2015年10月4日日曜日

マタイの福音書5章1節~3節「山上の説教(1)~心の貧しい者は~」


主の日の礼拝において、これから連続して取り上げてゆきたい箇所。それは山上の説教です。イエス・キリストが故郷ガリラヤの山から語られた説教は、所謂名句、名言の宝庫。「求めよ。さらば与えられん」とか「豚に真珠」など、聖書を開いたことの無い人にも知られている有名なことばが、数多く登場します。

しかし、何と言っても印象的なのは、「幸いなるかな」と呼びかける八つの教えで始まる冒頭の箇所です。聖書的な幸福論、つまり古今東西、私たち人間が求めてやまなかった幸福、今も求めてやまない真の幸福について、イエス様自ら教えてくださっている点が、大いなる魅力と感じられます。

ところで、一般的に幸福とはどの様に考えられているでしょうか。皆様にとって、幸福とは何でしょうか。広辞苑と言う辞書には「めぐりあわせの良いこと、満ち足りた状態」とありました。収入が増えたとか、家族団欒の時が持てたなど、身の回りで何か良いことが起こり、心が満ち足りる状態を幸福と考える。よく分かる気がします。

しかし、これから詳しく見てゆくことになりますが、山上の説教が教える幸福は、それとは随分違っています。この世の言う幸福が、私たちの周りの状況、出来事に左右されるのに対し、イエス様はそれらに左右されない生き方、性質を身につけること、ことばを代えて言えば、本当にイエス様の弟子として生きることが幸いであると教えているからです。

 この様に、キリスト教的な幸福論として、山上の説教を読み進めてゆきたいと思いますが、他方、山上の説教について押さえておきたいことが幾つかあります。私たちがこれを読む時、いつも心に意識しておくと良いことです。

 先ず、山上の説教は、旧約聖書の昔、神様がイスラエルの民に与えた十戒の真の意味を説き明かしたものと言う面があります。私たちも第四週の礼拝で唱えている十戒。それを、イエス様の時代の宗教家たちは歪んだ形で理解し、人々に教えていました。それを正し、そこに込められた神様のみこころを説き明かし、当時の人々の生活に適用したのが、山上の説教なのです。

 次に、ここに語られた教えを真剣に実行しようと試みた人なら、誰でも感じると思われますが、山上の説教は私たちの罪を露わにします。私たちの行い、私たちのことば、私たちの心の願望や思いがいかに汚れているか。イエス様のことばが鏡となって、その汚れが私たちの心の眼に映し出されるのです。しかし、だからこそ、私たちはイエス様の罪の贖いの恵みに頼ることができる。これは、山上の説教を読む者にとっての恵みではないでしょうか。

 けれども、さらなる恵みがあります。山上の説教で語られる教えは、イエス様の弟子としての生き方の目標、それも生涯追い求めてゆくべき目標であると同時に、神様によって最終的に私たちが必ずこの様に造り変えて頂けると言うゴールを示す祝福のことばでもあるのです。譬えるなら、山上の説教は、私たちにとって登るのが難しい険しい山であるとともに、神様によって将来必ずその山頂に導いていただける麗しの山とも言えます。

 これらの点を踏まえながら、山上の説教に入ってゆきたいと思います。

 

 513「この群衆を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた。心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」

 

 イエス様の故郷ガリラヤは風光明媚な所。静かに水を湛えるガリラヤの湖を見下ろす、小高い山に上られたイエス様が弟子たちに顔を向けて発した第一声。それが「幸いなるかな」でした。日本語聖書では「心の貧しい者は幸いです」とありますが、元々は順序は逆。「幸いなるかな、心の貧しい者よ」と、イエス様は語られたのです。

 しかし、心の貧しい者とは、自分には頼るべきものが何一つないと考えている者を意味します。常識で言えば、頼るべきものが何一つないと感じている人は幸せとは言えません。けれども、不思議なことに、以下世の常識からすれば、幸いとは思えない人が幸いと言われています。悲しむ者、柔和な者、これは人から苦しめられ悩む者を指します。それに義に飢え渇く者、続くあわれみ深い者、心のきよい者は良いとしても、極めつけは最後の義のために迫害されている者でしょうか。

 「幸いなるかな」と聞くと、私たちは心が幸福感で満たされている状態を思い浮かべます。しかし、ここで言われる「幸いなるかな」は、神様に祝福されている状態を意味していました。

つまり、私たちがその状況をどう感じるかではなく、「ここに教えられている性質、生き方を身につけることがあなたがたにとって真の幸いであり、神様の祝福のうちにある人生なのですよ。」そうイエス様は語っておられるのです。

 それでは、第一の幸い「心の貧しい者」とは、どの様な者でしょうか。

 先ず、それは神様の前に出て、自分の心の中にあるものに目を向ける人です。聖書は、私たちが神様の前に出るなら、自分の内側にある罪に目を向けざるを得なくなると教えています。神様の聖さに直面する時、自分の中にある汚れた思いを知らされることになると言うのです。

 

詩篇139:23,24「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」

 

ダビデと言えばイスラエル史上最高の王。音楽の名手にして詩人でした。しかし、ここにある様に、ダビデはいつも神様の前に出ると、自分の内側を探り、何がいけないのかを示してくださいと神様に求めていたのです。この様な神様との交わりの時間を取ること、習慣とすること、それが幸いな人生への第一歩と教えられます。

こうして、神様の前に出て、自分の内側を省みる時、私たちは自分に誇るべき物、頼るべき物が、何一つないことを思わされます。

 

