2015年9月20日日曜日

ウェルカム礼拝 コリント人への手紙第Ⅱ4章16節「老いて日々心新しく」


敬老対象の方々、御長寿おめでとうございます。今日は皆様とともに、礼拝をささげられること心から嬉しく思います。また、老いについて考えてみたいと思い礼拝に参加してくださった方々も歓迎いたします。老いも若きも一つになって、聖書に聞くひと時を恵んでくださった神様に感謝しつつ、お話を進めてゆきたいと思います。

ところで、皆様は佐伯チズさんと言う女性を知っているでしょうか。70歳を越えても、顔にしみや皺が一つもないと言われる方で、今テレビや雑誌で引っ張りだこ。佐伯さんが勧める洗顔法や薬、食べ物、書かれた本が多くの女性に注目されているそうです。

佐伯さんは、アンチエイジング=老化防止に努める事、の旗手とも呼ばれています。今日本はアンチエイジングブームとも言われ、男性も女性も様々な方法で老化防止、いつまでも若さを保つことに努めているとも言われます。

しかし、健康な生活を心がけるのは良いとしても、この様なブームの背景にあるものが、個人的にはちょっと気になっています。それは、若いことは良いことで、老いることは厭うべきことと言う価値観、若さがもて囃される一方、老いの意味や尊さが顧みられることの余り無い社会の風潮です。

けれども、本当に若さは歓迎すべきもの、老いは避けるべきものなのでしょうか。若い時が人生の盛りで、老いたら下り坂なのでしょうか。社会の第一線から退いたら、後は余生、余りの人生なのでしょうか。

それでは、聖書は老いについて何と言っているのでしょうか。聖書を開きますと、老いの辛い現実を認めつつも、私たちの人生が成熟するために、神様が与えてくださった贈り物として老いがあると教えられていることが分かります。

 

Ⅱコリント4:16「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」

 

たとえ外なる人、肉体は衰えても、その様な時こそ、内なる人、つまり私たちの人生に対する態度や考え方が若い時とは違う新たなものへと変えられてゆくチャンス、だから私たちは生きる勇気を失わない、と聖書は語っています。肉体的には成長できなくても、人間として成熟することはできるし、そのための機会として神様から老いが贈られたと言うのです。

それでは、老いという現実の中で、私たちが持つと良い新らしい態度、考え方とはどのようなものなのか。今日はふたつのことを皆様にお勧めしたいと思います。

ひとつ目は、老いた自分を受け入れる。老いて色々なことができなくなった自分に落胆せず、愛するということです。

「シルバー川柳」と言う本が、10年以上毎年出されています。高齢者の人々が、自分たちの世代の暮らしや思いについて、もっと言い合える場所を作りたいと言う趣旨で始まったものですが、今では様々な世代から応募があります。2012年は最少年応募者が6歳、最高年が100歳。合計12万句が集まったそうです。

「女子会と言ってでかけるデイケア―」「誕生日ろうそく吹いて立ちくらみ」「中身より字の大きさで選ぶ本」「探し物やっと探して置き忘れ」「デジカメはどんな亀かと孫に聞く」「名が出ない「あれ」「これ」「それ」で用を足す」「惚れ込んだ笑窪も今は皺の中」「手をつなぐ昔はデート今介護」。

足腰が弱る。耳が遠くなる。物や用事を忘れる。年を重ねると、できないことが増えてゆきます。社会の肩書、健康、「若い時はあんなこともできた、こんなこともできた」と言うプライド。様々なものを失います。そんな自分を不甲斐ない、情けないと感じることもあるでしょう。しかし、今ここで紹介した川柳には、老いた自分と向き合い、受け入れ、ユーモアで包むという心の余裕を感じます。

