2015年10月18日日曜日

マタイの福音書20章1節~16節「主の前でへりくだる」


説教の冒頭で、私事を話すのは恐縮なのですが、皆様にお分かちしたいことが一つあります。先日、急遽なこととして、四日市キリスト教会の礼拝をお休み頂きまして、父が牧会をしている、千葉の小倉台キリスト教会に行きました。母はアルツハイマーが進み、一人では生活が出来ない状況で、父が骨折し二か月の入院となったためです。父、母の様子を見るのと同時に、牧師不在となった小倉台キリスト教会で説教、聖餐式の奉仕をしました。日曜日の朝、特別養護老人ホームに母を迎えに行った時のこと。どこかぼんやりとしいて覇気がなく、声もかすれている母に出会いました。親が歳を重ね弱る姿に、少し寂しさを覚え、共に教会に向かいました。教会に着き、隣の牧師館へ私が荷物を取りに行くと、母もあれやこれやと部屋を探し、礼拝用の聖書と讃美歌、献金を手にしていました。教会に行くと、教会員の方との会話を弾ませているのです。教会にいる間に、みるみる表情が明るくなり、教会の皆さんと礼拝出来るのが何より嬉しいと繰り返し言っていました。

 母の状態から考えれば、教会員の方と話した内容も、礼拝の説教も、私が説教したということも、すぐに忘れてしまいます。礼拝の前と後で、母の持つ知識、情報は何も変わりません。しかし、礼拝を通して別人のように変わる母の姿に、今更ながら、これがキリスト者にとっての礼拝なのかと、感嘆しました。記憶が混乱し、訳も分からず施設での生活が始まり、弱りに弱った魂を、神様はこのように励まし、強めて下さると確認し、心から主の御名を賛美した次第です。

 この経験を通して、私自身が強く問われたことがあります。それは、どのような思いで礼拝に出ているのか、ということ。一週間に一度、愛する仲間と顔を合わせて、共に神様を礼拝することが出来る。これは実に大きな恵みだと頭で理解しつつも、どこかで当たり前のことと考えていないか。義務と感じていないか。犠牲を払っていると思っていないか。

真剣に仲間との交わりを大切にし、礼拝を喜ぼうとしているのか。それを願い祈りながら、礼拝に集っていたのか。よくよく考えさせられました。いかがでしょうか。皆様は礼拝にどのような思いで集われているでしょうか。

 

信仰生活を続けていますと、残念なことですが、神様との関係において、「当然」「義務」「負担」と思うことが出てきます。礼拝に参加する、奉仕をささげる、交わりを持つ、献金をささげる、伝道する。これらが出来るとうのは、大きな恵みなのですが、いつの間にか、当たり前、すべきこと、出来るならやりたくないことに感じられることがあります。今の自分は、神様との関係をどのようなものと考えているのか。主イエスが語られたたとえより考えたく、聖書を開きます。

 

マタイ20章1節

天の御国は、自分のぶどう園で働く労務者を雇いに朝早く出かけた主人のようなものです。

 

 マタイの福音書には、イエス様が語られた「天の御国」についてのたとえが多く収録されていますが、これもそのうちの一つ。比較的、分量のあるたとえ話となっています。

ぶどう園の労務者を雇う主人を中心に話が展開します。イスラエル地方では、ぶどうは最も一般的な果物。直接話を聞いた聴衆にとっては、身近な場面なのでしょう。このぶどう園の主人が、なかなか厄介な御仁で、その行動も、その発言も、どうも腑に落ちない。シニカルというか、嫌味のある雇い主というか。ところが、この主人こそが、天の御国のたとえの中心というのですから驚きなのです。

 たとえ話の名手、イエス様が何を語ろうとされているのか。考えながら読み進めたいところ。

 

 ぶどうの収穫の時期に、園の主人が労務者を迎えに行き、無事に雇う事が出来たところから話が始まります。

 マタイ20章2節

彼は、労務者たちと一日一デナリの約束ができると、彼らをぶどう園にやった。

 

当時のイスラエルでは、朝六時から夕方六時までを十二時間に分けて考えますので、朝早くというのは朝六時のこと。一デナリというのは、当時の一日分の賃金として妥当なものなのでごく一般的な契約が結ばれたのです。

 働き手を探していた主人も、働きたいと願っていた者たちも、これでこの日は一安心。良かった、良かったという始まりです。しかし、ここから園の主人の、普通ではない行動が始まるのです。

 

