2015年11月29日日曜日

ルカの福音書1章26節~38節「待降節(1)~おことばどおりこの身に~」


皆さまもご存知のように、全くキリスト教国とは言えない程、クリスチャンの少ない私たちの国日本でも、何故かクリスマスは好まれ、定着し、今では冬の風物詩の一つとなっています。私の家はクリスチャンホームではありませんでしたが、ケーキにプレゼントなど、子どもの頃クリスマスがとても楽しみな行事であったことは覚えています。

 それでは、このクリスマスを人々はいつ頃からお祝いし出したのでしょうか。昔ギリシャ・ローマの時代には、有名な人物の誕生日を祝う慣習があったそうです。しかも、生きている間にとどまらず、死後にも行われることがあったようで、哲学者のプラトンの誕生日などが祝われていました。その様な事から、キリスト教迫害の時代が終わりを告げた四世紀半ばから、ローマでは1225日にキリストの誕生を祝い出します。初めは日にもまちまちで、東方の教会では16日に行っていましたが、四世紀の終わりごとになると1225日が世界的に広まったと言われます。

 何故、1225日となったかと言うと、聖書的な根拠ではなく、当時ローマ人たちが「太陽の誕生日」として、この日を祝っていたことに関係していると言う説が有力なのだそうです。冬至を境に、日が長くなってゆく様子から、当時はこの日が太陽の誕生日とされていました。そして、太陽の誕生と言えば、世の光、義の太陽であるイエス・キリストとその誕生が連想され、教会では1225日がキリスト誕生をお祝いする日と決まったようです。

 昔は、クリスマスが何かキリスト教のお祭りの一つだとは思っても、それが何のお祝いであるのか知らなかった日本人も、今ではキリストの誕生を祝うことと理解しているように思われます。しかし、そのキリスト誕生の意味はと問われると、答えるに困る人が多いかもしれません。

 それに対して、キリスト誕生の意味を知っている私たちも、その意味を考え、思い巡らし、味わうことにどれ程時間を割いているかと問われると、心もとない気がします。そんな日々の生活の忙しさに追われがちな私たちのために用意されたのが待降節の礼拝です。今日から始まる待降節を、キリスト誕生の意味を考え、味わい、キリストを心にお迎えする時として過ごしてゆけたらと思います。

 さて、今日取り上げたのは、御使いガブリエルがマリヤに「あなたは神の子を宿している」と告げた、有名な受胎告知の場面です。

 

 1:26~29「ところで、その六か月目に、御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤといった。御使いは、はいって来ると、マリヤに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。」

 

 マリヤは、ガリラヤのナザレと言う町に住んでいたとあります。その頃、ガリラヤ地方は都の人々から「異邦人の地ガリラヤ」と呼ばれ、見下されていました。ユダヤ人以外の外国人が多く住み、その影響を受けたガリラヤの人々も異邦人、つまり聖書の神様を信じることにおいて不熱心な、汚れた人々と考えられていました。特に、ナザレの町に関して言えば、「ナザレから何の良いものが出るか」と言われるほど、人々から蔑まれていたのです。

 さらに、マリヤは名もなき、十代の女性。いいなづけのヨセフも、有名なダビデ王の家系に属していましたが、今は貧しき村の大工にすぎません。もし、この様な夫婦から男の子が誕生したとして、その子に一体誰が注目するだろうかと思われるような人々だったのです。

 しかし、神様のみ心はここにあらわれていました。この世界を創造した神様の御眼は、社会から見下され、のけ者にされている人々に向けられている。神様の心は、いつも貧しさに悩み苦しむ、名もなき人々に向けられている。私たちの信じる神様はその様な人々のことを決して忘れず、心砕いておられるお方。この様な神様の姿、み心を確認したいところです。

 それにしても、です。突然現れた御使いに「おめでとう、恵まれた方」と言われたマリヤは、このことばにひどくとまどい、これは一体何のあいさつかと考え込んだとあります。当然のことと思われます。そこで、御使いガブリエルは彼女が受けた恵みとは何であるのかを語り始めます。

 

 1:30~33「すると御使いが言った。「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」

 

 御使いが告げたことばは、すべて旧約聖書において、神様がイスラエルの民に対し約束したことを背景としています。約束は聖書では預言と言われています。イスラエルとは、ここに登場するヤコブと言う人の別名で、ヤコブから生まれた子孫全体を指します。イスラエルは神の民として特別に選ばれ、養われた人々で、旧約聖書の多くの部分は、このイスラエル民族の歩みを記していたのです。

 そのイスラエルに対し、神様がしばしば語られた預言のことばのなかに、将来出現する救い主に関する約束がありました。それらは非常に多く、様々な箇所で語られているのですが、今日の箇所に関係するものの中から、ふたつご紹介したいと思います。

 

 イザヤ7:14「それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。」

 イザヤ9:6、7「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」

 

 ひとりの処女がみごもって、男の子を生むこと。その男の子が「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」であり、ダビデ王の家系に属し、永遠に続く平和の王国を治める王となる。この預言は紀元前8世紀に活躍したイザヤに託されたもの。イエス・キリスト誕生から遡ること、およそ800年ほど前に告げられた約束と言うことになります。

 注意したいのは、この約束が与えられ時、イスラエルの王も人々も、神様を信頼せず、偶像を崇拝し、罪の中を歩んでいたということです。この約束だけでなく、将来出現する救い主についての約束は、いずれもイスラエルが神様に背き、反逆した時に語られています。イスラエルの人々は、神様のことばを語る預言者を迫害しました。その言葉を聞こうとはしませんでした。それにもかかわらず、神様は何度でも預言者を送り、約束のことばを語り続けたのです。

 つまり、御使いがマリヤに告げたのは、その様なイスラエルの人々の神様に対する不信仰と反逆の歩みを知りながら、約束通り本当に救い主をあたえるという神様の真実でした。イスラエルの民が繰り返し逆らい、何度離れて行っても、どこまでも真実を尽くす神様の姿だったのです。

 この神様の姿を何にたとえたら良いでしょうか。繰り返し約束を破る友に対して、自分の側は約束を守り、果たし続ける人。何度悪の道に走り、逆らって家を出て行っても、その子を捜し続け、帰りを待ち望む親。どれほど配偶者が不倫を重ねても、赦し、仕え続ける夫あるいは妻。

