2015年5月24日日曜日

ローマ人へ絵の手紙8章12節~25節 「真理に属する者は」

これまで礼拝において、私たちはヨハネの福音書を読み進めてきました。福音書は、イエス・キリストの生涯について書かれた書物ですが、今はイエス・キリストの受難、ユダの裏切り、逮捕、弟子たちの離散、ペテロの否認、裁判、鞭打ち等、十字架直イエス様が受けられた様々な苦難について見ているところです。
先回は、イエス様がユダヤ教大祭司のもとで受けた裁判の様子を見ましたが。今日目を向けるのは総督ピラトのもとでの裁判。この場面、イエス様は「わたしは真理を証しするためこの世に来た」と語りますが、私たちはイエス様が示された真理、人間本来の生き方について、ともに考えてみたいと思うのです。
さて、深夜に行われ、証人も存在しないという不法な裁判、ユダヤ教指導者による暗黒裁判の末死刑に定められたイエス様は、夜明けとともに総督官邸へ連れて行かれます。今度はローマ式裁判にかけられたのです。

18:28~31a「さて、彼らはイエスを、カヤパのところから総督官邸に連れて行った。時は明け方であった。彼らは、過越の食事が食べられなくなることのないように、汚れを受けまいとして、官邸にはいらなかった。そこで、ピラトは彼らのところに出て来て言った。「あなたがたは、この人に対して何を告発するのですか。」彼らはピラトに答えた。「もしこの人が悪いことをしていなかったら、私たちはこの人をあなたに引き渡しはしなかったでしょう。」そこでピラトは彼らに言った。「あなたがたがこの人を引き取り、自分たちの律法に従ってさばきなさい。」」

 ここに登場する総督とは、ローマ皇帝がユダヤを治める為に遣わした行政官です。当時、ユダヤはローマに占領され、半植民地状態にありました。その為ユダヤ人には自分たちの王がなく、総督に支配されていました。イエス様の時代、総督をつとめていたのはピラト。数々の悪行でユダヤ人を苦しめた人物として記録に残されています。
 半植民地と言うのは、ユダヤ人にある程度の自治が認められたものの、重い税金を課された上、重要な政治的判断や死刑判決等に関しては、総督の許可がなければこれを実行することができなかったからです。今日の箇所にも、彼らがピラトに「私たちには、だれを死刑にすることも許されてはいない」と語っているのがその状況を示しています。
 ですから、当然ユダヤ教指導者とピラトの関係は良くなかったのです。余程のことがない限り、彼らが総督を訪れることはなく、たとえ訪れたとしても建物には入りませんでした。「彼らは、過越の食事が食べられなくなることのないように、汚れを受けまいとして、官邸にはいらなかった」とある通りです。
 神を知らない異邦人と交際するのは、宗教的に汚れること。まして、ユダヤで最も重要な過越しの祭りにおける食事が行われている最中でしたから、彼らは一歩たりとも官邸に入らず、門前でイエス様のことを訴えたらしいのです。
しかし、訴えを聞いたピラトは、「これはユダヤ人の宗教の問題であって、ローマの裁判にかけるようなものではない」と考えました。ユダヤ教指導者が死刑を決めた理由は、イエス様が神の御子、キリストであると自称し、神を汚した罪でしたから、ピラトがユダヤの宗教の問題と判断したのは尤もなこと。彼は「あなたがたがこの人を引き取り、自分たちの律法に従ってさばきなさい」と、イエス様を返そうとします。

18:31b、32「ユダヤ人たちは彼に言った。「私たちには、だれを死刑にすることも許されてはいません。」これは、ご自分がどのような死に方をされるのかを示して話されたイエスのことばが成就するためであった。」

