2015年6月28日日曜日

ヨハネの福音書19章28節~37節 「完了した」


イエス・キリストの死について、二つの見方があるのを皆様はご存知でしょうか。ひとつは、十字架の死は、イエス様がユダヤ教指導者やローマの総督など、この世の罪の力に敗北したことを示すという敗北説です。本多顕と言う人が「愚者の楽園」と言う本で書き、広まりました。二つ目は、十字架の死によってイエス様は罪の力に勝利し、人類の罪の贖いを成し遂げたとする勝利説です。

私たちは敗北説を非常に表面的な聖書の理解と考えています。私たちはキリストの勝利こそ、聖書の真のメッセージと信じる者。そして、イエス様が息を引き取る場面を描く今日の箇所も、私たちにキリストの勝利、罪の力の敗北を印象的に教えているのです。

さて、時は紀元30年頃の春、ある金曜日の午後。場所はユダヤの都エルサレムにある、通称ゴルゴダの丘。すでに十字架に付けられてから六時間近く。イエス様が、大量の出血と、極度の呼吸困難に苦しみつつ発した言葉を、ヨハネの福音書はこう記しています。

 

19:28,29「この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く。」と言われた。そこには酸いぶどう酒のいっぱいはいった入れ物が置いてあった。そこで彼らは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝につけて、それをイエスの口もとに差し出した。」

 

死の直前、イエス様が口にしたのは「わたしは渇く」とのことばでした。これは、単にイエス様が激しい喉の渇きを覚えていたと言う次元のことではありません。イエス様が味わっておられた霊的な苦しみを示すことばです。

旧約聖書の詩篇には、やがて来るべき救い主の雛型とされるダビデ王が経験した様々な苦しみが記録されています。そこには、イエス様が十字架上で経験する苦しみが映し出されており、「わたしは渇く」もその一つでした。

 

詩篇69:3,21「 私は呼ばわって疲れ果て、のどが渇き、私の目は、わが神を待ちわびて、衰え果てました。…彼らは私の食物の代わりに、苦味を与え、私が渇いたときには酢を飲ませました。」

 

ここには、人々の敵意と嘲りに苦しむ神のしもべの姿が描かれています。ダビデはその時、激しい渇きを覚えていましたが、その原因は「私の目は、わが神を待ちわびて衰えた」とある通り、神様との親しい交わりを失っていたことにありました。

イエス様が十字架上で味わった苦しみは、肉体の苦しみ、人々から受ける辱めに加え、人間の罪がもたらす裁きを受けたことにあります。即ち、天の父なる神様との交わりが断絶、天の父の愛を受け取ることのできない、恐ろしい孤独に落とされたことが渇きの最も大きな原因だったのです。ことばを代えて言うなら、人類がまだ誰一人それを味わったことがない地獄を、イエス様は先取りして経験されたことを聖書は教えているのです。

 しかし、その様な苦しみを思っても見ない人間は、安物の酸いぶどう酒を海面にしみ込ませ、差し出します。単に喉の渇きと理解したのです。けれど、僅かなぶどう酒は渇きを癒すどころか、むしろ渇きを助長するもの。一見親切と見える兵士の行動も、実は渇く者をさらに深い渇きで苦しめるための行動でした。私たちはここに人間の罪と、死の直前まで人間の罪を全身で受けとめ、忍耐されるイエス様の姿を見ることができます。 

 そして、最後に発せられるのが、完了したと言う有名なことばです。

 

 19:30「イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。」

 

 完了した。これは、ご自分の使命をすべて果たし終えることができたと確信した人の勝利宣言です。そして、イエス様の使命とは、人類の罪を赦すことでした。

 罪を赦すこと。それは、神様にとって決して容易なことではありませんでした。むしろ非常に難しく、辛いことだったのです。

旧約聖書には、神様が人間の罪を深く悲しむ様子が何度も出てきます。神の民イスラエルが犯した罪の一つ一つに対し、神様は悲しみ、傷つき、怒っておられます。神様は人々の罪を、妻の背信、恋人の裏切り、我が子の反抗に等しいものと感じておられたのです。神様にとってどれ程人間が大切な存在であるか。本当に大切な存在であるからこそ、人間の罪がどれ程神様の心を傷つけ、痛めたか。それがよく分かります。

