2015年7月19日日曜日

エレミヤ書20章7節~12節「一書説教 エレミヤ書~御言葉に仕える~」


世界で一番「短い」手紙は何か、ご存知でしょうか。ギネスブックにも登録されている、作家ヴィクトル・ユゴーと出版社の社員のやりとり。ユゴーが「レ・ミゼラブル」という本を出版した際、その売れ行きを確認したく「?」と送り、それを受け取った社員が、大変売れていますとして「!」を返したというもの。一文字のやりとりです。

 自分のところに「?」と届いたら、その意味が何なのか。分かるでしょうか。なぜ出版社の社員は「?」が、「売れ行きはどうですか?」という意味だと理解出来たのでしょうか。これは、「レ・ミゼラブル」の本の中に答えがあります。

 主人公のジャン・ヴァルジャンが、安宿に泊まる際。その女主人にお願いすることがあり、相手の機嫌を損ねたくない状況。しかし、女主人は宿泊料を二十三フラン(日本円で言えば二万三千円位)と高額請求してきます。請求書を見た主人公が、あまりの高さに「二十三フラン!」と言うのですが、すぐさま冷静になり「二十三フラン?」と聞き返す場面があります。つまり、最初の「二十三フラン!」には、高すぎる!という意味があり、続いての「二十三フラン?」には、安いけどこれで良いのですか?という意味になります。「!」と「?」を対にして、高い、安いというニュアンスを込めたやりとりが、本の中にあるのです。

 そのことを知っている社員は、著者から届いた「?」を、本があまり売れていないのではないか?と心配していると受け止め、いや大変よく売れていますよ!と返事を出したということです。

 当然のことと言えますが、手紙は誰が、誰に、どのような状況で宛てたものなのか。把握していないと、その内容を理解することが出来ません。「?」「!」という手紙の中身だけ見ても、これだけでは、どのような内容なのか理解出来ないのです。

 

 断続的に取り組んでいる一書説教。今日は二十四回目となりまして、エレミヤ書です。どの書も、「誰が、どのような状況で、誰に向けて書いたのか」を考えることは必要ですが、預言書では特に重要です。時代背景抜きに読もうとすると、その内容を正しく理解することが出来なくなります。エレミヤが活躍した時代がどのような時代だったのか。人々はエレミヤの言葉をどのような思いで受け止めたのか。エレミヤ自身は、どのような思いで預言者として活動したのかを意識しながら、読み進めることが出来ますように。

 毎回のことですが、一書説教の際には、扱われた書を読むことをお勧めいたします。一書説教が進むにつれて、教会の皆で聖書を読み進めるという恵みにあずかりたいと思います。

 

 それではエレミヤが活躍した時代は、どのような時代だったでしょうか。

 エレミヤ1章1節~3節

ベニヤミンの地アナトテにいた祭司のひとり、ヒルキヤの子エレミヤのことば。アモンの子、ユダの王ヨシヤの時代、その治世の第十三年に、エレミヤに主のことばがあった。それはさらに、ヨシヤの子、ユダの王エホヤキムの時代にもあり、ヨシヤの子、ユダの王ゼデキヤの第十一年の終わりまで、すなわち、その年の第五の月、エルサレムの民の捕囚の時まであった。

 

 エレミヤが活躍したのはヨシヤ王からバビロン捕囚の時代。既に北イスラエルはアッシリアに滅ぼされ、南ユダが国家存亡の憂き目に会う大混乱期です。約四十年の間、南ユダで活躍した預言者。

 もう少し細かく見ると、ヨシヤ王は信仰の人、聖書の視点で善王。その次のエホアハズは、エジプトの意向を受け、三か月で王位から退きます。続くエホヤキムは十一年間の在位ですが、この時代にバビロンが台頭し、財宝、有力者とともに、エホヤキムもバビロンに連れていかれる歴史となります。続くエホヤキンも、在位が短く(三か月と十日)、バビロンに連れていかれる。続くゼデキヤの時代、神殿が破壊される決定的なバビロン捕囚が起こる。

 つまり善王ヨシヤの時代から、国際情勢が不安定となり、国家としての危機が増す時代。財宝も有力者も王も、バビロンに連れて行かれることを何度も経験し、最後には神殿も破壊される。

 

 イスラエル地方は、南のエジプト、北のアッシリア、あるいはバビロンに挟まれた場所。いつの時代も、大国の脅威に晒され、時には隷属してきました。そのためと言えるでしょうか。歴代の王や群衆の関心ごとは、どの国に従うのが最も良いのか、ということに傾きます。

(前回のイザヤ書でも、アッシリアにつくのか、エジプトにつくのかで、混乱する王や指導者の姿が記録されていました。)

神の民として、いかに神様に従うのか、いかに正しく生きるのかには、関心を示さない。起こりくる出来事を神様との関係で受け止めることをしない。神との関係が問題の本質であったにもかかわらず、大国の様子に右往左往する。宗教が廃れ、都合の良い政治が流行る時代。