ユーモアは心を柔らかくし、活力を生むと言われます。老いをユーモアで言い表すことは、辛い現実を柔らかく受けとめるため神様が与えてくださった知恵。そう感じます。

私の母は今年80歳になりますが、5年前に股関節の手術をしました。それまで、足の痛みで病院に通っていた時には、しきりに杖を使用することを勧める医者に対して、「私は杖などなくてもちゃんと歩ける。人を年寄り扱いするな」「他人の医者におばあさん呼ばわれされる理由はない」などと怒っていたものです。長い間使った足と言う部品が痛んでゆくのは当たり前なのに、それがなかなか受け入れられない母でした。

しかし、手術以後は、杖を突くようになり、自分にできないことを素直に人に頼むようになりました。今はオカリナと言う楽器のグループに参加していますが、この夏にはコンサートがあり、「年寄りに、あんなに何曲も吹かせて、おかげで息が上がって上がって、本当にエライ目に会ったよ」などと文句を言いながらも、楽しそうでした。「お母さん、今自分で年寄りって言ったじゃないか」と私が言うと、笑っていました。母も徐々に老いを受け入れているように思えます。

若い時には、人は沢山のものをもっています。体力は勿論の事、気力や美しさも輝いています。その力で多少の悩みや痛みなど吹き飛ばすこともできるでしょう。しかし、その若さは永遠でありません。これまで持っていたものを失うのは悲しいこと、辛いことです。しかし、失ったものを嘆いていても前には進めません。

一般的に、キリスト教は隣人愛を教える宗教と言うイメージがあります。しかし、以外にも、イエス・キリストが隣人愛を説くことばには、自分を愛するようにという命令がついているのです。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」(マタイ22:39)。

自分を愛するとはどういうことでしょうか。不甲斐ない自分、弱さを持つ自分を認めること、そんな自分と仲良く、根気よくつき合ってゆくことです。様々なことができなくなった自分を嫌うことなく、大切に思うことです。そうやって、自分を愛する時、私たちは他人の不甲斐なさや弱さに寛容になり、人に対して謙虚に接してゆけるように思います。

ご存知の方もいるかと思いますが、星野富広さんに「いのちより大切なもの」と言う詩があります。「いのちが一番大切だと思っていた頃、生きるのが苦しかった。いのちより大切なものがあると知った日、生きているのが嬉しかった。」

いのちとある所に、健康、肩書、財産、能力等とことばを入れ替えてみても良いのではないかと思います。健康や肩書、財産や能力が一番大切だと思い、しがみついていると、生きるのが、特に老いてから生きるのが苦しいかもしれません。年を重ねるとともに、それらは衰え、減少し、失われてゆくからです。これはよく分かる気がします。

それでは、いのちより大切なものとは一体何でしょうか。星野さんは書いていませんが、聖書の視点からすると、それはこの世界を造られた神様の愛を知ること、神様の愛を心に受け取ることではないかと思います。

 

イザヤ43:4「わたしの目にあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」

 

これは、神様から私たちに対する最も重要なメッセージです。この自分が、老いて衰え、様々な弱さを持つそのままで、この世界を創造した神様から心から大切に思われ、かけがえのない存在として愛されていることを知る。その時、私たちは自分を受け入れ、愛し、人をも愛してゆく力を持つことができるのです。

ふたつめは、命の使い方を考えて生きることです。若い時、人は時間も体力も無限にある様に感じています。「あれもしたい、これもしたい」と思いは広がるばかりという時期もあるでしょう。衰えや死など」夢にも思わず、眠りにつくことができます。

しかし、年を重ねるとそうはいきません。人生の持ち時間も体力も減ってくるとすれば、勢い何もかもではなく、本当に大切なことを選んでするようになります。人間関係にしても、徐々に量から質へと変わってゆくように思われます。

自分にとって本当に大切なことは何かを考えること、大切な人々との関係を深めようとすること。それは、私たちがより私たちらしく生きるチャンスと言えるのではないでしょうか。

生きるのに最低限必要なものがあれば、それ以上の物を稼がなければならないと言う労苦はありません。人と競争したり、世間から評価されなければと言うストレスからも解放されています。そう考えると、老いは、自分らしい生き方を磨くことのできる恵みの時期とも思えます。

