2015年9月27日日曜日

エペソ人への手紙4章16節「愛のうちに建てられ~交わりへの招き~」


誰も孤島ではなく、誰も一人ですべてではない。」これはイギリス国教会で奉仕していたジョン・ダンと言う人の祈りの一部ですが、人間は一人では生きられないこと、多くの人に支えられて生きていることを教えることばとして有名です。

日本語の人という文字も、二人の人がお互いを支え合っている姿をあらわすものとよく言われます。尤もこれは俗説で、人が両手をぶら下げて立っている形からできた文字と言うのが本当だとも言われます。

その真偽は兎も角として、そうした説が一般的になる程、人生において人との交わりが大切なものであることを多くの人が感じていることが分かります。よく行われる「生きがいについてのアンケート」でも、子どもがいること、家族との団らん、人の役に立つこと、喜んでもらえること、他人の温かさを感じること等、良い人間関係の中に生きがいを見出す人の多いことに驚かされます。

そして、これらの事実は、聖書の真理が今もなお人々の心の中に深く刻まれていることを示しているように思われるのです。神様は最初の人アダムを創造した時、「人がひとりでいるのは良くない」と考え、助け手としてエバを造りました。私たち人間は、最初から交わりの中に生きる者として創造された存在なのです。

人間は他の動物に比べ、自立するのに長い時間がかかると言うのも、よく知られた事実です。動物の中でも早いものは、親に数日から一週間育てられただけで、家族を離れ、自分で餌を取り自立して生活できるようになりますが、私たち人間の場合は自立するまで約20年。人間が人間として成長、自立するためには長い間家族を中心とした交わりが必要であることが分かります。

 人となられた神、イエス・キリストも人々との交わりの中に生きました。イエス・キリストの生涯と言うと、私たちは十字架の死に目を向けがちです。勿論、イエス様の十字架の死は人類の罪を贖うという重大な意味を持っていますが、聖書は一人の人間としてイエス様がどのように歩まれたのか。そのことに多くのページを割いています。

 イエス様は人々ともに会堂で礼拝をし、食事を楽しみ、病の人のいる家を訪問し、親戚の結婚を祝い、弟子たちと旅をしました。愛する弟子ラザロが死んだ時には、人々ともに涙しました。喉の渇きを覚えると、サマリヤの女に水を求め、活動に疲れた時は親しい友マルタとマリヤの家で休息し、十字架の死を前に恐れ悩んだ際は、信頼する弟子たちに祈りの援助を求めました。

 天の父と交わるのと同じぐらい、人々と交わることを、イエス様は大切にされたのです。ある時は人々を癒し、助け、ある時は人々に癒され、助けてもらう。その様な人々との交わりの中で生きること。それが人間らしい生き方であることをイエス様は教えてくれているのではないかと思います。

 しかし、神様から心離れて生きる人間は、イエス様のように愛をもって人々と交わることができなくなってしまいました。神様の愛を心に受け取ることのできない人間は、心を閉ざして孤立するか、交わりを求めても、どちらかが支配的で、どちらかが支配されて不自由と言う様な、歪んだ交わりが多くなってしまったのです。夫婦、親子、地域、職場、学校。今様々な分野での人間の交わりの歪みは益々酷くなっている、崩壊しつつあると言われます。

 しかし、その様な世界のために、神様が建ててくださったものがあります。それが、イエス・キリストを主とし、かしらとする教会です。聖書は教会のことを様々なことばで表現していますが、その一つが「キリストの体」でした。神様は、イエス様が示された本来の人間同士の交わりをこの世界に広げてゆくため、教会を建てられたのです。

 

 エペソ4:16「キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。」

 

 「体全体は、一つ一つの部分が…」とある様に、聖書は、クリスチャンとして生きるとは、キリストの体の一部として生きることと教えています。皆様は、このことを自覚しているでしょうか。体の一部、一つの器官として生きるとは、すべての兄弟姉妹が大切な存在であると認めること、私たちはお互いに助け合う交わりの中にあって、はじめて自分らしい生き方や働きができる存在であることを意味しています。