真実を受け取るに価しない相手のために、身を削り、犠牲を払い、力の限り、真実を尽くし続けること。聖書ではこれを恵みと呼んでいます。神様が背信の民イスラエルに約束通り救い主を与えることは、正に恵みと呼ぶ他はない真実な行いでした。だから、御使いは、救い主誕生の知らせを告げたマリヤに対し、「こわがることはない。あなたは神から恵みを受けたのです」と告げたのです。

こうして、自分と自分が属する民族が途方もない恵みを受けることを知ったマリヤでしたが、迷いのすべてが解消したわけではありませんでした。彼女は御使いに尋ねています。

 

1:34~37「そこで、マリヤは御使いに言った。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です。神にとって不可能なことは一つもありません。」」

 

いくら神様を信じるマリヤであっても十代の若き女性。それに、何よりマリヤはいいなづけのヨセフとまだ結婚式をあげてはおらず、こんな大事なことを相談できる相手がいません。たとえ、ヨセフに相談したとしても、理解してもらえず、別れると言う事態も考えられます。

事実、マタイの福音書には、マリヤから話を聞き、悩みに悩んだヨセフがひそかに離縁することを決めたとあります。正式に結婚していない状態での出産に対し、世間が向けるであろう冷たい視線に対する恐れ。信頼するヨセフがどう対応するのかと言う不安。マリヤが胸を痛め、恐れと不安を抱いたとしても無理からぬことと思えます。

そして、勿論神様はマリヤの心をご存知でした。だからこそ、御使いは「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます」と語るとともに、マリヤの親類エリサベツも不妊の女性でありながら、神様によって胎に男の子を宿しているのですよと教えたのです。

この後、マリヤはエリサベツの家に出かけ、お互いに神様によって男の子をみごもった者同士、語り合い、励まし合うことになります。神様は直接みことばによって私たちを励ましてくださるだけでなく、同じ境遇に生きる兄弟姉妹を置いてくださり、その様な兄弟姉妹との交わりの中で、私たちは励まされ、慰められ、信仰に立つことができる。そう教えられるところです。

こうして、ついにマリヤの信仰の告白がなされました。

 

1:38「マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」こうして御使いは彼女から去って行った。」

 

「はしため」と言うのは、女性の奴隷のことです。マリヤは、社会的立場に置いては奴隷ではありませんでした。彼女は、「ほんとうに、私は主のはしためです」と告白したのです。

このことばを通してマリヤは、自分には神様に真実を尽くして頂く資格がないことを認めています。自分が神様の前に汚れた罪人であり、何の良きものも受け取る価値のない者であることを認めています。それと同時に、その様な自分が神の子、救い主を宿すと言う途方もない恵みを受けたので、心から主なる神様のしもべとしてお仕えしたいと言う思いをも言い表しているのです。そして、その様なマリヤの心から生まれた宝石のような信仰の告白が、「あなたのおことばどおりこの身になりますように」でした。

さて、こうして有名な受胎告知の場面を読み終えた今、私たちが確認しておきたいことがふたつあります。ひとつは、神様の真実と恵みについてです。今日の聖句です。

 

ローマ3:3、4「では、いったいどうなのですか。彼らのうちに不真実な者があったら、その不真実によって、神の真実が無に帰することになるでしょうか。絶対にそんなことはありません。たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。」

 

皆様は、ご自分が救い主イエス・キリストを与えられることは当然のこと、自分にはその資格、権利があると思っているでしょうか。それとも、全くそのような資格も、権利もないとお考えでしょうか。

もう一度言いますが、神様にはこの世に救い主を与える義務も責任もありませんでした。あのイスラエルのように、私たちはみな神様に対して不真実な者ですから、私たちに相応しいのは神様のさばきであり、滅びなのです。そんな私たちにキリストが与えられたのは、私たちが受け取る資格のない真実を神様が尽くしてくださったから。ただただ神様の恵みによるのです。私たちの信じる神様が、真実と恵みの神であることを感謝したいと思います。

ふたつめは、おことばどおりこの身なりますようにと言う信仰です。私たちはよく、おことばどおり、あるいはみこころがなりますようにと口にします。その様に祈りもします。

しかし、良く考えてみると、マリヤがそうであったように、みこころがこの身に、私自身になるようにと言うことは、様々な苦しみや困難をも受け取りますと言う意志の表明ではないでしょうか。最終的には幸いな状態に導かれるとしても、そこに至るまでに起こる喜びも悲しみもすべを、神様が与えてくださる恵みとして受け取ると告白することは、決して簡単なことではないと思います。

しかし、これが私たちの目指す信仰です。漠然とみこころがなるようにと祈ることは簡単です。私たちはいかなる状況でも、みことば通り、みこころがこの身になりますようにと言う信仰に立ち、そう祈る者でありたいと思います。

 

2015年11月22日日曜日

エペソ人への手紙4章16節「交わりにおいて成長する信仰」


教会とは何かを言い表す時、非常に有名なことばのひとつに「母なる教会」というものがあります。宗教改革者のカルバンと言う人が言ったことばですが、教会は私たちにとって母、お母さんの様な存在だと言う意味です。

私たちは母親によって養われ、成長します。誰も母親なしに生まれ、成長することはできません。そして、多くの場合、母親がいかに深く愛し、養ってくれたかを大人になってから、私たちは知ることになります。同じ様に、教会がなければ私たちの信仰は養われず、成長しない。私たちの信仰が健全に成長するためには、教会生活が欠かせないことを「母なる教会」と言うことばは言い表しているのです。

教会を母なる教会と呼んだカルバンが、ちょっとドキッとするようなことばを書いています。「信仰が弱くなったから教会を離れたのではない。教会を離れたから信仰が弱くなったのだ」。勿論、教会を離れている人には様々な事情があります。教会を離れているすべての人が、信仰が弱くなっているわけではないことを、私は良く分かっているつもりです。

しかし、「私たちは信仰が弱くなったから教会を離れたのではない。教会を離れたから信仰が弱くなったのだ」と言うことばは、私たちが感じている以上に、信仰にとって教会生活が重要で、不可欠なものであることを教えているように思えます。

子どもがお母さんに反抗して、「お母さんなんかいなくたって、僕は一人でやってゆけるよ」と言うことがあります。しかし、それは母親の重要性を子どもが理解していないからこそ、口にすることばにすぎません。

