2015年7月5日日曜日

マタイの福音書6章10節「御国が来ますように」


主の祈り。もう皆さんご存知のように、イエス様が私たちに祈りのお手本として教えてくださったお祈りです。日頃親しんでいるこのお祈りのうち、今日は世界宣教を覚え、「御国が来ますように」をともに考えてみたいと思います。

 主の祈りは、先ず私たちが「天にいます私たちの父よ」と呼びかけて、神様に心を向けると、「御名があがめられますように」、「御国が来ますように」、「みこころが天で行われるように、地でも行われますように」と続く祈りに導かれます。御名、御国、みこころ。徹底した神中心の祈りです。

 中でも「御国が来ますように」との祈り。ここで御国、神の国というのは、ひとことで言えば神様がご支配する国、ということです。その神の国が来ますようにと心から祈れ。私たちそう命じられていました。

余りにも有名なこのお祈り、皆様はどのような思いで祈ってこられたでしょうか。今日は二つのことを中心に考えて見たいと思います。一つ目は、私たちの心における御国の確立です。

一般的に国家とは、三つのものによって成り立つと言われます。第一は国土、第二は国民、第三は主権者です。そうだとすれば、神の国の場合はどうなのか。神の国の王は勿論イエス・キリスト。国民は私たちキリスト者、国土は私たちの心となるでしょう。

ある時、「神の国はいつ来るのか」と尋ねられた時、イエス様はこう答えました。

 

ルカ1720,21「…神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。『そら、そこにある。』とか、』あそこにある。』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」

 

イエス様を信じる者の心に神の国があるとすれば、「御国が来ますように」とは、どのような意味になるでしょうか。イエス様の支配が私の心の中でますます広く、深くなりますように、私の心がますますイエス様を王とし、従うことができますように。この様に祈る者となることでしょう。

人生における心の革命です。これまでは、どこまでも自己中心。自分の思い通りに生き、思い通りに周りを動かそうとしていたのが私たちでした。しかし、「御国が来ますように」と祈るよう導かれると、神中心に自分の生涯が回り始めるのです。今までは自分を人生の王様と考えていた者が、イエス・キリストこそ私の王、私はその民、そのしもべ。イエス様を王として生きることが喜びとなるのです。

かって東京にある富士見町教会には、衆議院議長をつとめた片岡健吉と云うクリスチャンがいました。この人が日曜日になると、教会堂の石炭ストーブ係をいそいそと務めたそうです。帝国議会の衆議院長といえば、この世では最高ランクの地位にある人。そういう人が喜んで、手も顔も真っ黒にして、会堂のストーブ係をつとめる。

この世では偉い人でも、ひとたび教会に来ると、最も低い勤めにつく。人の目に立たないところで汗を流す。それを栄誉とし、喜びとする。こういう人の心にこそ、神の国、神の支配は確立している、そう思わされます。

果たして、私たちはどうでしょうか。一応イエス様を王としているものの、時々あやふやな自分。時とするとイエス様を追い払って、王座に座ろうとする自分。そんな自分を発見します。しかし、イエス様はそんな私たちの弱さをよくご存知であるからこそ、この祈りをくださったのです。日々この祈りをささげて心の革命を進めること、私たちが自己中心から解放されて、イエス様を王とし、喜んで従いゆくことができるように。そんなご配慮でした。御国が来ますように。この短い祈りを真剣に祈る者となりたい、そう思います。

ふたつ目は、御国の地理的広がり、神の国の世界的な広がりということでした。

現在世界地図を広げますと、神の国という国は見当たりません。しかし、世界の国々の国旗を見ると、多くの国の国旗に十字架がかかげられていることに驚かされます。

 ちょっと目に付くだけでも、スイス、イギリス、スウェーデン、ニュージーランド、ギリシャ、フィジー、フィンランド、ドミニカ共和国、デンマーク、オーストラリアなどです。勿論、これは国旗のデザインのことですが、たとえ国旗に十字架をかかげていなくても、イエス様を王とするキリスト者は国境を越えてどこにでもいるのであって、既に神の国は始まり、世界的に広がっていました。

