2015年10月11日日曜日

マタイの福音書5章4節「山上の説教(2)~悲しむ者は~」


先週から、私たちは山上の説教の学びに入りました。イエス・キリストが古里がリラやの山から弟子たちにお互りになった山上の説教は、「幸いです」で始まる八つの教え、所謂八福の教え、幸福の使信よばれるもので幕を開けます。

私たちの聖書には「悲しむ者は幸いです」とありますが、昔の文語訳では「幸いなるかな、悲しむ者。その人は慰められん」とあります。これがイエス様の言われた通りの順序でした。つまり、八つとも「幸いなるかな」で始まり、その後にどういう人が幸いなのかが教えられていたのです。

この八つの祝福が同じ約束で始まり、同じ約束で終わっていることに、皆様は気がつかれたでしょうか。最初イエス様は「天の御国はその人のものだからです」と約束し、最後も同じく「天の御国はその人のものだからです」で閉じておられます。「天の御国はその人のもの」とは、イエス様が幸いだと言われた弟子たちが、すでに天の御国にいることを示しています。

当時、ユダヤ人は神様への畏れから、直接的に「神」と言わず、「天」に置き換えて言い表していました。ですから、天の御国は神の国とも言えますし、事実聖書の他の箇所では多く神の国と言う表現が登場してきます。

そして、神の国とは神様の支配を意味します。ことばを代えて言えば、イエス様を信じて、天の父のみこころに従う生き方をする者、イエス様の弟子たちの心に神の国はあるということになるでしょうか。この八つの教えから始まる山上の説教を、イエス様の弟子である私たちに幸いな生き方を教えるものとして、読み進めてゆきたいと思います。

ところで、イエス様が使われた「悲しい」は、非常に深い悲しみを表わすことばです。それも、今昔悲しいことがあったとか、将来悲しいことが起こるかもしれないと言うのではなく、今現在嘆くほどに悲しんでいる状態を指していました。

心底悲しんでいる人が、同時に幸福を感じていると言うことはあり得ません。それでは、何故イエス様は「悲しむ人は幸いです」と言われたのでしょうか。

それは、悲しむべきことを悲しんでいる人は、イエス様の眼から見て幸いな状態にあるからです。

ここで言われる「幸い」は、私たちが幸福感を感じるているかどうかではなく、イエス様の眼から見て、悲しむべきことを悲しんでいる時、私たちは非常に幸いな状態にあることを意味していました。つまり、私たちは悲しむべきことを悲しむ生き方を実践することにより、真の幸福、真の喜びへと導かれると言えるでしょうか。

聖書によれば、最初私たちはこの世界を創造した神様との愛の交わり、親しい交わりの中に生きる者として造られました。神様から受けとる愛によって、人間は人間らしく生きることができたのです。

しかし、神様に背を向けた人間は、自分の存在価値が分からない、心から愛し合うことができない等、様々な能力を失いました。それら失ったものの一つが、神様の眼から見て悲しむべきことを悲しむことができなくなってしまったと言う問題なのです。

それでは、イエス様は何を悲しむべきと教えているのでしょうか。それは、私たち自身の中にある罪とこの世界における罪の現われです。イエス様はある時、こう言われました。

 

マルコ2:17「イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」

イエス様は、当時のユダヤ人の多くが、自分自身の罪に気がついていなかったから、あるいは、自分の力ではなおせない程、罪が深刻な魂の病気であることを理解していなかったため、この様に語られました。果たして、私たちはどうでしょうか。自分の罪に気がつき、それを悲しんでいるでしょうか。自分の罪が深刻な病であると感じ、嘆き悲しんでいるでしょうか。使徒パウロの告白に聞きたいと思います。

 

ローマ7:18 私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。」

 

自分でしたいと思う善を行わないで、かえってしたくない悪を行ってしまう自分。皆様は思い当たることないでしょうか。相手に優しくしようと思いながら、自分のやり方が受け入れられず、かえって相手を感情的に責めてしまう自分。寛容でありたいと願いながら、つい短気を起こしてしまう自分。頭の中では親切にしなければと分かっていても、不親切で冷淡になってしまう自分。その様な経験はないでしょうか。

