2015年11月22日日曜日

エペソ人への手紙4章16節「交わりにおいて成長する信仰」


教会とは何かを言い表す時、非常に有名なことばのひとつに「母なる教会」というものがあります。宗教改革者のカルバンと言う人が言ったことばですが、教会は私たちにとって母、お母さんの様な存在だと言う意味です。

私たちは母親によって養われ、成長します。誰も母親なしに生まれ、成長することはできません。そして、多くの場合、母親がいかに深く愛し、養ってくれたかを大人になってから、私たちは知ることになります。同じ様に、教会がなければ私たちの信仰は養われず、成長しない。私たちの信仰が健全に成長するためには、教会生活が欠かせないことを「母なる教会」と言うことばは言い表しているのです。

教会を母なる教会と呼んだカルバンが、ちょっとドキッとするようなことばを書いています。「信仰が弱くなったから教会を離れたのではない。教会を離れたから信仰が弱くなったのだ」。勿論、教会を離れている人には様々な事情があります。教会を離れているすべての人が、信仰が弱くなっているわけではないことを、私は良く分かっているつもりです。

しかし、「私たちは信仰が弱くなったから教会を離れたのではない。教会を離れたから信仰が弱くなったのだ」と言うことばは、私たちが感じている以上に、信仰にとって教会生活が重要で、不可欠なものであることを教えているように思えます。

子どもがお母さんに反抗して、「お母さんなんかいなくたって、僕は一人でやってゆけるよ」と言うことがあります。しかし、それは母親の重要性を子どもが理解していないからこそ、口にすることばにすぎません。

もし、その様な子ども同様、自分は教会生活がなくとも、信仰を守ることができる。信仰を成長させることができると考えているとしたら、私たちも聖書が教える信仰と教会生活の関係に、心を留める必要があるのではないかと思われます。

勿論、人生は教会生活がすべてではありません。個人の信仰生活もありますし、家族と共に暮らす家庭生活、仕事や学び、地域の隣人との関係を中心とした社会生活も重要です。聖書は、それらをないがしろにしてよいとは教えていません。

しかし、すべての生活において神さまを第一として生きるためには、教会生活において信仰が養われることが欠かせないと、聖書は語っています。教会生活において養われた信仰に立って、家庭生活や社会生活を送ってゆくことを勧めているのです。

ところで、教会生活と聞くと、皆様は何を思い浮かべるでしょうか。何が大切だと考えておられるでしょうか。礼拝をささげることでしょうか。聖書を学ぶことでしょうか。それとも奉仕をすることでしょうか。どれも大切なことですが、それらと共に、神様が非常に大切なものとして勧めているのが交わることでした。今日、皆様と共に考えたいのは交わりについてです。

 

エペソ4:16「キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。」

 

先ずこのことばが教えているのは、教会はキリストをかしらとする体であり、私たちはキリストの体の一部であることです。

皆様は、自分がキリストの体の一部であることを自覚しているでしょうか。私たちは洗礼を受けて教会員の一人になりますが、キリストの体の一部とは、教会員の一人になることにとどまりません。兄弟姉妹と実際に支え、支えられる関係に入ると言うことです。

心臓は非常に重要な器官です。心臓から送られる血液によって、私たちは物を考えたり、活動することができます。しかし、いくら重要だからと言って、心臓が体からポーンと飛び出して、「自分は一人で動くんだ」と言っても、何の役にも立ちません。私たちの体は、すべての部分が素晴らしい機能を持っていますが、体から切り離されたら、何もできない。つまり、お互いに支え、支えられているのです。

同じく、神様は私たちを一人では生きられないし、成長できない者として創造されました。自分の限界を認め、お互いに支え合う関係の中で生きるよう造られたのです。

イエス様の生涯を見る時、それがよく分かります。イエス様は人々ともに会堂で聖書を開き、礼拝をしました。人々と一緒に食事を楽しみました。弟子たちと共に病人のいる家を訪問し、親戚の結婚を祝い、旅をしました。愛する弟子ラザロが死んだ時には、人々と悲しみを共にしました。喉の渇きを覚えると、サマリヤの女に水を求め、活動に疲れた時は親しい友マルタとマリヤの家で休み、リラックスしました。十字架の死を前に恐れ悩んだ時は、信頼する弟子たちに祈りの援助を求めてもいます。

