2015年7月26日日曜日

ヨハネの福音書20章1節~18節「復活の朝」


礼拝において、私たちが読み進めてきたヨハネの福音書。先回は、イエス・キリストの死と、ヨセフ、ニコデモと言う二人の弟子による葬りの場面を学びました。

しかし、もし死がその生涯の終わりであるとすれば、イエス様を信じる私たちに救いはあるのでしょうか。イエス様がご自分の命を捨てる程、人々を愛したとしても、もし墓に葬られたままであったら、イエス様を信じる私たちも、最後は死に敗れてしまうのかと言う諦めの気持ちを抱かざるを得ません。

 しかし、聖書が伝える事実はそうではありませんでした。イエス様は死に敗れたのではなく、死に勝利された。死から復活して、私たちが本来生きるべき命、永遠のいのちへの道を開いてくださった。このキリスト教にとって非常に大切なイエス様の復活と言う出来事、その最初の朝の様子を描くのが今日の場面となります。

 イエス様が十字架で息を引き取られた金曜日の午後から数えて三日後、日曜日の朝早く墓に駆けつけたのはマグダラのマリヤと言う女性です。

 

20:1、2「さて、週の初めの日に、マグダラのマリヤは、朝早くまだ暗いうちに墓に来た。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛された、もうひとりの弟子とのところに来て、言った。「だれかが墓から主を取って行きました。主をどこに置いたのか、私たちにはわかりません。」」

 

マグダラのマリヤは、かって七つの悪霊に取りつかれ、身も心も苦しめられていた女性。その苦しみを癒してもらったこともあり、マリヤはイエス様の体に香料を塗るため、誰よりも早く墓に足を運んだと思われます。

けれども、墓に来てみると地震のため入り口を塞いでいた石が外れていました。イエス様の体はどこにも見当たりません。これを見て、「誰かが、イエス様の体を取って行った」と早合点したマリヤは、この一大事を弟子のペテロとヨハネに知らせに戻ったと言うのです。

すると、知らせを聞いた二人の弟子が「それは大変」とばかり、すぐに墓に向かって、走り出します。

 

20:3~8「そこでペテロともうひとりの弟子は外に出て来て、墓のほうへ行った。ふたりはいっしょに走ったが、もうひとりの弟子がペテロよりも速かったので、先に墓に着いた。そして、からだをかがめてのぞき込み、亜麻布が置いてあるのを見たが、中にはいらなかった。シモン・ペテロも彼に続いて来て、墓にはいり、亜麻布が置いてあって、イエスの頭に巻かれていた布切れは、亜麻布といっしょにはなく、離れた所に巻かれたままになっているのを見た。そのとき、先に墓についたもうひとりの弟子もはいって来た。そして、見て、信じた。」

 

「もうひとりの弟子」とは、この福音書を書いたヨハネです。二人は同時に駆け出しましたが、若いヨハネが年長者のペテロよりも足が速かったのでしょうか。先に墓に到着します。しかし、すぐ中に入らず、ペテロの到着を待つと、ペテロに先を譲りました。年長者を敬ったのです。

二人の目に映ったのは不思議で、驚くべき光景でした。イエス様の体のない空っぽの墓。残されていたのは、遺体に巻かれていた亜麻布のみ。しかも、亜麻布はまるですっぽりと体だけが抜け出したかのように、きれいに巻かれたままの状態であったと言うのです。

墓泥棒なら高価な亜麻布や香料を取ってゆくはずです。仮に、イエス様の遺体だけを取って行った者がいたとしても、亜麻布を解いた跡が残るでしょう。それなのに、亜麻布はそのままですし、布を解いた痕跡もない。

これは一体どういうことか。思い巡らすうちに、ヨハネの心に浮かんだのは、イエス様は復活されたのではと言う思い。この時の経験を、ヨハネは「もうひとりの弟子もはいって来た。そして、見て、信じた」と記しています。

