2015年9月13日日曜日

ルカの福音書40節~42節、49節~56節「主を信頼する」

「あなたが信頼する人は誰ですか?」と聞かれたら、誰を思い浮かべるでしょうか。思い浮かべるのは一人でしょうか、多くの人でしょうか。一般的に、信頼できる人が多くいることは良いこと。自分の周りには信頼出来る人がいないと思いながら生きるのは大変なことです。
 それでは、自分のことを信頼している人はどれ位いるでしょうか。一般的に、信頼してくれる人がいることは、大いに助けになります。信頼に応えたいという思いは、力を生み、悪に走ることを食い止めます。反対に、自分のことを信頼する人などいないと思いながら生きることは辛いこと、危険なことと言えます。
 信頼する多くの人がいる。信頼してくれる人も多くいる。良い信頼関係の中で毎日を生きることが出来たとしたら、それは素晴らしい恵みを頂いていると言えます。
 とはいえ、してはいけない信頼もあります。自分の全存在を任せるような信頼、その人がいないと生きていけないと思うほどの信頼は、相手が親であれ、配偶者であれ、親友であれ、持つべきものではありません。聖書に次のような言葉があるのを知っていたでしょうか。
 イザヤ2章22節
鼻で息をする人間をたよりにするな。そんな者に、何の値うちがあろうか。
 
 だいぶ強い表現。人間に頼りにする値打ちなどない、との宣言。とはいえこの言葉は、信頼関係など築き上げられないと言っているのではなく、人間相手の場合、それがどれ程信頼出来ると思う相手だとしても、過度の信頼、本来、神様にしかしてはいけない程の信頼をしてはらないと教えている言葉です。
 皆さまは誰を、どのように信頼して生きているでしょうか。聖書は度々、この世界の創り主、主なる神様を信頼するように。私たちの救い主、イエス・キリストを信頼するようにと教えていますが、どれほど神様を信頼して生きているでしょうか。神様にのみむけるべき信頼を、他のものへ置き換えていないでしょうか。
 私たちは、どのように神様を信頼してきたのか。どのように信頼するよう教えられているのか考えたく、聖書を開きます。比較的有名な箇所。イエス・キリストが会堂管理者ヤイロの娘を生き返らせる場面です。
 
 ルカ8章40節~42節
さて、イエスが帰られると、群衆は喜んで迎えた。みなイエスを待ちわびていたからである。するとそこに、ヤイロという人が来た。この人は会堂管理者であった。彼はイエスの足もとにひれ伏して自分の家に来ていただきたいと願った。彼には十二歳ぐらいのひとり娘がいて、死にかけていたのである。イエスがお出かけになると、群衆がみもとに押し迫って来た。
 
 病人を癒し、奇跡を行い、ご自身が約束の救い主であることを示してきたイエス・キリスト。当時、人気を博していた主イエスの周りには、多くの群衆が集まっていました。そこに、ヤイロという人が飛び込んできました。この人は会堂管理者であったとわざわざ記されています。会堂管理者と言えば、会堂、礼拝を取り仕切り、そこに集う方々の様々な人の世話役人。その地方の有力者、名士、人々に慕われていた人です。
 そのヤイロが、群衆に囲まれた主イエスを前に、ひれ伏してお願いします。一体何事かという場面。大の男が、会堂管理者という立場ある者が、こんなところで土下座するとは、と人々は驚いたでしょうか。それが、十二歳になる一人娘が死にかけているという事態だったのです。ヤイロからすれば、何としてでも娘を助けたい。何しろ可愛い盛りの一人娘が死の床にある。これまで何人もの病人を癒してきたこの方ならば、娘も直してもらえると考えたのか。イエス様にどうしても来てもらいたい。娘を直してもらいたい。足もとにひれ伏しながらの必死の懇願でした。
 
 この願いを聞いたイエス様は、ヤイロの家に向かいます。しかし、ここで一つの事件が起こるのです。長血の女の病の癒しという出来事。(8章43節~48節)。多くの群衆に囲まれながら、イエス様が一人の女性を探し始めるというのです。
ヤイロからすれば、たまったものではなかったでしょう。一刻を争うこの時。その女性を探すのは後ではいけないのでしょうか。その女性と話すのは、娘を癒してからで良いでしょう。とはいえ、こちらはお願いしている身。焦りの中で胸を焦がしながらも、イエス様が進むのをひたすら待つ。
どれくらい、待っていたでしょうか。結局、ヤイロの家に着く前に、ヤイロの家から使いが到着。もしやと思いきや、案の定、悪い予感が当たってしまう。娘は死にましたとの連絡だったのです。
 