このような時代、預言者は何を語ったのか。バビロンの脅威が迫る中で、罪を悔い改めること、悪から離れること。エジプトに頼るのではなく、神様に頼るように。バビロンに敗北するのは、神様の裁きの現れであること。などが、エレミヤを通して、繰り返し語られることになります。当時の緊迫した雰囲気を意識しながら、私たちもエレミヤの言葉に耳を傾けたいと思います。

 

(エレミヤ書は、大雑把には時代で区分することが出来ますが、細かくみると時代通りの順番となっていないため、混乱しやすい書です。大きく見れば、前半はヨシヤ王からバビロン捕囚の前までの時代。罪を悔い改めるように、繰り返し語られます。中盤は、バビロンが台頭し、財宝や有力な人材が捕え移される時代。バビロンに敗北することが主の御心であることが繰り返し語られます。後半は神殿崩壊とその後の時期。バビロン捕囚からの解放、南ユダの回復が主なテーマとして語られます。)

 

 エレミヤ書の大きな特徴は、預言者本人の心情が多く吐露されている点です。他の預言書に比べて、預言者であるエレミヤ自身の思いが多く記されている。そこで今回の一書説教では、エレミヤの心情に焦点を当てて、御言葉に仕えるとはどのようなことか、考えたいと思います。

 

 大変な時代に預言者活動をしたエレミヤ。私たちからすれば、全五十二章にもなる預言書を残し(哀歌もエレミヤのものと考えられますので、含めれば全五十七章と言えます)、その時代も、後の時代の信仰者に大きな影響を与えた大預言者。しかし、人間的な視点から見ると、悲惨極まりない生涯を送ることになった人物。自分が預言者として召されるとしても、出来ればエレミヤのようにはなりたくないと思う人物。

サムエルのように、民衆から認められ、祈りによって戦に勝利し、王を任命するという活躍はありません。エリヤのように、異教の預言者と戦い、大勝利を収めるということもありません。イザヤのように、国家存亡の危機に信仰を示し、大国を退けるようなこともありません。ヨナのように、(本人の意思は逆でしたが)預言者としての働きの結果、裁きが回避されるということもありません。エレミヤは、預言者として活動した結果、命を狙われ、何度も危機に会った人。涙の預言者、悲劇の預言者と呼ばれる。なぜエレミヤは大変な預言者生活を送ったのか。

 

 その最大の理由は、エレミヤが預言した内容にあると思います。エレミヤはバビロンへの降伏、つまり捕囚という裁きが神の御心であることを預言しなければならなかった人物。

(少し前の時代、預言者イザヤが、アッシリアの脅威がある際に、神様を信頼することを訴え勝利しましたが、エレミヤはイザヤと正反対の役割が与えられたことになります。)

 神の民としての歴史を持つ南ユダが、なぜバビロンに敗北するのか。神様の守りはないのか。

 

 エレミヤ自身には、バビロン捕囚の意味が教えられていました。一つには、神様の義が示されるため。

 エレミヤ30章11節(46章28節も同様)

わたしは、あなたを散らした先のすべての国々を滅ぼし尽くすからだ。しかし、わたしはあなたを滅ぼし尽くさない。公義によって、あなたを懲らしめ、あなたを罰せずにおくことは決してないが。

 

 私たちの神様は愛なる方であり、義なる方。悪を重ねる南ユダに対して、裁きを下すのは、神様の義のあらわれとして妥当なことでした。

 あるいは、神様の力ある業が示されるためという理由も教えられています。

 エレミヤ16章14節~15節

その日にはもはや、『イスラエルの子らをエジプトの国から上らせた主は生きておられる。』とは言わないで、ただ『イスラエルの子らを北の国や、彼らの散らされたすべての地方から上らせた主は生きておられる。』と言うようになる。

 

 繰り返し罪が指摘され、悔い改めが訴えられても、無視を続ける南ユダ。その上で、バビロン捕囚の理由も教えられる。

それでは、エレミヤ自身は、南ユダが敗北することに納得していたかと言えば、そうでもありません。神様から裁きの宣告を聞き、それを真実としつつも、出来ればバビロンへの敗北は避けたい。南ユダに平安があるよう願い続けるのです。

 時には神様に、南ユダが裁かれるにしても、なぜバビロンによって裁かれるのか。神様に対して不信を犯す南ユダよりも、そもそも神様を信じていないバビロンが栄えるのは何故なのかと訴えます。

 エレミヤ12章1節

主よ。私があなたと論じても、あなたのほうが正しいのです。それでも、さばきについて、一つのことを私はあなたにお聞きしたいのです。なぜ、悪者の道は栄え、裏切りを働く者が、みな安らかなのですか。

 

 また、偽預言者ハナヌヤがバビロンへの勝利を宣告した時、(28章2節~4節)、エレミヤは「アーメン。そのとおりに主がしてくださるように。」(28章6節)と言います。バビロンに敗北することが神様の御心と信じつつも、出来るならば、そうならないようにと願っている姿が見えるのです。

