2015年5月3日日曜日

ヨハネの福音書18章1節~11節 「父がわたしにくださった杯を」

今日からヨハネの福音書18章に入ります。直前の13章から17章までは、最後の晩餐の様子が描かれていました。イエス様自らしもべとなり、弟子たちの足を洗ったこと、もうひとりの助け主聖霊が来るとの約束、弟子たちのための祈り。この世を去るにあたり、イエス様の愛が余すところなく弟子たちに注がれたのを、私たちは見てきました。
そして、今日の箇所。イエス様逮捕の場面となります。但し、それを覚悟の上で、イエス様がこの園に足を踏み入れたことを、私たち覚えておく必要があると思います。と言うのは、裏切りの魂胆を見抜かれ、既に晩餐の席から立ち去っていた弟子ユダが、ここに人々を導き、ご自分を逮捕させるであろうことを、イエス様は予測していたのです。
何故なら、このゲッセマネの園は、イエス様と弟子たちがよく祈りや休息、会合のために使っていた場所。そこは、イエス様を憎む人々にとって、民衆から隠れてイエス様を確実に逮捕することが可能な唯一の場所だったからです。
また、ヨハネの福音書は書いていませんが、他の福音書には、逮捕される直前イエス様が苦しみ悶えていたと記されています。血の汗を流すほどの祈りを天の父にささげていたともあります。その祈りは、十字架の死と言う苦しみの杯を過ぎ去らせてほしいと言う思いと、天の父のみこころがなるように、即ち人類の罪を背負って十字架に死ぬことができる様にとの願いが、イエス様の内側でぶつかり合っていたことを物語っています。

マルコ14:36「またこう言われた。『アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。』」

恐らく、以前からイエス様はこの様な祈りを何度もささげて来られたと考えられます。自分の内側にある正直な思いを誤魔化すことなく、見過ごしにすることもなく、しっかりとそれを見つめながら、天の父のみこころに従えるようにと祈り続けて来られたのです。
そして、最後の最後までご自分の思いと向き合いながら、既に理解しているはずの父なる神様のみこころを心の深い所で受けとめることができるまで祈られたその姿を、私たちは目に焼き付けておく必要があると思います。
イエス様にとって天の父のみこころに従うことは決して簡単ではなかったこと。むしろ、心の中で葛藤し、苦しみ悩みつつみこころを悟り、従うという道のりを歩まれたこと。これを、私たち忘れてはいけないと思うのです。
ですから、今日の場面でヨハネが描いているのは、この様な祈りの後、父なる神様のみこころを確信し、それをしっかりと受けとめたイエス様のお姿です。

18:1、2「イエスはこれらのことを話し終えられると、弟子たちとともに、ケデロンの川筋の向こう側に出て行かれた。そこに園があって、イエスは弟子たちといっしょに、そこにはいられた。ところで、イエスを裏切ろうとしていたユダもその場所を知っていた。イエスがたびたび弟子たちとそこで会合されたからである。」

ユダの手引きにより、人々に逮捕されるのを覚悟の上で園にやってこられたイエス様。その姿からは、十字架への道を進むことに、最早迷いも躊躇いも感じられません。そこに案の定捕縛者たちがやってきます。

18:3、4「そこで、ユダは一隊の兵士と、祭司長、パリサイ人たちから送られた役人たちを引き連れて、ともしびとたいまつと武器を持って、そこに来た。イエスは自分の身に起ころうとするすべてのことを知っておられたので、出て来て、『だれを捜すのか。』と彼らに言われた。」
 
ユダが引き連れてきたのは一隊の兵士と、ユダヤ教指導者が送った役人たちでした。「一体の兵士」とはローマの軍隊のことで、一隊は兵士600人の一団を指します。ともしびと松明を携えて夜襲をかけると言う卑怯な手段に加え、一人の男を逮捕するのに、武装した兵士600人とは、何と大げさなことかと思われます。
そこに、後ろ手に弟子たちを庇うようにして、捕縛者たちの前に出てきたのがイエス様です。武器ひとつもたず、すっくと立つイエス様と完全武装した兵士の大集団プラス役人たち。彼らの注意をご自分にむけるため「だれを捜すのか」と問われたイエス様。そんなイエス様に容易に手を出せず、恐れているのは兵士、役人たちの方と見えます。
すると、ここに驚くべき光景が展開するのです。

