2015年12月13日日曜日

ルカの福音書1章67節~80節「待降節(3)~日の出の訪れ~」


聖書の神を信じる者、キリストを信じる者、神の民は、どのような生き方をするのか。答えの一つに、「救い主を待つ」という生き方があります。旧約の時代、神の民は救い主の到来を待ちました。新約の時代、今の私たちは、主イエスがもう一度来られる約束を信じて生きる者です。聖書は、神の民に対して、救い主が来られるのを待つ者として生きるようにと教えています。私たちは「救い主を待つ」者。

今日は待降節の第三週目の聖日。「救い主を待つ」というのは、いついかなる時でも、持つべき信仰の姿勢ですが、待降節では、特に「救い主を待つ」ことに取り組みたいと思います。

 今年の待降節、礼拝説教はルカの福音書に焦点を当てています。(これまで、受胎告知、マリヤの賛歌と見てきました。今日はザカリヤの賛歌となりますが、その背景を再確認します。)今の私たちが、救い主を待つとは、どのような生き方なのか。皆様とともに、考えたいと思います。

他の福音書と比べて、ルカの福音書はキリストの誕生にまつわる出来事を詳細に記しています。その冒頭は、ザカリヤとエリサベツという老夫妻の姿からでした。

 ルカ1章5節~7節

ユダヤの王ヘロデの時に、アビヤの組の者でザカリヤという祭司がいた。彼の妻はアロンの子孫で、名をエリサベツといった。ふたりとも、神の御前に正しく、主のすべての戒めと定めを落度なく踏み行なっていた。エリサベツは不妊の女だったので、彼らには子がなく、ふたりとももう年をとっていた。

 

 神が人となるという大奇跡。人類史上、最も重要な知らせを記すのに、ルカの筆は老祭司夫婦の姿から記す。神妙な滑り出しです。

クリスマスと言って、華やかさだけではない。願いながらも子どもがいない寂しさを抱え、それでも神様に仕え続けた老夫婦。敬虔清貧な二人に焦点を当てる。第一級の文化人、ルカならではの筆の渋さ。いぶし銀のルカ。この神妙さ、この厳かさも、キリストの誕生を彩る雰囲気の一つでした。

 この老祭司ザカリヤのもとに、御使いが来て、神の言葉を告げます。これが、旧約聖書の最後の預言者マラキの時代から、約四百年経ってのこと。四百年の沈黙が破られる場面。

 御使いが語ったことは、「ザカリヤの願いが聞かれたこと。エリサベツが男の子を産むこと。その名をヨハネと付けるように。その子ヨハネは、主の前ぶれをする者。つまり、約束の救い主の前に来ると言われた預言者であること。」でした。

 

 ザカリヤの気持ちはどうだったのか。この御使いの言葉を大いに喜んだと想像します。長らく願い、ついには諦めていた子どもの誕生の約束。しかも、その子が救い主到来の関わる働きをする。それはつまり、長らく祈ってきた救い主の到来が起こるということです。子の誕生、その子が大きな働きをなし、しかも約束の救い主の到来が起こる。信仰者ザカリヤにとって、これ以上ない喜びの言葉でしょう。しかし、この御使いの言葉を聞いた時、ザカリヤはその喜び以上に不信が勝ったというのです。その応答は次のようなものです。

 

 ルカ1章18節

そこで、ザカリヤは御使いに言った。『私は何によってそれを知ることができましょうか。私ももう年寄りですし、妻も年をとっております。』

 

 神殿で一人、奉仕をしている場面。他に誰もいない。私が見ているのは、本当に御使いなのか。夢か、幻ではないか。自分たちの年齢を考えると、とても子どもが生まれるとは思えない。この言葉が本当だというのは、どうしたら分かるのでしょうか、という応答。

 「神の前に正しい」と評される程の信仰者。旧約聖書に精通した祭司。それでも、この時の御使いの言葉を、そのまま受け取ることが難しかったのです。頭では信じられる。しかし、心がついていかない。いや、信じたい気持ちもある。しかし期待して、それが実現しなかった時が恐ろしい。ザカリヤの応答に、複雑な心境を見ます。

 

 神の言葉を信じきれない。約束の宣言を受け取れきれない。その時、神様は神の民をどのように扱われるのか。このザカリヤに対して、御使いは次のように伝えていました。

 ルカ1章20節

ですから、見なさい。これらのことが起こる日までは、あなたは、おしになって、ものが言えなくなります。私のことばを信じなかったからです。私のことばは、その時が来れば実現します。

 

 約四百年の沈黙を破って語られた御使いの言葉。その言葉の前に、今度はザカリヤが沈黙することになる。不思議な対比です。

 この御使いの言葉は、ザカリヤが話せなくなることが、信じなかったことへの罰であるような言葉です。しかし、ザカリヤからすると、この時から話せなくなることは、御使いの言葉が真実であることを、よく知ることが出来る意味もあります。話したいのに話せない。その都度、ザカリヤはあの御使いの言葉が真実なものであると確信することになる。不信に対する裁きが、恵みでもあるのです。

