2015年8月2日日曜日

ヨハネの福音書20章19節~31節「平安があるように」


礼拝において、私たちが読み進めてきたヨハネの福音書。先回は、イエス・キリスト復活、十字架の死から数えて三日目の朝に起こった最初の復活の場面を見てきました。

空の墓と残された亜麻布を見て、「イエス様は復活したらしい」と思い、それを聖書で確認しようとしたヨハネ。悲しみの余り、イエス様の姿に気がつかず、「マリヤ」と親しく名を呼ばれ、ようやくイエス様の復活を信じることのできたマリヤ。

そこに描かれたのは、死後の復活について何度も聞いていたのに、イエス様の復活を全く期待していなかった弟子たちの姿と、その様な彼らを復活信仰へ導くため、心尽くされたイエス様の姿です。

そして、今日私たちが見ることになるのは、その日の夕方の出来事。ユダヤ人を恐れある家に身を潜めていた弟子たちの所に、復活の主が現われると言う場面でした。

 

20:19、20「その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。」

 

弟子たちが身を潜めていた家、それは恐らく最後の晩餐を守った家、イエス様に好意を抱く人が貸してくれた家であったと思われます。彼らが身を潜めたのは、イエス様が公然と処刑された今、自分たちも捕えられるかもしれないと恐れたからです。また、この時既に、弟子たちがイエスの遺体を盗んで行ったに違いないとの噂が都に広がりつつあったことも、その恐れに拍車をかけたことでしょう。彼らは、家の戸を固く締め、用心に用心を重ねていました。

しかし、隠れ家を訪れたのは、彼らが恐れる役人でも兵士でもありませんでした。復活の主だったのです。イエス様は音もなく家に入ると、弟子たちの中に立ち「平安あれ」と言われたとあります。どの様にしてイエス様は現われ、移動されたのか。復活の体が、今私たちの持つ地上の体とは異なる性質、力を持っていることをしめす、不思議な、驚くべき出来事でした。

しかし、さらに驚くべきは、イエス様が弟子たちに示された愛です。つい三日前ローマ兵に捕えられたイエス様を見捨て、離れていった弟子たち。裁判の行われていた庭で、自分はイエスと何の関係もないと三度証言したペテロ。

彼らが示した弱さや裏切りにもかかわらず、イエス様の口からは一言の非難も、叱責も洩れることはありませんでした。むしろ、十字架で彼らの罪をすべて赦されたイエス様は、「平安があなたがたにある様に」と語られたのです。

「平安がある様に」。ヘブル語でシャロームと言うこのことばは、今でもユダヤ人が日常の挨拶に使っているものです。しかし、聖書においては、神様が与えてくださる平安、平和を指します。神様がイエス様を信じる者の弱さや罪をもはや責めることも、さばくこともしない状態、神様と私たちの平和で安全な関係を意味しています。

しかも、イエス様はご自分の体に残された傷を示されたとあります。釘を打たれた手の傷跡、槍に突かれたわき腹の傷跡。それらを示すことで、ご自分が十字架で人間の罪をすべて引き受け、その罪を贖ったこと、復活によって罪の力に勝利されたことを教え、弟子たちを慰め、励ましたのです。「弟子たちは、主を見て喜んだ」とあります。失望、落胆、後悔、恐れ。それらの中で死にかけていたイエス様への信仰が、彼らの心に蘇った瞬間でした。

さらに、もう一度「平安あれ、シャローム」とイエス様は語ります。今度は、弟子たちをこの世に向けて遣わすためです。

 

20:21~23「イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」

 

「父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わす」。イエス様から神様の平安を受け取った者は、それをこの世の人々に伝える者となれと言う命令です。そして、イエス様が弟子たちに息を吹きかけたと言う場面。これは、聖書の最初に記された、神様による人間創造の出来事を思い起こさせます。

 

創世記2:7「その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。」

 

息、元のことばで「プニューマ」。このことばは聖霊とも訳されています。つまり、イエス様から息を吹きかけられ、聖霊を受けた弟子たちは、最初神様によって創造されたいのち、人間が本来生きるべき平安ないのちを回復し、この祝福を他の人々にも分け与えることができる者とされたと言うのです。

皆様は、自分が神様との平和で安全な関係にあること、神様の平安、シャロームを受け取っているでしょうか。それを、他の人に伝えることができると言う祝福を頂いていることを自覚しているでしょうか。

それでは、キリストの弟子たちは、どの様にして神の平安を他の人々に伝えることができるのか。それは福音を伝えることによってです。「あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります」と言う23節のことばは非常に難しく、昔から様々な解釈がなされてきました。

人間の罪を赦すことができるのは神様だけ、と言うのが聖書全体の教えです。ですから、ここは、私たちが伝える福音により、イエス様を信じる者の罪は赦され、信じない者の罪はそのまま残されることを教えるもの、つまり私たちは、神様が赦しとさばきと言うわざを行うための器であると考えたいところです。

ところが、です。何故なのかは分かりませんが、この時家にいなかったため、復活の主に会うことのできなかった者がいました。弟子のトマスです。仲間たちが、「イエス様は復活した。私たちはその姿を見、平安を受け取った」と喜んで語るのを聞きながら、執拗に「私は信じません」と主張し続けた人物です。

