2015年9月6日日曜日

ヨハネの福音書21章15節~25節「あなたはわたしを愛しますか」


私たちが礼拝において読み進めてきたヨハネの福音書も、今日が最終回となります。最後の21章は、死より復活したイエス・キリストが弟子たちに現われた場面、特に三度目の現われを描いていました。

都エルサレムから故郷ガリラヤに戻った弟子たちが、夜湖に漁に出る。しかし、一匹の魚も取れず、ガッカリした所にイエス様が現われ、船の右に網をおろしなさいと命じる。それに従うと大漁の収穫。岸辺に戻れば、そこにはイエス様が炭火を起こし、朝の食事を用意して、優しく弟子たちをねぎらってくださる。先回は、この様なイエス様と弟子たちの和やかな交わりの場面を、私たち見ることができました。

さて、今日は、その様な食事の交わりが終わった後のことです。21節の「ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子があとをついてくるのを見た」ということばからすると、イエス様とペテロが並んで先頭を行き、少し離れた所をこの福音書の著者ヨハネが歩き、その後ろを他の弟子たちがついてくる。その様な様子を思い浮かべることができるように思います。そして、二人きりになるのを見計らうと、イエス様はペテロに語りかけたのです。イエス様とペテロ、一対一の会話です。

 

21:15~17「彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」イエスは再び彼に言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか。」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。」

 

最初にイエス様は、「あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか」と尋ねています。イエス様は何故「あなたは、あなたは、この人たち、つまり他の弟子たち以上に、わたしを愛しますか」と言われたのでしょうか。実は十字架前夜、イエス様は「この後あなたがたはわたしを離れてゆく。しかし、わたしは復活してガリラヤに行く」と、弟子たちに警告しました。その時、自信満々反論したのが、ペテロだったのです。

 

マタイ26:33「たとい、全部の者がつまづいても、私はつまづきません。」

 

イエス様は、ペテロが自ら口にしたこのことばを思い起こさせるため、「この人たち以上にわたしを愛しますか」と言われたと考えられます。しかし、こう豪語したペテロも、実際は他の弟子同様、イエス様が逮捕される際、逃げ去りました。

ですから、このことばを通して、「あの時あなたは他の弟子よりも、わたしに忠実であり、わたしを愛していると確信していました。しかし、その後の出来事を振り返って、今も、あなたは他の人以上にわたしを愛していると言えますか」、そうイエス様はペテロに問いかけておられるのではないかと思われます。

ペテロの答えは「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです」でした。先回も見たように、復活の主が現われたのを知った時、真っ先にイエス様のもとに近づこうとしたのはペテロ、食事の後そばを離れがたく、イエス様と一緒に歩いたのもペテロ。彼はイエス様を愛していたのです。

しかし、イエス様が十字架に命を捨ててまで罪人を赦し、愛してくださったその愛に比べれば、自分のイエス様に対する愛などいかに弱く、小さなものかを感じていたのでしょう。もはや、愛の大きさを人と比べるなどと言う考えも、なくなっていました。「本当に小さな愛ですが、私はあなたを愛していることは、あなたがご存知です」と答えたペテロの姿は自信満々とは正反対、実に謙遜だったのです。これに対して、イエス様は「わたしの小羊を飼いなさい」と命じています。ペテロが教会の指導者となり、兄弟姉妹たちに仕え、その魂を養う働きをせよと言う命令でした。

ここで注目したいのは、私たちが人に仕える時、奉仕する時、私たちの心にイエス様に対する愛があるかどうかを、イエス様は何よりも大切にしているということです。私たちの愛がいかにイエス様の測り知れない愛に支えられているかを、私たちがきちんと理解し、心深く受けとめているかどうか。それをイエス様はご覧になっているのです。

ですから、イエス様の問いかけはさらに二度、三度と続きます。そして、二度目の問いには同じ答えを返したペテロも、三度同じことを尋ねられた時「心を痛めた」とあります。恐らく、三度「あなたはわたしを愛しますか」と問われた時、裁判が行われた家の庭で「あなたも、あのイエスの弟子ですね」と言われ、思わず三度イエス様との関係を否定し、裏切ってしまった出来事を、彼は思い出したのでしょう。

イエス様は再びペテロが自分の罪、自分の弱さを見つめることを促したのです。それは彼にとって悲しいこと、辛いことであったに違いありません。しかし、その悲しみの中で、復活したイエス様が自分を一言も責めず、「あなたに平安あれ」と語られたことを思い、罪の赦しの恵みを受け取ることができたのです。

「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります」。このことばは、罪も弱さもよく知ったうえで、イエス様が自分の様な者を愛してくださっていることを堅く信じたペテロによる、精一杯の応答でした。

こうして、ペテロの愛を確認したイエス様は、次にこの後彼がどのような人生を歩むことになるのかをお告げになります。

 

21:18、19「まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。」これは、ペテロがどのような死に方をして、神の栄光を現わすかを示して、言われたことであった。こうお話しになってから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」

 

伝承によれば、ペテロはローマで兵士たちに両手を縛られ、処刑場に連れて行かれ、十字架で殉教したと言われます。イエス様と同じ姿で死ぬことは申し訳ないと、逆さ十字架を希望したと言う伝承も残っています。

それはそれとして、ここで言われている若い時の自由と年老いてからの制約と言うのは、私たちの人生にも通じるものがある様に思います。若い時には限界や制約をあまり意識せずに、自由を謳歌することができます。しかし、年齢を重ねてゆくにつれ、私たちは様々な面で限界や制約を痛感します。健康面、能力面、行動範囲の限界、また思い通りにならない現実がいかに多いか、痛感するようにもなります。