 天の父と交わるのと同じぐらい、人々と交わることを、イエス様は大切にされたのです。ある時は人々を癒し、助ける。ある時はイエス様が人々に癒され、助けてもらう。その様な人々との関係の中で生きること。それが最も人間らしい生き方であることを、イエス様の生涯は教えてくれます。

 また、助けは意外な方向からやってくることもあります。私は床屋に行き、髪を切ってもらう時、時々「どうして目の上に眉毛があるんだろう。邪魔だな」と思うことがあります。ある時、いつもの床屋に行くと、初めての店員さんが出てきて髪を切ってくれました。

しかし、どうも新人らしく、切られるたびに、髪の毛に鋏が絡むような感じで引っ張られて、少々痛い。なんとか我慢して最後に、「眉毛整えてもらってもいいですか」と頼むと、四苦八苦している様子です。「すみません」と謝るので、眼を開けて見てみると右の眼の上の眉が半分なくなっていました。

 眉が半分ない顔と言うのは、非常に変なものです。思わず鏡に映る自分の顔を笑ってしまいました。眉は、暑い夏に汗がゴミと一緒に流れても、眼に入らないように防いでくれると言う働きもあり、普段邪魔に感じていた眉が必要な存在であることを確認できたと言う経験です。

私たちには自己中心という問題が深い所にあります。余りにも自分の一部になっているので、非常に気がつきにくい罪です。その様な時、それに気づかせてくれるのが、どうもあの人は苦手だと思う様な人の存在です。自分の思う通りにはゆかない、その様な人々の言動が、私たちの中に隠れている自己中心の性質を刺激してくれるからです。

そうなると、私たちは自分が深い所で神中心ではなかったことに気がつき、神様の前に悔い改める機会を持つことができます。相手の存在が、自分ひとりでは気がつかない罪の部分、弱い部分に気づかせてくれるのです。

新聞の投書に、「子どもを産み、育てるようになってから、怒りをコントロールできない自分に気がついた」と書いているお母さんのことばが載っていました。我が子が誕生し、深く関わる様になって、初めて気がついた自分の弱さということでしょうか。

神様は、キリストの体の一部として互いに交わる時、本当の自分の姿に気づかせると言う恵みを私たちに与えてくださることも覚えておきたいと思います。

次に、教会はキリストの体と言う譬えから教えられるのは、からだの部分に優劣はなく、すべての部分が必要とされていることです。

新約聖書に登場するコリント教会は、賜物を持った人が集まった教会として有名でした。しかし、豊かな賜物を持つコリント教会が最も対立、分裂の多い教会でもあったのです。

何故でしょうか。彼らが賜物、能力の違いを役割の違いと見ず、人間として優れているか,劣っているかの判断の基準にしていたためです。神様がひとりひとりに与えた賜物、能力、性格などの違いを人間としての優劣をあらわすものと考える。これも、私たちが生れながらにして持っている罪の性質から来る考え方なのです。

イエス様の弟子たちも、「自分たちの中で誰が一番偉いのか」を何度も議論し、イエス様に戒められていますから、いかに私たちは人と自分を比べては、優越感を抱いたり、劣等感に悩んだりしやすい存在であるかと思わされます。

自分も兄弟姉妹も、神様と交わることのできる尊い人間として創造されたこと。イエス・キリストが命がけで罪を贖ってくださった大切な存在であること。このいつも心にとめて、交わりをなしてゆけたらと思います。

ある時、私は河原でキャンプをしていて、水にぬれた小石に足を滑らせ転倒。小指を骨折したことがあります。それまでは「たかが小指」と思っていましたが、これが使えないとなると、物が掴みにくいなど意外に不便でした。それに何より、小さきと言えども、小指骨折の痛みは強烈でした。

しかし、その時思ったのです。頭の中にある脳は、こんな小さな器官の痛みも、ちゃんと受けとめてくれていると。そして、かしらであるイエス様は、私たちがキリストの体のどんなに小さな部分であっても、私たちの痛み苦しみをすべて理解し、受けとめてくださっているお方であることを分かった気持ちがしたのです。

私たちは、口にこそ出さねど、自分などいてもいなくてもあまり変わらないと寂しく感じる時があります。しかし、かしらであるキリストから見るなら、体はすべての部分を必要としています。イエス様は、一つの欠けもあってはならないと真剣に思っておられるのです。私たちは、人数としては一人ぐらいいなくなっても構わないと感じることがあるかもしれませんが、かしらであるキリストから見れば、ひとりひとりの存在が本当に大切で、大きいものなのです。

