2015年6月7日日曜日

ヨハネの福音書19章1節~16節 「イエス・キリストの沈黙」

これまで礼拝において読み進めてきたヨハネの福音書。ここ数回にわたり、私たちはその最後の部分、イエス・キリストの受難、イエス様が十字架直前に受けた様々な苦しみを見てきました。ユダの裏切り、逮捕、弟子たちの離散、ペテロの否認、ユダヤ教の裁判と続き、先回からローマ総督ピラトによる裁判の場面に目を留めています。
これまでの流れを振り返ると、ユダヤ教指導者による裁判の末死刑に定められたイエス様は、今度はローマ式裁判を受けるため、夜明けとともに総督官邸へ連れてこられました。当時、ユダヤはローマに占領されており、ユダヤ人は勝手に死刑執行ができなかったため、ローマから遣わされた総督ピラトの許可を得ようと考えたのです。
 しかし、訴えを聞き、訊問する内にイエス様は無罪とピラトは判断しました。ユダヤ教指導者たちは、妬みにかられてイエス様を十字架につけようとしていると見抜いたのです。そこで、ピラトが打ったのが、過越しの祭りの時期によく行われていた恩赦、犯罪者を特別に釈放する制度を使うと言う一手でした。ピラトは何とかしてイエス様を釈放しようとしたのです。
しかし、怒りに狂う人々は何と当時名うての犯罪者バラバを釈放してほしいと叫び続けたため、この試みは失敗となります。けれども、ピラトはそれで諦めはしなかったようです。部下の兵士にイエス鞭打ちを命じています。

19:1~3「そこで、ピラトはイエスを捕えて、むち打ちにした。また、兵士たちは、いばらで冠を編んで、イエスの頭にかぶらせ、紫色の着物を着せた。彼らは、イエスに近寄っては、「ユダヤ人の王さま。ばんざい。」と言い、またイエスの顔を平手で打った。」

当時の鞭打ち刑は、先端についていた金具が肉に突き刺さり、肉を剥ぐと言う残酷なもの。何故、ピラトは無罪と確信するイエス様に対する鞭打ちを命じ、兵士たちが嘲り、辱めることを許したのでしょうか。茨の冠をかぶり、王の着物とされた紫色の着物を着せられ、王様万歳とからかわれ、平手で打たれる、これ程惨めで、無力な人の姿を見ることで、さすがのユダヤ人の心も和らぎ、イエス様を赦すのではと、ピラトが考えた上での作戦だったと思われます。

19:4、5「ピラトは、もう一度外に出て来て、彼らに言った。「よく聞きなさい。あなたがたのところにあの人を連れ出して来ます。あの人に何の罪も見られないということを、あなたがたに知らせるためです。」それでイエスは、いばらの冠と紫色の着物を着けて、出て来られた。するとピラトは彼らに「さあ、この人です。」と言った。」

「さあ、この人です」は、元のことばでは「この人を見よ」となります。「この人を見なさい。この人はあなたがたが恐れるような人物でない。惨めで、無力な王にすぎない」。そう、ピラトはユダヤ教指導者たちに言いたかったのでしょう。ここまですれば、ユダヤ人たちの怒りも収まるに違いないと考えたのです。しかし、ピラトはまたも人々の心を読み違えました。イエス様の姿を見たユダヤ人は憐れむどころか、益々激しく「十字架につけろ」と叫ぶ始末です。

19:6a「祭司長たちや役人たちはイエスを見ると、激しく叫んで、「十字架につけろ。十字架につけろ。」と言った。」

ほとほと手を焼くピラトは、「あなたがたがこの人を引き取り、十字架にでも何でもかければよいのでは」と突き放そうとします。

19:6b~8「ピラトは彼らに言った。「あなたがたがこの人を引き取り、十字架につけなさい。私はこの人には罪を認めません。」ユダヤ人たちは彼に答えた。「私たちには律法があります。この人は自分を神の子としたのですから、律法によれば、死に当たります。」ピラトは、このことばを聞くと、ますます恐れた。」

イエス様無罪を主張し、十字架刑を執行しようとしないピラトの姿を見て、ユダヤ人は告発の内容を変更。今まではローマ皇帝に背くユダヤ人の王と名乗った男としてイエス様を訴えていましたが、今度は神の子と自称した男として訴えます。手を変え品を変え、どの様な手段を使ってもイエス様を十字架の死に追いやろうとする悪意と怒りを感じます。
それにしても、「ピラトは、このことばを聞くと、ますます恐れた」とあるのは何故でしょうか。ピラトは誰を恐れたのか。激しい怒りを示して迫るユダヤ人か、それともイエス様か。二つの可能性が考えられますが、歴史の記録に残るピラトは相当残酷な為政者で、ユダヤ人を恐れていた風には見えません。ピラトが恐れたのは、これ程さげすまれ、苦しめられながら、黙々と忍耐するイエス様の方であったと考えたいところです。

