2015年12月6日日曜日

ルカの福音書1章14節~18節「待降節(2)~わがたましいは主をあがめ~」


 ルカの福音書は女性の書と言われます。他の三つの福音書に比べ、登場する女性の数が多く、女性たちが非常に重要な役割を果たしているからです。キリスト誕生直前の出来事を記す今日の箇所にも、二人の女性が登場します。

先ずは老祭司ザカリヤの妻にして、バプテスマのヨハネを身籠ったエリサベツ。エリサベツが生んだヨハネは罪の悔い改めを説き、人々にイエス様が約束の救い主であると紹介しました。もうひとりはナザレ村の大工ヨセフのいいなづけにして、救い主を身籠るマリヤです。

 エリサベツの夫ヨセフは、妻が男の子をみごもることを御使いに告げられた時、妻が不妊の女性であることを思い、それを信じることができず、口がきけない状態に置かれました。

しかし、エリサベツはみ告げを信じ、既にこの時妊娠六か月。神の子を身籠ると御使いから告げられ、「おことばどおりこの身になりますように」と告白したマリヤは、親戚エリサベツの身に起こったことを知り、彼女が暮らす山地の町まで旅に出かけてゆくことになります。

 

 1:39、40「そのころ、マリヤは立って、山地にあるユダの町に急いだ。そしてザカリヤの家に行って、エリサベツにあいさつした。」

 

 年を重ね不妊の女性となったエリサベツ、まだ正式に結婚していない若き女性マリヤ。共に神様の奇跡によって、男の子を身籠るとこととなったふたりの女性がここに出会いを果たします。特に、行動的に見えるのがマリヤでした。彼女は「立って、山地にあるユダの町に急いだ」とあります。

 ナザレ村から山地にあるユダの町までは、歩いて4日から5日。それ程遠い距離にもかかわらず、何故マリヤは少しも躊躇うことなく、急いで旅立ったのでしょうか。

「ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です。神にとって不可能なことは一つもありません。」(1:36,37)この御使いのことばがマリヤを動かしたと考えられます。同じ神様の恵みを受けた者として語り合いたい、交わりをしたいと切に願ったからでしょう。

 そして、エリサベツの方もマリヤを待っていたかのように、心からのお祝いをもって迎えています。

 

1:41~45「エリサベツがマリヤのあいさつを聞いたとき、子が胎内でおどり、エリサベツは聖霊に満たされた。そして大声をあげて言った。「あなたは女の中の祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。私の主の母が私のところに来られるとは、何ということでしょう。ほんとうに、あなたのあいさつの声が私の耳にはいったとき、私の胎内で子どもが喜んでおどりました。主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」

 

急いで駆け付けたマリヤに対し、エリサベツは正に「打てば響く」と言う応答をしています。マリヤに体に子どもが既に宿っていること、その子が「私の主」であると信じていること、エリサベツの体に宿るヨハネもその子が約束の救い主であることを認め、喜び踊っていること。

エリサベツが語ることばは、いずれもみ告げを信じる彼女の心から生まれたものばかり。それは、どれ程マリヤの不安や恐れを鎮めたことでしょうか。ふたりの交わりは三か月に及んだと36節にありますが、エリサベツとの交わりによって、どれ程マリヤの心は励まされ、神様の約束に対する確信が深められたことでしょうか。

「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう」ということばは、神様の恵みを分かち合う二人の交わりから生まれた、喜びの告白でした。

そして、エリサベツの祝福に支えられたマリヤの答えが、マリヤの讃歌、いわゆるマグニフィカートです。マグニフィカートはラテン語で、讃歌の最初に出てくる「主をあがめる」と言う意味でした。

先ずは、自分自身に対する神様の恵みに、マリヤは感謝を表しています。

 

1:46~50「マリヤは言った。「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私を幸せ者と思うでしょう。力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。その御名は聖く、そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。」

 

