2015年5月17日日曜日

イザヤ書6章1節~8節 「一書説教 イザヤ書 ~遣わされた者として~」

旧約聖書は大きく四つに分類出来ます。律法(五つの書)、歴史(十二の書)、詩(五つの書)、預言(十七の書)の四つ。一書説教の歩みでは、前回の雅歌で詩の書が終わり、今日からいよいよ預言書に足を踏み入れることになります。
二十三回目の一書説教、イザヤ書です。聖書全体(六十六巻)から見れば、ここから中盤。今一度、気持ちを引き締めて、聖書を読む歩みに取り組みたいと思います。毎回お勧めしていることですが、一書説教の際は、扱われた書を読むことに、是非とも取り組まれますように。一書説教が進むにつれ、皆で聖書を読む喜びを味わいたいと思います。

 これから十七の預言書を読み進める私たち。預言書を読む上で気を付けておきたいことを三つ確認します。
 一つ目は、預言と予言の違いです。「よげん」と聞くと、日本人の多くは予め言うという意味の「予言」をイメージすると言われます。「予言」とは未来に起こることを語ること。しかし、私たちがこれから読む預言は、言葉を預かるという意味の「預言」。神様より言葉を預かった者が語った言葉。神様からのメッセージ。神様からの説教。そのため「預言」は、(語られた時から考えて)過去のことも、その当時のことも、未来のことも語られます。

預言書を読む上で、気を付けたいこと。二つ目は、誰が、どの時代、どのような人々に語ったものなのかを把握することです。同じ言葉でも、どのような状況で語られたのかによって、意味が変わります。預言が語られた背景は、主に歴史書に記されているため、どの預言書を読む際にも、歴史書とともに読むことで理解が深まると言えます。

預言書を読む上で気を付けたいこと。三つ目は、預言の言葉が、神様から神の民への言葉であることを意識することです。
 神様と神の民について、歴史書の時に繰り返し扱いましたが、今一度確認いたします。人間が堕落し、悲惨な状態の世界を、神様は祝福されます。その基本的な方針は、神の民を通して、世界を祝福するというもの。神の民が、人間のあるべき生き方を示す。どのように神様を愛し、どのように隣人を愛するのか、神の民を通して世界中の人が知るようになる。それが、神様が世界を祝福する基本的な方針でした。
 その神の民に選ばれたのが、アブラハムとその子孫。(キリストの十字架と復活以降、キリストを信じる私たちが神の民と教えられています。)そして、どのように神様を愛し、隣人を愛したら良いのか、具体的なことは出エジプトの時代に明確に語られました。
神の民は、いかに神様に愛されているのか。
神の民として正しく生きていく時に、恵みが大きくあること。(その恵みの殆どは、いのち、健康、繁栄、豊穣、尊敬、安全のどれかに当てはまる事柄として表現されます。)
神の民としての生き方を捨てる時、警告(呪い)があること。(その警告の殆どは、死、病気、干ばつ、欠乏、危険、破壊、敗北、国外追放、貧困、不名誉のどれかに当てはまる事柄として宣言されています。)
やがて神の民を完全に救う、救い主が来ることが、モーセを通して教えられました。

 アブラハムの子孫であるイスラエルの民は、出エジプト以降、民族として、国家として大きくなりますが、度々、神の民としての使命を果たしません。そのようなイスラエルの民に、神様から遣わされたのが預言者たちです。

 語り口調(文調)、語る内容は預言者によって様々。一人の預言者でも、時期や語る対象によって、口調(文調)や、その内容が大きく変わることがあります。しかし基本的には、神様から神の民に語られた内容。
 預言者たちが語った内容は、モーセを通して語られたものと本質的には同じものとなります。つまり、いかに神様が神の民を愛しているのか。神の民として歩む時に祝福は大きく、神の民として歩まない時に呪いが大きい。そして、やがて救い主が来られるというメッセージを、それぞれの預言者が、時代や状況に合わせて、それぞれの表現で語ったのです。
 どの預言書を読む時にも、私たちは自分も神の民であることを覚えて、いかに神様に愛されているのか、神の民として生きることがいかに大事な使命であるのか、私たちの救い主がどのようなお方なのか、考えたいと思います。