 この時からザカリヤは「おし」となり、話せなくなりました。その後、妻エリサベツの妊娠。六か月目に、親戚のマリヤの訪問。マリヤを見たエリサベツは聖霊に満たされ預言。そこから三か月、マリヤはともに生活をしますが、受胎告知のことを詳しく聞いたでしょう。

 こうしてザカリヤは、あの時聞いた御使いの言葉が真実であることを徹底して教えられました。あの時、神の言葉をそのまま信じられなかったことを悔いつつ、その子ヨハネ誕生の段階で、ザカリヤははっきりと、神の言葉はその通りになると確信していたでしょう。ところが、ヨハネ誕生の段階では、まだ話せないまま。「おし」が解かれなかったのです。それでは、いつ話せるようになったのか。

 

 ルカ1章63節~64節

すると、彼は書き板を持って来させて、「彼の名はヨハネ。」と書いたので、人々はみな驚いた。すると、たちどころに、彼の口が開け、舌は解け、ものが言えるようになって神をほめたたえた。

 

 ユダヤ人の習慣として、子どもの名前は親族の中にある中から選ぶもの。ザカリヤ、エリサベツの親族には、ヨハネという名前はなく、通常ではつけない名前。ところが、ザカリヤは迷わずヨハネと命名します。御使いの宣言に応答してのこと。神の言葉はその通りになると信じた証でした。

 これを機に、ザカリヤは話せるようになります。あの宣言を聞いてから、ヨハネ誕生までの約十か月。この間に、徹底的に神の約束は実現すると教えられたザカリヤ。そのザカリヤの口をついたのが今日の箇所、ザカリヤの賛歌となります。

 

 ルカ1章67節~75節

さて父ザカリヤは、聖霊に満たされて、預言して言った。『ほめたたえよ。イスラエルの神である主を。主はその民を顧みて、贖いをなし、救いの角を、われらのために、しもべダビデの家に立てられた。古くから、その聖なる預言者たちの口を通して、主が話してくださったとおりに。この救いはわれらの敵からの、すべてわれらを憎む者の手からの救いである。主はわれらの父祖たちにあわれみを施し、その聖なる契約を、われらの父アブラハムに誓われた誓いを覚えて、われらを敵の手から救い出し、われらの生涯のすべての日に、きよく、正しく、恐れなく、主の御前に仕えることを許される。

 

 ベネディクトスとして知られるザカリヤの賛歌。(冒頭の「ほめたたえよ」のラテン語がベネディクトスです。マリヤの賛歌も、冒頭の「あがめる」のラテン語より、マグフィカートと呼ばれます。)十か月もの間、沈黙とともに教え続けられた救い主の誕生。本当に救い主が誕生する、その確信に立った者の賛美の歌。大きく二つに分けられますが、まずはその前半部分。

(ごくごく簡単にまとめるならば、次のようになるでしょうか。)

「主がほめたたえられるように。約束通りに、救い主を送って下さった。その救いによって、私たちは敵から救われる。敵から救われた私たちは、きよく、正しく、恐れなく、主に仕えることが許される。」

 

 これはヨハネが生まれた時、キリスト誕生の半年前の歌。しかし、ザカリヤはこの前半部分を過去形で歌いあげます。救い主の誕生はこれから起こること。しかし、確実に起こると信じた表現。(ユダヤでもギリシャでも、確実に起こることを、もう起こったかのように表現することがありました。)

 十か月前、御使いの宣言を聞いた時、その宣言を信じきれなかったザカリヤ。しかし、神様はザカリヤを整え、救い主到来を確信する者へとして下さったことが良く分かります。信じきれない者を、信じる者へと変えて下さる神様。救い主の到来を待つ者として、私たちも同じ恵みを頂きたいと思います。

 

 そして特に印象的なのが、キリストのもたらす救いを、主に仕えることが出来るようになると理解している点です。福音書の中に記される、当時の群衆の救い主の理解は、ローマの支配から脱却する政治的な王というものがありました。一般の群衆だけでなく、キリストの弟子たちにも、その思いがありました。しかし、ザカリヤは救い主の働き、救いの本質を見抜いていた。罪からの救いとは、何の妨げもなく、主に仕えることが出来るようになることだと。

 救い主の到来を待つというのは、その結果、自分がどのようになるのか期待することでもあるということです。今の私たちが救い主の到来を待つというのは、キリストの再臨の際、私たちに何が起こるのか期待すること。天の御国で、全く罪のない状態で、愛する者たちとともに、主に仕えることが出来る。その約束に思いを馳せることでもあります。

 