マリヤは「私は主をあがめ、私は救い主なる神を喜びたたえます」と言いませんでした。「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます」と歌っています。「わがたましい、わが霊」と繰り返されることばは、マリヤが全身全霊で主をあがめ、主を喜ぶ姿を示しています。私の生活全体において、私の生涯を貫いて、私の命をかけて主なる神様をあがめ、喜びたたえたいとの思いがあふれているのです。

また、「主をあがめる」の「あがめる」ということばには、「大きくする」と言う意味があります。つまり、主をあがめるとは主なる神様を大きくし、自分を限りなく小さく、低くしてゆくことなのです。

ですから、マリヤが「この卑しいはしため」と自分を呼ぶ時、他の人と比べて自分を卑下しているのではありません。主なる神様が大いなるお方であることを思い、大いなる神様が目を留めてくださる価値など全くない、罪人の自分であることを心底認めていたのです。

はしためとは女性の奴隷のことです。マリヤは貧しくはありましたが、社会的な意味で奴隷ではありませんでした。それにもかかわらず、マリヤは何故自分を「いやしいはしため」と呼び、「これから後、どの時代の人々も私を幸せ者と思うでしょう」と告白したのでしょうか。

それは、神様から良いものを一つも受け取る価値のない自分が、神の子を宿すと言う恵みを受けたことに感謝したからです。神様の大いなる恵みをほめたたえる思いで心が満たされていたからです。

そして、自分の受けた恵みが主を恐れるすべての人に及ぶことを信じるマリヤは、次に主なる神様が行うわざについてほめたたえます。

 

1:51~55「主は、御腕をもって力強いわざをなし、心の思いの高ぶっている者を追い散らし、権力ある者を王位から引き降ろされます。低い者を高く引き上げ、飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました。主はそのあわれみをいつまでも忘れないで、そのしもべイスラエルをお助けになりました。私たちの先祖たち、アブラハムとその子孫に語られたとおりです。」

 

心の思いの高ぶっている者、権力ある者、富む者が主にさばかれ、低い者、飢えた者は主に祝福される。この様な世界の到来は、旧約聖書の時代から預言され、賛美として歌われてきました。

「主はそのあわれみをいつまでも忘れないで、そのしもべイスラエルをお助けになりました。私たちの先祖たち、アブラハムとその子孫に語られたとおりです。」この賛美は、神様が旧約聖書でイスラエルの民に約束した救い主がいよいよ到来し、この様な世界を実現してくださると言うマリヤの確信を示していたのです。

なお、「権力ある者を王位から引き下ろされる」とあるので、私たちは国王の様な権力者をイメージしがちですが、これは一つの訳し方です。もともとは「力ある者をその座から引き下ろす」ということばでした。ですから「力ある者」とは、国王や金持ちに限らず、経済力、学力、仕事力、人間関係力、健康力など、自分が持つ様々な力を拠り所として、この世で座つまり安定した立場や生活を確保している、すべての人々を指しています。

そして、聖書は、一握りの権力者や金持ちだけでなく、私たちすべてがこの様な生き方を自然なものと感じ、身につけていると教えているのです。主なる神様を拠り所とせず、自分の力を拠り所とする高ぶる者はさばかれる。しかし、自分の弱さや無力を認め、主なる神様以外には拠り所なしと認めて生きる、心低き者は祝福される。

マリヤの讃歌によって、本来あるべき人間としての生き方、最も幸いな生き方は、神様に心から信頼して生きることと教えられます。私たちが神様に信頼して生きるため、ことばを代えて言えば、私たちが神様だけを真の力と喜びの源とするために、イエス・キリストはお生まれになったのです。

それと同時に、私たちは神様の前に出て、自らの心を探る必要があるのではないでしょうか。実際の所、自分は何を拠り所として生きているのか。何がしかの財産や社会的立場、能力などを拠り所とすることはなかったか。日々の生活において、神様に信頼することなく、自分の力だけで、学び、仕事をし、善い人間関係を築こうとし、教会生活を送っては来なかったか。

