2015年7月12日日曜日

ヨハネの福音書19章38節~42節 「イエス・キリストの埋葬~ヨセフとニコデモ~」


先回、私たちはイエス・キリストが十字架で息を引き取る場面を見てきました。時は紀元30年頃の春、とある金曜日の午後3時。イエス様は、息を引き取る直前「完了した」と語り、死によって人類の罪を贖うという使命を成し遂げたことを宣言したのです。その直後、兵士がわき腹を槍で突き刺すと、イエス様の体から血と水が流れ出て、これが各々罪の赦しと永遠のいのちと言う、十字架の恵みを示すものであることも確認しました。

そして、今日は埋葬の場面となります。当時、囚人は家族の墓に葬られることが許されず、囚人用の墓か、ゲヒンノムの谷と言う場所に捨てられ、腐り果て、白骨化するまで放置されたと言われます。

特に、イエス様が死なれた日の翌日土曜日は、ユダヤ最大の祭り過越しの祭りの中の安息日お祝いの日ということで、死体を忌み嫌うユダヤ人は、一刻も早くこれを処置したいと考えていました。ですから、このままでは、誰一人イエス様を葬る者なく、その体は谷底に放り出されるという悲惨な結末を迎えることとなったでしょう。

しかし、ここに、意外な人物が登場し、イエス様の体を丁重に葬ることになります。それがアリマタヤのヨセフとニコデモと言うふたりの弟子。彼らは12弟子のように生前イエス・キリストに対する信仰を公にすることなく、近くで教えを聞き続けた者でもありませんでした。けれども、世に知られた12弟子が、この福音書を書いたヨハネを除いてすべて逃げ去った後、突如自らの信仰を明らかにする行動に出たのです。

 

19:38,39「そのあとで、イエスの弟子ではあったがユダヤ人を恐れてそのことを隠していたアリマタヤのヨセフが、イエスのからだを取りかたづけたいとピラトに願った。それで、ピラトは許可を与えた。そこで彼は来て、イエスのからだを取り降ろした。前に、夜イエスのところに来たニコデモも、没薬とアロエを混ぜ合わせたものをおよそ三十キログラムばかり持って、やって来た。」

 

アリマタヤ村出身のヨセフは、他の福音書を見ますと、裕福であり、有力な議員つまりユダヤ最高議会の議員であり、立派な正しい人でもあったと言われています。富と社会的地位を兼ね備えたエリートでありながら、鼻持ちならない人ではなく、人格者であったのです。

ある時、ユダヤ議会が開かれ、イエス様をどうするのか。議論の後、ついに殺害が提案され、そこに居並ぶ議員の殆どが同調した時、彼はそれに同意しませんでした。何故なら、彼は神の国を待ち望んでいたからと記されています。

この出来事を念頭に置いてのことでしょうか。ヨハネの福音書は、「イエスの弟子ではあったが、ユダヤ人を恐れてそのことを隠していた」と、ヨセフに対しいささか手厳しい評価を下しています。

他方、「前に、夜イエスの所に来た」人として紹介されたニコデモも、ヨセフと同じく最高議会の議員であり、年長者。しかし,永遠のいのちの問題について自ら謙遜に尋ねてくるほど、イエス様を尊敬していたのです。

しかし、訪問が昼間ではなく、深夜であったと言う点が、ニコデモの慎重さ、ことばを代えれば、人目を憚る弱さが伺えるところです。けれども、このニコデモとの会話において、イエス様によりあの有名なことば、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(3:16)を語っておられました。

この出会いが影響を与えたのでしょうか。ニコデモの心にも、イエス様を救い主と信じる信仰が芽生えていたように見えます。事実、ユダヤ人議会がイエス様を排斥することで大勢が決まりかけた時、ひとり立ったニコデモはこう言い放ちます。

 

7:51 「私たちの律法では、まずその人から直接聞き、その人が何をしているのか知ったうえでなければ、判決を下さないのではないか。」

 

多勢に無勢と言うのか、孤軍奮闘と言うべきか。イエスと言う人について判断、決定する前に、先ずは本人の話を聞くと言うのが原則ではと語るニコデモ。これがニコデモなりの精一杯の抵抗であり、イエス様擁護の態度であったかもしれません。

漁師や収税人や遊女と言った、社会の底辺に暮らす人々の中に弟子が多かったイエス様。それに対して、裕福で、社会的肩書きを持つ、異色の弟子であるヨセフとニコデモ。いつもイエス様と一緒にいて、旅をし、教えを聞き、親しく食事をしていた庶民派の弟子に比べ、周りが反イエス・キリスト一色に染まる状況で、信仰を守らねばならなかった彼らの孤独や労苦を思うと、非常に同情の余地ありと感じます。

イエスの弟子ではあったがユダヤ人を恐れてそのことを隠していたアリマタヤのヨセフ。反対派がキリスト殺害を企てる中、ひとり議会に立ったものの、「私はイエス・キリストの弟子、イエス・キリストを救い主と信じる」とまでは言えなかったニコデモ。彼ら自身、人を恐れ、世間を恐れる自分の弱き信仰に、大いに苦しみ、悩んでいたのではないかと考えられます。

しかし、その様なふたりが献身的な行動によって、信仰を明らかにする時がやって来ました。ユダヤ人が遺体の処置を済ませて欲しいと願う、安息日まであと三時間。このままでは、イエス様の体が囚人のように辱められ、谷に放り出されるばかりと言う瞬間でした。

まず、ヨセフが総督ピラトの前に進み出て、イエス様の体のさげわたしを願ったと言うのです。それに対し、もともとイエス様に罪を認めなかったピラトは、イエス様が囚人同様に処理されることを望んではいなかったのでしょう。ヨセフに許可を与えました。