18:5、6「彼らは、『ナザレ人イエスを。』と答えた。イエスは彼らに『それはわたしです。』と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らといっしょに立っていた。イエスが彼らに、『それはわたしです。』と言われたとき、彼らはあとずさりし、そして地に倒れた。」

人々が「ナザレ人イエスを捜している」と言うや否や、イエス様の方は「わたしはここにいる。逃げも隠れもしない」とばかり、「それはわたしです」と答えます。すると、何と兵士の集団があとずさり。バタバタ地面に倒れたと言うのです。
実は「それはわたしです」は元のことばで、「エゴーエイミ」と言い、旧約聖書の時代から、神様がご自分の名前として人々に示されたもの。イエス様がたったひとこと「エゴーエイミ」と口にしただけで、武装兵士と役人の集団は圧倒されました。まさに、イエス様が神様としての権威と力とを発揮された場面です。

18:7~9「そこで、イエスがもう一度、『だれを捜すのか。』と問われると、彼らは『ナザレ人イエスを。』と言った。イエスは答えられた。『それはわたしだと、あなたがたに言ったでしょう。もしわたしを捜しているのなら、この人たちはこのままで去らせなさい。』それは、『あなたがわたしに下さった者のうち、ただのひとりをも失いませんでした。』とイエスが言われたことばが実現するためであった。」

後になってこの出来事を振り返ったヨハネは、「あなたがわたしに下さった者のうち、ただのひとりをも失いませんでした」と言う、イエス様が最後の晩餐で語られたことばを思い起こしたのでしょう。これは、天の父がイエス様に下さった者たち、つまりイエス・キリストを信じる者たちを必ず守るという約束のことばでした。
暗闇の中に突如現れた兵士の集団とユダヤ教の役人たち。弟子たちにとっては、非常に恐ろしい光景であったに違いありません。そんな弟子たちを庇うように立たれたイエス様は、臆することなく「わたしを捜しているのなら、この人たちをこのままで去らせなさい」と告げました。体を張って弟子たちを守り、彼らをその場から立ち去らせようとされたのです。
それにしても、イエス様は何故弟子たちを守られたのでしょうか。この状況のもと、弟子たちも逮捕され、イエス様と同じ苦しみに会わされるなら、彼らの信仰が失われてしまうのではないか。その様にイエス様は案じておられたと考えられます。
弟子たちの信仰がいかに弱いものか。それをよく知っておられるイエス様は、彼らの信仰が完全に押しつぶされてしまうような試練をお許しにならなかった。その様な危険から彼らを守るためこの園から避難、脱出させる事。これがイエス様の思いであったでしょう。

Ⅰコリント10:13「…神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」

弟子たちにしてみれば、捕縛者たちを恐れて逃げ出したことは大失態。思い出したくもない、弱く、惨めな自分たちの姿です。しかし、その様な者が、実はイエス様によって堅く守られていたことに気がついた時、彼らは自分たちに注がれたイエス様の愛とご配慮に感謝し、この出来事を記したのでしょう。
私たちも、私たちが完全に信仰を失ってしまう様な試練を許さず、むしろ試練とともに逃れの道をも備えてくださるイエス様を心から信頼する者でありたいと思います。
こうして、弟子たちの危険は去ったかに見えました。しかし、ここに一人の弟子が剣をもって大祭司のしもべに切りかかったと言うのです。直情径行型の人、シモン・ペテロでした。

18:10,11「シモン・ペテロは、剣を持っていたが、それを抜き、大祭司のしもべを撃ち、右の耳を切り落とした。そのしもべの名はマルコスであった。そこで、イエスはペテロに言われた。「剣をさやに収めなさい。父がわたしに下さった杯を、どうして飲まずにいられよう。」

