2015年12月20日日曜日

クリスマス礼拝 ルカの福音書2章1節~14節「誕生~あなたがたのために救い主が~」


皆様クリスマスおめでとうございます。今まで三回にわたる待降節の礼拝で、私たちはキリスト誕生を待ち望む人々の姿を見てきました。今日はいよいよキリスト誕生、ご降誕の場面を見ることになります。

今読んで頂きましたルカの福音書には、一つの特徴があります。それは、キリスト誕生の出来事がこの世界の歴史の中にきちんと位置づけられていることです。このためにルカは歴史家とも呼ばれてきました。そこで、先ず私たちが考えたいのは、一体何のためにルカは救い主の誕生を当時の歴史を背景として書き残したのかということです。

 

2:1~3「そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。これは、クレニオがシリヤの総督であったときの最初の住民登録であった。それで、人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行った。」

 

ここに登場する皇帝アウグストはローマ帝国の皇帝、支配者でした。ですから全世界と言うのは、ヨーロッパ、アジア、中東、アフリカのまで広がっていたローマ帝国全体と言うことになります。そして、このアウグストのもとローマは最も安定した時代を迎えました。

戦争が止んだこと。「すべての道はローマに通ず」と言うことばがある様に、道路網が整備され人々が安全に旅ができるようになったこと。そして、聖書が記すように税金徴収のため住民登録の勅令が出されると、人々が皆自分の町つまり先祖の町に向かって移動したことも、この時代がいかに安定していたかを物語っています。

ちなみに、ローマ帝国の支配者が皇帝と呼ばれるようになったのはアウグストが最初とされます。アウグストと言う名前も「尊厳ある者」と言う意味で、彼が有能かつ人々の信頼厚き支配者であることを示していました。

皇帝アウグストが出した勅令はシリヤの総督に届き、そこから当時シリヤ州に属していたユダヤの国に到達します。そして、ユダヤの国ナザレ村に住むヨセフも先祖ダビデの町に上ってゆくことになります。

 

2:4、5「ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。彼は、ダビデの家系であり血筋でもあったので、身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。」

 

その頃無名の人、ひとりの大工であったヨセフも血筋を辿ればイスラエル最大の王ダビデを先祖とする家系の人でした。ですからダビデ王が生れた町ベツレヘムに上ったのです。

ただし、聖書には「身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するため」とありますが、住民登録は家長のヨセフが行えば十分で、妻マリヤまで登録する必要はなかったとされます。しかも、ナザレ村からベツレヘムまでは120キロ。マリヤが既に出産間近な状態にあったことを思うと、むしろ誰かに世話を頼んで村に置いてゆくと言うのが普通でしょう。それなのに、何故ヨセフはマリヤを連れて旅に出たのでしょうか。

これはやはり、夫ヨセフのものではない子どもを身籠ったマリヤに対し、人々の厳しく、冷たい視線が向けられていたからと考えられます。もし村に一人残されたとしたら、マリヤは身の置き所なく、とても心細かったことでしょう。それを思うとたとえ旅路は困難であっても、一緒に連れて行った方がマリヤが安心できるとヨセフが配慮したのでしょう。

最初に御使いから神の子、救い主を身籠るとのみ告げを聞いて信じたマリヤ。次に同じくみ告げを聞き信じたヨセフ。手を取り合ってベツレヘムへと進む若き夫婦。神様の約束は必ずなると信じたふたりが互いを思いやりながら旅を続けて行く姿が目に浮かぶところです。

そしてついにキリスト誕生となります。それは誰も思い及ばない様な場所で起こりました。

 

2:6、7「ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」

 

世界の都ローマからシリヤ、シリヤからユダヤの国、ユダヤの国ベツレヘムから一件の宿屋に置かれた飼い葉桶に。最初は広く世界の都に焦点を当てていたルカがシリヤ、ユダヤ、ベツレヘムと徐々に焦点を絞り、ついに小さな飼い葉桶に光を当て、キリスト誕生の場所を私たちに示しています。

聖書には預言と成就という考え方があります。神様が預言者を通して語られた預言、約束のことばが時を経て成就実現するということで、神様が世界の歴史を支配しておられること、神様の人間に対する真実を示すと言う大切な意味を持っています。

旧約聖書にはやがて来るべき救い主についても多くの預言が記されています。数え方にもよりますが、少なくとも救い主に関する40以上の預言が存在するとされ、その中に救い主はダビデ王の子孫から生まれること、ダビデの町ベツレヘムで誕生することが含まれていたのです。

 

ミカ5:2「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。」

 

恐らく皇帝アウグストは自分が世界を支配しているという思いで住民登録の勅令を下したことでしょう。事実その命令によりシリヤの総督が動き、ユダヤの国の民が動き、ヨセフとマリヤの夫婦も旅に出て、キリストはベツレヘムで誕生しました。

しかし、この預言の成就により、私たちは世界を支配していたのは皇帝アウグストではなく、アウグストを用いて預言の通り救い主をダビデの町ベツレヘムで誕生させたもう神様であると教えられます。この世界の歴史は全能の神様の御手に導かれていること、神様に背き自分勝手な道を歩むこの世界を神様が愛しておられることを教えられるのです。