しかし、これはユダヤで最も高い地位にいたヨセフだからできたこと。ヨセフがユダヤ議会の議員であり、立派で正しい人との評判を持っていたがゆえに、ピラトも納得し、申し出を受けざるを得なかったのでしょう。他の弟子たちは、総督ピラトの前に出る社会的立場など、誰も持っていなかったかったからです。

ニコデモの行動も目覚ましいものでした。彼は、没薬とアロエを混ぜ合わせた香料、およそ30キロを持参して来ました。これは当時非常に高価なもので、王様クラスの人の埋葬に値すると言われます。ニコデモは、十字架に死なれたイエス様を、神の国の王と認めていたとも考えらえる献身です。

こうして準備を整えると、ふたりは共同で埋葬に取り掛かります。

 

19:40~42「そこで、彼らはイエスのからだを取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従って、それを香料といっしょに亜麻布で巻いた。イエスが十字架につけられた場所に園があって、そこには、まだだれも葬られたことのない新しい墓があった。その日がユダヤ人の備え日であったため、墓が近かったので、彼らはイエスをそこに納めた。」

 

当時ユダヤ人は、死体に触れることを宗教的な汚れと考え、これを嫌いました。そのような仕事は、一般的にしもべ、奴隷の仕事とされたのです。しかし、ふたりは人目を憚ることなく、イエス様の体を十字架から降ろすと、恭しく、心を込めて香料を塗り、丁寧に亜麻布で巻いたと言うのです。

さらに、納められたのは「まだ誰も葬られたことのない新しい墓」でした。他の福音書には、これがヨセフ所有の墓であったことが記されています。その墓は岩に横穴が開けられたタイプで、庶民には手にすることの出来ないもの。裕福なヨセフにしてはじめて購入可能な墓だったのです。

しかも、その墓は、幸いにも十字架刑の行われたゴルゴダの丘に近い場所にありました。ユダヤ人が死体の処理を急ぐ中、恐らくヨセフは自分のために購入した、未使用の新しい墓を、イエス様のためにささげることを最初から決めていたのでしょう。

イエス様は、ご自分に従う者の幸いな生き方について、この様に教えています。

 

ルカ9:24「自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。」

 

ここで言う「自分のいのち」とは、体の命に代表される様な、私たちがこの世で大切に考えているものもの、財産、社会的地位、安全な環境などを指しています。

これまで、ヨセフもニコデモもイエス様を信じつつ、同時に自分の財産、議員としての地位、安全な環境を大切にして来たのではないかと思います。しかし、イエス様の十字架の死を目の当たりにした時、彼らは今まで大切に考えてきたそれらのものを自ら手放し、失い、代わりにイエス・キリストと深く結びついたいのち、人間が本来生きるべきいのちを手にすることができたのです。

さて、こうして今日の箇所を読み終えた私たち、覚えておきたいことが二つあります。

ひとつは、人を恐れる弱き信仰者も、神様は等しく愛し、御眼を注いでおられるということです。聖書には繰り返し、「人間を恐れるな。神を恐れよ」と教えられています。しかし、これが頭でわかっても、なかなか実行することが難しい教えと感じること、皆様にはないでしょうか。

特に、この世において大切なもの、守らなければと考えるものを、多く持っていればいる程に、私たちは人を恐れ、世間を恐れるように思います。アリマタヤのヨセフやニコデモが財産を、社会的立場を、自分が守られている環境を失うことを恐れた気持ちがよく分かります。

明確に、イエス・キリストを第一にすることのできない自分、人に対して、「私はイエス・キリストの弟子として生きている」と語ることを躊躇う自分を発見し、苦しみ、悩むことが、私たちにもあるのではないでしょうか。

しかし、今日の箇所は、ヨセフ、ニコデモの様な信仰者を、神様がいかに愛し、見守っておられたか。このことを私たちに教えてくれます。神様は、彼らが自由な心をもってイエス・キリストに対する愛と献身を示すことを期待し、待っておられたのです。

私たちは、人を恐れる信仰者を批判してはいけないと思います。自分の中にある信仰の弱さを責めすぎてはいけないと思います。神様は、置かれた状況の中で私たちがささげる最善の信仰を受け入れ、愛してくださるお方であることを覚えたいのです。

二つ目は、ヨセフとニコデモの行動の源は、十字架上で示されたイエス・キリストの愛にあると言うことです。彼らの信仰は、何故人を恐れる信仰から大胆で献身的な信仰へと変えられたのでしょうか。

イエス様の死を悼む心からでしょうか。悲劇的な死を遂げたイエス様に対する同情でしょうか。そうしたもので彼らの変化は説明できないように思われます。彼らが今まで大切にして来たもの、富や地位をキリストのために用い、ささげたのは、十字架上にイエス・キリストの愛を見たからと考えられます。

ご自分を十字架に付けた人々の赦しを願い、祈る姿。ご自分の着物をくじ引きで分け合うと言う兵士たちの酷い悪を黙々と忍耐する姿。悲しみに心痛める母マリヤに配慮する姿。苦しみの中人類の罪を背負い、赦すと言う使命を果たし終え、完了したと宣言された姿。

このイエス・キリストの愛こそ、彼らの心を動かし、献身的な行動へと励ます原動力だったのではないでしょうか。

私たちはどうでしょうか。正しい行動を為す時、人を愛し、仕える時、私たちの心を動かしているものは何でしょうか。経済的利益、評判、世間体、義務感でしょうか。今日の箇所から、十字架のキリストの愛こそ、私たちの心を最も深く、強く動かし、正しい行動、愛の行動に励ます源と教えられたいのです。今日の聖句です。

 

Ⅰコリント1:18「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」

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