もし、その様な子ども同様、自分は教会生活がなくとも、信仰を守ることができる。信仰を成長させることができると考えているとしたら、私たちも聖書が教える信仰と教会生活の関係に、心を留める必要があるのではないかと思われます。

勿論、人生は教会生活がすべてではありません。個人の信仰生活もありますし、家族と共に暮らす家庭生活、仕事や学び、地域の隣人との関係を中心とした社会生活も重要です。聖書は、それらをないがしろにしてよいとは教えていません。

しかし、すべての生活において神さまを第一として生きるためには、教会生活において信仰が養われることが欠かせないと、聖書は語っています。教会生活において養われた信仰に立って、家庭生活や社会生活を送ってゆくことを勧めているのです。

ところで、教会生活と聞くと、皆様は何を思い浮かべるでしょうか。何が大切だと考えておられるでしょうか。礼拝をささげることでしょうか。聖書を学ぶことでしょうか。それとも奉仕をすることでしょうか。どれも大切なことですが、それらと共に、神様が非常に大切なものとして勧めているのが交わることでした。今日、皆様と共に考えたいのは交わりについてです。

 

エペソ4:16「キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。」

 

先ずこのことばが教えているのは、教会はキリストをかしらとする体であり、私たちはキリストの体の一部であることです。

皆様は、自分がキリストの体の一部であることを自覚しているでしょうか。私たちは洗礼を受けて教会員の一人になりますが、キリストの体の一部とは、教会員の一人になることにとどまりません。兄弟姉妹と実際に支え、支えられる関係に入ると言うことです。

心臓は非常に重要な器官です。心臓から送られる血液によって、私たちは物を考えたり、活動することができます。しかし、いくら重要だからと言って、心臓が体からポーンと飛び出して、「自分は一人で動くんだ」と言っても、何の役にも立ちません。私たちの体は、すべての部分が素晴らしい機能を持っていますが、体から切り離されたら、何もできない。つまり、お互いに支え、支えられているのです。

同じく、神様は私たちを一人では生きられないし、成長できない者として創造されました。自分の限界を認め、お互いに支え合う関係の中で生きるよう造られたのです。

イエス様の生涯を見る時、それがよく分かります。イエス様は人々ともに会堂で聖書を開き、礼拝をしました。人々と一緒に食事を楽しみました。弟子たちと共に病人のいる家を訪問し、親戚の結婚を祝い、旅をしました。愛する弟子ラザロが死んだ時には、人々と悲しみを共にしました。喉の渇きを覚えると、サマリヤの女に水を求め、活動に疲れた時は親しい友マルタとマリヤの家で休み、リラックスしました。十字架の死を前に恐れ悩んだ時は、信頼する弟子たちに祈りの援助を求めてもいます。

 天の父と交わるのと同じぐらい、人々と交わることを、イエス様は大切にされたのです。ある時は人々を癒し、助ける。ある時はイエス様が人々に癒され、助けてもらう。その様な人々との関係の中で生きること。それが最も人間らしい生き方であることを、イエス様の生涯は教えてくれます。

 また、助けは意外な方向からやってくることもあります。私は床屋に行き、髪を切ってもらう時、時々「どうして目の上に眉毛があるんだろう。邪魔だな」と思うことがあります。ある時、いつもの床屋に行くと、初めての店員さんが出てきて髪を切ってくれました。

しかし、どうも新人らしく、切られるたびに、髪の毛に鋏が絡むような感じで引っ張られて、少々痛い。なんとか我慢して最後に、「眉毛整えてもらってもいいですか」と頼むと、四苦八苦している様子です。「すみません」と謝るので、眼を開けて見てみると右の眼の上の眉が半分なくなっていました。

 眉が半分ない顔と言うのは、非常に変なものです。思わず鏡に映る自分の顔を笑ってしまいました。眉は、暑い夏に汗がゴミと一緒に流れても、眼に入らないように防いでくれると言う働きもあり、普段邪魔に感じていた眉が必要な存在であることを確認できたと言う経験です。

私たちには自己中心という問題が深い所にあります。余りにも自分の一部になっているので、非常に気がつきにくい罪です。その様な時、それに気づかせてくれるのが、どうもあの人は苦手だと思う様な人の存在です。自分の思う通りにはゆかない、その様な人々の言動が、私たちの中に隠れている自己中心の性質を刺激してくれるからです。

そうなると、私たちは自分が深い所で神中心ではなかったことに気がつき、神様の前に悔い改める機会を持つことができます。相手の存在が、自分ひとりでは気がつかない罪の部分、弱い部分に気づかせてくれるのです。

新聞の投書に、「子どもを産み、育てるようになってから、怒りをコントロールできない自分に気がついた」と書いているお母さんのことばが載っていました。我が子が誕生し、深く関わる様になって、初めて気がついた自分の弱さということでしょうか。

神様は、キリストの体の一部として互いに交わる時、本当の自分の姿に気づかせると言う恵みを私たちに与えてくださることも覚えておきたいと思います。

次に、教会はキリストの体と言う譬えから教えられるのは、からだの部分に優劣はなく、すべての部分が必要とされていることです。

新約聖書に登場するコリント教会は、賜物を持った人が集まった教会として有名でした。しかし、豊かな賜物を持つコリント教会が最も対立、分裂の多い教会でもあったのです。

何故でしょうか。彼らが賜物、能力の違いを役割の違いと見ず、人間として優れているか,劣っているかの判断の基準にしていたためです。神様がひとりひとりに与えた賜物、能力、性格などの違いを人間としての優劣をあらわすものと考える。これも、私たちが生れながらにして持っている罪の性質から来る考え方なのです。

イエス様の弟子たちも、「自分たちの中で誰が一番偉いのか」を何度も議論し、イエス様に戒められていますから、いかに私たちは人と自分を比べては、優越感を抱いたり、劣等感に悩んだりしやすい存在であるかと思わされます。

自分も兄弟姉妹も、神様と交わることのできる尊い人間として創造されたこと。イエス・キリストが命がけで罪を贖ってくださった大切な存在であること。このいつも心にとめて、交わりをなしてゆけたらと思います。

ある時、私は河原でキャンプをしていて、水にぬれた小石に足を滑らせ転倒。小指を骨折したことがあります。それまでは「たかが小指」と思っていましたが、これが使えないとなると、物が掴みにくいなど意外に不便でした。それに何より、小さきと言えども、小指骨折の痛みは強烈でした。