しかし、神様の愛はこれにとどまりません。何と最初に救い主を見ることができるよう神様が招いたのは羊飼いたちでした。

 

2:8~12「さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」

 

その頃羊はユダヤ人の生活にとって欠かすことのできない動物でした。肉や乳は食料として、毛は収入源として人々の生活を支えていましたし、小羊は礼拝に於いてささげる罪のためのいけにえとして重要なものでした。

それにもかかわらず、羊飼いたちは世間から見下されていたのです。羊とともに移動し続ける彼らは安息日の礼拝を始め、様々な宗教的なしきたりを守ることができず、汚れた人々とみなされていました。自分の羊を失った羊飼いはしばしば他人の羊を盗んだため、羊飼いと言うだけで泥棒呼ばわりされることも多かったようです。ですから、羊飼いは信頼できないとされ、法廷で証言をすることが許されていませんでした。

しかし、神様の眼はその様に社会の底辺に生きる人々に向けられていたのです。世間から一段低く見られていた人々、貧しい人々、社会の中に拠り所なく心寂しく生きる人々。神様はその様な人々を決して忘れず、心を傾け、救い主のもとに招いてくださったのです。

ですから御使いは羊飼いたちに言いました。「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」

主とは神様のことです。キリストは救い主と言う意味です。この夜ダビデの町で生まれたみどりごが世界を創造した神様であり、約束の救い主であること。神様が私たちを罪から救うため人となってこの世界に到来したこと。そして、何よりこの喜びの知らせを世界で最初に耳にしたのが皇帝でも、王でも、宗教家でもなく、何の肩書もない羊飼いたちであったことは意味深く思えます。

この世において何一つ拠り所を持たないと感じている人、自分の罪を悲しみ、神様の救いを心から必要としている人。そういう人々のために神様は救い主を与えてくださった。そういう人々にとってこそキリスト誕生は喜びの知らせとなる。そう私たち教えられたいところです。

そして、羊飼いたちが御使いのことばを喜びの知らせとして心に受けとめた時、天の軍勢すなわち天使の軍勢が現われ、神様を賛美したと言うのです。

 

2:13,14「すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現われて、神を賛美して言った。「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」」

 

いと高き所天に栄光が神にある様に。地上に平和がみ心にかなう人々、救い主を信じる人々にある様に。讃美歌では114番、聖歌では138番で歌われる御使いの賛美、天使のコーラス。非常に有名な場面です。

イエス・キリストを信じる人は誰でも罪を赦され、神の子となり、神様と平和な関係の中にあります。しかし、神様との平和を持たない人々は未だに多くいますし、人と人との平和と言う意味においてこの地上は不完全極まりない状態と言えます。

ですから、この賛美を歌う時私たちは今神の平和を頂いていることに感謝しつつ、イエス・キリストがもう一度到来し、完全に平和な世界をもたらしてくださることを待ち望むのです。この地上で神の平和を頂いている者として、人と人との平和を作りだすことに努める者でありたいと思うのです。

最後に考えたいのは、この世界を創造した神様、世界の歴史を支配しておられる神様がみどりご、赤ん坊の姿で生まれたのは何故かということです。御使いが羊飼いたちに告げたことばを思い出してください。「あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」

キルケゴールと言う人が、神様が人になられた事を次の様な物語によって説明しています。ある王様が身分の低い娘を愛するようになりました。王様はどのように愛を伝えるか、どうしたら自分の愛を受け入れて貰えるか考えました。「もし私の愛を受け入れなかったら牢屋に入れるぞ」と脅かして愛を強制しようかと考えましたが、それはやめました。何故なら、たとえ娘が言うとおりにしても強制された愛は本当の愛とは呼べないからです。

それならば眼も眩む様な贈り物を与えて娘の気持ちを捕えようと考えますが、それもダメだと考えなおします。たとえそれでいう事を聞いたとしても、娘が心惹かれたのが王自身なのか、それとも王が持つ富なのか見分けられないからです。最後に王は最善の方法を思いつきます。それは自分の権力と富を捨て、貧しい者の姿を取って近づき愛を求めることでした。

神様は同じことをしてくださったのです。イエス・キリストは神としての権威、力、栄光を犠牲にし、この世界に降誕されました。ひとりの無力な赤ん坊として、それも最も貧しく低い所、飼い葉桶に生まれたのです。そしてご自分の身をもって貧しさ、迫害、故なき非難などを経験し、この世界で傷つき、疲れ、苦しむ者の仲間となられたのです。

皆様は、ここまで身を低くして本気の愛を示してくださった救い主を心に受け入れるでしょうか。それとも、自分には必要がないと拒むでしょうか。クリスマスは、私たちがイエス・キリストとの関係について真剣に考える時です。イエス・キリストを信じた者は自分がどう生きるべきか。特に隣人との平和な関係について振り返り、取り組む決意をすべき時ではないかと思います。

この様な意味で皆様が良いクリスマスを過ごされますように。今日の聖句です。

 

Ⅱコリント8:9「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」

 

 

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