2015年6月21日日曜日

申命記5章16節 「幸せになるため」


聖書とはどのような書物なのか。聖書についての名言は多く残されています。

「聖書は古いものでも新しいものでもない。永遠のものである。」(マルティン・ルター)、「聖書を教えない単なる教育は、無責任な人に鉄砲を渡すようなものである。」(セオドア・ルーズベルト)、

「聖書は世界無二、宇宙第一の書である。」(山室軍平)

「聖書は、神が人間に賜った最もすばらしい賜物である。」(アブラハム・リンカーン)

「人類の歴史よりも、聖書の中にはより確かな真理がある。」(アイザック・ニュートン)

などなど。他にもいくらでも挙げることが出来ます。あるいは、自分で考えても良いかもしれません。これぞ、という言葉を思いついた方は、是非とも教えて頂きたいと思います。

 誰が言った言葉なのか。出典の分からないもので(知っている方がいたら教えて頂きたいのですが)「聖書は人間の取扱説明書」という言葉もあります。

 聖書には、人間が何のために存在し、どのように生きるべきなのか記されている、という意味でしょう。取扱説明書の通りに使わないと、故障しやすい使い方になります。新しく買った物を、取扱説明書を読まずに使うと、全ての機能を使うことが難しくなります。聖書抜きに人間が生きると、傷つきやすく、自分らしく生きることが出来ない。「聖書は人間の取扱説明書」とは言いえて妙です。

 

 それでは、私たちがどのように生きるべきなのか。聖書のどこに記されているのかと言えば、実に様々なところに記されています。原理原則で表現されることもあれば、微に入り細を穿つ具体的なものもある。しかし、要約的にまとめられている箇所と言えば、十戒を挙げることが出来ます。いかに神様を愛するのか、いかに隣人を愛するのか。十の戒めにまとめられた教え。

 今日は父の日に因んで、親子関係について、十戒のうち第五戒に焦点を当てて考えていきたいと思います。まずは第五戒そのものを見る前に、ご存知の方も多くいると思いますが、十戒についていくつかのことを確認しておきます。

 

十戒はどのような場面で、神様から神の民に語られたのでしょうか。十戒が与えられたのは、旧約聖書の中でも特筆すべき出来事の一つ、出エジプトと関係がありました。

 今より三千年以上前。エジプトで起こったこと。当時のエジプトは近隣諸国に大きな影響を及ぼすことが出来る強国。そのエジプトで奴隷として生活するイスラエルの民が、奴隷から解放され、神様が与えると約束していたカナンの地へと行く。奴隷であったエジプトから出て、約束の地へ入る。これが出エジプトという出来事です。イスラエルの民は、この出来事を通して、真に頼るべき方は誰なのか、体験を通して教えられました。

 

 エジプトを出て、約束の地カナンに入る前。その移動途中に与えられたのがこの十戒でした。十戒が教えられる前、神様もこの出来事を確認して語られています。

 出エジプト記20章2節

わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。

 

 「あなたがたは今まで奴隷でした。自分の願うような生き方を出来ない状況でした。しかし、今は奴隷の家から連れ出されたのです。これからは、あなたの願うように生きられるのです。さあ、どのように生きたら良いのか、教えましょう。」このようにして、十戒は語られました。

 この順番が大切です。つまり、「この十戒の生き方をしたら、あなたがたをエジプトから連れ出してあげましょう」ではなかった。「エジプトを連れ出されたあなたがたは、神の民として、このように生きましょう」と教えられた。キリスト教は恵みの宗教。行いが正しいから救うではない。救われた者として、正しい歩みを願うというあり方が、ここにも見出せるのです。

 

 十戒は、エジプトから出て約束の地に入るまでの間に与えられた。それはそうなのですが、聖書を開きますと、もう一つの箇所に十戒が出てきます。一つが出エジプト記二十章。もう一つが今日開いている申命記五章です。なぜ二つの箇所に出てくるのか。

 出エジプト記の二十章というのは、エジプトを出て間もない段階です。そこでモーセを通して神様から十戒が与えられました。それに対して申命記というのは、約束の地カナンに入る直前。エジプトを出たあと、四十年の荒野での生活を経て、約束の地を前に老モーセが説教をする。その説教の中で、十戒が出てくるのです。そもそも「申命記」という名前は、重ねて命じるという意味でした。

このようなわけで、二つの箇所に出てくることは不自然ではないのですが、実は出エジプト記と申命記の十戒には、少しだけ違いがあります。十戒の命令部分は同じなのですが、戒めを守るように言われている理由部分で違いがあるのです。それも私たちが今日確認しようとしている第五戒がそれに当たります。どのように違うのか。最後に確認いたします。