 ルカ8章49節
イエスがまだ話しておられるときに、会堂管理者の家から人が来て言った。『あなたのお嬢さんはなくなりました。もう、先生を煩わすことはありません。』
 
 ヤイロのもとに、これだけは聞きたくないという連絡が到着しました。この時のヤイロの気持ちを想像出来るでしょうか。
「残念無念。万事休す。これで手遅れ。あと少しだけ、早く着くことが出来れば良かった。あの女が現れなければ。いや、イエスがあの女のことを気にしなければ。口惜しい。本当はなんとかなったのではないか。数時間前から、もう一度やり直せたら。こんなことなら、最後まで娘のところにいれば良かった。」
 普通であれば、絶望と怒りで我を失うところ。ところが、このヤイロという人は、イエス・キリストに対してとてつもない信頼を寄せている人でした。
娘の死を知った後の、ヤイロの願いがマタイの福音書には、次のように記されています。
 マタイ9章18節
私の娘がいま死にました。でも、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。そうすれば娘は生き返ります。
 
 私たちは、イエス様が死人を生き返らせることが出来ることを知っています。信じています。しかし当時、どれ程の人が、主イエスに対して、このような信頼を寄せていたでしょうか。娘の死を知らせに来た使者は、「お嬢さんは亡くなったので、先生を煩わせることはないでしょう。」として、イエス様なら死人を生き返らせられるとは考えていませんでした。ところがヤイロは、娘は死ぬも、イエス様来て下さい。手を置いて下されば、生き返りますから、と言うのです。
 目を瞠る信仰。絶大な信頼。よくぞ言った、という場面。(とはいえ、実際に娘が生き返えった際には、ヤイロはひどく驚きました。)
 このヤイロに対して、イエス様の声が響きます。
 ルカ8章50節
これを聞いて、イエスは答えられた。『恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は直ります。』
 
 この場面で、不思議な言葉。「恐れないで、ただ信ぜよ。そうすれば、娘は直ります。」自分がヤイロの立場であったとしたら、このイエス様の言葉をどのように受け止めたでしょうか。「確かに娘は死にました。でも、私が生き返らせます。」と言われたのなら分かります。そうではなく、「ただ信ぜよ、娘は直る」(直訳では救われるという言葉)と言われた。娘の訃報が届き、ヤイロ自身、イエス様なら生き返らせられると信じているのですが、まるで娘は死んでいないかのようなイエス様の言葉。
 
 このやりとりの後、一行はヤイロの家に到着します。
 ルカ8章51節
イエスは家にはいられたが、ペテロとヨハネとヤコブ、それに子どもの父と母のほかは、だれもいっしょにはいることをお許しにならなかった。
 
 部屋が狭かったのでしょうか。大騒ぎになることを避けるためでしょうか。特別な場面で同伴が許されるいつもの三人の弟子と、ヤイロとその妻のみ、家の中へ。
外には、親戚や隣人が集まっていました。娘の死を哀しみ、一足違いで、娘の死に立ち会うことが出来なかったヤイロの無念さを思う。色を失い、涙する者たち。ここにイエス様の声が響くのです。
ルカ8章52節~53節
人々はみな、娘のために泣き悲しんでいた。しかし、イエスは言われた。『泣かなくてもよい。死んだのではない。眠っているのです。』人々は、娘が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑っていた。
 
 人々はヤイロがイエスを迎えに行ったことを知っていたでしょう。今か今かと待ち、その間に娘が息絶えた。あと少しで間に合わなかったという事態に、混乱し、哀しみつつ、涙していたのです。そこに、噂のイエスが来て、「泣かなくてもよい。死んだのではない。眠っているのです。」との宣言。
 こう言われて、人々はどのように思ったのか。「なんだと。眠っているだけだと。それこそ、寝言ではないか。ヤイロさんはお前を迎えに行ったばかりに、娘さんの死に立ち会えなかった。それを今更来て、泣かなくても良い、眠っているだけだ、なんて。失礼だ、不謹慎だ。」それまで悼み、哀しんでいた人々に、侮蔑の色が広がった場面。
 それでもイエス様は、寝ている娘を起こすかのような行動をとります。
 
 ルカ8章54節~56節
しかしイエスは、娘の手を取って、叫んで言われた。『子どもよ。起きなさい。』すると、娘の霊が戻って、娘はただちに起き上がった。それでイエスは、娘に食事をさせるように言いつけられた。両親がひどく驚いていると、イエスは、この出来事をだれにも話さないように命じられた。
 