しかし、その時思ったのです。頭の中にある脳は、こんな小さな器官の痛みも、ちゃんと受けとめてくれていると。そして、かしらであるイエス様は、私たちがキリストの体のどんなに小さな部分であっても、私たちの痛み苦しみをすべて理解し、受けとめてくださっているお方であることを分かった気持ちがしたのです。

私たちは、口にこそ出さねど、自分などいてもいなくてもあまり変わらないと寂しく感じる時があります。しかし、かしらであるキリストから見るなら、体はすべての部分を必要としています。イエス様は、一つの欠けもあってはならないと真剣に思っておられるのです。私たちは、人数としては一人ぐらいいなくなっても構わないと感じることがあるかもしれませんが、かしらであるキリストから見れば、ひとりひとりの存在が本当に大切で、大きいものなのです。

以上、キリストの体の一部として、私たちはお互いに支え、支えられる関係の中に生かされていること、また、かしらであるキリストの眼から、自分と兄弟姉妹の存在を見ることを考えてきました。この様な心構えで、私たち交わりをなしてゆけたらと思います。

最後に、聖書が目指す教会の交わりとは何でしょうか、三つのことを確認したいと思います。聖書には「一つ一つの部分が、…備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられる」とありますが、この結び目と言うのは医学用語で、靭帯のことです。私たちの体は、靭帯によって骨と骨がしっかりと、しかも柔軟につながれ、組み合わされています。その骨と骨とを結び合わせているもの、靭帯が交わりに当たります。

キリストの体にある結び目とは、兄弟姉妹との交わりを通して、私たちの信仰を成長させてゆくと言うのが神様の計画であることを意味しています。その交わりとは具体的にどのようなものでしょうか。

第一に、神様の恵み、イエス様の恵みを共有することです。礼拝の恵みを分かち合う。みことばを学び、教えられたことや生活に適用したいことを分かち合う。人生の様々な出来事を神様の恵みとして、分かち合う。

祈祷会では、この恵みの共有を行っていますが、とても良い時間だと思います。その様な事を話すのに不安を覚える方もいるかもしれません。自分の信仰がだめなものと思われはしないかと心配する方もおられるでしょう。ですから、人の話を批判せず、自分の意見を差し挟んだりせず、先ずは聞くと言う雰囲気が必要かと思われます。

地域会や世代別の会、あるいは小さなグループや個人的に、私たち一人一人が少し勇気を出して心を開き、この様な交わりを始めるなら、そこが私たちの信仰の成長の源となるのです。

第二に、お互いに受け入れ合う関係を目指すことです。そして、お互いに受け入れ合うと言う場合、かしらであるキリストの愛がその土台になければなりません。そして、キリストの愛の最大の特徴は赦しです。

ですから、赦しの無い愛は長続きしません。愛をどんなに強調しても、赦しがないと、お互いに相手の欠点を言い合う関係になってしまい、愛は簡単に失われてしまうのです。

教会は「罪赦された罪人の集まり」とも言われます。私たちクリスチャンは神様による罪の赦し、イエス・キリストの十字架による罪の贖いを信じ、受けとっています。しかし、未だ罪人ですから、赦しを実践することは非常に難しいことです。

ある時、弟子のペテロがイエス様に、「人を赦すべきは何度まででしょうか。七度ぐらいで良いのでしょうか」と尋ねたところ、「七度を七十倍するまで」と、イエス様が答える。その様な場面が聖書に登場します。この他にも、実に多くの箇所で、赦しをテーマとしたお話や勧めが出てきます。

人間関係で失敗した時、「赦して下さい」と言えずに、つい言い訳してしまう。表面的な赦しで終わってしまい、同じ問題を繰り返す。聖書は、私たちが生涯この赦しの問題と向き合ってゆくべきことを教えているように思われます。人を赦せない自分との戦い、あるいは他人の謝罪を受け入れられない自分との戦いです。そして、この様な戦いを続けながら、交わりを実践してゆくために必要なのは、私たちがどんな時でも、神様の愛、イエス・キリストの愛に憩い、安らう時間を持つことです。人を赦せない自分が赦され、愛されていることを何度も味わい、確認することなのです。

第三に、聖書が教える交わりの姿は、共感する関係です。今日の聖句です。

 

ローマ12:15「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。」

 

世間では「隣に蔵が建てば、私は腹が立つ」と言われます。「人の不幸は蜜の味」等とも言われます。神様から離れて生きる人間の心は、他人の喜びを妬み、不幸を喜びます。

しかし、私たちが目指すべきは、喜ぶ者と一緒に喜び、泣く者と一緒に泣く関係です。皆様は兄弟姉妹の喜びや悲しみに関心があるでしょうか。他の人の喜びや悲しみについて、自分と同じように心を向けることにより、私たちの交わりはより親密になってゆきます。

ある兄弟が言われました。病気になって入院して、初めて自分は信仰を持ち、教会に行っていた良かったと思ったと。その方の思いを越えて、多くの兄弟姉妹が自分の苦しみに心を向けてくれていることが分かったのだそうです。

神様の恵みを分かち合う交わり、お互いを受け入れ合う交わり、兄弟姉妹の喜びや悲しみを共にする交わり。私たち皆がこの様な交わりに取り組み、四日市キリスト教会のかしらがイエス・キリストであることを証ししてゆきたいと思います。

2015年11月15日日曜日

エゼキエル書3章17節~21節「一書説教エゼキエル書~先にわれた者として~」


 六十六巻からなる聖書の中から、一つの書を扱う一書説教。断続して行っていますが、今日は二十六回目となります。扱う書は旧約聖書第二十六の巻、エゼキエル書。

 旧約聖書は全三十九書ですので、これで三分の二。頁数で考えますと、(残りが短い書ばかりなので)なんと九割以上読み終えていることになります。ここまで一書説教の歩みが守られていることを感謝いたします。

 バビロン捕囚の憂き目に遭いながら、預言者活動を為したエゼキエル。その言葉を皆さまとともに味わいます。毎回のことですが、一書説教の際には、扱われた書を読むことをお勧めいたします。一書説教が進むにつれて、教会の皆で聖書を読み進めるという恵みにあずかりたいと思います。

 言葉は、誰が発したものなのかによって、意味合いや重みが変わります。同じ言葉でも、それを語るのに相応しい人、相応しくない人がいます。預言書を読む際、出来るだけその預言者のことを知りつつ、読みたいところ。