また、たとえ、正しいことを実行したとしても、心の動機が悲しむべきものと言う場合もある様に思われます。讃美歌作者のペイソンと云う人が、「私はなんと情けない人間なんだろう。自分の家の草取りをしている時でも、虚栄と高慢と云う罪を貪っている」、と告白しました。ひとりで休日に庭の草を引っ張って抜く。小さな庭の草取りをしながら、そうした時でも自分は虚栄の塊。高慢の塊であることを神さまに告白いたします」、と彼は言っているのです。

何故でしょうか。どうして泥だらけになって草引きをしている人が、虚栄と高慢の塊なのか。彼はこう言っています。「私は最初何の気なくワイシャツの腕まくりをし、庭の草引きをし始めた。ところがそれをしているうちに、この自分の泥まみれの仕事振りを家の者にも見せたくなった。近所の人にも見てもらおうとしだす。いかにも自分は働き者だと褒められたい思いに駆られてくる。それは虚栄心ではないか。また、人に手助けを請わないで、自分ひとりで庭をきれいにしてみせることによって、俺が自分ひとりでやったんだ。自慢したくなる。高慢の心だ」。こう、彼は自分の心を分析したのです。

人の評判を意識した奉仕、ちょっとした善行を人に見せたくなる高慢、相手からの報いを期待してなす親切。そう考えると、聖なる神様の眼から見るなら、私たちの善行のうち、一体何パーセントが、相手の幸いを願う心からなされた本当の善行なのか。そう思わざるを得ません。

さらに、それをしたら相手が傷つくと分かっていながら、あえてそれを行う悪しき性質が心に潜んでいることに気がつくと、神様に罪赦された者としてその様な事を考えたり、感じたり、実行したことを嘆き、悲しみの思いに打ちのめされるのです。自分の悲しみについて、パウロはこう語っています。

 

ローマ724 「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」

 

罪の性質を宿している自分の体を死の体と呼び、私は本当に惨めな人間ですと、神様の前に頭を垂れ、悲しむパウロ。皆様はこのパウロのことばに同意するでしょうか。同じ告白ができるでしょうか。私たちもパウロと同じく、神様の前に自分の罪を悲しむ者でありたいと思います。

 しかし、私たちは自分の罪を悲しむことで終わってしまってはならないと、イエス様の生き方から教えられます。果てしなく続く戦い、差別、道徳的混乱、病や死。イエス様はこの世界が悲惨で、不幸な状態にあることを見、それらの根っこに罪があることを知っておられました。その故に、深く悲しんでおられたのです。

 

 マタイ8:16,17「夕方になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れて来た。そこで、イエスはみことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみなお直しになった。これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」

 

 イエス様はその生涯の多くの日々を、苦しむ人々の中で過ごされました。彼らに対しておとりになったその態度が、私たちに対する神様の思いを示しているのです。

イエス様は全能の神です。ですから、悪霊を追いだし、病を癒すことができました。癒し自体はイエス様にとって簡単なことであったでしょう。しかし、ここで聖書が伝えているのはその様な事ではありません。イエス様が人間の罪がもたらした様々な痛みや苦しみをご自身が負われたこと。不幸な出来事や病が私たちにもたらす悲しみを理解し、ご自身の悲しみとされた姿を伝えています。イエス様はご自分も深く悲しみながら、苦しむ人、傷ついた人に接しておられたのです。

「悲しむ人は幸いである」言われたイエス様は、私たちも同じであれと、教えています。罪と罪の現われに苦しむ人々のことを、自分のことのように思い、接してゆく生き方が、神様の祝福のうちにある人生であることを教えているのです。

それでは、悲しむ人が与えられる幸い、慰めとは何でしょうか。イエス様は「悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです」と言われ、どの様な慰めかを説明していません。しかし、これは当時ユダヤ人が良く使っていた表現で、神様からの慰めを意味していました。

