2015年10月25日日曜日

マタイの福音書5章5節「山上の説教(3)~柔和な者は~」


今日は、イエス・キリストが故郷ガリラヤの山から語られた山上の説教の第三回目。私たちは説教の冒頭、「幸いなるかな」で始まる八つのことば、幸福の使信とか八福の教えと呼ばれるものの、第三番目「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです」について考えてゆきます。

前回も言いましたが、八つのことばは、元々どれも「幸いですね。幸いなるかな」と言う宣言で始まっています。この三番目に関して言えば、昔の文語訳に「幸いなるかな、柔和なる者、その人は地を継がん」とある通りです。

つまり、柔和な生き方を追い求め、実践している人は、イエス様の眼から見て非常に幸いな状態にあると言うのです。しかし、イエス様の眼から見て幸いな状態は、私たちの感じ方やこの世の常識とは随分違っていることを、先回もお話ししました。

この柔和と言うことばにも、「人々から踏みつけられても、忍耐する」と言う意味があると言われます。皆様は、人々から踏みつけられながら忍耐している人を見て、どう思うでしょうか。自分がその様な状況にあるとしたら、幸せを感じるでしょうか。そんなことはとても不可能と思えます。むしろ、この世の常識からすれば、イエス様の言う柔和さ、「人々から踏みつけられても、忍耐する」様な状態は不幸であり、一刻も早くそこから逃れたいと感じる人が殆どでしょう。

しかし、イエス様は、この地上において柔和な生き方を追い求め、実践する人こそ、真に幸いであると声高らかに宣言されたのです。それでは、イエス様幸いと言うが柔和さとはどのようなものか。聖書に登場する人々の実例を通して見てゆきたいと思います。

先ず取り上げたいのは、イスラエル民族の父、アブラハムです。アブラハムは甥のロトと共に約束の地カナンにやって来ました。そこで羊を飼い、大いに栄えました。しかし、各々の羊が多くなったため互いの雇人同士が競い、争う姿を見たアブラハムは、二つの群れが分かれて生活するのが良いと判断。甥のロトにある提案をします。

 

創世記13:8、9「そこで、アブラムはロトに言った。「どうか私とあなたとの間、また私の牧者たちとあなたの牧者たちとの間に、争いがないようにしてくれ。私たちは、親類同士なのだから。全地はあなたの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。」

 

 驚くべきことに、年齢、能力、経験ともに上の立場にあるアブラハムが、住むべき土地を選ぶ権利を、若いロトに譲っています。権利を譲られたロトは、目の前に広がる豊かな土地を選び、移住して行ったことが、この後聖書に記されています。アブラハムはロトとの争いを避けるため、自分の権利を後回しにしたのです。柔和さとは、相手との平和のため喜んで自分の権利を捨てることと教えられます。しかし、柔和とは権利を譲ることだけではありません。アブラハムは、甥が周りの王に攻撃され、捕えられた時には、自ら救出に向かいました。力を尽くして愛を実行したのです。

 私たちは、無事な時は「私が先に」と自分の権利を優先し、難しい問題が起こると「あなたがお先に」と身を退いて自分を守ろうとしがちです。年齢、能力、社会的立場など、たとえこの世の常識では自分の方に権利ありと考えられる場合であっても、平和のため、自分の権利を喜んで捨てる柔和さをアブラハムから学びたいと思います。

 次に見てみたいのは、ダビデの柔和さです。昔イスラエルをサウル王が治めていた時代、一介の羊飼いに過ぎなかったダビデは、ある時抜群の戦闘能力を認められ、王の側に仕え、王に愛されました。しかし、人々の人気が若いダビデに向かう様子を見たサウル王は、ダビデを妬み、憎むようになったのです。やがて、ダビデはお尋ね者として、王に命を狙われ、苦しめられるようになります。

 その様な逃亡生活の中、ある時偶然にもサウル王が、ダビデたちが身を隠していた洞窟に入ってきました。不当に自分を苦しめる王を倒すチャンス到来と考えたのでしょう。ダビデは思わず王の衣の裾に手をかけ、剣で切り取ります。しかし、その瞬間自分を動かす復讐心に気がつき、それを恥じたダビデはこう告白し、興奮する部下を制しました。

 