 今日読むのは、エゼキエルの言葉。エゼキエル。「神が強めて下さる」という意味ですので、日本名なら「剛」さんでしょうか。エゼキエルは、どの時代、どのような人生を送った人物なのか。

 エゼキエル書1章1節~2節

第三十年の第四の月の五日、私がケバル川のほとりで、捕囚の民とともにいたとき、天が開け、私は神々しい幻を見た。それはエホヤキン王が捕囚となって連れて行かれてから五年目であった。

 

 エホヤキン王が捕囚として連れて行かれた五年目。この時、エゼキエルが三十歳の時でした。(冒頭の第三十年というのを、エゼキエルの年齢とはしない考え方もありますが、一般的には年齢とします。ここでは年齢として説教を続けます。)

 そうしますと、エゼキエルの幼少期はヨシヤ王の時代となります。善王として名高いヨシヤの宗教改革によって、人々が熱心に聖書の神様を信仰しようとしていた時。都エルサレムでは、過去数世紀の中で、最大の過越しの祭を行うなど、明るい時代でした。殊に祭司の家で育ったエゼキエルにとって、この時代は良いものであったと想像します。

 ところが、エゼキエルが十代前半で、ヨシヤ王は戦死します。善王ヨシヤの死が時の潮流の分かれ目。これ以降、南ユダは、エジプト、バビロンに翻弄され続け、繰り返し貢物を納め、繰り返し敗北をし、繰り返し奴隷として連れて行かれることを経験します。

 エゼキエルが十代後半の時。特に優秀と認められた者たちが、バビロンに連れて行かれました。聖書の中で有名な人で言えば、預言者ダニエル(おそらくエゼキエルと同世代、あるいは年下)が、この最初の捕囚の一人です。

 続けてエゼキエルが二十五歳の時、エホヤキン王とともに一万人程の人がバビロンに連れて行かれます。この中にエゼキエルが含まれていました。自分自身も捕囚の憂き目に遭う。大変な状況。しかし、南ユダには神殿が残り、多くの預言者(今の私たちからすれば偽預言者と分かるのですが)が、バビロンの支配は長く続かない。早期帰還を預言していたため、人々は悔い改めることなく、神様に立ち返ることがない状況。

 そのため、エゼキエルが三十五歳の時、ついにバビロンによる決定的な敗北。神殿が破壊され、連れて行く価値のないとみなされた者以外は、バビロンへ連れて行かれる。決定的なバビロン捕囚が起こります。

 エゼキエルが預言者として活動を開始したのは三十歳。つまり、奴隷として連れて行かれた場所で、預言者としての活動を開始。その後、神殿崩壊という決定的なバビロン捕囚が起こるも、その働きは継続します。(同時代、南ユダにはエレミヤがいました。エゼキエルはバビロンにて預言者として活動した人物。)

 エゼキエルの言葉は、激動の時代、奴隷として連れて行かれた者たちの中で語られたものでした。

 

 エゼキエル書には、様々な特徴を見出すことが出来ますが、読む前に二つの特徴を覚えておきたいと思います。それぞれ、読みやすさと、読みにくさの特徴です。

読みやすいというのは、基本的には、時系列通りに記されているという点。(ただし諸外国への宣告は、時系列から外れている部分があります。)それも、ところどころに年代が記されています。

 多くの預言書が時系列ではなく、その時代のことを把握していないと読みづらいものであるのに対して、エゼキエル書は年代順に並んでいるため、構成と、テーマが掴みやすい。エゼキエル書の読みやすさです。

 読みにくいと感じるのは、幻による表現が多いこと。幻というのは、見た本人には意味が分かるものでも、その幻を記したものを他の人が読むと、何を意味しているのか分かりづらい、推測でしか分からない、あるいは全く分からないことがあります。(聖書の中では黙示文学と言われるジャンルに幻が多く出てきます。エゼキエル書以外では、ダニエル書、ゼカリヤ書、ヨハネの黙示録などがそれにあたります。)この幻による預言が多いということが、エゼキエル書の読みにくいところ。何を意味しているのか分からない箇所を、決めつけて読むことは避けつつ、分かることがあれば、それを喜びたいと思います。

 

 それでは実際の内容ですが、大きく四つに分けることが出来ます。少しずつ確認していきたいと思います。

 一つ目は「序」にあたるエゼキエルが預言者として召されていく時の記録(一章から三章)。当時の状況から、この時、預言者として立つことがいかに困難であったかと思います。バビロンに奴隷として連れていかれるも、まだ神殿は残り、エルサレムに残っている人たちもいる。(偽)預言者たちは、バビロンの支配はすぐに終わると言う。この状況で、悔い改めを説き、神の裁きを宣言し、神殿崩壊を予告することは、困難というだけでなく危険なことでした。事実、南ユダでバビロンへの降伏を説いていたエレミヤは、民衆から嫌われ、何度も命の危険を経験しています。

 そのためでしょうか。繰り返しその働きの困難さと、神様の守りが語られています。

 エゼキエル3章7節~9節

しかし、イスラエルの家はあなたの言うことを聞こうとはしない。彼らはわたしの言うことを聞こうとはしないからだ。イスラエルの全家は鉄面皮で、心がかたくなだからだ。見よ。わたしはあなたの顔を、彼らの顔と同じように堅くし、あなたの額を、彼らの額と同じように堅くする。わたしはあなたの額を、火打石よりも堅い金剛石のようにする。彼らは反逆の家だから、彼らを恐れるな。彼らの顔にひるむな。

 

 二つ目は、神様の裁き、エルサレム崩壊の預言(四章から二十四章)の記録です。神殿は神様が守って下さる。特別な恵みによって、バビロンから救い出されると考えた方が、信仰的なのではないかと思える中で、今は従順に、バビロンを通してなされる神様の懲らしめに服するように訴え続ける姿が続きます。

 その預言の方法は、言葉だけではありませんでした。粘土板と鉄の平なべなど、教材を用いた預言(四章)。バビロンによるエルサレムの欠乏を示すため、ありあわせの食料をかき集めてそれを食べるように。薪も欠乏することを示すために、パン菓子は「人の糞」で焼くようにとの命令。つまり、エゼキエルの生き方を通しての預言(四章)。そり落とした髪の毛を、一部は焼き、一部は剣で打ち、一部はまき散らすという、象徴的な行為による預言(五章)。そしておそらくは、エゼキエルにとって最も辛かったと思うのが、妻の死をもとに預言する場面(二十四章)。エルサレムが崩壊するその時、エゼキエルの妻が突然死にます。夫エゼキエルは、妻の死を嘆くこと、泣くこともしません。真に嘆き、泣くべきは、エルサレムの滅亡という意味でしょうか。それが、神様からの命令だったとあり、預言者として労することの苦難が浮き彫りになる場面。