イエス様が天に昇られた直後の時代、早くも宣教は広がり、北はローマからスペイン、南はアフリカ、使徒トマスは遥か遠くインドまで、宣教のため足を伸ばしたと言われます。そして今や、神の国は、人の心をその国土として世界中に存在するに至ったのです。

たとえ、この世の地図には記されていなくても、世界中に神の国が広がっている。天に召され、天で生きているクリスチャンたちのことを思えば、神の国の人口は数え切れない程膨大で、地上にも天にも広がっているのです。まさに歴史上最大の王国です。

自分はこの様な神の国の一員であること。世界中に、また天にも兄弟姉妹がいて、共に同じ国民と思えること。これは私たちの特権であり、喜びではないでしょうか。

しかし、教会による世界宣教の働きはいつの時代も困難を極めました。一例をご紹介しましょう。もう随分と前になりますが、新聞に「日本のシュバイツァー」として、井上伊之助宣教師のことが紹介されました。伊之助の父、弥乃助は台湾の会社で働いている時、首狩族に首をはねられ、殺されました。その知らせを聞いた伊之助は、父の仇を討つために医学を学んで台湾に渡ったと言うのです。伊之助の仇討ちとは敵を愛すること、首狩族の人々に聖書を伝え、病気の者に医療を施すことでした。

 「井上伊之助の35年間の伝道と治療のつらさは筆舌に尽くしがたく、自らも眼病にかかり、苦しみながら、台湾の人のために生きた。このような崇高な生涯を送った人を日本人として誇りとしたい。」と新聞の記事は結んでいました。

20世紀は、イエス様が生まれて以来最も迫害の多かった世紀と言われます。100年間で約4500万人のクリスチャンが殉教。今日でも、世界では一日400人以上の殉教者が存在すると言われます。

 私たち四日市キリスト教会もおよそ65年前、二人のアメリカ人宣教師、ジョン・ヤング宣教師とフィリップ・フォックスウェル宣教師の伝道によって始まりました。ヤング宣教師は八王子南幸園で八王子集会を、フォックスウェル宣教師は、港の近く高砂町で高砂集会を開き、やがて二集会が合同して、四日市教会となります。

 ヤング宣教師は最初中国で宣教するつもりでしたが、共産主義政権に拒否され、断念。それでもアジア宣教の思いやみがたく、日本のそれも既に宣教師が多くいた大都市ではなく、四日市の様な地方都市を選んだと聞きました。

フォックスウェル宣教師は、戦勝国アメリカから来たが故に、「ヤンキー、ゴーホーム」の罵声をしばしば浴びなければなりませんでした。比較的裕福な宣教師が多かった中、フォックスウェル宣教師の家は古ぼけたキャンピングカー。しかし、「イエス様にも眠る家はなかったのだから」と活動を続けられたとか。四日市キリスト教会の土台はこうした尊敬すべき宣教師の労苦によることを、私たち忘れてはならないと思います。

なお、ヤング宣教師の二人の息子、長男のブルース宣教師は冨田にある北四日市キリスト教会を、二男のスチーブ宣教師は鈴鹿キリスト教会設立に力を尽くし、長老教会を助けてくださいました。

 こうして、宣教師によってスタートした私たちの日本長老教会。やがて、徐々に宣教師を生み、送り出すようになります。現在、日本長老教会出身の宣教師としては、アジアの少数民族に聖書を届けるため、長く困難な辞書作成の働きを続けておられるオーマン・グレッグ・美紗子ご夫妻、ウィクリフ聖書翻訳協会でご奉仕されている高田正博、優子ご夫妻、中国に住むチベット族に宣教する鈴木きよか姉、老いてなおタイで、児童伝道、受刑者の為の伝道を続けておられる森本憲夫、豊子ご夫妻が活躍中です。

また、北四日市教会出身の大庭恵理姉妹はOM日本の事務局でご奉仕され、村井優人、春美ご夫妻はカナダ・トロントで日系人伝道に励んでおられます。今宣教師となるべく準備中の方々もいます。これから、さらに世界宣教のため長老教会から献身する兄弟姉妹が起こされることを望みたいと思います。

