2015年8月30日日曜日

哀歌3章22節~24節「一書説教 哀歌~なげきは主の前で~」


 人生の中で大きな出来事(嬉しいことでも、哀しいことでも)を経験した時、その喜びや哀しみを記念するのに、何をするでしょうか。入学、卒業、結婚、出産、あるいは葬儀。個人や家族のことであれば、今は写真や映像を撮ることが多いでしょうか。教会としては、どうでしょうか。私たちの場合、教育館を建てた時、新しくオルガンを購入した時、奉献式や奉献コンサートを行いました。国家としては、どうでしょうか。記念碑が建てられたり、記念日が定められたりします。

 それでは、大きな出来事を経験した時、詩を書くという方はいるでしょうか。喜びや哀しみの記念の詩。(書いているという方がいましたら、どうぞ読ませて下さい。)

聖書の時代、ユダヤ人にとって、今の私たちよりも詩はより一般的なものでした。大きな出来事があればもちろんのこと、日常的にも詩は作られました。預言者のメッセージも、多くは詩として語られました。

 

 断続的に取り組んできた一書説教、今日は二十五回目となります。旧約聖書第二十五の巻です。へブル語聖書では、その冒頭にある嘆きの表現、「ああ、何と」(エーカー)が書名となりますが、日本語では哀しみの詩、哀歌です。

預言書の多くは、どの時代、誰によって語られた言葉か記されていますが、哀歌には書かれていません。(そのため正確には、誰によって書かれたもの断言出来ませんが)しかし、ユダヤ人の伝承と、書かれた内容より、預言者エレミヤにより、バビロン捕囚による哀しみを歌ったものと考えられています。

本人の願いとは別に、バビロン捕囚が起こることを宣告し続けた悲劇の預言者。あのエレミヤが、バビロン捕囚を体験した時に、どのように感じ、その哀しみを吐露したのか。哀歌に詰められた思いを確認していきます。

毎回のことですが、一書説教の際には、扱われた書を読むことをお勧めいたします。一書説教が進むにつれて、教会の皆で聖書を読み進めるという恵みにあずかりたいと思います。

 

 背景となったバビロン捕囚。これまで一書説教とともに聖書を読み進めてきた方はご存知のことと思いますが、どのような出来事なのか、確認いたします。歴史書に中心的な出来事が記されていました。(第二列王記25章、第二歴代誌36章に記されています。)

 

 イスラエル王国が南北に分裂。北王国はアッシリアに敗北し、国家としてのアイデンティティを失い、残る南王国も大国バビロンに屈した場面。エルサレムの地形は攻めるのに難しい自然の要害。ところが大軍に包囲され、食糧がなくなる中、ついには打ち破られ、敗北したといいます。その時の王は、子どもたちを虐殺され、その場面を最後の光景とすべく両目をえぐられ、足枷を付けられてバビロンへ連れて行かれる。神殿、王宮、家、主だった建物も破壊され、生き残った群衆も奴隷としてバビロンへ連れて行かれる。大惨事。悲劇中の悲劇。文字で読むとあっという間ですが、当時の南ユダの人々にとって、どれだけの出来事だったでしょうか。

 国が亡くなる。故郷が失われるという悲劇。戦争による敗北にも様々な敗北のあり方があると思いますが、この時は兵糧攻めでの敗北。その飢饉がどれ程のものであったのか。哀歌の中にその様子が少し記されていました。

 哀歌4章4節~5節、9節~10節

乳飲み子の舌は渇いて上あごにつき、幼子たちがパンを求めても、それを裂いて彼らにやる者もない。ごちそうを食べていた者は道ばたでしおれ、紅の衣で育てられた者は、堆肥をかき集めるようになった。

剣で殺される者は、飢え死にする者よりも、しあわせであった。彼らは、畑の実りがないので、やせ衰えて死んで行く。私の民の娘の破滅のとき、あわれみ深い女たちさえ、自分の手で自分の子どもを煮て、自分たちの食物とした。