神様の裁き、エルサレム崩壊という内容。語る内容は同じですが、それを様々な方法で預言するエゼキエルの姿を見ることになります。

 

 それでは、何故これほど執拗に、神様の裁きが語られたのでしょうか。それは不幸を宣言するためではなく、悔い改めの必要を伝えるためでした。

 エゼキエル18章21節、23節

しかし、悪者でも、自分の犯したすべての罪から立ち返り、わたしのすべてのおきてを守り、公義と正義を行なうなら、彼は必ず生きて、死ぬことはない。

わたしは悪者の死を喜ぶだろうか。――神である主の御告げ。――彼がその態度を悔い改めて、生きることを喜ばないだろうか。

 

 エゼキエル書の前半。神殿崩壊が起こるまでの間にされた預言の中心は、神様の裁きがあるということ。しかし、それは悔い改めの勧めでした。エゼキエル書を読む際、繰り返される裁きの預言を前に、私たち自身、悔い改めるべき罪はないか、確認したいと思います。

 

 三つ目は、近隣諸外国に対する裁きの宣告(二十五章から三十二章)の記録です。アモン、モアブ、エドム、ペリシテ、ツロ、エジプトと、それぞれの国に対して次々と神様の裁きが語られます。

 イザヤもエレミヤも、他国に対する預言をし、エゼキエルもしていた。私たちの神様は、南ユダの神というだけでなく、全世界の支配者です。近隣諸国に対する裁きの理由。その一つは、エルサレムが崩壊していく時、それを喜んだことです。

 エゼキエル書25章2節~3節

人の子よ。顔をアモン人に向け、彼らに預言せよ。あなたはアモン人に言え。神である主のことばを聞け。神である主はこう仰せられる。わたしの聖所が汚されたとき、イスラエルの地が荒れ果てたとき、ユダの家が捕囚となって行ったとき、あなたは、あはは、と言ってあざけった。

 

 神の民である南ユダの者たちが、悔い改めない。そのために、南ユダは裁かれます。しかし、その神様の裁きを、物笑いとし、喜ぶことは、悪とみられました。私たちも、神様の懲らしめに合っている仲間を見た時に、それ見たことかとするのではなく、主の懲らしめを耐えられるように助けることが大事であることが教えられます。神の民に対する冷酷な態度はゆるさない。ここに、神の民に対する神様の愛を見ることも出来ます。

 とはいえ、エルサレムの崩壊を喜んだことだけが、近隣諸国の裁きの原因ではなく、自分を神とする高慢さも、裁きの原因として語られていました。

 エゼキエル書28章2節

人の子よ。ツロの君主に言え。神である主はこう仰せられる。あなたは心高ぶり、『私は神だ。海の真中で神の座に着いている。』と言った。あなたは自分の心を神のようにみなしたが、あなたは人であって、神ではない。

 

 自分を神とする。神を神としない。その高慢が実に大きな罪であることが確認されます。こうして、神殿崩壊前と、近隣諸国に対する預言は、神様の裁きが中心。分量にして半分、エゼキエル書の前半は裁きについての書。

 

 四つ目は、エルサレム崩壊、神殿崩壊後の預言(三十三章~四十八章)。これまでと、語られる内容が変わり、回復の約束、回復の預言が繰り返し出てきます。この回復の預言も、色々な表現が用いられています。

 イスラエルの牧者(預言者、王、指導者)が、国を守らなかったことへの非難と、だからこそ神様ご自身が牧者となるという宣言。(さらには、真の牧者であるキリストの到来も預言されていました。三十四章二十三節)

 エゼキエル書34章11節

まことに、神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは自分でわたしの羊を捜し出し、これの世話をする。

 

 神様が羊飼い、神の民がその羊という見立ては、旧約、新約問わず、よく見られるものです。当時の人々にとって、身近で分かりやすいたとえ。また、おそらくエゼキエル書で最も有名な、干からびた骨が、生きた人へ生き返る幻。これも、回復の預言の中で語られたことでした。

 エゼキエル書37章2節、4節~5節

主は私にその上をあちらこちらと行き巡らせた。なんと、その谷間には非常に多くの骨があり、ひどく干からびていた。

主は私に仰せられた。『これらの骨に預言して言え。干からびた骨よ。主のことばを聞け。神である主はこれらの骨にこう仰せられる。見よ。わたしがおまえたちの中に息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る。』

 

 干からびた骨が生き返るなどありえないことが、神の言葉によって起る。それと同じように、復興などありえないと思われるエルサレムも必ず復興するという約束。

 更に、エゼキエルが見た、復興した新しい神殿、新しい地の幻の記録(四十章から四十八章)でエゼキエル書は閉じられることになります。その最後の言葉が印象的。

 エゼキエル書48章35節

その日からこの町の名は、『主はここにおられる。』と呼ばれる。

 

 神の民が住むところのあるべき姿は、「主はここにおられる」と呼ばれるもの。その麗しい幻で閉じられることになります。

 

 以上、読みやすさと読みにくさ、両方の特徴を持つ大預言書、エゼキエル書でした。前半の罪の糾弾、悔い改めの勧めを読む際には、私たち自身も、自分の心の内を顧み、罪を悔い改めること。後半の回復の預言を読む際には、キリストにあって頂いた恵みの大きさをよくよく考え、さらには、これから頂く恵みに期待したいと思います。かつて、私とは違う人たちに語られた言葉として読むのではなく、今の私にも語られている者として、読み進めたいと思います。

 多くの事が教えられるエゼキエル書。実際に読み、それぞれで味わったことを分かち合いたいと思いますが、最後に一つのことを確認して終わりにしたいと思います。エゼキエルが預言者として召された場面。(また、回復の預言を語るように言われた時も、エゼキエルは同じことが求められています。三十三章。)

