2015年11月15日日曜日

エゼキエル書3章17節~21節「一書説教エゼキエル書~先にわれた者として~」


 六十六巻からなる聖書の中から、一つの書を扱う一書説教。断続して行っていますが、今日は二十六回目となります。扱う書は旧約聖書第二十六の巻、エゼキエル書。

 旧約聖書は全三十九書ですので、これで三分の二。頁数で考えますと、(残りが短い書ばかりなので)なんと九割以上読み終えていることになります。ここまで一書説教の歩みが守られていることを感謝いたします。

 バビロン捕囚の憂き目に遭いながら、預言者活動を為したエゼキエル。その言葉を皆さまとともに味わいます。毎回のことですが、一書説教の際には、扱われた書を読むことをお勧めいたします。一書説教が進むにつれて、教会の皆で聖書を読み進めるという恵みにあずかりたいと思います。

 言葉は、誰が発したものなのかによって、意味合いや重みが変わります。同じ言葉でも、それを語るのに相応しい人、相応しくない人がいます。預言書を読む際、出来るだけその預言者のことを知りつつ、読みたいところ。

 今日読むのは、エゼキエルの言葉。エゼキエル。「神が強めて下さる」という意味ですので、日本名なら「剛」さんでしょうか。エゼキエルは、どの時代、どのような人生を送った人物なのか。

 エゼキエル書1章1節~2節

第三十年の第四の月の五日、私がケバル川のほとりで、捕囚の民とともにいたとき、天が開け、私は神々しい幻を見た。それはエホヤキン王が捕囚となって連れて行かれてから五年目であった。

 

 エホヤキン王が捕囚として連れて行かれた五年目。この時、エゼキエルが三十歳の時でした。(冒頭の第三十年というのを、エゼキエルの年齢とはしない考え方もありますが、一般的には年齢とします。ここでは年齢として説教を続けます。)

 そうしますと、エゼキエルの幼少期はヨシヤ王の時代となります。善王として名高いヨシヤの宗教改革によって、人々が熱心に聖書の神様を信仰しようとしていた時。都エルサレムでは、過去数世紀の中で、最大の過越しの祭を行うなど、明るい時代でした。殊に祭司の家で育ったエゼキエルにとって、この時代は良いものであったと想像します。

 ところが、エゼキエルが十代前半で、ヨシヤ王は戦死します。善王ヨシヤの死が時の潮流の分かれ目。これ以降、南ユダは、エジプト、バビロンに翻弄され続け、繰り返し貢物を納め、繰り返し敗北をし、繰り返し奴隷として連れて行かれることを経験します。

 エゼキエルが十代後半の時。特に優秀と認められた者たちが、バビロンに連れて行かれました。聖書の中で有名な人で言えば、預言者ダニエル(おそらくエゼキエルと同世代、あるいは年下)が、この最初の捕囚の一人です。

 続けてエゼキエルが二十五歳の時、エホヤキン王とともに一万人程の人がバビロンに連れて行かれます。この中にエゼキエルが含まれていました。自分自身も捕囚の憂き目に遭う。大変な状況。しかし、南ユダには神殿が残り、多くの預言者(今の私たちからすれば偽預言者と分かるのですが)が、バビロンの支配は長く続かない。早期帰還を預言していたため、人々は悔い改めることなく、神様に立ち返ることがない状況。

 そのため、エゼキエルが三十五歳の時、ついにバビロンによる決定的な敗北。神殿が破壊され、連れて行く価値のないとみなされた者以外は、バビロンへ連れて行かれる。決定的なバビロン捕囚が起こります。

 エゼキエルが預言者として活動を開始したのは三十歳。つまり、奴隷として連れて行かれた場所で、預言者としての活動を開始。その後、神殿崩壊という決定的なバビロン捕囚が起こるも、その働きは継続します。(同時代、南ユダにはエレミヤがいました。エゼキエルはバビロンにて預言者として活動した人物。)

 エゼキエルの言葉は、激動の時代、奴隷として連れて行かれた者たちの中で語られたものでした。

 

 エゼキエル書には、様々な特徴を見出すことが出来ますが、読む前に二つの特徴を覚えておきたいと思います。それぞれ、読みやすさと、読みにくさの特徴です。

読みやすいというのは、基本的には、時系列通りに記されているという点。(ただし諸外国への宣告は、時系列から外れている部分があります。)それも、ところどころに年代が記されています。

 多くの預言書が時系列ではなく、その時代のことを把握していないと読みづらいものであるのに対して、エゼキエル書は年代順に並んでいるため、構成と、テーマが掴みやすい。エゼキエル書の読みやすさです。