 

 目を覆いたくなる状況。食べるものがなく、堆肥を集める。赤子の食べ物がないどころか、赤子を食べる母がいたという。「あわれみ深い女たちさえ」と言っていますので、複数起こった出来事。それをなした女性たちが、あわれみ深かったと知っていたということは、エレミヤにとって、顔見知りの出来事なのでしょう。これが、バビロン捕囚の最中、エレミヤが目撃した光景でした。

 

 詩篇の中にもバビロン捕囚をもとにつくられた歌がありますが、当時、バビロンに敗北することの悲惨さが記されていました。

 詩篇137篇8節~9節

バビロンの娘よ。荒れ果てた者よ。おまえの私たちへの仕打ちを、おまえに仕返しする人は、なんと幸いなことよ。おまえの子どもたちを捕え、岩に打ちつける人は、なんと幸いなことよ。

 

 「バビロンの子どもたちを捕え、岩に打ちつける人は、なんと幸いなことよ。」と歌っていますが、これは「私たちへの仕打ちを、仕返しする人」のことでした。つまり、バビロン捕囚の際、意味もなく、子どもが岩に打ちつけられたことがあったということです。残虐さの故に、不条理に子どもが殺されながら、為す術もない。バビロン捕囚とは、このような出来事でした。極限状態になった人間の醜さが現れ、神殿も住居も破壊され、蹂躙されていく。どれ程の哀しみを背負うことになったでしょうか。

 

さて、その哀歌は全五章、五つの詩に分けられています。強い心情の吐露でありながら、詩としては技巧に技巧を凝らした歌。日本語では分からないのですが、第一から第四の詩まで、ヘブル語のいろは歌となっています。(完全ないろは歌ではなく、不規則な部分もあります。とはいえ、その不規則さも考えてのことだと思われます。)第五の詩はいろは歌ではないですが、同じように二十二の節でまとめられている。実に精巧な詩集。

 

 しかし、語られている内容は、第一から第五の歌まで一貫性があるというより、混乱した複雑な思いが並べられている印象となります。少しずつ、その内容を確認したいと思います。まずは第一の歌から。

 哀歌1章1節~3節

ああ、人の群がっていたこの町は、ひとり寂しくすわっている。国々の中で大いなる者であったのに、やもめのようになった。諸州のうちの女王は、苦役に服した。彼女は泣きながら夜を過ごし、涙は頬を伝っている。彼女の愛する者は、だれも慰めてくれない。その友もみな彼女を裏切り、彼女の敵となってしまった。ユダは悩みと多くの労役のうちに捕え移された。彼女は異邦の民の中に住み、いこうこともできない。苦しみのうちにあるときに、彼女に追い迫る者たちがみな、彼女に追いついた。

 

 バビロン捕囚によって、どのような状況になったのか。エルサレムを一人の女性に見立てて、その惨状が歌われます。「賑わっていた通りが静まり返り、世界の女王と見られていた都が、奴隷となり、未亡人のように座り込んで嘆いている。彼女は夜通し泣くも、恋人も友も(同盟し、頼りにしていた国)助けてくれず、むしろ敵になっている。ユダの住民は苦しみながら、奴隷として連れて行かれ、今は征服者のもとで、不安な日々を過ごしている。」

 そのような現状を招いたのは、自分たちの罪が原因であり、この惨状は主なる神様から下されたものだと告白されていきます。

 哀歌1章14節

私のそむきの罪のくびきは重く、主の御手で、私の首に結びつけられた。主は、私の力をくじき、私を、彼らの手にゆだね、もう立ち上がれないようにされた。

 