 エゼキエル書3章17節~18節

人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの家の見張り人とした。あなたは、わたしの口からことばを聞くとき、わたしに代わって彼らに警告を与えよ。わたしが悪者に、『あなたは必ず死ぬ。』と言うとき、もしあなたが彼に警告を与えず、悪者に悪の道から離れて生きのびるように語って、警告しないなら、その悪者は自分の不義のために死ぬ。そして、わたしは彼の血の責任をあなたに問う。

 

 ここに先に救われた者に対して、神様が求めていることが出てきます。相手が聞き、受け入れるかどうかは問わない。しかし、伝えるべきことを伝えないとしたら、それは私たちの責任となる。伝えるべきことを伝えないのは、危険なことでした。

キリストを信じることによって聖霊を受け(使徒2章38節~39節)、聖霊の力によってキリストの証人(使徒1章8節)とされた私たち。エゼキエル同様、まだそれを聞いていない人々に、届けるべきメッセージを頂いた私たち。今、私たちが手にしている福音を、誰に伝えるべきなのか。よくよく考えたいと思います。

2015年11月8日日曜日

成長感謝礼拝 ヨハネの手紙第Ⅰ1章1節~4節「いのちを感謝する」


 十一月になり秋が深まりました。私たちの国では、十月から十一月、様々な記念日があります。体育の日があり、文化の日があり、勤労感謝の日があります。(私たちにとっては、十月三十一日の宗教改革記念日も大事な日です。)一年のいつでも、体を動かし、文化に親しみ、勤労を尊ぶことは大事なこと。記念日だけ意識すれば良いというものではないのですが、記念日は思いを新たにする一つのきっかけとなります。

今日は、成長感謝礼拝の日です。一年のいつでも、神様から与えられたいのちを大切にし、成長を感謝することは大事なことですが、今日の礼拝が一つのきっかけとなりますように。神様との関係を再度考えること。今の時代、この場所でいのちが与えられていることの意味を再確認出来るようにと願っています。皆様とともに、「いのちを感謝する」とは、どのような生き方なのか、考えたいと思います。

 

 神様が世界を造られた時、神様の目で世界を見て、どのように思われたのか。聖書には次のように記されています。

 創世記1章31節

そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常に良かった。こうして夕があり、朝があった。第六日。

 

 世界は非常に良い状態でした。ところで「良い」というのは、どのような意味でしょうか。通常、「良い」というのは、目的に沿っていることを意味します。例えば、「良いボール」というのは、投げるという目的に適した物。「良いペン」というのは、書くという目的に沿っている物。

少し変な表現ですが、「良いボール」で何かを書こうとしても書けないですし、「良いペン」を投げ合うことは危険なことです。「良いボール」はペンとしては良くないですし、「良いペン」はボールとしては良くないのです。「良い」というのは、目的に沿っているということ。

 神様が世界を見られた時、それは非常に良かったと言われています。それはつまり、世界には、神様が定めたもう目的があり、全てのものが、その目的に沿っている状態。神様の考えられた目的に適した状況になっていたということです。

 それでは、人間に対する神様の目的は何だったでしょうか。人間はどのような目的に沿っている状態だったのでしょうか。

 ウェストミンスター小教理問答の第一問とその答えは次のようなものでした。

「問一 人の主な目的は、何ですか。」

「答え 人の主な目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。」

 人間が造られた目的は、神の栄光をあらわし、神を喜ぶこと。言い換えると、神様ご自身と、神様が下さったものを感謝するということです。人間は、神様に感謝する者として造られました。(創造論から考えて、神様に感謝することは私たちにとって大事なことです。)

 

ところが、最初の人間、アダムとエバが罪を犯し、堕落します。行った行為としては、禁じられていた、木の実を食べるということ。その意味するのは、神様を無視するということ。アダムとエバが堕落した結果、罪あるアダムとエバからは、罪ある人間が生まれることになる。残念無念。私たち自身、罪ある者として生まれ、今も罪の影響があります。

 それでは罪の本質とは何でしょうか。それは神様を無視すること。神様抜きで生きることが出来ると思うこと。神様の喜ばれない生き方をすること。

 もともと、神様に感謝をあらわす存在として創られた私たちですが、罪ある状態は、その目的に沿って生きることが出来ないのです。当然のことですが、神を無視して生きる者は、神様に感謝することはないのです。罪がいかに悲惨であるのか。色々な表現が出来ますが、神様の意図に沿って生きることが出来ないというのも、罪の悲惨の一つです。

 

 罪の悲惨から私たちを救うために来られたのが、イエス・キリストです。キリストを信じる者は、罪から解放さていく者。神の民、クリスチャンである私たちは、神様に感謝して生きるという、創られた目的に沿って生きることが出来るようにされた者。神様に感謝をする者へと変えられた者です。(救済論から考えても、神様に感謝することは私たちにとって大事なことです。)

 このように考えますと、聖書の教える感謝する者として生きるためには、どうしても、イエス・キリストを信じる必要があります。今日お集まりの皆様の中で、主イエスを信じていない方は、イエスキリストこそ、罪からの救い主であると信じることを心からお勧めいたします。

 

 ところでキリストを救い主と信じたら、いつでも神様に感謝をしているのかと言えば、そうでもありません。クリスチャンは、罪の影響から、徐々に解放されていく者。それはつまり、罪の影響があるということです。この一週間で自分が口にした言葉のうち、感謝の言葉はどれ位あったのか。考えてみると恥ずかしくなります。

 

聖書の中に、感謝する人、感謝しない人の対比で、有名なエピソードがあります。ツァラアトという重い皮膚病を患った十人の人が、キリストに癒された場面。

 ルカ17章11節~19節

そのころイエスはエルサレムに上られる途中、サマリヤとガリラヤの境を通られた。ある村に入ると、十人のツァラアトに冒された人がイエスに出会った。彼らは遠く離れた所に立って、声を張り上げて、「イエスさま、先生。どうぞあわれんでください」と言った。イエスはこれを見て言われた。「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。」彼らは行く途中できよめられた。そのうちのひとりは、自分のいやされたことがわかると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリヤ人であった。そこでイエスは言われた。「十人きよめられたのではないか。九人はどこにいるのか。神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だれもいないのか。」それからその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰が、あなたを直したのです。」

 

 特別に難しいことはない。読んでそのままの出来事。不治の病、それも社会から隔離される病を患った絶望の十人が、皆、同じように癒された。それが、感謝のために戻ってきたのは、一人であった。感謝した者は、十分の一であったという痛恨の記録。