先程も言いました様に、通常ユダヤ人に死刑執行の権限はありませんでした。ですから、彼らは飽く迄もピラトにイエス死刑を求め続け、退こうとはしなかったのです。しかし、実際はユダヤ人が総督の許可を得ずに死刑を行った記録が幾つか残っています。その様な場合総督は見てみぬふりをしたようですから、イエス様の場合も、ユダヤ人がその宗教法に従い、石打ちにより死刑を執行することも可能だったと考えられます。
それなら、何故ユダヤ人たちはローマの法律による刑罰を望んだのでしょうか。彼らが執拗にイエス処刑を総督ピラトに求めたのは、当時最も残酷で不名誉な死に方である十字架刑にイエス様を追い込むことにあったと考えられます。

申命記21:22,23「もし、人が死刑に当たる罪を犯して殺され、あなたがこれを木につるすときは、その死体を次の日まで木に残しておいてはならない。その日のうちに必ず埋葬しなければならない。木につるされた者は、神にのろわれた者だからである。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地を汚してはならない。」

ここにある様に、多くのユダヤ人にとって「木につるされて死ぬこと」は、神に呪われた者の証拠でした。彼らはイエス様をただ死に追いやるだけでなく、最も惨めな死に様に拘ったのです。そして、この思いが神様のご計画を実現させ、みこころが成就することとなったのです。事実、イエス様は十字架以前、次に様に言われました。

ヨハネ12:32,33「わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。」イエスは自分がどのような死に方で死ぬかを示して、このことを言われたのである。」

「人の子、イエス様ご自身があげられるなら」とありますが、正にそれは「木にかけられて、地上からあげられる」ことを意味していました。出来事の表面上は、ユダヤ人の悪意によってイエス様が十字架に追いやられたと見えます。が、実際はイエス様が自ら十字架に死ぬ為、人間の悪意を用い、すべてを支配しておられたと言うことです。
こうして、ユダヤ人を門前払いすることのできなかったピラトは、やむなくイエス様尋問に取りかかります。

18:33~35「そこで、ピラトはもう一度官邸にはいって、イエスを呼んで言った。「あなたは、ユダヤ人の王ですか。」イエスは答えられた。「あなたは、自分でそのことを言っているのですか。それともほかの人が、あなたにわたしのことを話したのですか。」ピラトは答えた。「私はユダヤ人ではないでしょう。あなたの同国人と祭司長たちが、あなたを私に引き渡したのです。あなたは何をしたのですか。」」

あなたは自分の考えで「ユダヤ人の王なのか」と質問しているのか、それとも他の人に言われて質問しているのか。ピラトがしぶしぶ尋問に臨んでいることを、イエス様は見抜いていた様に思われます。それに対し「私はユダヤ人ではないでしょう」と答えたピラトは非常にイライラしているかに見えます。
他の福音書には、ピラトはユダヤ人の訴えが根拠の無いものであることに気がついていたとあります。イエス様自身がユダヤ人の王を自称したことも、ローマに反抗する様教えたこともなく、無罪と考えていたのです。しかし、それならそれで、何故イエス様が自己弁明をしないのか。不思議な思いでいたのでしょう。そこで、イエス様は戸惑うピラトの為、ご自身のことを証しされました。

18:36,37「イエスは答えられた。「わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったなら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように、戦ったことでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。」そこでピラトはイエスに言った。「それでは、あなたは王なのですか。」イエスは答えられた。「わたしが王であることは、あなたが言うとおりです。わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」

ここに描かれるのは、嘘の訴えで自分を亡き者にしようとするユダヤ人に怒りを現すことなく、また、自分のために一言の弁明もせず、凛としてピラトに証しをするイエス様のお姿です。
最初にも言いましたが、ピラトと言う人は政治的な駆け引きに長けた総督であり、ユダヤを治める為、敢えて様々な悪を為してきた現実的で悪しき為政者でした。他の福音書には、この裁判がイエス様に対するユダヤ人の妬みから生まれた茶番劇であることに、彼が気がついていたことが記されています。
その様なピラトにとって、目の前にいるイエス様のお姿は驚きであり、不思議であったでしょう。自分を不当に苦しめる人々に怒りを示さず、反撃も反論もしないイエス様。偶々尋問することになった者のため、「わたしは真理の証しをするために生まれ、この世に来た」と、大切な使命について語るイエス様。「この人は、何故これ程まで落ち着き、凛としていられるのか」。今まで一度も出会ったことのないタイプの人に出会ったピラト。その心には、イエス様ご自身への関心が生れてきたように見えます。