以上、キリストの体の一部として、私たちはお互いに支え、支えられる関係の中に生かされていること、また、かしらであるキリストの眼から、自分と兄弟姉妹の存在を見ることを考えてきました。この様な心構えで、私たち交わりをなしてゆけたらと思います。

最後に、聖書が目指す教会の交わりとは何でしょうか、三つのことを確認したいと思います。聖書には「一つ一つの部分が、…備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられる」とありますが、この結び目と言うのは医学用語で、靭帯のことです。私たちの体は、靭帯によって骨と骨がしっかりと、しかも柔軟につながれ、組み合わされています。その骨と骨とを結び合わせているもの、靭帯が交わりに当たります。

キリストの体にある結び目とは、兄弟姉妹との交わりを通して、私たちの信仰を成長させてゆくと言うのが神様の計画であることを意味しています。その交わりとは具体的にどのようなものでしょうか。

第一に、神様の恵み、イエス様の恵みを共有することです。礼拝の恵みを分かち合う。みことばを学び、教えられたことや生活に適用したいことを分かち合う。人生の様々な出来事を神様の恵みとして、分かち合う。

祈祷会では、この恵みの共有を行っていますが、とても良い時間だと思います。その様な事を話すのに不安を覚える方もいるかもしれません。自分の信仰がだめなものと思われはしないかと心配する方もおられるでしょう。ですから、人の話を批判せず、自分の意見を差し挟んだりせず、先ずは聞くと言う雰囲気が必要かと思われます。

地域会や世代別の会、あるいは小さなグループや個人的に、私たち一人一人が少し勇気を出して心を開き、この様な交わりを始めるなら、そこが私たちの信仰の成長の源となるのです。

第二に、お互いに受け入れ合う関係を目指すことです。そして、お互いに受け入れ合うと言う場合、かしらであるキリストの愛がその土台になければなりません。そして、キリストの愛の最大の特徴は赦しです。

ですから、赦しの無い愛は長続きしません。愛をどんなに強調しても、赦しがないと、お互いに相手の欠点を言い合う関係になってしまい、愛は簡単に失われてしまうのです。

教会は「罪赦された罪人の集まり」とも言われます。私たちクリスチャンは神様による罪の赦し、イエス・キリストの十字架による罪の贖いを信じ、受けとっています。しかし、未だ罪人ですから、赦しを実践することは非常に難しいことです。

ある時、弟子のペテロがイエス様に、「人を赦すべきは何度まででしょうか。七度ぐらいで良いのでしょうか」と尋ねたところ、「七度を七十倍するまで」と、イエス様が答える。その様な場面が聖書に登場します。この他にも、実に多くの箇所で、赦しをテーマとしたお話や勧めが出てきます。

人間関係で失敗した時、「赦して下さい」と言えずに、つい言い訳してしまう。表面的な赦しで終わってしまい、同じ問題を繰り返す。聖書は、私たちが生涯この赦しの問題と向き合ってゆくべきことを教えているように思われます。人を赦せない自分との戦い、あるいは他人の謝罪を受け入れられない自分との戦いです。そして、この様な戦いを続けながら、交わりを実践してゆくために必要なのは、私たちがどんな時でも、神様の愛、イエス・キリストの愛に憩い、安らう時間を持つことです。人を赦せない自分が赦され、愛されていることを何度も味わい、確認することなのです。

第三に、聖書が教える交わりの姿は、共感する関係です。今日の聖句です。

 

ローマ12:15「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。」

 

世間では「隣に蔵が建てば、私は腹が立つ」と言われます。「人の不幸は蜜の味」等とも言われます。神様から離れて生きる人間の心は、他人の喜びを妬み、不幸を喜びます。

しかし、私たちが目指すべきは、喜ぶ者と一緒に喜び、泣く者と一緒に泣く関係です。皆様は兄弟姉妹の喜びや悲しみに関心があるでしょうか。他の人の喜びや悲しみについて、自分と同じように心を向けることにより、私たちの交わりはより親密になってゆきます。

ある兄弟が言われました。病気になって入院して、初めて自分は信仰を持ち、教会に行っていた良かったと思ったと。その方の思いを越えて、多くの兄弟姉妹が自分の苦しみに心を向けてくれていることが分かったのだそうです。

神様の恵みを分かち合う交わり、お互いを受け入れ合う交わり、兄弟姉妹の喜びや悲しみを共にする交わり。私たち皆がこの様な交わりに取り組み、四日市キリスト教会のかしらがイエス・キリストであることを証ししてゆきたいと思います。

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