ピリピ3:3~8a「神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みにしない私たちのほうこそ、割礼の者なのです。ただし、私は、人間的なものにおいても頼むところがあります。もし、ほかの人が人間的なものに頼むところがあると思うなら、私は、それ以上です。私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。れどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。」

 

パウロと言う人ほど、人間的な目で見れば誇るもの、頼るものを持っていた人物は当時いなかったかもしれません。純粋なイスラエル民族、生粋の神の民として生まれたこと、聖書に対する知識、熱心な行いなど、イエス・キリストを知る以前は、彼自身もこれらを頼みにしていた、得意に思っていたと語っています。

しかし、イエス・キリストに出会い、その愛の深さ、広さを知ると、その余りのすばらしさのゆえに、自分が頼り、得意に感じていたものすべてを損と思うようになった、続く箇所では、「ちりあくた」つまりごみの様なものに見えてきたと言うのです。

自分の生まれ、財産、社会的肩書き、才能や行い。私たちは普段それらを周りの人と比べ優越感を抱いたり、劣等感に陥ったりしていないでしょうか。しかし、イエス・キリストを知る時、その様な生き方から私たちは解放されます。何よりも大切と思い、誇りとしてきたものが、イエス様の十字架の愛に比べるなら、本当に小さなものでしかないと気がつくことになるからです。

さらに、神様の前に出る時、私たちは自分の罪深さを思います。ここでも、パウロを例に挙げますが、神様とともに歩めば歩むほど、パウロが自分の罪の酷さ、救いがたさを認めてゆく様子が分かります。

最初イエス様を信じ、クリスチャンになったばかりの頃、パウロはこう言っていました。

 

Ⅰコリント15:9「私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。」

 

 次に、エペソ人への手紙の中では、

エペソ3:8「すべての聖徒のなかで一番小さな私…」

 と自分のことを呼んでいます。

 

 そして、晩年にはついに罪人のかしらと、自分を認めることになるのです。

 

Ⅰテモテ1:15「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」

 

 キリスト教最大の伝道者とも最高の神学者とも称されるパウロ。しかし、その歩みは自分がいかに救いがたい罪人であるか。いかに心の貧しい者か。その様な思いを深めてゆくものであったのです。自分を誇ることに死に、イエス・キリストとその恵みを誇る者へと変えられてゆく、その様な歩みでした。

 果たして、私たちの歩みはどうかと問われます。神様の前に出て、自分の罪の深さを思う時を持ってきたか。自分を誇ることよりも、イエス・キリストを誇ることが多くなっているのか。

「実るほど頭を垂れる稲穂かな」ということばがあります。成長した稲の穂がこうべを垂れる姿を、人生に譬えたものです。心貧しい者としての歩み。それは、神様と人の前に頭を垂れる謙遜さにおいて成長することと思われます。

それでは、心の貧しい人の幸いとは何でしょうか。イエス様は「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」と言われました。天の御国はその人のものとは、心の貧しい人は、神様の変わることなき愛に守られ、導かれると言う祝福のうちにあることです。

神様の愛に守られている人は、謙遜な生き方をすることができるようになります。聖書の言う謙遜とは、罪のゆえに自分一人では何も良いことができないと認めること、しかし、だからこそ神様と人に心から助けを求めることのできる生き方です。

「自分は何もできない」と座り込んで、何事にも取り組もうとしない人は、謙遜な人ではありません。真に謙遜な人とは、自分の弱さ、無力を認めるとともに、神様と神様が周りに置いてくださった兄弟姉妹、隣人などに、自分ができないことに関しへりくだって助けを求め、みことばの実践につとめる人なのです。

私たち人間は、神様を信頼し、人々と助け合う関係の中にある時、最も自分らしく、幸いに生きることができる者として創造されました。しかし、神様から心離れて生きるようになってから、人間は自分の心の貧しさを認めず、それゆえ神様にも人にも助けを求める謙遜さを失ってしまいました。

ですから、イエス様は、私たちが人間本来の幸いな生き方を回復することができるよう、この世に来られ、十字架の死において神様の測り知れない愛を示してくださったのです。

ここで、皆様に紹介したいのは、イエス様を通して、神様の愛を知った人、エリコの町で収税人の仕事をしていたザアカイの人生に起こった変化です。当時ユダヤを支配していたローマ帝国の手先となり、税金を搾り取る仕事で富を増やし、同胞を苦しめていたザアカイは、町の嫌われ者でした。ザアカイ自身もその様な人生に虚しさを感じていたことでしょう。そんなザアカイがイエス様と出会い、神様の愛に触れた時、イエス様に対しこの様に告白しています。

 

ルカ19:8「ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」」

 

「私がだまし取った物は、四倍にして返します」ということばは、ザアカイが自分の罪を認めると同時に、自分がなすべき償いに取り組む決意を示しています。また「私の財産の半分を貧しい人たちに施します」ということばは、ザアカイの心に貧しい人々の苦しみを思い遣る愛が生れてきたことを伺わせます。

ザアカイと町の人々の関係を考えると、償いも、施しも、決して簡単なことではなかったと思われます。人々の不信、疑い、怒りの目が向けられる中、心貧しい自分を知るザアカイは神様に信頼しつつ、自分のできることに取り組んでいったのです。

私たちも、神様の前に出て心の貧しさを知ることにつとめ、神様と人に助けを求める謙遜な生き方、神様が自分に与えられた賜物を感謝し、それを愛をもって活用する生き方において成長したい、成長させていただきたいと思います。今日の聖句です。

 

Ⅰテモテ1:15「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」

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