18:38~40「ピラトはイエスに言った。「真理とは何ですか。」彼はこう言ってから、またユダヤ人たちのところに出て行って、彼らに言った。「私は、あの人には罪を認めません。しかし、過越の祭りに、私があなたがたのためにひとりの者を釈放するのがならわしになっています。それで、あなたがたのために、ユダヤ人の王を釈放することにしましょうか。」すると彼らはみな、また大声をあげて、「この人ではない。バラバだ。」と言った。このバラバは強盗であった。」

今まで一度も考えたことも、発したこともなかったであろう「真理とは何か」という問いかけをイエス様にしたピラト。ユダヤ最大の祭り、過越しの祭りに因んで恩赦を提案し、イエス様を釈放しようとしたピラト。この様な姿は、現実的な政治家で、真理などに無関心であったピラトがイエス様と出会い、何かしらの影響を受けたのではと、思わせるものです。しかし、この小さな変化もピラトの心の中でやがて萎び、彼が最終的にイエス様の身をユダヤ人の手に委ねてしまうのは、非常に残念な気がします。
さて、こうして読み終えた今日の箇所。最後に心を向けたいのは、「わたしの国はこの世のものではありません。…わたしが王であることはあなたが言うとおりです。わたしは真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います」と言われた、イエス様のことばです。
イエス様は、わたしの国はこの世のものでないと言われました。わたしは真理を証しするためこの世に来た王であるとも語りました。真理とはイエス様ご自身、あるいはイエス様に見られる本来の人間の生き方を意味しています。
それでは、この世の国に属する人の生き方とは何でしょうか。真理すなわちイエス様に罪贖われ、イエス様に属する人の生き方とは何でしょうか。
この世の国に属する人の生き方は、ユダヤ教指導者の態度、行動の中に見ることができます。彼らはイエス様に対して非常に支配的でした。イエス様を思い通りにしようと、不当な逮捕、証人なき裁判、嘘で塗り固めた告発など、様々な方法を使いイエス様を責め、攻撃し、倒そうとしたのです。
また、彼らは自分たちの思い通りにならないイエス様にイライラし、怒り、そんなイエス様が民衆に人気があることを非常に妬んでいました。ピラトに一目で見抜かれる程、彼らは怒り、妬みの感情に支配され行動していたのです。
しかし、彼らの姿は私たちにとって他人でしょうか。私たちの中にも、身近な人を自分の思い通りにしようとする性質、それが叶わないとイライラしたり腹を立てたり、様々な方法で相手を責め、攻撃する性質がないでしょうか。怒りや妬みの感情に縛られ支配されたまま考え、行動してしまうことがないでしょうか。
親子、夫婦、教会の兄弟姉妹、職場。それらの関係の中で、普段の私たちのことばや態度に、これらの性質が表れていることに気がつきたいと思います。それが原因で様々な対立が起こること、いかに多いことかを省みる必要があるのではないでしょうか。
それに対して、イエス様はその様な性質から自由でした。弟子たちがご自分のもとから離れ去った時も、ペテロが弟子であることを否定した時も心は非常に痛んだでしょうが、彼らを責めませんでした。ユダヤ人たちの不当な逮捕、裁判、告発に怒りを覚えたでしょうが、怒りの感情に支配され反撃することはされなかったのです。
イエス様は、抱いて当然の感情や思いを自制する自由、人を支配するような態度や行動を捨てる自由をもっておられたということです。相手の自由を重んじ、愛と忍耐をもって人を真理に導く。それがイエス様の生き方なのです。聖書は、この様な自由を与える為、イエス様は十字架に死に、私たちの罪を贖ってくださったと教えています。真理であるイエス様に属する者として、私たち皆がこの様な生き方を目指したいと思います。

ガラテヤ5:13,14「兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という一語をもって全うされるのです。」

 

0 件のコメント:

コメントを投稿