19:9~11「そして、また官邸にはいって、イエスに言った。「あなたはどこの人ですか。」しかし、イエスは彼に何の答えもされなかった。そこで、ピラトはイエスに言った。「あなたは私に話さないのですか。私にはあなたを釈放する権威があり、また十字架につける権威があることを、知らないのですか。」イエスは答えられた。「もしそれが上から与えられているのでなかったら、あなたにはわたしに対して何の権威もありません。ですから、わたしをあなたに渡した者に、もっと大きい罪があるのです。」」

「あなたはどこの人ですか」とは、出身地を尋ねたことばではありません。「あなたは、天から来た神の子ですか」との問いでした。勿論、多神教の世界に生きていたピラトですから、聖書的な意味での神の子を信じていたわけではないでしょう。しかし、ピラトがイエス様の態度をみて、普通の人間とは全く違う存在感を覚えていたことが伺われます。
そして、何一つ答えず沈黙されるイエス様の様子に恐れを深めたのでしょうか。「私にはあなたを釈放する権威があり、また十字架につける権威があることを知らないのか」と、殊更自分の権威を示そうとするピラトです。けれども、イエス様は怯まない。むしろ、「もしそれが上から、神から与えられているのでなかったら、あなたには何の権威もない」と、静かに語るイエス様の方に真の権威を見ることができる。その様な場面です。
この様に、何とかイエス様を釈放しようと努力してきたピラトですが、ユダヤ人たちが発した最後のことばにより、大切なつとめを放棄することになります。

19:12~16「こういうわけで、ピラトはイエスを釈放しようと努力した。しかし、ユダヤ人たちは激しく叫んで言った。「もしこの人を釈放するなら、あなたはカイザルの味方ではありません。自分を王だとする者はすべて、カイザルにそむくのです。」そこでピラトは、これらのことばを聞いたとき、イエスを外に引き出し、敷石(ヘブル語でガバタ)と呼ばれる場所で、裁判の席に着いた。その日は過越の備え日で、時は六時ごろであった。ピラトはユダヤ人たちに言った。「さあ、あなたがたの王です。」彼らは激しく叫んだ。「除け。除け。十字架につけろ。」ピラトは彼らに言った。「あなたがたの王を私が十字架につけるのですか。」祭司長たちは答えた。「カイザルのほかには、私たちに王はありません。」そこでピラトは、そのとき、イエスを、十字架につけるため彼らに引き渡した。」

「もしこの人を釈放するなら、カイザルの味方ではない」と聞いたピラト。もしイエス様を釈放し、自分が皇帝に背く者として訴えられたら厄介なことになると考えたのでしょう。この時ピラトは良心を捨て、我が身の安全を優先したと思われます。遂には「十字架につけろ」と叫ぶ声の力に押されるように、イエス様を引き渡してしまったのです。
今日私たちが見た裁判は、ピラトの様な残酷な人物の眼にもイエス様に罪がないのは明白であったこと、逆に言えば、ユダヤ人の訴えがいかに不当なものか、彼らの妬みや怒りによる行動がいかに酷い罪であったかを物語っています。同時に、イエス様と出会い心動かされたピラトが、最後には自分の身を守るため正しいことを実行できなかった姿を通して人間の弱さ、脆さを教えられるところでもあります。
こうして、ユダヤ人とピラト、人間の罪が明らかにされた今日の場面、私たちが最後に確認したいのは、イエス様はどのようなお方であられたのかということです。
もう一度目を向けてもらいたいのですが、今日の9節で、ピラトに「どこから来たのか」と問われたイエス様が「何の答えもされなかった」と記されています。これを、教会は旧約聖書イザヤ書53章7節8節に示されている苦難のしもべ、真の救い主に関する預言の成就と伝統的に考えてきました。

イザヤ53:7、8「彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。」

痛めつけられてもやり返さない。苦しめられても反撃しない。むしろ、黙々と痛み、苦しみを忍耐するイエス様は、ご自分を痛めつける者、ご自分を苦しめる者たちのため、十字架に死ぬことを決めておられたということです。イエス様の沈黙は、罪人のためにいのちを捨てる十字架の愛を示していた。これをしっかりと覚えておきたいのです。
ユダヤ人の罪、ピラトの罪は決して他人事ではありません。心の中で人をさばき、人を嘲る。心の思いにおける殺人を何度私たちは犯してきたでしょうか。攻撃的なことばや感情的に責める態度で、一体何人の人を傷つけてきたことでしょうか。また、自分が不利になるのが嫌で、為すべき時為すべき正しいことをしてこなかった罪はないでしょうか。
イエス・キリストは、その様な私たちの罪を忍耐し、背負い、そのすべてを贖う為、十字架に死んでくださった。この十字架の愛に私たちはどれ程救われ、励まされ、平安を得てきたことか。これからも十字架の愛に支えられ、日々歩んでゆきたいと思います。

Ⅰヨハネ4:10「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」


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