さらに、アメリカ長老教会と韓国の長老教会から、多くの宣教師が派遣され、私たちと協力しつつ、日本のために労してくださっていることも、感謝したいと思います。

それから、忘れてならないのは、私たちの教会の伝道も献身的な信徒宣教師によって支えられてきたことです。「四日市教会で、英会話を通して伝道したい」と志を抱き、初期の活動に携わられたディック、ドロシーご夫妻。ディック先生は昨年天に召されました。ジャック、レナタ、リチャード、バークマンご夫妻、アンディご夫妻、スチーブン、マイク、アセシュ、ニコラス、メーガンご夫妻。それにW.アンドリュー、ゆりご夫妻、ナターニャ、ティナシェ。献身的な兄弟姉妹に心から感謝したいと思います。

とはいえ、神の国の広がりは未だ完全ではありません。現在、世界の人口は68億人。言語の数は約6900。内、聖書全巻または一部が翻訳されている言語は2500、今聖書翻訳が進行中のものは1990、そして翻訳を必要としている言語がまだ2250存在する、と言われています。

イエス様は「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日がきます」(マタイ2414)と語り、ご自分が地上に戻ってくるのは、全世界に福音が宣べ伝えられてからと教えています。

また、使徒ヨハネはやがて完成する神の国で、世界中から集まってきた数え切れない程のクリスチャンが互いに親しく交わり、神とイエス・キリストをほめたたえる幻を見、それを証ししています。

 

黙示録79,10「その後、私は見た。見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。彼らは、大声で叫んで言った。「救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にある。」

 

キリスト教会はこの約束を信じ、この幻を心に抱いて進んできました。宣教師は世界中に出(いで)、教会はそれを支え、神のことばである聖書は驚異的な広がりをみせています。しかし、未だ多くのイスラム教圏の国はキリスト教宣教に門戸を閉ざしています。ヨーロッパのフランスやドイツなど、いわゆる伝統的なキリスト教国におけるクリスチャン人口の減少、教会の閉鎖等が起こり、こうした国々への伝道に取り組む働き人も必要とされています。

ですから、「御国が来ますように」と祈るということは、聖書が約束し、保証している神の国の完成を待ち望みつつ、私たち自身が世界宣教に取り組んでいくことなのです。既に福音を信じ、神の国の民とされた私たちが皆、世界宣教に携わることをイエス様は期待して、この祈りを日々ささげる様に命じられたのではないでしょうか。

最後に、どのようにして世界宣教に取り組むことができるのか。お勧めしたいことがあります。

ひとつは、世界宣教のために祈ることです。それも、漠然と世界のためにと祈るより、具体的な国や地域、宣教師のために祈ることです。先月、日本ウィクリフの総主事である土井先生ご夫妻が私たちの教会に来てくださり、チベットにおける宣教師の働きと教会の様子、完成した母国語の聖書を手にして喜ぶ人々の姿をビデオで紹介してくださいました。覚えているでしょうか。

実は、あのビデオに登場した鳥羽宣教師のこと、チベットのことを、私は神学生の時代、今から30年ほど前、毎日祈っていました。神学校では、宣教師とその派遣された国のために祈るグループがあり、それに加わっていたのです。その頃から今まで一度も鳥羽宣教師にお会いしたことはありませんが、あの日、目の前に鳥羽宣教師が表れ、チベットの兄弟姉妹の姿を見た時、神様が祈りに応えてくださる喜びを深く感じました。

この地上で直接会う機会はなかったけれど、祈り続けた宣教師、祈り続けた国や地域の兄弟姉妹に、来るべき神の国で会うことができる。これは非常に楽しみなことです。

二つ目は、祈ること以外で世界宣教のため自分ができることはないか、よく考えてみることです。宣教師になる。聖書翻訳の働きに携わる。それもすばらしいことです。しかし、その様な直接宣教ではなくとも、宣教に関わる働きは沢山あります。献金すること、宣教師の働きを技術や事務的な面で支えること、ファーストアントリムのチームのように宣教地を訪問して、宣教師を励ますこと、母国に帰ってきた宣教師に休息の場を提供すること、贈り物やカードを送ること。可能な限り宣教師の証しを聞き、交わり、ともに祈ること。

自分は自分たちの教会は、世界宣教のために何ができるのか。皆がその様な事を考え、取り組む教会でありたいと思います。

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