家庭生活においても、教会生活においても、学びにおいても、仕事においても、経済生活においても、神様を我が力、我が知恵として信頼する歩みを目指したいと思います。

さて、今日の箇所を読み終えて、皆様と共に確認したいことが二つあります。

ひとつは、私たちの信仰の歩みにとって、兄弟姉妹との親しい交わりがいかに必要で、有益なものかということです。今日の箇所の前半には、マリヤのエリサベツ訪問が記されていました。その期間は三か月に及んだともあります。

この様な親しい交わりによって、二人の心がどれ程励まされ、その信仰がどれ程深められたことでしょうか。神様が与えてくださった恵みを分かち合う。心にある不安や恐れを語り合う。一緒にみことばを読み、神様の約束を確認する。ともに賛美し、共に食事をする。

もし、マリヤが訪問しなければ、エリサベツは聖霊に満たされることはなかったでしょう。エリサベツの支えがなかったら、マリヤが、今も歌われているマグニフィカート、主をほめたたえる讃歌を口にすることはできなかったと思われます。もし、この交わりがなければ、「主によって語られたことは必ず実現すると信じきる」と言う信仰の深みに、彼女たちが進むことはできなかったのではないでしょうか。

 「悲しみは、それを隠すことによって増し加わるが、恵みは、それを分かち合うことで二倍となる。」ライルと言う人のことばです。他の兄弟姉妹との交わりは、神様が私たちを癒し、養うために備えられた恵みの手段です。信仰の道を旅し続ける私たちにとって、信仰の仲間とお互いの経験を分かち合うことは大いなる助けです。

 私たちは神様を信じていながら、神様の与えてくださった交わりの大切さを忘れてしまうことがあります。マリヤがエリサベツを訪問したように、私たちも信仰の友を求めてゆきたいと思います。エリサベツがマリヤを喜んで迎えたように、私たちも兄弟姉妹との交わりを喜ぶ者となりたいと思います。

 二つ目は、「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます」と歌いあげたマリヤの信仰です。「わがたましいは、わが霊は」と繰り返されることばは、全身全霊で、あるいは生活のすべての面で主なる神をあがめ、喜びたいと言うマリヤの思いを表わしていることを、先程お話ししました。

 それでは、全身全霊で、生活のあらゆる面で、主なる神をあがめ、喜ぶとは、どういうことでしょうか。これは、マリヤが自分を主のはしためと考えていたこと、つまり、自分が神様からどのような良いものも受け取る価値のない罪人であると認めていたこと、もし何か良いものを受け取れるとしたら、それは本来受け取る価値のない者に対する神様の恵みであると考えていたことと深く関係しています。

 私たちの体の中で日々休むことなく、動き続ける心臓、愛する人の顔を見ることのできる目、大切な人の声を聞くことのできる耳、日々の食物、経済的な収入、家族や友の存在。これらをすべて神様からの恵み、贈り物と皆様は思っているでしょうか。それとも、あって当然、受けとって当たり前のものと考えているでしょうか。もし、自分が神様の前に罪人であり、本来怒りの対象であることが分かったら、それらのものを当然の権利のように考えることはできないはずです。

 主なる神様をあがめ、喜ぶとは、それら良きものすべてを私たちが神様をほめたたえ、喜ぶために、神様が恵みとして与えてくださったものと認めることです。すべて良きものの中で最大の良きもの、すべての恵みの中で最大の恵みはイエス・キリストですから、キリストの誕生を喜び、神様をほめたたえることです。さらに言うなら、それら神様の贈り物を、神様の栄光、素晴らしさを表わすために活用することでもあります。

 この待降節、私たちは神様の前に自分が本当に卑しい罪人であることを認め、罪を悲しみたいと思います。と同時に、良きものを受け取るに価しない私たちに、神様がどれ程多くの良きものを与えてくださっているかを考え、感謝する時、私たちが与えられたものをどのように活用しているか振り返る時としたいと思うのです。

 

今日の聖句  ルカの福音書1章46節、47節

「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。」

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