 

 もう一つ、聖書を読む上で覚えておきたいのは、聖書は自分に語られたものとして受けとめることが大事です。この言葉は、あの人にこそ聞いてもらいたい。あの人は、この言葉に従うべきであると思うのは、多くの場合、誤った聖書の読み方です。神様は私に何を願っておられるのか。私はどのように生きるべきなのか、考えながら読むのです。

 つまり、子どもに対して、聖書には「父と母を敬え。」とあるのだから、あなたは私に従いなさいと迫る。または、あの人は父や母を敬っていないと裁くことのないようにと確認しておきます。

 

 以上、長い前口上になりましたが、十戒についてのいくつかのことを覚えながら、第五戒に焦点を当てたいと思います。

 申命記5章16節

「あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が命じられたとおりに。それは、あなたの齢が長くなるため、また、あなたの神、主が与えようとしておられる地で、しあわせになるためである。」

 

 十戒は、前半四つが、いかに神様を愛するのか。後半六つが、いかに隣人を愛するのか、教えるもの。この第五戒は、いかに隣人を愛するのか、第一の教えとなります。

「父と母を敬え。」敬うとは、心と言葉と行いにおいて、敬意を払うこと。祈ること。良い点を見習うこと。正当な命令と忠告に聞き従うこと。父と母の弱さを忍び、愛をもって包むこと。(ウェストミンスター大教理問答問127・答により詳しい敬うことが記されています。)

聖書の言葉は自分に語られたものとして受け止めるとしたら、まずは「子ども」として受けとめることになります。自分が何歳であろうとも、子どもとしてこの言葉に従うのです。今の自分が、「父と母を敬う」としたら、どうしたら良いのか。

「父と母を敬う」具体的な生き方は、年齢や状況によって変わります。自分が幼い時に親を敬うのと、自分が歳を重ねてから敬うのでは、敬い方に違いがあります。父と母に会える状態で敬うのか、既に天に召された父と母を敬うのか、敬い方に違いがあります。皆様は、父と母を敬うことが出来ているでしょうか。どのように父と母を敬うでしょうか。

 

 今の私の場合はどうなのか。どうすることが父と母を敬うことなのか。説教を準備しながら真剣に考えてみました。

母は数年前に軽度のアルツハイマーと診断され、少しずつ症状が進行している状況です。体は比較的強いのですが、会話は繰り返しが多くなり、出来ることも少なくなっていく。父は昨年、大腿骨を骨折しました。足は回復したのですが、体を支えていた手に激しい痛みが出るようになり、寝ているところから起き上がる、椅子から立つ度に、痛みで顔をしかめています。父は千葉で牧師をしていますが、傍目にはよく続けられていると思う状況。母は要介護1、父は要支援2と認定され、まさに老老介護の状態。

 四日市に住む私が、千葉に住むこの父と母を敬う。どうしたら良いのか。祈りつつ、聖書を読みつつ、私の心に出てきた思いは、次の聖書の言葉を胸に、一度会いに行くことでした。

 箴言23章22節

「あなたを生んだ父の言うことを聞け。あなたの年老いた母をさげすんではならない。」

 

 先の月曜・火曜と出張の際に、スケジュールとしてはかなり無理をしつつ、会いに行きました。ともかく、父の言うことをよく聞くこと。母が何度同じ話をしようとも、さげすむことなく、初めて話をするように接する決意をもって。顔を合わせて過ごせたのは一時間強だと思いますが、とても幸いな時間を過ごしました。何か特別なことがあったわけではありません。御言葉にしたがって、神様が祝福して下さったのだと思います。

 今回のことは、良かったこととして分かち合うことが出来ましたが、必ずしも、父と母を敬うことが出来るわけではありません。これまで、どれだけ敬ってこなかったか。また、これで終わりではなく、父と母を敬う歩みは、これからも続きます。今の自分にとって、「父と母を敬え。」との教えに従うのは、どのようなことなのか。考え続ける歩みを、皆様とともに送りたいと願います。

 

 この「父と母を敬え。」との教えは、子どもとしてだけでなく、親として従う言葉でもあります。今、親である者も、やがて親となることを目指す者、子どもに敬われる親となることに取り組むのです。

 敬われる親を目指すとは、どのような生き方でしょうか。子どもを守り、心と体に必要なものを用意すること。祈り、教え、戒めること。模範的な態度で信仰生活を送ること。親としての威厳を保つこと。(ウェストミンスター大教理問答問129・答により詳しい親としての取り組むべきことが記されています。)

 このことも年齢や状況によって、具体的な取り組みは変わると思います。今の自分が取り組むべきことは何か、祈りと御言葉によって、考える必要があります。今日、親という立場で、「父と母を敬え。」という御言葉に従う時、皆様は何をするでしょうか。