 今日扱うのはイザヤ書。全六十六章に渡る大預言書。有名な聖句が多数。キリストを指し示す預言も多数。新約聖書における引用も多数。その内容の深さ、広さから、イザヤ書を小聖書と呼ぶ人もいます。多くの人に愛された預言書。
イザヤはどのような時代に活躍したのか。次のように記されています。
 イザヤ1章1節
「アモツの子イザヤの幻。これは彼が、ユダとエルサレムについて、ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に見たものである。」

 ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代。つまりイザヤは、BC740年位から六十年近く、南ユダ王国を中心に活躍したと考えられます。ウジヤと言えば、その業績は凄まじいもので、多くの軍隊を持ち、近隣諸国に勝利し、その名声はエジプトにまで届いたと言われる人物。南ユダに繁栄をもたらした大王。
 ところがウジヤ王の後から、北の大国アッシリアが力を増し、国際情勢は不安定となります。そして遂には北イスラエルがアッシリアに滅ぼされていく。安定から国家存亡の危機迎える、激動の時代。王も民も右往左往する中、神の民としてどのように生きるべきなのか。長い期間、警告と励ましを発し続けるのがイザヤの役割となります。

 イザヤ書をどのように概観するのか。(色々なアイデアが提案されていて、これこそが正しいと言うことは出来ませんが)五つに分けるのが良いと思います。
 第一部は一章から十二章まで。主に南ユダの人たちに対する言葉です。神の民である、南ユダの者たちが、いかに不従順であるのか。社会悪がはびこり、宗教も退廃。国の危機に際して、主なる神様でないものを頼ろうとする王。その神の民に、神様の愛、将来の約束が語られつつも、その罪は裁かれなければならないと断罪のメッセージも語られる。
 神様の愛、神の民の使命、やがてこられる救い主について。どのメッセージも確認出来ますが、全体的には警告、忠告、裁きのメッセージが多い第一部です。
 イエス様の誕生を指し示す預言として有名な「処女が身ごもり男の子を生み、その名をインマヌエルと名付ける」(七章十四節)とか、「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。主権はその肩にあり、不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君と呼ばれる」(九章六節)は、この第一部に出てくる言葉です。

 第二部は十三章から二十三章まで。主に南ユダ以外の国について、断罪の言葉が続きます。バビロン、アッシリア、ペリシテ、モアブ、ダマスコ、クシュ、エジプト、エドム、アラビヤ、ツロ、シドンへの言葉。南ユダから見て、当時の主要な国々が網羅されています。
 近隣諸国への断罪のメッセージを、南ユダの人たちはどのような思いで聞いたでしょうか。世界を支配される方が誰であるのか。神の民を攻撃し圧迫する者たちに対して、神様がどのように報いるのか。世界のあるべき姿はどのようなものなのか。近隣諸国への断罪の中にも、重要なメッセージがいくつも含まれていました。

 第三部は二十四章から三十九章まで。第一部で主に南ユダの人たちに関するもの。第二部で近隣諸国に関するメッセージが語られ、第三部では国や民族の隔たりなく、世界全体が取り上げられて、裁きと、神様のなさろうとしていることが語られます。南ユダ、近隣諸国、全世界へと、イザヤの視点が広がっているのが分かります。語り口調にも変化が見られ、象徴的な表現が多くなるところもあります。
 なお、この第三部の最後の部分には、イザヤの語った言葉ではなく、アッシリアが南ユダを攻撃しに来た際の、歴史的出来事が記録されています。善王ヒゼキヤと、預言者イザヤが二人三脚となって、存亡の危機に立ち向かう場面。列王記、歴代誌にも記されていた内容で、聖書を読み進めている私たちからすると三回目となります。

 第四部は四十章から五十五章まで。ここから雰囲気が大きく変わります。「慰めよ。慰めよ。わたしの民を」とあなたがたの神は仰せられる。」と始まる四十章。これまで断罪、警告の言葉が多かったのに対して、ここから慰め、励ましの言葉が多くなります。
神の民のとして使命を果たさない結果、捕囚として捕われることがあっても、そこから解放されるという約束。それはやがておこるバビロン捕囚と、解放を伝えるとともに、イエス・キリストがして下さる罪の奴隷からの解放をも指し示す内容となります。
 極めて有名な、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ四十三章四節)という言葉や、キリストの十字架の場面を如実にあらわしている苦難のしもべ(五十三章)は、この第四部に含まれます。