そして、最後には神の御子が人の姿を取り、十字架で苦しみ、裁かれ、死ぬことによって、漸く罪の赦しは成し遂げられた、完成したと聖書は教えているのです。

この世界を六日で創造することのできた神様、測り知れない力を持つ全能の神様が、私たちの罪を赦す為には、長い時間をかけ、自ら悲しみ、嘆き、心痛め、尊い犠牲を払わなければならなかったのです。こうして歴史始まって以来続けられてきた、神様の罪の赦しのわざ、そこに込められた神様の思い、それらすべてを覚えつつ、イエス様が口にされたのが、「完了した」ということばでした。私たちも、このことばに込められた神様の限りない愛と忍耐を、心に受けとめたい、受けとめなければと思わされます。

ところで、続いて語られるのは、イエス様の使命の完成が証しされてゆく様子です。それが思わぬ出来事を通して証しされたことを、目撃者であり、著者ヨハネは語ります。先ず取り上げられるのは、イエス様のすねの骨が折られなかったと言う出来事です。

 

19:31~33,36「その日は備え日であったため、ユダヤ人たちは安息日に(その安息日は大いなる日であったので)、死体を十字架の上に残しておかないように、すねを折ってそれを取りのける処置をピラトに願った。それで、兵士たちが来て、イエスといっしょに十字架につけられた第一の者と、もうひとりの者とのすねを折った。 しかし、イエスのところに来ると、イエスがすでに死んでおられるのを認めたので、そのすねを折らなかった。・・・この事が起こったのは、「彼の骨は一つも砕かれない。」という聖書のことばが成就するためであった。」

 

当時のローマ人には、十字架の囚人を野に放置しておくのは何でもないことでした。しかし、ユダヤ人にとって死体は宗教的に汚れた物。特に、木につけられた死刑囚の遺体は、神に呪われたものとして、特に忌み嫌われたのです。

しかも、イエス様が十字架に付けられた金曜日はユダヤ最大の祭り、過越しの祭りの最中で、翌日は安息日でした。この安息日は非常に重要とされ、「大いなる日」と呼ばれていたのです。ですから、ユダヤ人は、その日のうちに遺体を片付けるよう、囚人の死を早める処置を願い出たと言うのです。

それは鉄製の大きな金槌で囚人のすねを打ち砕くこと。この激痛により人は一瞬で死ぬと言われた恐ろしい方法です。そして、遣わされた兵士は息の残っていた二人の囚人の骨を砕きますが、イエス様の所に来ると、既に息絶えておられるのを確認します。脛の骨を折るまでもない状況でした。イエス様の死が早かったのは、十字架直前に加えられた酷い鞭打ちのためと考えられます。

これを目撃したヨハネは、偶然とも見えるこの出来事に重大な意味があることに後々気がつきます。「この事が起こったのは、「彼の骨は一つも砕かれない。」という聖書のことばが成就するため」とある通りです。

「彼の骨は一つも砕かれない」は、旧約聖書詩篇34篇20節にある「主は、彼の骨をことごとく守り、その一つさえ、砕かれることはない」からの引用とされます。ここに示されているのは、主なる神に従う人、義人は必ず守られるとの信仰です。天の父がイエス様を守られた愛が「彼の骨は一つも砕かれない」ということばで表現されていました。ヨハネはこの出来事を、天の父が、十字架に死なれたイエス様を最後までみこころに従い通した義人と認め、守られたことのしるしと見たのです。

さらに、もうひとつの出来事に読む者の心を向けようと、ヨハネは語り続けます。

 

19:34~.35,37「しかし、兵士のうちのひとりがイエスのわき腹を槍で突き刺した。すると、ただちに血と水が出て来た。それを目撃した者があかしをしているのである。そのあかしは真実である。その人が、あなたがたにも信じさせるために、真実を話すということをよく知っているのである。・・・また聖書の別のところには、「彼らは自分たちが突き刺した方を見る。」と言われているからである。」

 

