2015年5月10日日曜日

ヨハネ福音書18章12節~27節 「ペテロの敗北」

先回から、私たちはヨハネの福音書の第18章に入りました。そこで見たのは、裏切りの弟子ユダに導かれた兵士の一団とユダヤ教の役人により、イエス様が逮捕される場面。今日は、その直後、ユダヤ教指導者のもとで行われた裁判の様子を読み進めてゆきます。
特に注目したいのは、被告人でありながら終始凛とした態度でその場を仕切ってゆくイエス様の姿と、裁判が行われた家の庭までイエス様についてゆく勇気を示した弟子ペテロが思わぬ弱さを表わし、敗北を味わう姿です。先ず、イエス様が連れてゆかれたのは元大祭司アンナスの家でした。

18:12~14「そこで、一隊の兵士と千人隊長、それにユダヤ人から送られた役人たちは、イエスを捕えて縛り、まずアンナスのところに連れて行った。彼がその年の大祭司カヤパのしゅうとだったからである。カヤパは、ひとりの人が民に代わって死ぬことが得策である、とユダヤ人に助言した人である。」

イエス様が被告人として裁かれた裁判は、ユダヤ教指導者によるものが二回、総督ピラトによるローマ式裁判が一回の合計三回。ヨハネの福音書はこの内ユダヤ教指導者によるもの一回、ローマ式裁判の計二回を記していますが、今日の箇所はユダヤ教指導者、それも、この時既に引退していた元大祭司のアンナスが主導した尋問の様子を描いています。
この裁判が引退したアンナスによるものか、それとも現役の大祭司カヤパによるものか。ここで大祭司と呼ばれている人物がアンナスかカヤパか。二つの考え方がありますが、今日はアンナス主導の裁判と言う立場で、私たち読んでゆきたいと思います。
アンナスは既に引退していたとは言うものの、ユダヤの政治・宗教界において大きな影響力を持っていた影の大祭司、実力者でした。ヘロデ王と手を結び、五人の息子を、ただ一人と定められた大祭司の地位に、次々とつけるなど勢力をふるっていたのです。事実、その頃の大祭司カヤパもアンナスの娘婿でした。
この様に、現役の大祭司を脇にやり、大物のアンナスが直々に裁判を仕切ろうとしたと言うことは、イエス様がいかに民衆に支持されていたか、また、様々な奇跡や教えを通して神の御子、救い主であることを示してこられたイエス様を、彼らがいかに恐れていたかを物語っています。自分らの立場が危うくなるのを恐れた宗教指導者たちは、新米大祭司カヤパより、政治的手腕にたけたアンナスに託し、本気でイエス・キリスト抹殺しようとしていたのでしょう。
しかし、この裁判の異常さ、不法性はこれにとどまりません。これは、イエス死刑と言う結論ありきの裁判でした。以前、民衆がイエス様を熱狂的に支持する様子を見て、彼らがイエス様を王に祭り上げ、ローマ帝国打倒の運動を起こすかもしれないと、指導者たちが危機感を抱き、相談し合ったことがありました。この時「ひとりの人イエスが、民全体に代わって死ぬことが得策」との案を出したのが、現役大祭司のカヤパ。この提案に沿って、裁判は進められてゆくことになります。
さらに、無抵抗のイエス様を一隊の兵士、600人のローマ兵士の一団が束になって捕え、縛り上げたこと。深夜の裁判は違法との決まりがあったにもかかわらず、強行されたこと。何よりも、被告人を刑に定めるためには複数の証人が必要とされており、この決まりをユダヤ人は非常に大切にしていましたのに、この裁判では肝心要の証人を、彼らは立てることができなかったのです。

マタイ26:59,60「さて、祭司長たちと全議会は、イエスを死刑にするために、イエスを訴える偽証を求めていた。偽証者がたくさん出て来たが、証拠はつかめなかった。・・・」

この様に、集められたのは偽の証言をする者たちばかり。それでも、確たる証拠はつかめなかったという酷い有様です。この裁判は、何としてもイエス様を罪に陥れるための裁判、最初から結論ありきの異常で、不法な裁判、暗黒裁判でした。しかし、その様な弱い立場、危機的な状況に置かれていたにもかかわらず、イエス様は凛とした態度を貫いておられます。むしろその場を仕切り、支配しているのは権力者アンナスや役人ではなく、イエス様の方とも見えるのです。

18:19~21「そこで、大祭司はイエスに、弟子たちのこと、また、教えのことについて尋問した。イエスは彼に答えられた。「わたしは世に向かって公然と話しました。わたしはユダヤ人がみな集まって来る会堂や宮で、いつも教えたのです。隠れて話したことは何もありません。なぜ、あなたはわたしに尋ねるのですか。わたしが人々に何を話したかは、わたしから聞いた人たちに尋ねなさい。彼らならわたしが話した事がらを知っています。」