 これから起こることを確実なものとして過去形で歌いあげた前半部分。後半は、一転して未来形の表現となっています。

 ルカ1章76~77節

幼子よ。あなたもまた、いと高き方の預言者と呼ばれよう。主の御前に先立って行き、その道を備え、神の民に、罪の赦しによる救いの知識を与えるためである。

 

 後半部分、まずザカリヤは、その子ヨハネについて語ります。「いと高い方の預言者と呼ばれ、救い主の道を備え、神の民に救いの知識を与える。」と。これは、その子ヨハネが、イザヤ書やマラキ書で預言されていた、約束の救い主の前に遣わされる預言者、エリヤの霊を持つ預言者であるとの宣言。これは、御使いが宣言していたこと。ここにも、ザカリヤが御使いの宣言を信じた証を見ることが出来ます。

 ところで、ザカリヤの子ヨハネは、実際にどのような生き方をしたでしょうか。

 マタイ3章4節

このヨハネは、らくだの毛の着物を着、腰には皮の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった。

 

 荒野で悔い改めを説くヨハネ。そのヨハネの恰好は毛衣を着て、皮の帯をしていました。この「毛衣と皮の帯」というのは、エリヤの特徴的な格好です(Ⅱ列王記一章)。つまりヨハネは、エリヤを真似ていたことになります。なぜヨハネは、エリヤを真似たのかと言えば、自分が前触れの預言者だという自覚があり、なぜその自覚があるのかと言えば、ザカリヤのもとで生まれ育ったから。ザカリヤの信仰が受け継がれたからでしょう。

 神の言葉は必ず実現すると信じるように導かれたザカリヤ。その信仰は、ザカリヤだけのものではなく、その子ヨハネにも引き継がれていく。あの麒麟児ヨハネ、最も優れた人と評されるヨハネは、ザカリヤの子でした。

 このように考えますと、私たちが救い主到来を待つ信仰を持つことは、自分だけの問題ではなく、自分の子、教会の子に影響を与えること。それも重要な影響を与えることだと教えられます。

 

 その子ヨハネについて歌った後、救い主到来を詩的に表現してこの歌は閉じられます。

ルカ1章78節~79節

これはわれらの神の深いあわれみによる。そのあわれみにより、日の出がいと高き所からわれらを訪れ、暗黒と死の陰にすわる者たちを照らし、われらの足を平和の道に導く。

 

 すでに救い主の到来の意味を、神様の約束の実現、神の民を贖うため、主に仕えることを許すためと見定めていましたが、ここでもう一度、確認されます。「日の出がいと高きところから訪れ、暗やみと死の陰にすわる者たちを照らす。」と。ザカリヤにとって、当時の世界は、暗やみの世界、暗黒の世界、悲惨な世界。ザカリヤの目には、死の陰にうずくまっている人たちが映っていました。その世界に、光が来る。その人々に日の出が訪れる。

 今の時代、本当の暗闇を味わうことは難しいと言われます。そこかしこに、明かりがある時代。ザカリヤのイメージする暗やみや、光に込める思いは、私たち以上でしょう。そのザカリヤが「暗やみの世界に、光が来る。」と歌った。闇に光、その喜び、その衝撃が、キリストの到来のそれであると。

 ところで、「いと高きところから、日の出が訪れる」というのは、少しおかしな表現。気にならないでしょうか。日の出は、地平線から訪れるもの。「太陽」は高いところにあっても、「日の出」は地平線です。しかし、「日の出がいと高きところから訪れる」というのが、ザカリヤの表現。詩人ザカリヤのこだわりでしょう。夜の暗闇に、光が来る。日の出の喜び。しかし、それは徐々に明るくなるというのではなく、一気に世界を照らす。この方の到来によって世界は一変する。徐々にではない。いと高きところからの訪れなのだと。

 救い主到来を確信し、ここまで自分の言葉で表現したザカリヤの姿に憧れます。私だったら、救い主の到来をどのように表現するのか。この待降節、考えてみるのも良いと思います。

 

 以上、ザカリヤの賛歌でした。神様の約束を信じきれなかったザカリヤが、様々なことを通して、確信する者に変えられていく。「救い主の到来」を待ち、その到来を確信した時に歌われた賛歌。ザカリヤの姿とその歌から、「救い主を待つ」信仰とはどのようなものか、確認してきました。

 この待降節、私たちはどのように救い主を待てば良いのか。神様の約束は必ず実現すると、より確信する者となれるよう、祈りたいと思います。もう一度、主イエスが来られた時、私たちがどのような恵みを頂くのか。天の御国への期待を持ちたいと思います。救い主を待つ信仰は、自分の子ども、教会の子どもに大きな影響を与えることを覚えます。ザカリヤと思いを一つにし、「日の出がいと高きところから訪れる」として救い主の誕生を祝うと同時に、自分であれば、どのように救い主誕生を表現するか、考えたいと思います。

 この一週間(それまでに主イエスの到来があるかもしれませんが)、救い主の到来を待ちつつ、次週のクリスマス礼拝を迎えたいと思います。

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