しかし、「イエス様は復活したらしい」とまでは信じても、それが思っても見なかった出来事、余りにも驚くべき出来事であったからでしょう。ヨハネは救い主の復活が事実であるのかどうか、その意味は何であるのか、他の弟子たちとともに聖書で確認し、理解しなければと考えたらしく、自分たちの家に帰ってゆきました。

 

20:9,10「彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかったのである。それで、弟子たちはまた自分のところに帰って行った。」

 

こうして、二人の弟子は戻ってゆきましたが、墓の外で待っていたマリヤは動くことができませんでした。悲しみのあまり、泣き崩れていたのです。

 

20:11~13「しかし、マリヤは外で墓のところにたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。すると、ふたりの御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、ひとりは頭のところに、ひとりは足のところに、白い衣をまとってすわっているのが見えた。彼らは彼女に言った。「なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私にはわからないのです。」

 

聖書では、神様のことばを伝える使者として御使いが登場します。しかし、頻繁にではありません。神様の救いの御業が大きく前進する時、神様が非常に重要な出来事を起こす時、それを知らせるために御使いが現われるのです。イエス様の生涯においては、誕生の時、救い主としての働きを開始された時、そして最後三度目が、復活の時です。

しかし、この場面、御使いは「イエス・キリストは復活した」と宣言すると言うより、「何故、泣いているのですか」と、マリヤに対する思いやりのことばをかけているのが印象的です。愛する主が死なれたというだけでも耐え難い悲しみであるのに、その遺体までも失われたことで、マリヤの悲しみはより深くあったのでしょう。この現実を受け入れることができないマリヤは、「私の主を取って行った者がいます」と訴えました。

そして、悲しみに沈むマリヤを、もうこれ以上見てはいられないと思われたのでしょうか。イエス様が復活の姿を現されたのです。弟子たちの中で、復活の主の姿を最初に見る恵みと栄誉にあずかったのは、このマリヤでした。地上を歩まれた時と同じく、イエス様はいつも悲しむ者とともにいてくださると教えられ、慰められるところです。

 

20:14~16「彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。すると、イエスが立っておられるのを見た。しかし、彼女にはイエスであることがわからなかった。イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、それを園の管理人だと思って言った。「あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのか言ってください。そうすれば私が引き取ります。」イエスは彼女に言われた。「マリヤ。」彼女は振り向いて、ヘブル語で、「ラボニ(すなわち、先生)。」とイエスに言った。」

 

イエス様は、マリヤが何故悲しいのか、誰を捜しているのか。良くご存知でした。ですから、「あなたが探し求めているわたしなら、復活してここにいますよ」との思いを込め、「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか」と優しく語りかけておられます。

しかし、気が動転していたのか、涙で目が曇っていたからか、自分に語りかけたのがイエス様と気がつかないマリヤは、これを墓の管理人と勘違い。「あなたが遺体をどこかに運んだのなら、私に返してください」と迫ります。

けれども、愛する者を失った悲しみに暮れるばかりで、ご自分の存在に気がつかないマリヤを、イエス様は決して非難されませんでした。むしろ、「マリヤ」と名をもって呼びかけたのです。聖書のことばをそのまま訳せば「マリアム」。これは二人が使い慣れていたガリラヤ地方の方言でしたから、マリヤは自分の名を呼んだお方が、懐かしいイエス様だとすぐに気がつくことができたでしょう。

それが証拠に、マリヤの方もすぐに「ラボニ」と答えました。ラボニは「私の先生」と言う意味です。これも、マリヤがずっと親しみを込めて使っていたイエス様に対する呼びかけのことばと考えられます。

死んでしまったとばかり思い込んでいたイエス様が復活し、生きておられる。以前と変わらず、親しく自分の名前を呼んでくださる。心から悲しみが消え去り、喜びが満ちたのでしょう。マリヤは思わずイエス様の体にすがりつきました。一途にイエス様を愛する女性の何とも可愛らしい姿と思えます。