 Ⅰサムエル24:5~7「こうして後、ダビデは、サウルの上着のすそを切り取ったことについて心を痛めた。彼は部下に言った。「私が、主に逆らって、主に油そそがれた方、私の主君に対して、そのようなことをして、手を下すなど、主の前に絶対にできないことだ。彼は主に油そそがれた方だから。」ダビデはこう言って部下を説き伏せ、彼らがサウルに襲いかかるのを許さなかった。サウルは、ほら穴から出て道を歩いて行った。」

 

 もし、皆様がダビデの様な状況に置かれたら、果たしてどう行動するでしょうか。ある人から、何の根拠もないのに、酷いことを言われ、不法なことをされたら、その様なことを言われ続け、され続けたとしたら、どうでしょう。言われたら言い返す。やられたらやり返す。その権利が自分にはあると考えないでしょうか。

 しかし、ダビデはその様な状況で、自分が復讐心に駆られて行動してしまったことを悔い改め、怒りに燃える部下を制し、サウル王を逃がしたのです。柔和とは、人に対する悪意や復讐心に駆られて行動しないこと、人に対してその様な思いを抱いたのを神様の前に恥じること。そうダビデから教えられたいのです。

三番目は、最も柔和な人イエス様の姿です。イエス様が私たちを招いておられる有名なことばがあります。

 

マタイ11:29「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」

 

ここに出てくる「心優しい」は、「柔和」と同じことばです。柔和な人は、イエス様がそうであったように、他の人に対して優しく、穏やかに接します。しかし、優しく、穏やかと言うことだけであれば、経済的、精神的に余裕があることの現われに過ぎないかもしれません。その様な余裕がなくなれば、多くの場合私たちは優しく、穏やかに人に接することが難しくなります。柔和な態度を取れなくなってしまうのです。

しかし、イエス様の優しさ、柔和さは、その様なものではありませんでした。当時の宗教指導者から迫害され、あざけられ、批判された時も、悪意や復讐心を抱かず、愛をもって応答する力、強さを、持っておられたのです。弟子ペテロは、その優しさ、柔和さについて、この様に書いています。

 

Ⅰペテロ2:22~24「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」

 

人からののしられた時に、ののしりかえすこと。人から苦しみを受けたら、やり返したいと思うこと。私たちは、それを自然で当然の反応と感じます。しかし、イエス様はそうではありませんでした。イエス様も人からののしられること、苦しみを受けることにより、深い痛みを味わっておられたのですが、それでもののしり返したり、脅すことをしませんでした。

ですから、このみことばは、ののしられたらののしり返すこと、やられたらやり返すことが当然で自然な反応と考えるのは、私たちの内にある罪の性質から来ることを教えています。むしろ、イエス様のように、すべてを正しくさばくことのできる神様に信頼して、ご自分をののしり、攻撃する人々の罪のため十字架を負う、つまり愛を実行することが、人間本来の幸いな生き方であることを教えているのです。

この様なことは、非現実的な理想論と聞こえるかもしれません。私も、もしイエス様の十字架の死の意味を知らなかったら、そう考えたでしょう。しかし、聖書は、私たちが罪を離れ、義に生きるため、私たちの罪の性質を癒すため、イエス様は進んで十字架に死なれたと語っています。癒しとは回復のことです。イエス様の死によって私たちは罪赦されました。しかし、それにとどまらず、イエス様は、私たちが今までは自然で当然と思っていた罪を離れ、愛をもって相手に応答する自由と力を回復してくださったのです。

人から酷いことを言われたり、されたりする時、私たちは悔しさや怒りを相手にぶつけ、一矢報いなければ気が済まないと感じます。その様にして自分を守ろうとします。しかし、その様な行動を繰り返すことで、かえって私たちは悔しさや怒りの感情に縛られ、支配されてゆくのです。

その悪循環から解放されるためには、自分の中にある苦しみや葛藤を認め、告白すると同時に、イエス様が尊い命を犠牲にして、私たちの内に人を愛する自由を回復してくださっていることを信じ、受け入れなければなりません。イエス様が、私たちを愛するがゆえに与えてくださった自由と力を、日々の生活の中で確認してゆくことが大切なのです。