 読みにくいと感じるのは、幻による表現が多いこと。幻というのは、見た本人には意味が分かるものでも、その幻を記したものを他の人が読むと、何を意味しているのか分かりづらい、推測でしか分からない、あるいは全く分からないことがあります。(聖書の中では黙示文学と言われるジャンルに幻が多く出てきます。エゼキエル書以外では、ダニエル書、ゼカリヤ書、ヨハネの黙示録などがそれにあたります。)この幻による預言が多いということが、エゼキエル書の読みにくいところ。何を意味しているのか分からない箇所を、決めつけて読むことは避けつつ、分かることがあれば、それを喜びたいと思います。

 

 それでは実際の内容ですが、大きく四つに分けることが出来ます。少しずつ確認していきたいと思います。

 一つ目は「序」にあたるエゼキエルが預言者として召されていく時の記録(一章から三章)。当時の状況から、この時、預言者として立つことがいかに困難であったかと思います。バビロンに奴隷として連れていかれるも、まだ神殿は残り、エルサレムに残っている人たちもいる。(偽)預言者たちは、バビロンの支配はすぐに終わると言う。この状況で、悔い改めを説き、神の裁きを宣言し、神殿崩壊を予告することは、困難というだけでなく危険なことでした。事実、南ユダでバビロンへの降伏を説いていたエレミヤは、民衆から嫌われ、何度も命の危険を経験しています。

 そのためでしょうか。繰り返しその働きの困難さと、神様の守りが語られています。

 エゼキエル3章7節~9節

しかし、イスラエルの家はあなたの言うことを聞こうとはしない。彼らはわたしの言うことを聞こうとはしないからだ。イスラエルの全家は鉄面皮で、心がかたくなだからだ。見よ。わたしはあなたの顔を、彼らの顔と同じように堅くし、あなたの額を、彼らの額と同じように堅くする。わたしはあなたの額を、火打石よりも堅い金剛石のようにする。彼らは反逆の家だから、彼らを恐れるな。彼らの顔にひるむな。

 

 二つ目は、神様の裁き、エルサレム崩壊の預言(四章から二十四章)の記録です。神殿は神様が守って下さる。特別な恵みによって、バビロンから救い出されると考えた方が、信仰的なのではないかと思える中で、今は従順に、バビロンを通してなされる神様の懲らしめに服するように訴え続ける姿が続きます。

 その預言の方法は、言葉だけではありませんでした。粘土板と鉄の平なべなど、教材を用いた預言(四章)。バビロンによるエルサレムの欠乏を示すため、ありあわせの食料をかき集めてそれを食べるように。薪も欠乏することを示すために、パン菓子は「人の糞」で焼くようにとの命令。つまり、エゼキエルの生き方を通しての預言(四章)。そり落とした髪の毛を、一部は焼き、一部は剣で打ち、一部はまき散らすという、象徴的な行為による預言(五章)。そしておそらくは、エゼキエルにとって最も辛かったと思うのが、妻の死をもとに預言する場面(二十四章)。エルサレムが崩壊するその時、エゼキエルの妻が突然死にます。夫エゼキエルは、妻の死を嘆くこと、泣くこともしません。真に嘆き、泣くべきは、エルサレムの滅亡という意味でしょうか。それが、神様からの命令だったとあり、預言者として労することの苦難が浮き彫りになる場面。

神様の裁き、エルサレム崩壊という内容。語る内容は同じですが、それを様々な方法で預言するエゼキエルの姿を見ることになります。

 

 それでは、何故これほど執拗に、神様の裁きが語られたのでしょうか。それは不幸を宣言するためではなく、悔い改めの必要を伝えるためでした。

 エゼキエル18章21節、23節

しかし、悪者でも、自分の犯したすべての罪から立ち返り、わたしのすべてのおきてを守り、公義と正義を行なうなら、彼は必ず生きて、死ぬことはない。

わたしは悪者の死を喜ぶだろうか。――神である主の御告げ。――彼がその態度を悔い改めて、生きることを喜ばないだろうか。

 

 エゼキエル書の前半。神殿崩壊が起こるまでの間にされた預言の中心は、神様の裁きがあるということ。しかし、それは悔い改めの勧めでした。エゼキエル書を読む際、繰り返される裁きの預言を前に、私たち自身、悔い改めるべき罪はないか、確認したいと思います。

 

 三つ目は、近隣諸外国に対する裁きの宣告(二十五章から三十二章)の記録です。アモン、モアブ、エドム、ペリシテ、ツロ、エジプトと、それぞれの国に対して次々と神様の裁きが語られます。

 イザヤもエレミヤも、他国に対する預言をし、エゼキエルもしていた。私たちの神様は、南ユダの神というだけでなく、全世界の支配者です。近隣諸国に対する裁きの理由。その一つは、エルサレムが崩壊していく時、それを喜んだことです。

 エゼキエル書25章2節~3節

人の子よ。顔をアモン人に向け、彼らに預言せよ。あなたはアモン人に言え。神である主のことばを聞け。神である主はこう仰せられる。わたしの聖所が汚されたとき、イスラエルの地が荒れ果てたとき、ユダの家が捕囚となって行ったとき、あなたは、あはは、と言ってあざけった。

 

