を貸して頂く。イエス様を救い主として信頼し、友として親しみ日々歩んでゆく。皆様の歩みはその様なものでしょうか。

さらに、義に飢え、渇く人の生き方は、より積極的なものです。心からきよくなりたいと願う。御霊の実を教会でも、家庭でも、地域社会でも、人生の全体において示したいと切に願う。その様な思いが成長し、実際に取り組むようになるからです。

 

ガラテヤ5:19~23「肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」

 

争い、憤り、妬みなど肉の行いは、私たちの中にある罪の性質、自己中心の性質から生まれてくるものです。誰に教わらなくとも、その様な事を望んでいなくとも、行ってしまうものです。しかし、御霊の実は、私たちが意識して取り組まないと実を結ばない心の在り方や態度ではないでしょうか。そして、御霊の実を結ぶこと、言い換えれば人格的な成長、成熟につとめることには葛藤が伴います。古い自分との戦いがあり、しばしば私たちは敗北を経験します。しかし、そうであっても、イエス様が十字架の死を通して与えてくださった自由を信じ、繰り返し神様のみこころに従ってゆく。それが義に飢え、渇く生き方なのです。

最近、クリスチャン新聞で残念な記事を目にしました。非常に奉仕に熱心であると見える牧師やクリスチャンの家庭で家庭内暴力が増えていること、キリスト教主義の福祉施設でクリスチャンでない方が、クリスチャンの働き人の言動に躓き、離職するケースが増えていると言う記事です。

これを読んでいて、もしかすると私たちが信仰に熱心と考える視点と、イエス様の視点がずれているのかもしれないと感じました。とかく、私たちは信仰の熱心さを、礼拝出席や奉仕、祈りなどの行いによって評価します。それらの行いを義そのものと考えるのです。

しかし、それは義の狭い捉え方と思えます。神様との関係では義を実践していると思っていても、人間関係や生活の現場では、自分の考えや行動を義とし、絶対化して、人をさばき、責めてしまう。つまり御霊の実ではない、信仰的に未熟な態度を示して、人を躓かせていないかどうか。信仰熱心ということを宗教的行いと言うより、御霊の実、人格的成長と言う視点で、私たちも自らを省みる必要があるように思います。

以上、自分の中には本当の義がないと認めること、罪の力からの解放を強く願いつつも、無力な自分を認め、心からイエス様に信頼すること、自らも御霊の実を結び、人格的成長、成熟に努めること。イエス様が幸いと言われる、義に飢え、渇く人の生き方を確認してきました。

最後に共に考えたいのは、義に飢え渇く人が受け取る祝福についてです。「義に飢え、渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです」とイエス様は言われましたが、満ち足りるとはどういう事なのでしょうか。

先ず、私たちは、この地上においてイエス様の義を受け取ることで、義に飢え、渇く心をを満たされています。「自分の願う善を行わないで、かえって願っていない悪を行ってしまう」と自らの罪を告白していたパウロが、こう書いています。

 

ローマ3:24「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」

 

イエス・キリストを救い主と信じた私たちも自らの内に罪の性質を持ち、日々罪を犯し続けてしまう者です。しかし、天の神様はキリストを信じる私たちを、罪あるままで義、つまり罪のない、義しい者と認めてくださると言うのです。イエス様は私たちの罪を赦してくださっただけでなく、信じる私たちにご自身の義をただで与えてくださったのです。

神様がイエス様なしに私たちを見たら、私たちは皆さばかれるべき罪人です。しかし、神様は義しいイエス様を通して見ておられるので、罪ある私たちもイエス様と等しく義しい者と見てもらえる。その様な立場に私たちは永遠に立っている、だから今も、死後神様の最終的なさばきの前に出ても安全、安心と、聖書は教えているのです。

皆様は、神様がイエス様によって自分を義と認めていることを、信じているでしょうか。もはや神様にさばかれることも、責められることもない、安全、安心な関係の中にあることを受け入れているでしょうか。

さらに、私たちは将来イエス様に似た者に造り変えられると保証されています。その日そ、義に飢え、渇く私たちの心は完全に満たされるのです。今日の聖句です。

 

Ⅰヨハネ3:2「愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。」

 

今この地上で神の子とされ、イエス様の義を与えて頂いたと言うだけでも恵みですのに、将来必ず私たちはイエス様に似た者になると、聖書は約束しているのです。今罪あるままで義と認められた私たちが、やがて心も体も、イエス様と同じきよい者、御霊の実を満たした者に造り変えられる。つまり、今私たちは神様の御手の中で、最も自分らしく、最も義しく、最も幸いな生き方ができる者へと造り変えられている最中だと言われるのです。

たとえ、何度罪に力に敗れ、失望することがあっても、私たちにはイエス・キリストの十字架と言う安全な場所がある。たとえ、心で涙することや葛藤があっても、私たちには、神様の確かな約束、保証がある。私たち皆で、神様の御手に守られながら、教会でも、家庭でも、社会でも、義に飢え、渇く者として歩み続けたいと思います。

 

 

 

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