 

20:24~27「十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た。」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」と言った。八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように。」と言われた。それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」

 

トマスの様な人、私たちの周りにもいるような気がします。良く言えば、自分の信念に忠実な人。容易に妥協しない人。ことばを代えて言えば、人のことばに耳を傾けようとしない人。頑固な人でしょうか。しかし、イエス様と言う方は、この様なトマスの弱さを知り、それを受け入れ、それに合わせて、ご自分を示されたのです。

八日後の日曜日、弟子たちが隠れ家に集まっていた時、再びイエス様は室内に現われ、「平安がある様に」と語りました。そして、今度は御顔をトマスに向けると、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」

このことばを聞いたトマスは、イエス様が自分の不信仰な態度、他の弟子のようにイエス様を信じられない悩み、それらすべてを知ったうえで、自分を愛しておられることを深く感じることができたのでしょう。ついに、その岩の様な心が崩れたのです。

 

20:28,29「トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」」

 

「私の主、私の神」。最も復活を信じることの遅かったトマスが、イエス様を主と呼び、神と呼ぶ、正しい信仰に導かれました。最もイエス様から心離れていたトマスが、「私の主、私の神」と語り、最も身近に、親しくイエス様の存在を感じているように見えます。イエス様の愛は、どんなに心頑な者の心をも捕え、砕き、変えてくださることを教えられたいと思います。

しかし、私たちから見るとトマスほど幸いな者はいないと思われるのですが、イエス様はさらに幸いな者がいると言われました。見ずに信じる者、即ち復活の主を見ることなく、信じる者も同じく幸いであると語られたのです。

それでは、復活のイエス様を見ることのない者のため、神様が残してくれたもの、恵みは何かと言うと、それは聖書でした。つまり、聖書によってイエス・キリストを「私の主、私の神」と信じられる人は本当に幸いだと、ヨハネの語ることばが後に続く二節です。

 

  20:30,31「この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしをも、イエスは弟子たちの前で行なわれた。しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」

 

 「多くのしるし」とは、イエス様の奇跡を指します。四つの福音書に記されたイエス様の奇跡は30と言われます。復活を除くと、ヨハネはそのうちの七つを選んで、イエス様が救い主であり、神の御子であることを伝えているのです。この地上においては、その姿を直接見ることのできない私たちが、イエス様を信じ、永遠のいのちの祝福を受け取るためでした。

 トマス以降、一体どれだけの人がイエス様を見ずして永遠のいのちの祝福を受け取ってきたことでしょうか。やがて、私たちは世界中から集められた、数えきれないほどの兄弟姉妹とともに、イエス様の姿を見、幸いを分かち合うことになります。その日を心から待ち望む者、神様の平安を心に受け取り、人に伝える者として、地上の日々を歩んでゆきたいと思います。

 最後に、今日の箇所から大切なことをふたつ確認しておきたいと思います。

 一つは、不信仰な私たちを信じる者に変えてくださる、イエス様の忍耐深い愛です。先回見たヨハネとペテロ、マグダラのマリヤ、今日見た隠れ家に身を潜めていた弟子たち、それにトマス。何度も十字架の死と復活のことを教えられていたにもかかわらず、彼らは誰一人、イエス様の復活を信じても、期待してもいませんでした。

 しかし、その様なとことん不信仰な者たちを、イエス様は見捨てることなく、各々に相応しい方法で、復活の信仰へと導いてくださったのです。物事を冷静に考えることのできるヨハネには空の墓と、残された亜麻布を示すことで、悲しみに沈むマリヤには普段通りにその名を親しく呼ぶことで、人を恐れる弟子たちには彼らの真ん中に立って語ることで、疑うトマスには十字架の傷跡に触っても良いと招くことで、彼らを皆復活の主を信じる者へと変えられたのです。

 私たちも、このイエス様の忍耐深い愛を受けることで、不信仰な者から信じる者へと導かれていることを覚えたいのです。

 二つ目は、神様の平安、シャロームを受け取ることの大切さです。今日の箇所、ユダヤ人を恐れていた弟子たちの前に現われたイエス様は、先ず「平安あれ」と語りました。彼らをこの世に遣わすと言われた時も「平安があなたがたにある様に」と言われ、八日後に現われた際も「平安があなたがたにある様に」と告げられたのです。

イエス様が何よりも望んでおられること、イエス様のみこころは、私たちが神様の平安を受け取ることなのです。働く、学ぶ、奉仕をするなど、自らの生活のため、隣人のため、教会のために、何かをすることよりも前に、私たちが神様と平和で安全な関係にあることを知ってほしいと願っておられるのです。

私たちは、これがイエス様の最大の願い、みこころであることを知っているでしょうか。どれほどそれを覚え、神様の平安を受け取る時間を取っているでしょうか。神様のシャロームを心行くまで受け取るため、私たちは教会に集められている。それを人々と分かち合うためこの世に生かされている。このことを覚えながら、信仰の歩みを進めてゆきたいと思うのです。今日の聖句です。

 

ピリピ4:6、7「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」

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