先程も言いましたが、その当時被告人を刑に定めるには複数の証人が必要であり、証人を立てる責任は指導者側にありました。しかし、望む様な証人を探し出すことができなかったアンナスは、イエス様に話をさせ、ことば尻を捕えて罪に陥れようと図ったのです。
けれども、今日でもそうですが、被告人の自白だけで事を決めるのは法律違反、不法でした。イエス様が「隠れて話したことは何もありません。なぜ、あなたはわたしに尋ねるのですか。わたしが人々に何を話したかは、わたしから聞いた人たちに尋ねなさい」と主張されたのは、彼らの不備を突くためと考えられます。しかし、ここに「被告人の分際で何たる言い草か」と、腹を立てた小役人が登場します。権力者アンナスに媚びたこの人は、平手打ちでイエス様を脅そうとしました。

18:22~24「イエスがこう言われたとき、そばに立っていた役人のひとりが、「大祭司にそのような答え方をするのか。」と言って、平手でイエスを打った。イエスは彼に答えられた。「もしわたしの言ったことが悪いなら、その悪い証拠を示しなさい。しかし、もし正しいなら、なぜ、わたしを打つのか。」アンナスはイエスを、縛ったままで大祭司カヤパのところに送った。」

イエス様は、ご自分を平手打した者の誤りを指摘しました。この訴えは、イエス様に暴力をふるった役人に向けられただけでなく、それを見過ごしにしたアンナスにも向けられていたでしょう。
イエス様の毅然とした振る舞いにぐうの音も出ないアンナス。地上の権力者と被告人との対決は、イエス様に軍配が上がったと言えるでしょうか。最早自分の手に負えないと感じたアンナスは、カヤパの手にイエス様を委ねたのです。イエス様の勝利、アンナスの敗北でした。
さて、裁判が行われた家の庭で、裁判とほぼ同時に、もう一つの出来事が進行していたことに皆様は気づいておられることと思います。ペテロが、イエス様の弟子であることを否定する場面です。
ペテロは裁判の席で尋問されたのではありませんでした。しかし、ご自分の信じる真理を毅然と語られたイエス様とは対照的に、ペテロは信じるところの信仰を言い表せないまま、くずおれてゆきます。

18:15,16「シモン・ペテロともうひとりの弟子は、イエスについて行った。この弟子は大祭司の知り合いで、イエスといっしょに大祭司の中庭にはいった。しかし、ペテロは外で門のところに立っていた。それで、大祭司の知り合いである、もうひとりの弟子が出て来て、門番の女に話して、ペテロを連れてはいった。」

ここに登場するもうひとりの弟子、大祭司の知り合いであったため、門番の女に話をつけて、ペテロを裁判が行われている家の庭の中に導いた弟子。これは、福音書を書いたヨハネではないかとも言われます。
ゲッセマネの園でイエス様が逮捕された際、雲の子を散らすように逃げて行った他の弟子に比べると、ここまでイエス様について来たペテロの勇気は賞賛に値します。そう言えば、ゲッセマネでイエス様を守るべく、ひとり大祭司のしもべに切りかかったのも、このペテロでした。実に、ペテロと言う人は勇猛果敢だったのです。しかし、門の中に入った途端、ペテロは不意を突かれました。門番のはしためが「あなたもあの人、あのイエスと言う被告人の弟子ではないでしょうね」と問われ、ひどく動揺し、弟子であることを否定してしまったのです。

 18:17,18「すると、門番のはしためがペテロに、「あなたもあの人の弟子ではないでしょうね。」と言った。ペテロは、「そんな者ではない。」と言った。寒かったので、しもべたちや役人たちは、炭火をおこし、そこに立って暖まっていた。ペテロも彼らといっしょに、立って暖まっていた。」
その日の夜は非常に寒かったらしく、人々は火を起こし、肩を寄せ合い、暖を取っていました。何気ない顔をしてその中に紛れ込んだペテロでしたが、人々の視線から逃れようと必死だったのではないかと思います。うかつに言葉を発しないように。決して目立たぬように。息を殺し、人と目を合わせぬよう、下を向いていた。そんな姿が目に浮かびます。しかし、かえってそれが不自然に映ったのでしょう。自分を偽って行動する時、かえって人の注目を浴びてしまうと言うのは、私たちにも理解できる状況です。ですから、またもペテロは同じことを問われ、うろたえました。

