2015年6月14日日曜日

ヨハネの福音書19章17節~27節 「ご自分で十字架を負い」

これまで礼拝において読み進めてきたヨハネの福音書。ここ数回にわたり、私たちはその最後の部分、イエス・キリストが十字架直前に受けた様々な苦しみを見てきました。ユダの裏切り、逮捕、弟子たちの離散、ペテロの否認、ユダヤ教裁判、ローマ総督ピラトによる裁判と続き、今日はいよいよ十字架の場面となります。
先回のことを思い起こして頂きたいと思います。イエス無罪を確信するピラトは何とかしてイエス様を釈放しようとつとめました。しかし、「あなたは、ユダヤの王を自称するこのイエスを釈放し、皇帝に背くつもりか」とユダヤ人に追及され、我が身の安全を優先。ついにイエス様を、怒りと悪意に満ちた人々の手に渡してしまったのです。
そして、ユダヤ人の手に渡されたイエス様はどうしたのか。イエス様は、自ら十字架を負い、処刑の場所ゴルゴダに出て行かれたと言うのです。

19:17「彼らはイエスを受け取った。そして、イエスはご自分で十字架を負って、「どくろの地」という場所(ヘブル語でゴルゴタと言われる)に出て行かれた。」

この場面、他の福音書を見ますと、少し違った印象を受けます。ユダヤ人の手に渡されたイエス様は人々に散々苦しめられ、嘲られ、ローマ人兵士に十字架の木を背負わされた末、ゴルゴダまで連行されます。途中力尽きて倒れたイエス様に代わり、そこに居合わせたシモンと言う男が十字架を背負わされと言う出来事も描かれています。つまり、他の福音書では、イエス様が受けた苦しみの重さ、深さに焦点があてられていました。
それに対し、ヨハネはそうしたエピソードを省き、イエス様がご自分で十字架を負い、ゴルゴダに前進してゆく姿を描いています。つまり、ヨハネの福音書は、十字架への道を、自ら選び歩まれたイエス様の姿を強調していると言えるでしょうか。
これ以前、十字架の死について、イエス様が言われたことばが残っています。

10:17~18「わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」

「わたしには自分からいのちを捨てる権威がある」と言われたイエス様。イエス様にとって十字架は、心から天の父に従い、私たち罪人を愛すると言う自由な思いから生まれた決断であり、選択でした。決して、ユダヤ人やローマ人兵士に強いられたものではなかったのです。ここには霊的な王としてのイエス様の姿が表れているとも言われます。事実、それは思わぬ形で証しされました。

19:18~22「彼らはそこでイエスを十字架につけた。イエスといっしょに、ほかのふたりの者をそれぞれ両側に、イエスを真中にしてであった。ピラトは罪状書きも書いて、十字架の上に掲げた。それには「ユダヤ人の王ナザレ人イエス。」と書いてあった。それで、大ぜいのユダヤ人がこの罪状書きを読んだ。イエスが十字架につけられた場所は都に近かったからである。またそれはヘブル語、ラテン語、ギリシヤ語で書いてあった。そこで、ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、「ユダヤ人の王、と書かないで、彼はユダヤ人の王と自称した、と書いてください。」と言った。ピラトは答えた。「私の書いたことは私が書いたのです。」

ゴルゴダの丘には、イエス様を真ん中に三本の十字架が立てられました。まるで三人は同じ穴のむじなと言わんばかり。イエス様が犯罪人と同列に扱われたのです。この様な酷い扱いは、ユダヤ人がイエス様を辱めるために要求したことでしたが、既に旧約聖書には、来るべき救い主が犯罪人と等しく扱われ、その仲間に数えられると預言されていました。

イザヤ53:12「彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。」

イエス様の十字架は、ユダヤ人の悪意により犯罪人の真ん中に据えられましたが、その姿は、救い主が罪人の代表として裁かれ死ぬという、神様の預言、ご計画が実現したことを示すものだったのです。
さらに、ピラトが書いた「ユダヤ人の王」と言う罪状書きは十字架上に掲げられ、その頃都エルサレムに世界各地から集まっていた人々の目に触れることになりました。ヘブル語はユダヤ人に、ラテン語はローマ人に、ギリシャ語は当時地中海世界全体で広く使われていた言語ですから、あらゆる人がこの罪状書きを理解することができた訳です。
勿論、ピラト自身本気でイエス様をユダヤ人の王と考えていたわけではありません。彼はイエス様釈放と言う自分の提案を撥ね付けたユダヤ人を憎く思い、彼らに対する嫌がらせとして、これを書いたにすぎません。事実、ユダヤ人は猛反発しますが、時すでに遅し。ピラトは頑固な態度を翻すことはなかったのです。
こうして、言わばピラトとユダヤ人の対立、喧嘩から生まれたような罪状書きでしたが、それがピラトやユダヤ人の思いを越え、イエス様が全世界のための救い主であり、王であることを示すものとなったと、ヨハネの福音書は教えています。
人の眼には無力、悲惨と見えるイエス様が、人類の罪を贖い、世界中の人々を神様との親しい関係へ回復すると言う神様のご計画を、着々と実行してゆく姿を、私たちここに見ることができますし、見るべきでしょう。
この様にして、イエス様は霊的な王として十字架に着座されました。しかし、その力は専ら罪人のため、悲しむ者のために使われたことが次に語られます。イエス様は徹底的に人を愛し、人に仕える王であったのです。
19:23,24「さて、兵士たちは、イエスを十字架につけると、イエスの着物を取り、ひとりの兵士に一つずつあたるよう四分した。また下着をも取ったが、それは上から全部一つに織った、縫い目なしのものであった。そこで彼らは互いに言った。「それは裂かないで、だれの物になるか、くじを引こう。」それは、「彼らはわたしの着物を分け合い、わたしの下着のためにくじを引いた。」という聖書が成就するためであった。」