 エレミヤは南ユダが悔い改め、赦されることを願いながら、自分に与えられる神様からの言葉は、バビロン捕囚という裁きの宣告。裁きを望まないのに、バビロン捕囚が神の御心であると知って、信じているエレミヤが、バビロン捕囚を伝えなければならなかった。大変な苦悩があったことが想像出来ます。

 

 エレミヤの苦悩は、その預言の内容にあると思いますが、それは自分でも望まないことを語るというだけではありません。その預言の内容を語る結果、人々から、徹底的に嫌われ、命を狙われることになります。

 国家存亡の危機。何とかして、バビロンに勝利しようと願う王、指導者、群衆を前に、バビロン捕囚こそ御心であると語る。当時は、神様によってバビロンに勝利出来る、平安があると宣言する(偽)預言者も多数いる状況。王や国の指導者、あるいは群衆の目には、エレミヤは混乱を招く者、士気を挫く者、裏切り者に見えたでしょう。結果として、エレミヤは嫌われ、捕らえられ、軟禁、監禁、命を狙われる。命を落としてもおかしくない状況を何度も経験します。

 苦悩の中で預言者として活動する。その結果、人々から嫌われ、命を狙われたエレミヤ。何とも凄まじい人生となります。自分が、この時代、エレミヤと同じように預言者として召されたとしたら、エレミヤと同じように、御言葉に仕えることを選びとれるでしょうか。なぜ、エレミヤはこのような状況の中で、それでも御言葉に仕える歩みを続けられたのか。

 

 エレミヤ自身は次のように言っていました。

 エレミヤ20章7節~12節

「主よ。あなたが私を惑わしたので、私はあなたに惑わされました。あなたは私をつかみ、私を思いのままにしました。私は一日中、物笑いとなり、みなが私をあざけります。

 私は、語るごとに、わめき、『暴虐だ。暴行だ』と叫ばなければなりません。私への主のみことばが、一日中、そしりとなり、笑いぐさとなるのです。

 私は『主のことばを宣べ伝えまい。もう主の名で語るまい。』と思いましたが、主のみことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて燃えさかる火のようになり、私はうちにしまっておくのに、疲れて耐えられません。

 私が多くの人のささやきを聞いたからです。『恐れが回りにあるぞ。訴えよ。われわれもあいつを訴えよう。』私の親しい者もみな、私のつまずくのを待ちもうけています。『たぶん、彼は惑わされるから、わえわれが彼に勝って、復讐してやろう。』と。

 しかし、主は私とともにあって、横暴な勇士のようです。ですから、私を追う者たちは、つまずいて、勝つことは出来ません。彼らは成功しないので、大いに恥をかき、それが忘れられない永久の恥となりましょう。

 正しい者を調べ、思いと心を見ておられる万軍の主よ。あなたが彼らに復讐されるのを私に見せてください。あなたに私の訴えを打ち明けたのですから。」

 

 エレミヤから神様への語りかけの言葉。やや皮肉めいていて、エレミヤと神様との親しさが感じられます。「主よ、多くの人が私の命を狙っています。私が預言者として活動すればするほど、人々から笑われ、嫌われます。こうなったのも、あなたが私を惑わしたから。私はあなたに掴まれて、思いのまま振り回されています。あまりに辛いので、預言者の活動、御言葉に仕えることはやめよう。主の言葉を語ることはやめようと決心しました。しかし、主の言葉は私の心のうちで燃え盛る火のようになり、語らないことが辛い。御言葉に仕えることをやめることは、苦しくて出来ないのです。」と。

エレミヤにとって、御言葉に仕えることは、人からの賞賛を期待してすることではなく、自己満足のためでもなく、語らないですむものではなかったというのです。神の言葉を伝える働きをすれば、どうなるのか、どのような状況になのるか、分かっていても、語ることをやめることが出来ない。預言者に召されたエレミヤにとって、神の言葉とは、このような力をもっていたのです。

 

 私たちがエレミヤ書を読む時に考えるべき重要な一つのことは、自分は神の言葉にどのように向き合うのか、ということです。

南ユダの人たちは、神の言葉をないがしろにしました。神の言葉を二の次、三の次とし、自分の考えを最上として、その結果、バビロン捕囚という悲劇へと突き進むことになります。その時代にあってエレミヤは、徹底的に神の言葉に従いました。神の言葉に従うこと、神の言葉に仕えることで、人間的な視点では、より不幸になり、より危険になると思われる状況で、それでも神の言葉に従い続けました。いや、従わない方が辛いと、エレミヤ自身は言うのです。

 それでは、私たちにとって神の言葉とは何なのか。エレミヤ書を読みつつ考えたいのです。これまで、どれだけ真剣に神の言葉を受け止めてきたのか。どれだけ真剣に御言葉に仕える歩みをしてきたのか。

 

キリストを信じることによって聖霊を受け(使徒2章38節~39節)、聖霊の力によってキリストの証人(使徒1章8節)とされた私たち。エレミヤ同様、御言葉に仕えるように召された私たち。エレミヤを捕えて離さなかったように、私たちも神様の言葉、御言葉に捕えられて、御言葉に仕える歩みを送りましょう。

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