兵士たちがわき腹を突き刺したのは、その死を確認するためです。既に、イエス様が息絶えていたことを確認したはずなのに、なぜ槍を用いて残酷な処置をするのか。そう思われるところですが、これによって、イエス様の体からすぐに血と水とが出てきたのを印象深く覚えていたヨハネは、そこにも霊的な意味があることを悟ったのでしょう。「それを目撃した者があかしをしているのである。そのあかしは真実である」と、この出来事に重要な意味があることを強調しています。

その意味とは何でしょうか。イエス様の遺体から流れ出た血は、十字架の死によって罪の赦しが完成したことを、水は十字架の死によってもたらされる永遠のいのちを示すものと伝統的に考えられてきました。

また、「彼らは自分たちが突き刺した方を見る」とあるみことばは、旧約聖書ゼカリヤ書からの引用です。神の民イスラエルが、自分たちの所に遣わされた救い主を殺してしまうのですが、その様な罪を犯した人々も救い主の死によってもたらされる恵みを見ることになる。その様な預言が語られているところです。

この福音書を書いたヨハネは、12弟子の中でただ一人十字架の下にとどまり、これらの出来事を目撃しました。そこに人間の思いをこえた神様の救いの御業が着々と実現し、完成してゆく有様を見たのです。

渇きで苦しむ人をさらに苦しめる酸いぶどう酒を差し出した兵士。「早く殺して、片づけてくれ」とばかり、遺体の処置を願い出たユダヤ人。イエス様の死を確認したはずなのに、さらに脇腹を槍で刺したローマ人。人は人をこれ程苦しめ、辱め、残酷になれるものかと感じさせる行いばかり。私たち人間の罪の深さ、恐ろしさを思わせます。

しかし、イエス様はこの様な罪を全部引き受け、罪の赦しを完成されました。神様はこの様な罪をも用いて、イエス様が尊い使命を果たし終えた救い主であることを認め、その死がもたらす恵みが何であるか、私たちに示されたのです。

人間の罪は神様の愛に勝つことができない。神様の愛は人間の罪を十字架に付け、死なしめ、これに勝利された。イエス・キリストの十字架の死は敗北ではなく、勝利。私たちこのことを確認、確信したいところです。

そして、最後に私たちが心に刻みたいのは、イエス・キリストを信じる者が受け取る二つの恵み、その体から流れ出た血と水のことです。血が表わす罪の赦しと、水が示す永遠のいのち。この二つの恵みについて本当に理解しているかどうか、日々これを喜びながら歩んでいるかどうか。これは私たちの人生に大きな影響を与えることなのです。

まず、罪の赦しについて、今日の聖句をともに読んでみたいと思います。

 

ローマ4:6~8「ダビデもまた、行ないとは別の道で神によって義と認められる人の幸いを、こう言っています。 「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。主が罪を認めない人は幸いである。」

 

罪赦された人の幸いについて、二つのことが言われています。一つは主がその人の罪を認めないと言う幸いです。神様は、私たちの中にある罪を見ても、もはやその罪のゆえに私たちを責めることも、裁くこともしないと言うことです。もう一つは、神様に義と認められる幸いです。私たちは罪人のまま、イエス様と同じく罪のない者、義しい者として神様に認められ、扱っていただけるという幸いでした。

皆様は、この恵みを理解しているでしょうか。自分の罪を認めないのは、聖なる神様の前に傲慢です。しかし、自分の罪を認め、これを責めるだけで、イエス様が与えてくださる罪の赦しの恵みを受け取らないことも神様の前に等しく傲慢な態度なのです。罪のどん底にあっても、罪の赦しを求めることのできる幸い、それを心から求める謙遜な歩みを進めてゆきたいと思うのです。

第二に、イエス・キリストを信じた私たちは、水によって示される永遠のいのちを受け取っています。神様と親しく交わりたいと願ういのち、神様の悲しむ罪を避け、神様が喜ばれる考え方、生き方を目指そうと願ういのち、神様と人を愛することを最も大切に考え、実践に努めるいのち。皆様は自分の中にこの様な命が生れ、徐々に成長していることを自覚しているでしょうか。たとえ、ひどい罪を犯しても、この様ないのちが消えることなく、心によみがえってくる経験をしたことがないでしょうか。

罪の赦しと永遠のいのち。イエス・キリストを信じる以前には思ってみたこともない、これらの恵みを喜び、大切にしながら、日々歩む者でありたいと思います。

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