 18:25~27「一方、シモン・ペテロは立って、暖まっていた。すると、人々は彼に言った。「あなたもあの人の弟子ではないでしょうね。」ペテロは否定して、「そんな者ではない。」と言った。大祭司のしもべのひとりで、ペテロに耳を切り落とされた人の親類に当たる者が言った。「私が見なかったとでもいうのですか。あなたは園であの人といっしょにいました。」それで、ペテロはもう一度否定した。するとすぐ鶏が鳴いた。」

 一度目に問うたのは門番のはしためひとり。二度目は複数の人々。ペテロの否定も強くなります。そして、最後三度目はゲッセマネで切りつけた人の親類に見つかり、「私が見なかったとでもいうのですか。あなたは確かにイエスと一緒にいました」と、動かぬ証拠を突きつけられ、それでも自分を守ろうと嘘を重ねるペテロの姿が露わになったのです。
 その瞬間でした。「すぐに鶏が鳴いた」とヨハネの福音書は記しています。何故でしょうか。実は、ペテロがこの様な歩みをたどることを、イエス様は預言しておられたのです。

 13:36~38「シモン・ペテロがイエスに言った。「主よ。どこにおいでになるのですか。」イエスは答えられた。「わたしが行く所に、あなたは今はついて来ることができません。しかし後にはついて来ます。」ペテロはイエスに言った。「主よ。なぜ今はあなたについて行くことができないのですか。あなたのためにはいのちも捨てます。」イエスは答えられた。「わたしのためにはいのちも捨てる、と言うのですか。まことに、まことに、あなたに告げます。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」」

 「あなたに従うためには命をも捨てる」と豪語したペテロは、正に有言実行、勇気の人でした。しかし、その勇気は己の力に頼る勇気であって、神様に支えられてのものではなかったのです。それを理解していたイエス様は、ペテロの辿る道を知りながら、そのすべてをわたしは見守っている、あなたに対するわたしの愛は変わらないとの思いを込め、「鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います」と預言されました。
 ですから、鶏の鳴き声を聞いたペテロは、このイエス様のことばを思い起こし、弱く、ふがいない自分のことを知りながら、その様な自分を変わることなく支えてくださるイエス様の存在を身近に思うことができたのではないでしょうか。この時聞こえた鶏の声、それは弟子であることを否定し、イエス様から遠く離れてしまったペテロを見捨てず、なおもともにいて守ってくださるイエス様の愛を告げる声だったのです。
 こうして、今日の箇所を読み終えた私たちが最後に確認したいことが二つあります。一つは、アンナスの尋問は、イエス様には死刑に値するような罪は何一つないことを私たちに確認させてくれました。
つまり、イエス様は自らの罪によって十字架に死なれたのではないこと、言葉を代えて言えば、イエス様が十字架に死なれたのは、ただ私たちを罪から救い、私たちが神様との親しい関係、本来人が生きるべき幸いな命を回復するためだったことが明らかにされたのです。イエス様は、ただ私たちを愛するがゆえに十字架の道を選ばれたこと。この愛が、今も私たちに差し出されていることを確認したいのです。
 二つ目は、自分の弱さ、不甲斐なさ、無力を心から悲しむ時、私たちは差し出されているイエス・キリストの愛に手を伸ばすことができるということです。今日私たちが見た弟子ペテロ敗北の姿を、ルカの福音書はこの様に描いていました。

 ルカ22:61,62「主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う。」と言われた主のおことばを思い出した。彼は、外に出て、激しく泣いた。」

 イエス様と目と目を合わせたペテロは激しく泣いたとあります。私たちにとって、自分の弱さや失敗を認め、受け入れるのは本当に辛いことです。人生で最も難しいことかもしれません。しかし、この時、ペテロは弱く、不甲斐ない自分を認め、心から悲しみました。正しいことをせず、間違ったことをしてしまった無力な自分を認め、涙を流しました。
けれども、その様に痛みを感じることを通して、ペテロは差し出されているイエス・キリストの愛に手を指し伸ばし、その愛を受け取り、頼ることができたのです。私たちも同じ道を通って、霊的に成長することができると聖書は約束しています。今日の聖句です。

 Ⅰペテロ5:6「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。」

 へりくだるとは、神様の前で、どんなに辛くとも、自分の弱さ、不甲斐なさ、間違った行動や無力を認め、心からそれを悲しむことです。その様な経験を通して、私たちに差し出されている神様の愛にすがり、頼るなら、その様な私たちを神様は高くしてくださる。霊的に成長させてくださると言うのです。

 自分の弱さや間違いに開き直るのではない。自分の弱さや間違いを隠すのでもない。それを認め、悲しみ、神様の愛に信頼すると言う道を選びとるなら、私たちはみな成長できる。この約束を握りしめて、日々歩んでゆきたいと思います。

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