 「子どもよ、起きなさい。」との叫び声。叫ばれたというのは、外にいる群衆にも聞こえるためでしょうか。生き返りなさいでも、霊が戻ってくるように、でもない。起きなさい、と。あくまでも、娘は寝ていたものとするイエス様の言動。
 このイエス様の言葉に、娘の霊が戻ってきて、生き返ったと言います。先ほどまで、死の床についていたことを思うと、この娘はしばらく食事もとれていなかったのでしょう。食事をとるようにとの勧めまでされています。
 焦り、戸惑い、混乱しているのは周りにいる人だけ。イエス様ご自身は、至って普通。それこそ、寝ていた娘を起こしただけ。当然のことを当然のこととして行っているだけ。その平常心が際立つ場面です。
 
 これがヤイロの娘を生き返らせた場面。
今日は、この箇所から、私たちはどのように神様を、イエス様を信頼するように教えられているのか考えたいと思います。主に二つあります。
 一つは、イエス様にとって遅すぎることはないということ。手遅れなし、ということです。私たちの人生には、もはやこれまで。万事休す。これで終わりと思う場面に出くわすことがあります。病というだけでなく、人生設計、人間関係、信仰生活において、もうここまで、という声を上げることがあります。
しかし、人の目には手遅れと見えることが多々あっても、主なる神様、我らが救い主には手遅れ無し、と確認するのです。
 病の中にあり、死を間近にしながら、これで終わりではない。死を突破し、墓の向こうに人生を開く。地上での生涯の終わりを、天上での生涯の始まりとする道があります。
 これぞ最上と思い取り組んできた人生設計が壊れた時、神様が私に与えようとしている人生を見出す世界があります。
 何度取り組んでもうまくいかない、その人間関係を、愛に満ちたものに変えて下さる救い主がいます。
 罪にまみれた人生。今さら罪が赦されるはずもない。もうキリスト者とは言えない。教会に行けないと思う状態でも。自分で自分を否定しても、それでも私たちを愛する神様がいます。
 起こりくる様々なことに私たちが悲鳴を上げる時。万事休す。これで終わりと嘆く時。主イエスが何と言われているのか。「恐れるな。私を信じなさい。私を信頼しなさい。」と呼びかけられる。その御声を、しっかりと聞き、受けとめたいのです。そのように、神様を、イエス様を信頼する歩みを送りたいと思います。
 
 もう一つ、今日の箇所から確認したいのは、イエス様が、娘を死んだと言わなかったのは何故かということです。
このヤイロの娘を生き返らせる出来事を通して、イエス様はご自身がどのような存在だと示したかったのでしょうか。死人を生き返らせる力を持っていることを示そうというならば、「娘は死んでいます。でも私が生き返らせます。」と言われたと思います。しかし、イエス様は、娘は死んでいると一度も言われませんでした。それでは、一体、何を伝えたかったのか。
この時、ヤイロの娘は心臓が止まり、呼吸をしていませんでした。私たちは、それを死んでいると言います。しかし、もしその状態の少女について、イエス様が死んでいないと言われたら、どうなるのか。それが今日の箇所に示されていることです。
仮に私が、心臓が止まり、呼吸をしていない人を前に、この人は生きていると言ったとしても、何もなりません。現実に反する言葉を言っただけです。ところが、もしイエス様がそのように言われるとしたら。何が起こるのか。
目の前に起っていることと、イエス様の言葉が相反するように思える時。どちらが事実となるのか。心臓が止まり、呼吸をしていなくとも、主イエスが死んでいないと言うのであれば、それが事実となる世界。私たちの生きている世界は、神の言葉が事実となる世界であると教えられるのです。
 イエス様の言葉は完全に真実である。神の言葉は必ず実現する。このことを本気で信じるというのは、イエス様に死人を生き返らせる力があると信じることよりも、より強い信頼だと思います。
 この方の言葉によって世界が創られ、この方の言葉によって世界が支配されている。そのようにイエス様を、神様を信頼していきたいと思います。
 
 一般的に、相手のことを知り、関係が深まることで、信頼も強まるものです。日々の賛美と祈り。聖書を読むこと。礼拝を味わうこと。仲間とともに励まし合い、助け合うこと。そのようなキリスト者の歩みを通して、少しずつ神様を知り、神様との関係を深め、より神様を信頼する者へと変えられていく。そのような祝福を皆で味わいたいと思います。

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