それでは、聖書が示す神様からの慰めとは何でしょうか。

第一に、罪を悲しむ者は、イエス・キリストを救い主と信頼する思いに導かれ、その人は、神の子とされると言う慰めです。神の怒りの対象であった私たちが、イエス・キリストによる罪の贖いの恵みを信じる、ただその一点で神様の愛される子になると言う慰めです。

 

ローマ8:15「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。」

 

イエス・キリストを信じる者と神様の関係は、奴隷と主人の関係とは全く違うと言われています。奴隷はいつ主人から罰せられるか、責められるかわからない、そんな恐れと不安の中に生きています。しかし、イエス様を頼る私たちはどの様な状態にあっても、神様の愛に守られている子どもであると言うのです。

イエス様が十字架で罪を贖ってくださったので、私たちは神様からさばかれることの無い安全な関係にあります。決して神様から責められることのない関係、ありのままの自分を受け入れて貰った安心できる関係の中に生かされていること、この様な慰めを今私たちは受け取っているのです。

第二に、将来必ずや、私たちは神様の愛で満たされた世界で永遠に生きると言う望みによって、慰められます。イエス・キリストが再臨し、この地上の世界が新しくされる日、神様の慰めにより、私たちは全ての痛み、悲しみから解放されると、聖書は約束していました。

 

黙示録21:3,4「そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」

 

私たちの悲しみを、ご自分のこととして受けとめ、感じておられる神様が、親しく近寄ってくださり、私たちの眼の涙をぬぐい取ってくださる日が来る。人間の罪がもたらした争い、差別、病、死それら一切がない世界がもたらされる。この望みあるがゆえに、私たちは今の世界がどんなに悲惨でも失望しない。この望みあるがゆえに、イエス様の弟子として歩む喜びがある。このことを確認したいと思うのです。

最後に、皆様とともに考えたいことがあります。それは、神様の慰めを受けた者として、私たちはこの地上でどう生きるべきかと言うことです。

ひとつ目は、地上にある限り、罪を悲しむ歩みを続けてゆくと言うことです。罪を悲しむことによって、私たちは本当の自分の姿を知ることができます。すさまじく罪の力に縛られている自分、情けない程弱い自分を見出すのです。つまり、罪を悲しむ人は、本当の自分を知り、認め、謙遜になると言うことです。

罪を悲しむことをしない人は、他の人をさばきがちです。相手の弱さや欠けを見出すと、正当論と言うのか、「~すべし」と言う態度を前面に出して、接することが多いのです。私自身、これでどれ程人を傷つけてきたことかと思います。しかし、これでは苦しむ人を助けることはできません。

むしろ、自分も同じ罪の性質を宿す者として、謙遜な態度で接してゆく。そうする時、相手も安心して、自分の本当の思いを語ることができるように思います。

二つ目は、神様の慰めを受けた者として、イエス様のように人を慰める生き方をしたいと思うのです。勿論、私たちは、イエス様のように人々の病を癒したりする力はありません。しかし、神様が周りに置いてくれた人々の悲しみを理解しようと努めることや、共感すること、悲しむ人々に寄り添い、その心の声を聞くことはできる者とされたのです。

イエス様は、罪によって苦しむ人間を天から静かに見ておられる方ではありませんでした。自ら天から下り、私たちの仲間になり、私たちの悲しみを知る人となられたのです。クリスチャンとは、この様なイエス様が今自分のうちに生きて働きたもうことを信じている人です。

そうだとすれば、神様が私たちの周りに置いてくださった人々、家族、友人、地域の隣人、教会の兄弟姉妹に対し、イエス様がなされた様な交わりを広げてゆくことが、私たちが地上で目指すべき生き方ではないかと思えます。

果たして、私たちは悲しむ人に心を配っているでしょうか。そうした人々と交わるために、どれだけ時間を使っているでしょうか。今神様の慰めを受け、将来における神様の慰めを確信する私たちが、この地上に生かされていることの意味をもう一度考えたいと思います。今日の聖句です。

 

Ⅱコリント1:4「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。」

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