 自分の受けた恵みを確認した時、あまりのことに絶叫しながら神をほめたたえ、急いでイエス様のもとに帰って、全身全霊で感謝を表した人。その純粋さ、清々しさに憧れます。この人のようでありたいと願います。

同時に、イエス様の「九人はどこにいるのか。」という声が胸に刺さる場面。どこまでも忘恩の民。無礼な者たち。苦しい時の神頼みに尽きて、自由気ままに恵みを食い漁って、感謝することはない。その姿が、実は私の姿ではないかと、胸に手を当てます。

 

 また自分が感謝したことの内容を振り返りますと、その殆どが、良かったこと、祝福だと感じたこと、特別な恵みだと思うことに対してです。今日、いのちがあること、いのちを支えるのに必要なものが与えられていることを、どれだけ真剣に感謝してきたのか。

 特別な恵みに感謝することすら出来ていないと思う時に、日々の恵みに感謝しているのか問われると、ますます居心地が悪くなります。とはいえ、いのちを感謝しない生き方は、危険なことでもありました。イエス様が語られた譬え話が思い出されます。

 

 ルカ12章16節~21節

それから人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。

 

 「愚かな金持ち」の譬えと言われる話。イエス様の譬え話には、難解なもの。どう考えたら良いのか悩むものも多いですが、この譬えは至極簡単。最後にはどんでん返しがあり、印象的な話です。

 畑が豊作となった男。豊作ということは、天候の影響もありますが、農家の働きも関係があるでしょう。土地を耕し、肥料をまき、水を注ぎ。やれることをやっての豊作。それも、これまでの倉には収まりきらない。より大きな新しい倉を建てなければという程の大豊作ですので、農家としては大成功でした。

勤勉であり、知恵も働き、計画性もある人。「愚かな金持ち」と評されるわりには、しっかりした人物。では、何が愚かなのかと言えば、いのちを感謝することをしなかった点です。自分のいのちは自分で守ることが出来る。自分のいのちは、財産や食べ物があれば大丈夫と考えていた。いや、そこまで明確に、財産や食べ物があればいのちは大丈夫と考えていなかったかもしれませんが、少なくとも、そのような生き方をしていたのです。

 神様から、いのちを与えられていることを意識しない。感謝しない男の姿です。いのちがあるのは当たり前。自分のいのちは、自分で守ることが出来ると思っている。このような思いが、私たちの心の中にないか確認する必要があります。心のどこかで、お金があれば、学歴があれば、この会社に就職していれば、この能力を身につけていれば、この人と良い関係にあれば、これで私のいのちは大丈夫と思っていないか。

 

 この成長感謝礼拝を一つの記念として、私たちは自分のいのちの所有者が誰であるのか。しっかりと再確認したいと思います。

考えてみますと、私たちが生きてゆくのに必要なもので、自分で用意したものは一つもありません。私たちの体の仕組みで、自分で作ったものもない。生きるのに必要な水、空気、光、土、植物、動物などで、自分で用意したものもない。生きるのに必要な環境、太陽、地球、星、様々な法則などで、自分で作ったものもありません。もちろん、いのちそのものも、自分で作っていません。驚くほど良く出来ている私たちの体、心、この世界。これら、全て自分で作ったものはなく、用意したものはないのに、自分のいのちは私の所有であり、自分のいのちを自分で何とか出来ると考えるのは、あまりにおかしな話。

いのちそのものも、いのちを支えるのに必要なあらゆるものも、喜んで生きることが出来るように備えられたものも、全て神様が下さったものであることを覚え、意識しながら、この一週間を生きていきたいと思います。

 

 ところで、私たちはこの肉体のいのちを神様から頂きましたが、もう一つ、より重要ないのちを頂いた者です。キリストを信じることで頂いたいのち。永遠のいのち、キリストのいのちです。

先に確認しましたように、永遠のいのちがあるからこそ、正しく感謝する歩みが出来るようになりました。ただ生きているのではない。キリストによって救われた者として生きることが出来ている。この永遠のいのちを、私たちはどれだけ感謝しているでしょうか。

過去の罪も、未来の罪も完全に赦されていること。キリストに似る者に、変えられていること。神の子とされ、天国を受け継ぐ者とされたこと。神様と交わることが許されていること。生きる意味を知り、有意義な人生を送れること。本当の意味で神を愛し、人を愛することが出来ること。これがどれだけ大きな恵みであるのか。

 

 パウロは、永遠のいのちと、地上のいのちを比較して、次のように言っていました。

 ピリピ1章23節

私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。

 

 パウロが地上のいのちを軽視していたわけではありません。肉体のいのちの尊さを十分わきまえつつ、それでも、永遠のいのちの方が、より素晴らしいとの告白です。この地上のあらゆることも、肉体のいのちあってのこと。その肉体のいのちよりも、更に良いものを頂いている。ありとあらゆるものの中で、最上のものを頂いているという告白です。

 

 ヨハネは、永遠のいのちを頂いたことの喜び、感謝を次のように表現していました。

 Ⅰヨハネ1章1節~4節

初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、――このいのちが現われ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現わされた永遠のいのちです。――私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全きものとなるためです。

 

 イエスキリストとの出会い、交わり。イエス様に救われ、永遠のいのちを頂いた喜び、感謝が、ヨハネならではの表現で記されています。主イエスの言葉を聞き、目で見、手で触ることが出来た。それがどれ程、ヨハネにとって感謝なことであったのか。生々しく、実感のこもった表現。

 そして、この手紙を読む者に、このイエスを知ってもらいたい。イエスを知ることで、神の民の交わり、神様との交わりに加わってもらいたいと言います。

 ヨハネの強調点に従えば、永遠のいのちを感謝するとは、神様との交わり、神の民の交わりを喜ぶことだと確認出来ます。

 与えられた永遠のいのちを感謝する生き方とは何かと言えば、神様との交わり、神の民の交わりを喜ぶこと。そのように確認して、礼拝の恵み、教会の恵みを、ますます味わうものでありたいと思います。

 

 以上、私たちにとって、神様に感謝することがいかに大切なことか。中でも、いのちを感謝すること、肉体のいのちも、永遠のいのちも神様から頂いたことを、感謝すること。神様との交わり、神の民の交わりを喜びたいと思います。

あれやこれやとある過密スケジュールの中で忙殺されて生きるのではなく、この日曜日、しっかりと時間をとって、頂いた恵みがどのようなものなのか、私たち皆で再確認したいと思います。