聖書には、個性的な老年を送った人々の記録が残っています。カレブと言う人は、「あなたはもう十分働いてきたのだから、ゆっくり休んでください」と言う若い人々の申し出を拒み、老いてなお同胞のため土地を確保する戦いに従事しました。

誰よりも神様を愛したダビデ王は、自分の目でその完成を見ることができないと分かっていながらも、次の世代の人々が神礼拝のための神殿をつくる材料集めに力を尽くしました。アンナと言う女性は、夫の死後ひたすらに祈りをもって神に仕え、人々の魂の救いを祈り続けたとあります。

数々の名作を世に送り続けた映画監督で俳優のチャップリンは、88歳で亡くなる直前まで、「あなたの作品の中で最高の作品は何ですか」と聞かれると、いつも「ネックスト・ワン=次に手掛ける作品」と答えていたそうです。映画を通して人生の喜びや悲しみを人々に届けることに命を使い切った人生でした。今日の聖書のことばを残したパウロは、最後までキリスト教を人々に伝える歩みを全うした伝道者です。

ある日の新聞にこんな投書が載っていました。投書した女性のお父さんは末期がんでホスピスに入院していたのですが、ある日周囲の心配をよそに、娘さんの家族の家に行き一緒に食事をしたいと言い出したそうです。娘さんの家は、常識的な医療体制の中では、とても行けない程ホスピスから遠い地方にあるのですが、主治医は、痛み止めなどできる限りの方策を用意したうえで、「良いですよ、行ってらっしゃい」と勧めてくれたそうです。

お父さんとの間がぎくしゃくしていると感じていた娘さんには、お父さんの行動が驚きでもあったそうですが、お父さんは娘さんの家で数日の家族団欒を過ごしました。殆ど食べることはできませんでしたが、自分の様な親とともに人生を歩んでくれたことを心から感謝していると話したそうです。ホスピスに帰った翌日、このお父さんは亡くなられました。娘さんは主治医に対し、「父と私たちにとって、お互いに赦しと感謝を伝え合う、最高に幸せな時間をあたえてくださり、ありがとうございます」と繰り返し、お礼をしたそうです。

皆様にとって、残りの人生で本当に大切なこととは何でしょうか。それを考え、選び、実行することが、神様が老いを与えてくれた意味ではないかと思います。

これまで、例に挙げてきた人々の生き方には一つの共通点があります。それは、自分ができることを通して、大切な人に愛を与えたということです。マザー・テレサが残したことばに、「人生の終わりに残るものは、私たちが集めたものではなく、私たちが与えたものだ」と言うものがあります。

若い時は集めること、獲得することに命を使う時期かもしれません。お金や物を集めること、地位や成功や人の評価を獲得することに心が向かう時期でしょう。しかし、老いてからは、大切な人に愛を与えてゆく生き方ができますし、その為に神様が比較的自由な時間をプレゼントしてくださっているのではないかと思います。

先程、年を重ねると人間は失うものがある、できないことが多くなると言いました。しかし、老いて人は全てを失うわけでも、何もできなくなる訳ではありません。むしろ、70年以上人生の荒波を乗り越えて来られた皆様には、皆様にしかない知恵や経験と言う宝物があると思うのです。ぜひ、それを活用してください。

余生と言うと、どこか人生の本番が終わった後の余りの人生と言う感じがします。しかし、もう一つの与生、自分のできることを通して、人々に愛を伝える人生と言う意味での与生がある。このことを教えてくれたのは、私が尊敬する九鬼長老さんです。
これからの人生を、余りの人生と言う意味での余生とするか。それとも、自分のできることを通し人々に愛を与える与生とするか。皆様にご自分の命の使い方を、考えて頂けたらと思うのです。「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」皆様のご長寿をお祝いするとともに、これからの歩みが神様に祝福されるよう、心から願い、お祈りしたいと思います。

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