そういう意味で、このことばは、若い時も、年老いても、生涯を通じて主イエスを愛し、従ってゆく、その様な信仰の歩みに対する心構えと取ることもできるでしょう。私たちが望まない様な状況、環境の中に置かれる時こそ、十字架を担われたイエス様の愛の豊かさを味わい、イエス様への愛を深め、イエス様に従ってゆく。私たちも、その様な人生を目指したいと思います。

ところで、将来について預言されたペテロには、気になることがあったようです。それは弟子たちの中でも特に仲の良かったヨハネのことです。活動的なペテロと内省的なヨハネ。性格は対照的でしたが、二人はよく行動を共にし、十字架前夜裁判の行われていた家に行く時も、イエス様の墓に行く時も一緒でした。ですから、ペテロは、私のことは分かりましたが、ヨハネについてはどうなのですかと尋ねています。

 

21:20~23「ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子があとについて来るのを見た。この弟子はあの晩餐のとき、イエスの右側にいて、「主よ。あなたを裏切る者はだれですか。」と言った者である。ペテロは彼を見て、イエスに言った。「主よ。この人はどうですか。」イエスはペテロに言われた。「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」そこで、その弟子は死なないという話が兄弟たちの間に行き渡った。しかし、イエスはペテロに、その弟子が死なないと言われたのでなく、「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。」と言われたのである。」

 

ヨハネが福音書を書いた頃、この時のイエス様のことばが人々に誤解されていたようです。ヨハネは、イエス様が世の終わりに再臨するまで死なないと言う誤解です。それを訂正し、イエス様が伝えたかったのは、イエス様ご自身が私たち一人一人に相応しい使命と人生を与えてくださることと、ヨハネは記しました。

私たちは、とかく人の人生と自分の人生を比べて、幸不幸を考えがちです。しかし、イエス様が備えてくださった人生は、他者と比較できるものではないと教えられます。何を使命と考えるか、どれだけのことができるのか、どれだけ長く生きるのか。イエス様と私たちひとりひとりの交わりにおいて、許される特別な人生がそこにあるのです。

ですから、他人の人生を横目で見て羨んだり、他者と比べて得意になったりしてはならないと思います。むしろ、イエス様に与えられた状況を受け入れ、そこで「あなたは、わたしに従いなさい」と言われるイエス様を愛すること、従うことに集中すべしと教えられたい。そう思います。

最後は著者ヨハネの自己紹介です。しかし、最後まで自分の名前を明かさず、キリストの弟子のひとりと語るところが、ヨハネらしいと言えるでしょうか。

 

21:24,25「これらのことについてあかしした者、またこれらのことを書いた者は、その弟子である。そして、私たちは、彼のあかしが真実であることを、知っている。イエスが行なわれたことは、ほかにもたくさんあるが、もしそれらをいちいち書きしるすなら、世界も、書かれた書物を入れることができまい、と私は思う。」

 

「イエスが行なわれたことをいちいち書きしるすなら、世界も、書かれた書物を入れることができまい、と私は思う」。この最後のことばは、イエス様が地上で行われたわざがこの堕落した世界にとっていかに重大な意味を持つのか。とても書き尽くすことはできないと言うヨハネの思いを良く伝えています。私たちは、イエス様がこの世界に来られ、行われた様々なわざをどう考え、どう思っているのか。ヨハネと同じく、その尊さ、その愛に心動かされているか。そう問われるところです。

さて、今日の箇所を読み終え、改めて確認したいのは、「あなたはわたしを愛するか」と言うイエス様のことばです。皆様は、「あなたはわたしを愛するか」とイエス様に聞かれたら、何と応えるでしょうか。イエス様が最も関心を持っておられるのは、私たちの心にイエス様ご自身への愛があるかどうかであるということに、気がついているでしょうか。

イエス様に「わたしを愛しますか」と問われる時、私たちは自らの内面と向き合うことになります。自分の罪や弱さと向き合い、自らの愛の欠けや偽りを見つめることになるのです。私の愛しているのは自分であり、自分の正しさや自分の考えに酔いしれて来ただけなのではないかと省み、イエス様を悲しませ、人を傷つけてきたことに心痛みます。

しかし、その様に心の皮を一つ一つ剥されて行く中で、私たちはイエス様から罪の赦しの恵みを受け取ることができるのです。自分のことをすべてご存知の上で,十字架に命を捨ててくださったお方の愛が心の奥に届いて来るのです。その時「イエス様、あなたの聖なる愛には到底及びませんが、本当に小さな愛ですが、私も心からあなたを愛します」と告白できるのではないでしょうか。

しかし、イエス様が求めているのは、愛の思いだけではありません。イエス様の愛によって心に起こされた愛を実行することが求められているのです。ペテロに対し、「わたしの羊を飼いなさい、養いなさい」と言われた様に、私たちに与えられた家族、地域の隣人、会社の同僚や学校の仲間、そして兄弟姉妹に仕えること、特に羊の様に弱い立場にいる人々に配慮し、その幸いのために力を尽くすことを、イエス様は喜ばれるのです。

私たちは家族、隣人、兄弟姉妹を、イエス様に愛されている羊と見ているでしょうか。その様な存在と見て、接しているでしょうか。イエス様を愛すると言いながら、イエス様が大切に思う人々を軽んじたり、その苦しみに目を閉じたり、為し得る助けの手を差し出さないなら、私たちのイエス様への愛は本物ではないと言われてしまうでしょう。

勿論、初めから、或いはすべての事が上手くいくわけではないでしょう。失敗、落胆を繰り返すこともあるかもしれません。しかし、そんな私たちをあるがまま受け入れてくださるイエス様を頼る者、イエス様を我が力、我が知恵とする者、その上で何度でも愛の実践に努める者になれたらと思います。今日の聖句です。

 

Ⅰヨハネ4:20,21「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。」

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