 果たして、私たちは四日市教会に集められたすべての人々を大切な存在と認めているでしょうか。互いに成長するために必要な存在として、神様が与えてくださった兄弟姉妹、心からそう思っているでしょうか。

 これを分かっていなかったのがコリントの教会で、彼らの間には分裂や差別、優越感を抱く人と劣等感を持つ者の間に争いが絶えなかったのです。特にコリントの人々は賜物を重視し、賜物の違い、能力の大小で、自分や相手の存在価値を考える傾向がありました。しかし、それは神様の見方とは違います。神様は賜物の違いや大小で人の価値を判断するお方ではありません。それらに関係なく、すべての人の存在が、神様にとっては大切で、かけがえのない者なのです。

 賜物の違い、大小は比べることではなく、役割の違いであって、私たちの存在価値の大小ではありません。むしろ、賜物を多く与えられている人ほど、多くの人に支えられ、助けられていると思われます。例えば、体の器官の中で心臓ほど重要な器官はないと言えるかもしれません。他の器官よりも価値があるように見えます。しかし、血管を始めとして、心臓ほど他の多くの器官に助けてもらわないと正常に働けない器官はないとも言われます。

 私たちは、キリストの体の一部として、神様の目線で自分と他の人の価値、存在の大切さを考える者になりたいと思うのです。

 また、この世は自立と言うことを強調しています。この世の言う自立とは、何でも自分ですること、何でもできる者、ひとりで生きてゆける者となることが理想とされているように思われます。ともすると、私たちも何でも奉仕を引き受ける人、弱音を吐かず、毎週礼拝に出席し、献金も怠らない、その様な人を理想のクリスチャン、自立したクリスチャンと考えがちではないでしょうか。

 しかし、聖書が教える自立したクリスチャンとは、この世の言う自立とは違っています。体の一部として生きるとは、自分が神様から与えられた賜物、自分ができることを考え、それに取り組む一方、自分の限界や弱さをわきまえ、できないことには「ノー」を言える自由とそれを他の人に依頼する謙虚さをもつこと、その様な兄弟姉妹との関係を築くことと教えられます。

 そして、この様な考え方をもとに交わりを持つ時、その交わりの中で、私たちはお互いに成長できると、聖書は語っています。「備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長する」とある通りです。

 私たちは、家庭、地域、職場などでイエス様の弟子として働く責任が与えられています。その責任を果たす中で、悩み苦しむことがあり、傷つくこともあるでしょう。疲れ果てることもあると思います。

 私たちの傷つき、疲れ果てた心は、礼拝において語られる神様のみことばによって励まされ、整えられます。その為に、神様は私たちを礼拝に招いておられるのです。しかし、それと同じく、いやそれ以上に私たちの心を励まし、整えてくれる助けがあります。兄弟姉妹との交わりの中で、悩み苦しみを分かち合うことです。

 皆様は、兄弟姉妹との交わりの中で受けたアドバイスや祈り、あるいは何もアドバイスはなくとも、自分の話を真剣に聞いて貰えたことで助けられた、心が軽くなったと言う経験はないでしょうか。私たちの心は、私たちの痛みを自分のこととして受けとめてくれる交わり、批判される心配の無い安心できる交わりの中で癒され、回復してゆくことができるのです。

 教会がキリストの体と言うのは、私たちがお互いに切っても切り離せない関わりの中にあると言うことです。私たちが第三者になるのではなく、同じ体の一部になっていることを認め、助け合い、支え合ってゆくことです。

 しかし、一方、教会は「罪赦された罪人の集まり」とも呼ばれます。誤解したり、誤解されたり、傷つけたり、傷つけられたりと言う現実がありますし、できるかぎり注意していても、この様な問題はどんな教会でも避けられないと思います。

むしろ、問題が起きた時こそ、かしらなるイエス・キリストの前に出て自分を見つめることで、これを成長のチャンスと変えることができるのではないでしょうか。人を傷つけてしまった者は、自分の高慢さや人をさばきやすい性質に気がつき、心から相手に謝罪する謙遜さを身につけることができるでしょう。