 マタイ20章3節~7節

それから、九時ごろに出かけてみると、別の人たちが市場に立っており、何もしないでいた。そこで、彼はその人たちに言った。『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。相当のものを上げるから。』彼らは出て行った。それからまた、十二時ごろと三時ごろに出かけて行って、同じようにした。また、五時ごろ出かけてみると、別の人たちが立っていたので、彼らに言った。『なぜ、一日中仕事もしないでここにいるのですか。』彼らは言った。『だれも雇ってくれないからです。』彼は言った。『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。』

 

 園の主人は何を思ったのか、一日のうちに何度も人を雇います。よほど、人手が足りていなかったということでしょうか。しかし仮に、いくら人手が足りなかったとしても、夕方五時から、新たに人を雇うのはおかしいこと。何しろ、あと一時間で終わりの時間が来るのです。

それも、最後に雇われた人たちとの会話は、「なぜ、何もしないでここにいるのか。」との問いに「誰も雇ってくれなかった。」というものでした。一日かけて、全ての雇い人に、仕事が出来ないと見定められた者たちを、残り一時間の段階で雇ったという話。

この最後の時間に選ばれた人たちの気持ちは出てこないのですが、想像すると感動的な場面。この最後の者たちは、誰からも認められない状況で一日の大半を過ごし、焦り、不安、自己嫌悪の中で、それでも自分を雇ってくれる主人に出会えたのです。感謝、感動の場面。

この主人は、ぶどう園の経営など考えていなく、ただ人を雇いたいだけのように見えます。果たしてこの主人で、ぶどう園は破綻しないのだろうかと、不要な心配が頭をよぎるところ。とはいえ、この最後に雇われた人たちにとって、この主人との出会いは、大変良かった。幸せな出来事となりました。

 

 こうして一日が過ぎ、賃金支払いの場面となります。ここにきて、主人の嫌味たらしさが出てくるのです。

 マタイ20章8節~9節。

こうして、夕方になったので、ぶどう園の主人は、監督に言った。『労務者たちを呼んで、最後に来た者たちから順に、最初に来た者たちにまで、賃金を払ってやりなさい。』そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつもらった。

 

 一日の仕事を終え、楽しみにしている報酬の時間。朝一から働いた者たちは、我先に駆けつけるも、最後に来た者たちから報酬が支払われます。「なぜ最後の者たちから?」という疑問を抱き、「まあ、賃金の支払い順など、どうでも良いか」とブツブツ言いながらも、その最後に来た者たちが受けとった金額を見て、驚愕するのです。

 残り一時間になってから来て、ろくすっぽ働かなったあの者たちも一デナリ受け取っている。「何て気前のいい主人だ。これは良い。なるほど、なるほど。なぜ最後の者たちから、賃金の支払いなのかといぶかしんだが、あの者たちに一デナリを渡すのならば、話しは分かる。これからどんどん増えていくのであろう。あまりに多くの額を見ると、悔しがるだろうから、あの者たちには先に賃金を渡し、帰そうということか。あの主人、心得ているな。」と思い、自分がもらう報酬が高くなるであろうことに胸を膨らませていると、もう一つの驚愕が待っているのです。

 

 マタイ20章10節

最初の者たちがもらいに来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らもやはりひとり一デナリずつであった。

 

 「そんなバカな。」という状況。不公平、理不尽、不条理。一時間しか働かなかった者たちが一デナリだとするならば、自分たちはその十倍はもらえるはずではないか。仕事が違う、能力が違うというならまだしも、同じ仕事で、最後に少し来た者たちと同じ賃金。これは許せない。これでは、あの最期に来た者たちと比べて、私たちの力は、十分の一以下ということになる。その上、最後の者たちから賃金を渡し、見せつけておいて、自分たちにも同じとは、一体何なのか。ただの嫌がらせではないか。こんなひどい話はないとして、文句を言います。

 

 マタイ20章11節~12節

そこで、彼らはそれを受け取ると、主人に文句をつけて、言った。『この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。』

 

 涼しくなった夕方から一時間働いた者たちと、一日中、やける暑さの中で苦労した私たちと、同じ賃金であるというのが納得出来ない。あの暑さの中で働いた私たちの姿を、見ていないのですか。私たちの働きは評価しないのですか。最後に来た者たちに、一デナリ渡すのだから、私たちにはもっと多く出すべきでしょう、との声。

 分かります。文句を言って良いと思います。賃金に差をつけるか。皆が一デナリだと言うなら、せめて最初から働いている者たちから賃金を渡し、帰してから、次の者に賃金を払うべきなのではないかと思います。

 

 この文句に対する主人の答えで、このたとえは閉じられることになります。

 マタイ20章13節~16節

しかし、彼はそのひとりに答えて言った。『私はあなたに何も不当なことはしていない。あなたは私と一デナリの約束をしたではありませんか。自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか。それとも、私が気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか。』このように、あとの者が先になり、先の者が後になるものです。