 

 ところで「父と母を敬え。」という教えは、人によっては大きな苦しみを引き起こします。聖書は「父と母を敬う」ように、教えている。しかし、自分はどうしても父母を敬うことが出来ない。父母と関わろうとすると、苦しくてしょうがないという方。親子関係で苦しんでこられた方。壮絶な体験をしてきた方。他の人には理解出来ない苦しみがある方がいます。あるいは、これまでの歩みの中で、親子関係がこじれてしまった。今さら「敬われる親」として生きることは難しいと感じる方もいます。どちらも少数ではなく、多くの人が親子関係で傷つき、苦しんでいます。キリスト教は良い宗教、クリスチャンになりたい気持ちもあるけれども、自分は父と母を敬うことは出来ないから、クリスチャンにはなれないと言われる方もいます。日本の状況を考えると、これから益々、親子関係で苦しむ人が増えるのではないかと想像出来ます。

 この点、皆さまの中で、特に葛藤なく、親を敬うことが出来る。敬われる親を目指して生きたいと思えるという方がいるとすれば、それは大変大きな恵みを神様から頂いているということです。それは、当たり前のことではなく神様からの大きな恵み頂いているということ。感謝すべき事柄です。

 

 それはそれとしまして、「父と母を敬うこと」「敬われる親となる」ことが難しいと感じる場合。そうなれれば良いけど、取り組む気力も沸かないという場合。どうしたら良いでしょうか。私たちが覚えておかなければならないのは、十戒は、救いの条件として語られたものではなく、救われた者の生き方が語られているということです。

 父と母を敬うこと。子どもを愛することが出来ない。その罪のためにも、イエス・キリストは十字架にかかって下さったのです。その状態から救い出すために。聖書の教える、幸いな人生を生きることが出来るようにと、私たちに永遠のいのちを注いで下さったのです。

 今も、罪の影響がありますので、十戒の全てをそのまま守れるわけではありません。しかし、イエス・キリストを通して恵みを頂いているのも確かです。聖霊なる神様と生きることが許され、どのように生きたら良いのか、目指すべき方向が定かになりました。

 つまり、この「父と母を敬え。」という教えを、私たちは救われた者として取り組むべきだということです。罪にまみれた私には、もともと出来ないことだけれども、イエス様がさせて下さる。その確信に立って、「父と母を敬え。」との教えに向き合いたいのです。

 

 エペソ人への手紙2章10節

「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。」

 

 このように確認した上で、それでも父母を敬うことを難しく、どのように取り組めば良いか分からない方のために、いくつかお勧めしたいことがあります。簡単に紹介しますと、

・100か0かではなく、敬える点を探す。

 完全に敬うとか、全く軽蔑する、のどちらかではなく、この点は敬える部分を探すところから始めるのはどうでしょうか。

・ある程度、距離をとる。

 顔を合わせて何かをするのが辛い時は、距離をおいて祈ることから始めるのはどうでしょうか。

・御言葉に従えない時に、自分を責め過ぎないように。

 父母を敬えない。子どもを愛せない時に、それが出来ない自分を責めて終わることのないように。その自分のために、イエス様がしてくださったことに目を留めるのはいかがでしょうか。

・親の悪いと思う部分を、変えようと思わない。その責任は親にありますから。

 親の悪い部分をひどく憎み、変えたいと思っても、自分には変える力がないことを認めること。悪いと思う部分があっても、自分には責任がないことを確認するのはいかがでしょうか。

 それぞれの状況に応じて、可能なことから、取り組むことが出来ますように。

 

 以上、十戒のうち第五戒を確認してきました。最後に、出エジプト記二十章と、申命記五章の十戒の違いを確認して、終わりにしたいと思います。

 出エジプト記20章12節

「あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。」

 

 これがエジプト脱出直後、神様からモーセに語られた言葉です。これより約四十年後、約束の地に入る直前、モーセから神の民に語られた言葉。(モーセは、主が語られた言葉として告げるのですが。)

申命記5章16節

「あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が命じられたとおりに。それは、あなたの齢が長くなるため、また、あなたの神、主が与えようとしておられる地で、しあわせになるためである。」

 

 命じていることは同じ。違いはごく僅か。申命記には、なぜ父と母を敬うのか、その理由として、「しあわせになるため」と付け加えられていました。最晩年のモーセが、次世代の者たちに向けて語った言葉。何としても、しあわせな人生を送るようにと願って、この第五戒が語られた。このモーセの熱意と息吹を感じつつ、私たち皆で、救われた者として、「父と母を敬え。」との教えに従いたいと思います。

 

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