 現在の悲惨さを嘆きつつも、そこに罪と、神様の御業であることを認める視点を失わない。さすがはエレミヤというところでしょうか。

第二の歌は、第一の歌と同じ内容ですが、少し思想が発展します。バビロン捕囚を招く、大きな原因は、預言者たちが正しく警告しなかったことにあると見定めるのです。

 哀歌2章14節

あなたの預言者たちは、あなたのために、むなしい、ごまかしばかりを預言して、あなたの捕われ人を返すために、あなたの咎をあばこうともせず、あなたのために、むなしい、人を惑わすことばを預言した。

 

 そして今や、生活の指針となる律法も失われ(異邦人の奴隷となり従うことが出来ない状況になり)、指標となる預言者の幻もなくなったと。

 哀歌2章9節

その城門も地にめり込み、主はそのかんぬきを打ちこわし、打ち砕いた。その王も首長たちも異邦人の中にあり、もう律法はない。預言者にも、主からの幻がない。

 

 自身、預言者であるエレミヤの言葉として、重みがあります。バビロン捕囚という悲劇を招く罪とは、何か一つの行為ではない。神様を無視し続けたこと。神の言葉に立ち返らなかったこと。悔い改めなかったことが問題であり、それは明確に神の言葉を語らなかった預言者の責任が大きいとする視点です。

 

 続く第三の歌は、更に思想が深まります。苦しみを吐き出しつつ、その中で、神様の姿を見出し、信仰を告白していく。聖書全体の中でも極めて有名。珠玉の言葉が、ここで生み出されるのです。

 哀歌3章22節~24節

私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。『あなたの真実は力強い。主こそ、私の受ける分です。』と私のたましいは言う。それゆえ、私は主を待ち望む。

 

 悲劇といって、これ以上ない悲劇を味わっている最中、よくぞこの告白へ導かれたと驚きます。

神様が愛であるなら、なぜこのようなことを許されるのか。南ユダがひどい罪を犯したとしても、それにしても、この現状はあまりに酷すぎる。神様が世界を支配しているとは思えない。支配しているというなら、愛であるとは思えない。神などいるのか。信じるに値するのか。と言うことも出来ました。

 しかし、そうではなかった。なぜ神はこのような悲劇を許されたのかではなく、なぜ神は私たちを滅ぼしつくさなかったのかと考えたのです。本来、このような悲劇は起こるべきではないと考えるのではなく、本来、滅び失せるべき者であったと認めるのです。稀代の預言者ならではの視点であり、私たちも身につけたい視点です。

 

 ところが、です。続く第四の歌は、思想が深まるかと言えばそうではなく、第二の歌と同様の内容に読めます。(最後の最後で、希望の言葉が出てきますが)つまり、現状を憂い、その原因は預言者(と祭司)たちにあると歌うのです。

 哀歌4章11節~13節

主は憤りを尽くして燃える怒りを注ぎ出し、シオンに火をつけられたので、火はその礎までも焼き尽くした。地の王たちも、世に住むすべての者も、仇や敵がエルサレムの門に、はいって来ようとは信じなかった。これはその預言者たちの罪、祭司たちの咎のためである。彼らがその町のただ中で、正しい人の血を流したからだ。

 

 第一の歌、第二の歌、第三の歌と、勢いが増し、思想が深まっていく中、どのように続くのかと第四の歌を耳にして、不思議に思います。肩すかしと言って良いでしょうか。前進というより後退。第三の歌の神賛美、告白の後に、もう一度、この第四の歌が来るとはどのような意味なのかと、首をひねります。

 それでは第五の歌はどうなのかと言えば、神様の姿を確認しつつも、信仰者の揺らぎのような姿が見え、そしてそこで閉じられるのです。

 哀歌5章19節~22節

しかし、主よ。あなたはとこしえに御座に着き、あなたの御座は代々に続きます。なぜ、いつまでも、私たちを忘れておられるのですか。私たちを長い間、捨てられるのですか。主よ。あなたのみもとに帰らせてください。私たちは帰りたいのです。私たちの日を昔のように新しくしてください。それとも、あなたはほんとうに、私たちを退けられるのですか。きわみまで私たちを怒られるのですか。

 