 神の民である南ユダの者たちが、悔い改めない。そのために、南ユダは裁かれます。しかし、その神様の裁きを、物笑いとし、喜ぶことは、悪とみられました。私たちも、神様の懲らしめに合っている仲間を見た時に、それ見たことかとするのではなく、主の懲らしめを耐えられるように助けることが大事であることが教えられます。神の民に対する冷酷な態度はゆるさない。ここに、神の民に対する神様の愛を見ることも出来ます。

 とはいえ、エルサレムの崩壊を喜んだことだけが、近隣諸国の裁きの原因ではなく、自分を神とする高慢さも、裁きの原因として語られていました。

 エゼキエル書28章2節

人の子よ。ツロの君主に言え。神である主はこう仰せられる。あなたは心高ぶり、『私は神だ。海の真中で神の座に着いている。』と言った。あなたは自分の心を神のようにみなしたが、あなたは人であって、神ではない。

 

 自分を神とする。神を神としない。その高慢が実に大きな罪であることが確認されます。こうして、神殿崩壊前と、近隣諸国に対する預言は、神様の裁きが中心。分量にして半分、エゼキエル書の前半は裁きについての書。

 

 四つ目は、エルサレム崩壊、神殿崩壊後の預言(三十三章~四十八章)。これまでと、語られる内容が変わり、回復の約束、回復の預言が繰り返し出てきます。この回復の預言も、色々な表現が用いられています。

 イスラエルの牧者(預言者、王、指導者)が、国を守らなかったことへの非難と、だからこそ神様ご自身が牧者となるという宣言。(さらには、真の牧者であるキリストの到来も預言されていました。三十四章二十三節)

 エゼキエル書34章11節

まことに、神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは自分でわたしの羊を捜し出し、これの世話をする。

 

 神様が羊飼い、神の民がその羊という見立ては、旧約、新約問わず、よく見られるものです。当時の人々にとって、身近で分かりやすいたとえ。また、おそらくエゼキエル書で最も有名な、干からびた骨が、生きた人へ生き返る幻。これも、回復の預言の中で語られたことでした。

 エゼキエル書37章2節、4節~5節

主は私にその上をあちらこちらと行き巡らせた。なんと、その谷間には非常に多くの骨があり、ひどく干からびていた。

主は私に仰せられた。『これらの骨に預言して言え。干からびた骨よ。主のことばを聞け。神である主はこれらの骨にこう仰せられる。見よ。わたしがおまえたちの中に息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る。』

 

 干からびた骨が生き返るなどありえないことが、神の言葉によって起る。それと同じように、復興などありえないと思われるエルサレムも必ず復興するという約束。

 更に、エゼキエルが見た、復興した新しい神殿、新しい地の幻の記録(四十章から四十八章)でエゼキエル書は閉じられることになります。その最後の言葉が印象的。

 エゼキエル書48章35節

その日からこの町の名は、『主はここにおられる。』と呼ばれる。

 

 神の民が住むところのあるべき姿は、「主はここにおられる」と呼ばれるもの。その麗しい幻で閉じられることになります。

 

 以上、読みやすさと読みにくさ、両方の特徴を持つ大預言書、エゼキエル書でした。前半の罪の糾弾、悔い改めの勧めを読む際には、私たち自身も、自分の心の内を顧み、罪を悔い改めること。後半の回復の預言を読む際には、キリストにあって頂いた恵みの大きさをよくよく考え、さらには、これから頂く恵みに期待したいと思います。かつて、私とは違う人たちに語られた言葉として読むのではなく、今の私にも語られている者として、読み進めたいと思います。

 多くの事が教えられるエゼキエル書。実際に読み、それぞれで味わったことを分かち合いたいと思いますが、最後に一つのことを確認して終わりにしたいと思います。エゼキエルが預言者として召された場面。(また、回復の預言を語るように言われた時も、エゼキエルは同じことが求められています。三十三章。)

 エゼキエル書3章17節~18節

人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの家の見張り人とした。あなたは、わたしの口からことばを聞くとき、わたしに代わって彼らに警告を与えよ。わたしが悪者に、『あなたは必ず死ぬ。』と言うとき、もしあなたが彼に警告を与えず、悪者に悪の道から離れて生きのびるように語って、警告しないなら、その悪者は自分の不義のために死ぬ。そして、わたしは彼の血の責任をあなたに問う。

 

 ここに先に救われた者に対して、神様が求めていることが出てきます。相手が聞き、受け入れるかどうかは問わない。しかし、伝えるべきことを伝えないとしたら、それは私たちの責任となる。伝えるべきことを伝えないのは、危険なことでした。

キリストを信じることによって聖霊を受け(使徒2章38節~39節)、聖霊の力によってキリストの証人(使徒1章8節)とされた私たち。エゼキエル同様、まだそれを聞いていない人々に、届けるべきメッセージを頂いた私たち。今、私たちが手にしている福音を、誰に伝えるべきなのか。よくよく考えたいと思います。

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