当時十字架刑に立ち会う兵士たちには、囚人が身につける物をただで貰えると言う特権がありました。ですから、彼らは容赦なくイエス様の体から上着や帯などを剥ぎ取り、分け合います。下着だけは縫い目のない一枚ものであったため、くじ引きとなりました。
昔も今も、人の体から物を剥ぎ取り、裸にすると言うことは屈辱以外の何ものでもありません。旧約聖書の詩篇にも、ダビデ王が敵から辱めを受けた時の苦しみを訴えていることばがあります。ここに引用された詩篇22篇24節「彼らはわたしの着物を分け合い、わたしの下着のためにくじを引いた」がそれです。このことばで、ヨハネの福音書は、イエス様もこの時同じ辱めにより、深く傷つき、苦しんでおられることを伝えています。
他方、ルカの福音書には、兵士たちの背後で祈るイエス様の姿が記されています。

ルカ23:34「そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。」

イエス様は、ご自身が受けた辱めにより深く苦しんでおられました。しかし、その様な中で、私利私欲に目を曇らされ、自分の罪に気がつかず、愚かな行いに興じる人々を心から憐れみ、彼らを赦してくださるようにと天の父にとりなし、祈られたのです。
また、十字架の傍らには、兵士とは対照的にイエス様を見守り続ける、三人の女性たちがいました。

19:25~27「兵士たちはこのようなことをしたが、イエスの十字架のそばには、イエスの母と母の姉妹と、クロパの妻のマリヤとマグダラのマリヤが立っていた。イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこに、あなたの息子がいます。」と言われた。それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます。」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。」

私たちが使用している新改訳聖書では、ここに四人の女性がいたように書かれています。しかし、イエスの母の姉妹とクロパの妻マリヤを同一の女性と考え、合計三人とするのが一般的とされます。
イエスの母とは言うまでもなく有名なマリヤ。その姉妹とはイエス様の弟子ヨハネとヤコブの母のことで、名前はやはりマリヤ、別名サロメ。もうひとりのマリヤは、イエス様に悪霊を追い出して頂いたマグダラのマリヤ。ヨハネ以外の男の弟子たちは皆逃げ去り、あのペテロでさえ弟子であることを否定した。それなのに、この三人のマリヤは十字架の側にとどまり続けたのです。
彼女たちの存在が、十字架で苦しむイエス様の心をどれ程励ましたことでしょう。人類の罪を贖う為、イエス様が成し遂げようとしておられるみ業を、自らそこにとどまり続けることによって助けた女性たち。彼女たちの愛の奉仕の大きさを思わずにはいられません。
しかし、三人の女性がイエス様を愛したように、イエス様も彼女たちを愛しておられました。イエス様が十字架上で語られたことばは全部で七つ。その中でただ一つ、女性に向けて語られたことばがここに残されています。イエス様は「女の方」と母マリヤに呼びかけ、「ごらんなさい。そこにあなたの息子がいます」とヨハネを示し、ヨハネに対しては「そこに、あなたの母がいます」とマリヤを託したのです。
マリヤの一生は苦難と試練の連続。心労が絶えることはなかったと思われます。そして、この時、マリヤは十字架に苦しむ我が子の姿を見て、引き裂かれんばかりの心の痛みと悲しみを感じていたことでしょう。そのマリヤを、イエス様は信頼する弟子ヨハネの家に預け、悲しみを癒すことができるようにと配慮されたのです。
こうして、ヨハネの福音書が描く十字架の場面を見てきた私たち。最後に確認したいことがふたつあります。
一つ目は、今日の前半の場面。総督ピラトとユダヤ人の対立が浮き彫りになる中、人類の罪を贖うと言う神様のご計画が、イエス・キリストにより着実に前進、実現してゆく様を、私たち見ることができました。神様のご計画は必ずなる、誰も神様のご計画の実現を妨げることはできないと教えられるのです。
信仰とは、神様の約束、神様のご計画の実現を信じることです。そうだとすれば、神様にとって最も難しい、キリストの犠牲による罪の贖いが実現したのですから、後に残された約束の実現はさらに確実と、心から安心することができるのではないでしょうか。
イエス・キリストを信じる者は、今どれ程罪をもっていても、必ずキリストに似た者へと造り変えられると言う約束。イエス・キリストを信じる者は、神様によって新しくされた世界、愛と義と平和に満ちる天の御国へ迎えて頂けると言う約束。これらの約束をそのまま信じる信仰を頂いて、私たち日々歩めたらと思います。
二つ目は、今日の後半の場面において現されたイエス・キリストの愛を思い、その愛に憩うことです。十字架のもと上着や下着を奪い合う浅ましい兵士に心痛めながらも、彼らのためとりなし、祈られたイエス・キリストの愛。また、愛する者の苦しむ姿に自らも苦しみ、悩む女性の心を思い遣り、配慮を忘れなかったイエス様の愛。
私たちもあの兵士の様に、自らの罪に気がつかず、愚かなこと酷いことを行って人を責め、傷つけ、苦しめたことがあるのではないでしょうか。愛する者のため苦しみ悩むこともあるでしょう。しかし、どちらの私たちも等しくイエス・キリストから祈られ、愛されているのです。この愛を受けとりたい。この愛に包まれて歩むことのできる幸いを、心から感謝する者でありたいと思います。今日の聖句です。


ローマ5:8「しかしまだ私たちが罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」

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