しかし、イエス様はその様な彼女の思いを理解しつつも、「わたしはまだ父のもとに上っていないから」と語り、ご自分が復活したのは、天の父のもとに帰るためとマリヤをさとします。

 

20:17,18「イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないからです。わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに『わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る。』と告げなさい。」マグダラのマリヤは、行って、「私は主にお目にかかりました。」と言い、また、主が彼女にこれらのことを話されたと弟子たちに告げた。」

 

イエス様が弟子たちに告げよとマリヤに命じたことば、「わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る」は、少し回りくどい日本語と聞こえます。イエス様が伝えたかったのは、「わたしの父は、あなたがたの父。わたしの神は、あなたがたの神」、つまり、イエス様が天の父なる神様との間に持っていた親しい関係に弟子達も導かれること、イエス様を信じるすべての人に対する祝福だったのです。

復活したイエス様が最初に現われたこと、イエス様が非常に重要なメッセージを託したこと。当時、男尊女卑の風潮が強い状況で、イエス様がマグダラのマリヤをこれ程尊び、用いたこと。これは、この後初代キリスト教会で女性が尊ばれ、多くの女性が活躍する道を開いたとも言われるところです。

以上、私たちは復活の朝に起こった出来事を見てきました。ここには、何度も復活の預言を聞いていたはずなのに、全くイエス様の復活を期待していなかった弟子たちの姿と、その様な彼らを復活信仰へ導くため、心尽くされたイエス様の姿が見られます。

空の墓と残された亜麻布からイエス様の復活を信じ、聖書で復活の意味を理解、確認しようとしたヨハネ。イエス様に親しく名前を呼んで頂き、復活の主を信じ、そのことばを他の弟子たちに伝えたマリヤ。

彼らの活躍が最初の一歩となり、この後キリスト教会が建てあげられてゆくことになります。地上を歩まれた時も、復活した後も全く変わることのないイエス様の愛が、弟子たちの人生を支えていたことを覚えたいところです。

最後に、今日の箇所から、イエス・キリストの復活が私たちの人生にどんな影響があるのか、確認したいと思います。

イエス様が死に勝利したことは、私たちの人生にどの様な影響があるのでしょうか。

私たち人間は死を前にして様々なことを感じます。ある人は、死を前に、これまでの人生を振り返り、虚しさを感じます。マリヤのように、愛する人の死を前にして悲しみに沈み、その人のために何もできなかった自分に苦しむ人もいます。死の向こうに待っている神のさばきを覚え、死を恐れる人もいるでしょう。

虚しさ、悲しみや痛み、恐れの対象である死は、昔から人生最大の敵と呼ばれてきました。聖書は、死を、神様に背を向けて生きるようになった人間に対するさばきとも教えています。しかし、イエス・キリストが死に勝利したと言うことは、私たちにとって死は最早神様のさばきではないと言うことです。

イエス・キリストの復活は、私たちに罪の赦しと私たち自身も神様の愛の中に復活することを確信させてくれる出来事です。死の向こうに、もはや神様のさばきはなく、むしろ地上でなした労苦が豊かに報われる世界が用意されているのですから、私たちは死を前にした恐れや虚しさから解放されます。天国で再会できるのですから、愛する者の死に際して感じる私たちの悲しみは和らげられるのです。

今日本は超高齢者社会と呼ばれています。年齢的に、また事故や天災などのことも考慮すれば、死は誰にとっても非常に身近な存在となってきたと言うことです。そうした中、病気や事故のリスクを減らすことも大切ですが、そればかりでは限界があると感じます。

やはり、死後の復活を信じる信仰が、人生最上の支えと思われるのです。存在が、今の日本には必要と思われます。死後の復活と言う神様の祝福を本気で信じ、この地上で最善を尽くして神様と隣人を愛して生きるクリスチャンの存在が、今、この時代の日本に必要ではないでしょうか。私たちが皆この様な歩みを進めて行けたらと思います。

 

Ⅰコリント15:58「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」

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