 神様がどのようなお方であるのか、エレミヤはよく知っていました。主のあわれみは尽きないことを告白し、ここでも真の支配者であることを認めます。しかし、それだけに、現状は理解に苦しむ。いつまで、忘れられているのか。「それとも、あなたはほんとうに、私たちを退けられるのですか。きわみまで私たちを怒られるのですか。」としか言えない。これで哀歌が閉じられるのです。

 第三の歌で、これ以上ない頌栄、信仰を見せつつも、それで終わらない。再度、嘆きが聞こえ、混乱していく。「主のあわれみは尽きない」と確認しつつ、「きわみまで怒られるのですか。」と恐れを抱く。ここで途切れる。この解決のなさ、出口のなさ。これが哀歌でした。皆様は、この哀歌をどのように受け止めるでしょうか。

 

 私はここに、聖書の誠実さ、信仰者の真実な姿を見ます。聖書は信仰者の姿をともかく素晴らしいものとして記さなかった。なんでもかんでも、めでたしとする安物ではなかったのです。

 神様のあわれみを確認しつつも、そのあわれみはどこにあるのかと思う状況に落ち込んで、目をこらし、手でまさぐり、その暗闇の中で、なおも神様に向き合おうとする。手応えないまま、解決ないまま、「もしや、ほんとうに私たちを退けられるのですか。」と怯えつつ、それでも神様に祈り続けるところに、祝福された信仰者の姿を見ます。

 疑問なし、疑いなし、泰然自若として生きることが神様を信じることではなかった。疑問、疑い、恐れの中で、それでも神のあわれみ、恵みと格闘を続ける。現状の悲惨さを見、解決つかぬまま、それでも神様に語り続けていく。それが神様を信じるということでした。

 順風満帆の中で、神様のあわれみ深さ、神様の恵み深さを告白することは容易いでしょう。逆境の中。悲劇、苦しみ、哀しみの中で、神様のあわれみ深さ、神様の恵み深さを口にすることがいかに難しいか。喜びの仮面をつけて、神様のあわれみは尽きないと告白するのがキリスト者ではない。苦しみ、哀しみの時は、その苦しさ、なげき、恐れ、不安を口にして良い。しかし、それを主の前でするのです。神様に向き合うことをやめない。これがキリスト者の生き方でした。

 

 以上、第二十五の巻、哀歌を確認してきました。全五章の短い書。エレミヤの思いを考えながら、読み進めることが出来ますように。最後に二つのことを確認して、終わりにしたいと思います。

 一つは、第三の歌で生まれた、あの珠玉の言葉。あの信仰です。

哀歌3章22節~24節

私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。『あなたの真実は力強い。主こそ、私の受ける分です。』と私のたましいは言う。それゆえ、私は主を待ち望む。

 

 神様の前で私たちはどのような存在なのか。神の目に尊く、とても価値のある存在。同時に、罪という視点で言えば、すぐにでも滅ぶべき存在でした。命があるのが当然、健康でいるのが当然、自分の夢が叶うのが当然として生きるのか。それとも、滅ぶべき私が、命が与えられ、やりたいことが出来、願っていることが実現するとしたら、それは神様のあわれみによると受け取るのか。大きな違いがありました。神様のあわれみを覚えながら生きるものでありたいと願います。

 もう一つは、混乱しながらも、それでも神様に向き合うエレミヤの姿です。悲劇、哀しみ、苦しみの中にいる時。神を信じても、どうにもならないとして、背を向けるのか。苦しみ、嘆き、恐れ、不安を抱きつつも、それでも神様に向き合うのか。

 私たちが目指す信仰者の姿は、恐れや不安、疑問や疑いのない信仰者ではありません。恐れや不安、疑問や疑いを抱きつつ、それでも神様に向き合う。その思いを神様に告白していく。それが、私たちの目指す信仰者の姿です。いかなる時も、神様に向き合う。そのような信仰生活を私たち一同で送りたいと思います。

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