恐れからか。怒りからか。あるいはイエス様を守ろうと思ったのか。ペテロは思いのまま剣を取ると、大祭司のしもべマルコスに切り付け、右の耳を切り落としてしまいます。それを見たイエス様は「剣をさやに収めなさい」と戒めました。
ペテロの行動をきっかけに戦いが起こり、その中で弟子たちがいのちを失ったり、逮捕されたりするのを避けるため、彼らを守るための戒めと考えられます。それと同時に、イエス様にとって、もはやペテロの助けも、戦いも不要でした。「父がわたしに下さった杯を、どうして飲まずにいられよう」と言われた通り、十字架の死に至るまで、天の父に従うことを決意したイエス様に、最早迷いは無かったからです。
さて、今日の箇所を通し、私たちの心に残ったイエス様の姿とはどのようなものでしょうか。ひとつは、自ら進んで十字架への道を進んでゆかれるお姿です。イエス様は仕方なしに死なれたのではありませんでした。捕縛者の手から逃げることができなかったので苦しみを受けたのでもありませんでした。
もし、イエス様が十字架の死にまで従う決意をされなかったら、兵士の大軍団もイエス様を捕えることはできなかったでしょう。もし、イエス様が許されるのでなければ、捕縛者たちはその体に触れることもできなかったはずです。
ユダの計画を知り、逮捕されることを覚悟しながらゲッセマネの園に行かれたことも、「父がわたしに下さった杯を、どうして飲まずにいられよう」と言われたことばも、イエス様が私たちの罪の贖いのため、心から進んでご自分を与えてくださる愛を現してはいないでしょうか。この愛を心にとどめ、私たちの魂を励ますものとしたいと思います。
もう一つ私たちの心に残るのは、全力を尽くして弟子たちを守ろうとしたお姿です。「わたしがそれだ」とのただ一言で、捕縛者たちを圧倒したこと、ご自分の体を盾にして弟子たちを守られたことを思い出してください。イエス様はその大いなる力を、ご自分を守るためではなく、弟子たちの信仰を守るため用いられたのです。
最後に、イエス様に愛され、守られていることの意味を確認したいと思います。最初に見たように、天の父のみこころに従うことは、イエス様にとっても簡単なことではありませんでした。
十字架の苦しみを避けさせて欲しいと言う思いと、天の父のみこころに従いたいと言う思い。二つの思いがイエス様の心で戦い、葛藤があったのです。肉の体を持つ者として痛み、悲しみ、苦しみをイエス様が経験されたことは、私たちにとって慰めであり、励ましです。何故なら、みこころに従おうとする時、私たちもこの葛藤を覚えるからです。
正直な自分の思いを意識しつつ、その思いに死に、みこころに従うことを求め続ける時、私たちの心は痛みを覚え、苦しみます。しかし、その痛み、苦しみをイエス様が理解してくださるとしたらどうでしょう。心の重荷をイエス様もともに負ってくださるとしたらどうでしょう。私たちが何度みこころに従うことに失敗しても、イエス様が愛してくださり、みこころを心の深い所で受けとめられるまで、イエス様が全力で私たちを守り続けてくださるとしたら、どうでしょうか。
イエス様は苦しみ悩んでも、天の父に愛され、守られていることを覚えておられたので、最後の最後までみこころに従う歩みを求め続けることができました。私たちもみこころに従うことができない弱い自分、従うことを拒む頑固な自分を思う時、落胆します。
しかし、その様な自分がイエス様に愛され、守られていることを覚える時、イエス様が心の痛み、苦しみを理解し、重荷を負ってくださることを知る時、みこころに従う歩みを求め続けることができるのです。
私たちを全力で守ってくださるイエス・キリストの
愛に憩い、励まされつつ、みこころに従うことを求め続ける歩みを進めてゆきたいと思います。今日の聖句です。


ヨハネ1028わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。」

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