以上、平和のために、喜んで自分の権利を後回しにすること。悪意や復讐の思いにとらわれてことばを語ったり、行動しないこと。イエス・キリストを信じる私たちは、愛をもって応答する自由を神様から与えられていること。聖書が教える柔和さについて、三つのことを確認できたかと思います。

アメリカのある町に孤児院を経営する女性がいました。経営は厳しく、日々の食べ物にも苦労するような状況でした。それでも彼女はクリスマスに子どもたちに贈り物をしたいと思い、町に出てゆき寄付を募ります。ある酒場に入り、テーブルを回って寄付を募っていたところ、突然酔っぱらった男がグラスを投げつけたため、それが彼女の顔に傷をつけ、グラスも割れてしまいました。

場が静まり返る中、女性は割れたグラスを拾い集め、静かに立ち上がると「これは私への贈り物として頂きますが、私の愛する子どもたちのためにも、何か頂けるでしょうか」と語ったそうです。それを聞いた人々は、グラスを投げた男も含め、皆が寄付をしたと言う実話があります。「幸いなるかな、柔和な人」。私たち皆で柔和な生き方、自由で力ある生き方を目指してゆきたいと思います。

最後に、皆様とともに考えたいのは、柔和な人が受け取る祝福についてです。「柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです」。地を相続するとは、どういう事でしょうか。

イエス・キリストを信じる者が、死後復活し、永遠に生きる世界を、天の御国、来るべき神の国、天の故郷、神の都、新天新地など、聖書は様々に表現しています。幸福の使信の最初と最後で、イエス様は、「天の御国はその人のものだからです」と教えていますが、地を相続することと天の御国に入ることは同じ祝福を、別の言葉で表すものでした。

ですから、このことばは、天の御国がこの地上と別にあるのではなく、私たちの住む地上の世界が、やがて神様によってさばかれ、新しくされることを教えています。その新しくされた地上の世界を、柔和な者に造り変えられた私たちが最終的な住まいとして相続すること、受け取ることを、イエス様は約束しているのです。

神様がもたらしてくれる新しい地では、誰も自分の権利を一番にせず、喜んで他の人を優先しますから、争いがありません。皆が自分のものを他の人と分かち合いますから、誰もが豊かに与えられ、心満たされて生きることができるでしょう。私たちはこの様な世界の到来を待ち望みたいと思います。

しかし、柔和な人には、今この地上においても、心満たされて生きると言う祝福があることを、聖書は教えていました。今日の聖句です。

 

ヘブル13:5「金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」

 

何故、金銭を愛する生活をしてはいけないと命じられているのでしょうか。勿論、聖書は金銭がこの世の生活において必要なものであることを認めています。しかし、金銭を神様から与えられたものと認めず、それを愛し、貪り、頼りとするなら、私たちは与えられた金銭で心満たされることがないと、聖書は教えています。

ここでは金銭が取り上げられていますが、同じことが、物質、能力、評判、成功などについても言えると思います。それらを愛し、頼りにする時、私たちの心はそれらに縛られ、自由を失い、感謝も満足も覚えることはできなくなるのです。

しかし、柔和な人は違います。柔和な人は心の貧しい人ですから、自分が神様の被造物であり、頼りにすべきものを何一つ持っていないこと、無力を知っています。神様が命を、健康を、様々な食べ物を与えてくださらなければ、生きられないことを知っています。

また、柔和な人は罪を悲しむ人ですから、自分が神様を無視し、愛することも、信頼することもしてこなかったことを知り、悲しんでいます。神様から受けるに価するのはさばきだけであると考えています。ですから、健康も、様々な能力も、生活に必要な収入や物質、愛する家族も、罪の赦しも、永遠の命も、信仰の兄弟姉妹も、すべては自分の様な罪人が本来受け取るに価しないもの、神様からの恵み、贈り物であると考えます。

つまり、柔和な人は、これらを自分が当然受け取れるもの、自分の権利とは思いません。むしろ、この様な罪人のため神様も、神様が周りに置いてくださった人々も、本当に良くしてくださっていることを感謝し、心満ち足りることができるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」と語りかけてくださる神様に心から信頼する歩み。すべてを神様からの贈り物と認め、感謝する歩み。柔和な者として歩む時、私たちにはこの様な祝福があることを思い、柔和な者として歩み続けたいと思います。

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