傷つけられた者も自分の弱さに気がつき、そのことを通してイエス様との交わりに向かい、より深く主を信頼する機会とすることができると思います。あるいは、信頼できる兄弟姉妹に自分の思いを話し聞いて貰うことで、相手と向き合い、相手を赦し、相手のために祈る力をもらうことができるかもしれません。

神様は、私たちをへりくだってお互いを必要とする存在として造られました。ですから、神様から助けられることはあっても、他の兄弟姉妹から助けられることは何もないと考えているとしたら、それは大変な高慢です。逆に、自分には他の兄弟姉妹を助けることのできる何物もないと考えることも、神様を悲しませる態度なのです。

神様は私たちを直接助けてくださることもありますが、私たちの周りに置かれた人々、特に兄弟姉妹を通して、私たちを助け、癒し、成長させてくださるお方です。今日は、お互いの賜物や支援、そして愛を必要とし合う交わりを築くことを通して、私たちはキリストに似た者に造り変えられてゆく、霊的に成長できることを、皆で覚えておきたいと思います。

 私たち四日市キリスト教会に与えられた祝福はいくつもありますが、その一つは兄弟姉妹の年齢、世代の多様性、賜物の多様性です。私たちの教会には、赤ん坊から100歳を越える高齢者まで、あらゆる年代層に万遍なくメンバーがいます。それぞれに与えられた賜物も実に様々で多様です。

ということは、思いがあれば様々な年代、様々な性格や賜物を持つ人々と交わることができる教会だと言うことです。皆様この祝福に気がついているでしょうか。この神様の祝福に感謝しているでしょうか。

このことを踏まえて、いくつかのことをお勧めしたいと思います。

 ひとつ目は、意識的に自分の周りの人に関心を持つこと、ちょっと勇気を出して挨拶や声をかけてみることです。「お早うございます」の一言でも、今日私はあなたに会えてうれしいと言う気持ちを伝えることができると思います。もし普段より元気がないように見えたら、「最近、調子はどうですか。少し疲れているように見えますが」と意識して声をかけることができたらと思います。そういうことばの積み重ねが、「私はあなたの幸せを願っています」と言う思いを伝え、交わりにつながってゆくのではないかと思うのです。

 二つ目は、兄弟姉妹とともに過ごす時間を持つようにすることです。毎月第二週礼拝後の祈りの交わり、第四週の地域会や、第五週に行われる世代別会など、教会のプログラムに参加することをお勧めします。世代別会は同世代の兄弟姉妹との交わり、地域会は世代をこえた交わり、住む地域が近い者同士具体的な助け合いができる交わりです。そこで、兄弟姉妹を知り、親しくなり、より深い交わりのきっかけが作れるからです。

今日は、食事交わり地域会です。イエス様がそうされた様に、共に食事をすることも、お互いに対する愛の表現です。来月10月の第四週には、第一礼拝の後の時間に地域会を持つと言う初の試みもしてみたいと考えています。

三つ目は、神様の愛を心に受けとめつつ、教会の交わりにとどまり続けることです。先ほど言ったように、教会は神様に罪赦された、しかし未だ罪人の集まりです。愛しやすい人、親しみやすい人、気の合う人ばかりが集まっているわけではありません。

しかし、もし周りが愛しやすい人、親しみやすい人ばかりだとしたら、私たちはその様な環境の中で愛を学ぶことができるでしょうか。謙遜や自制、同情心や配慮を身につけることができるでしょうか。

教会は、自己中心の罪を宿す私たちが愛を実践し、失敗する。神様から愛をもらって、また愛を実践し、失敗し、修正してゆく。そんな試行錯誤の繰り返しの中で、愛を学び、愛において成長するための学校として、神様が与えてくださったもの。その様に考え、教会の交わりの中にとどまり続けたいと思うのです。

 

エペソ4:16「キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。」

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