 

 主人の答えは、「契約通り、不当なこと無し。」というもの。そう言われれば、そうなのだけれども、そもそも契約違反だと文句をつけているのではないのです。「私が気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか。」と言いますが、そうではなく、「他人に対して気前が良く、私たちに対して気前が良くない」ことが不公平だと感じているのです。どうも釈然としない。どうもモヤモヤするまま、このたとえ話は閉じられる。

 

 長らく信仰生活を続けてきた方。礼拝を守り、定期的に献金をささげ、奉仕をし、教会生活を大切にしてきた方にとって、このたとえ話は、主人の不公平さが際立つように感じます。信仰生活を守るために、大変なことも多々あるのに。天の御国では、そのような信仰者の労苦は何も関係ないものとされるのかと戸惑います。

そしてイエス様の気になる言葉、「あとの者が先になり、先の者があとになるもの。」を聞くと、それならば死ぬギリギリまで好き放題生きて、人生の最後の最後でキリストを信じるのが一番良いのではないかと思えてくる。

 果たして、このたとえ話は何を教えるものなのか。主イエスは、何を伝えよとされているのか。

 

 考えなければならないのは、この話は「人の雇い方」とか、「ぶどう園の経営の仕方」を語るものではないということ。「天の御国」がテーマとなっていることです。

 そして、天の御国の話だとすると、そもそも報酬に見合った働きをする者などいないはず。つまり、早朝から働いたような者たちは、本来、存在しないはずです。早朝から働いた者たちは、一日働いて、一日分の賃金を受け取りました。賃金を受け取るのに相応しい働きをしたのです。それでは、天の御国に入るのに、相応しい人生を送る人など、いるでしょうか。聖書は次のように宣言していました。

 

 ローマ3章23節~24節

すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。

 

 つまり、私たちは全員、このたとえに出てくる人物で言えば、最後に雇われた者たち。働く力がないと見定められていたはずなのに雇われ、働きに相応しくない報酬を頂いた者たち。それが私たちでした。それでは、本来存在しないはずの、早朝から働いた者たちが、なぜたとえ話には存在するのか。ここが、実にイエス様の巧みなところです。心の底から、自分は価なしに義と認められたのだと思っている者。キリスト者の生活も、神様の恵みと受け取っている者にとって、この話はただただ、良い話なのです。何しろ、価しないのに、素晴らしい主人と出会い、ありえない報酬を手にする話と聞こえるからです。ところが、心のどこかで、神様との関係を、雇い主と雇われ人と考えている者。あるいは、恵みを受けるのは当然と思う時。キリスト者の生活が、義務や負担と感じる時。この話は、気に入らない。納得のいかない話となるのです。自分を何者とするのか。神様との関係をどのようなものと思っているのか。それによって、全く異なる印象を与える実に巧妙なたとえ話でした。

 

私たちはキリストを信じる際、自分の罪深さを確認し、キリストによって価無しに義とされたことを信じます。そして、だからこそ、その恵みの大きさに応えたいと願い、キリスト者の歩みを送ります。神様の恵みに応えることが出来るというのは、そのこと自体が大変大きな恵みでした。礼拝に出られること、奉仕が出来ること、交わりを喜べること、献金が出来ること、聖書を読めること、真に祈るべき相手を知り祈れるということ。これらは、恵みそのものでした。しかし、いつの間にか、キリスト者としての歩みが、労働のように思われることがある。祈ること、聖書を読むこと、教会のために労すること、礼拝をささげることが、恵みを受けるための対価と思うようになることがあるのです。いかがでしょうか。キリスト者としての歩みを、心から喜ぶ時もあれば、義務や労働のように感じたこともあったのではないでしょうか。そして今、皆様が感じる、神様との関係はどのようなものでしょうか。

 

 神様の前で、ひどい高慢は何かと言えば、自分の力でキリスト者の歩みを送っていると思うことです。私だから、ここまで信仰生活を続けられた。私だから、これだけ奉仕をささげられた。私だから、これだけの人を教会に誘うことが出来た。私だから、これだけささげることが出来た。そのような思いが心の内から湧き出てきたら、もう一度、価無しに義と認められ、良い行いすら備えて頂いている(エペソ2章10節)ことを、思い返したいのです。」皆様とともに、今日、礼拝に来くることが出来た恵みを感謝したいと思います。皆様とともに、教会の交わりを楽しみにしたいと思います。皆様とともに、キリスト者の歩みを、神様の恵みと受け止めて、主の前でへりくだる人生を送りたいと思います。

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