 第五部は五十六章から六十六章まで。第四部で捕われからの解放、新たに神の民として歩むことが語られた後、この第五部では、新しくされた神の民がいかに生きるべきなのか。再度、あるべき神の民の生き方が示され、それによって世界がどのように祝福されるのか、語られます。明るさが増す印象。
 その終わりが印象的で、神様に従う者の祝福の大きさと、そむく者への罰の大きさが強調されて閉じられます。
 イザヤ66章22節~24節
「『わたしの造る新しい天と新しい地が、わたしの前にいつまでも続くように、――主の御告げ。――あなたがたの子孫と、あなたがたの名もいつまでも続く。毎月の新月の祭りに、毎週の安息日に、すべての人が、わたしの前に礼拝に来る。』と主は仰せられる。『彼らは出て行って、わたしにそむいた者たちのしかばねを見る。そのうじは死なず、その火も消えず、それはすべての人に、忌みきらわれる。』」

 全体を概観して良く分かるのは、イザヤ書は表現も多様、内容も豊富。イザヤ書全体で、一つのメッセージがあるというより、色々なテーマ、メッセージが盛り込まれている書。(イザヤ書には聖書の主要なテーマが全て入っているとして、小聖書と呼ぶ人もいます。)
 一読して大いに励まされる言葉もあれば、自分の罪深さを糾弾され恐れを頂く言葉もあります。新約聖書を持つ者でないと、語られている内容の意味が理解出来ないのではないか。当時の人たちは、どのように聞いていたのだろうかと疑問に思う言葉もあれば、今の私たちが読んでも良く意味の分からない言葉もあります。大きく偉大なイザヤ書。心して読み進めていきたいと思います。

 最後に、イザヤが預言者として神様に召された(選ばれ任命された)場面を確認し、イザヤ書の一つのまとめとしたいと思います。
 イザヤ6章1節~3節
「ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、互いに呼びかわして言っていた。『聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。』」

 大王ウジヤの死により空いた王座。不安が漂うその時、イザヤは全く異なる王座。天の王座を目にします。神殿にいるイザヤが見た幻なのか。神殿ごと幻だったのか。高く上げられた王座に座しておられる主を見るのです。
 神を見る。これは大変なことでした。何故なら、罪ある者が直接神様を見ることは許されないこと。もし、罪ある者が神様と交わろうものなら死んでしまうというのが、聖書の教えていることでした。(出エジプト三十三章、Ⅱサムエル六章など)

 そのためイザヤも死を覚悟して言いました。
イザヤ6章5節
「そこで、私は言った。『ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。』」

 罪ある私。汚れた民の中で生きている私が、主なる神様を見てしまった。ああ、もうだめだ、との声。本当ならばここでイザヤは死ぬはずでした。ところがここで、罪ある者が神様と交わっても良い、唯一の方法。罪が赦されるという恵みがイザヤに与えられます。

 イザヤ6章6節~7節
「すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。彼は、私の口に触れて言った。『見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。』」

 祭壇は、罪の身代わりのいけにえを焼くところ。その祭壇の燃えさかる炭火とは、罪の赦し、和解を表すもの。御使いがその炭火をイザヤの口に当てます。おそらくは、イザヤが自分の罪深さを「くちびるの汚れた者」と言ったことに合わせたのだと思います。これにより「あなたの罪も贖われた。」との宣言。

 この罪贖われたイザヤが主の声を聞き、応答します。
 イザヤ6章8節
「私は、『だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。』と言っておられる主の声を聞いたので、言った。『ここに、私がおります。私を遣わしてください。』」

 罪赦され、神様と交わる者とされたイザヤが、私を遣わして下さいと言うことが出来た。これは非常に重要なことです。神様から遣わされるというのは、罪の赦しと、神様との交わりを土台としているのです。イザヤは、この経験を経て、神様に遣わされた預言者として生きることになりました。
 私たちは罪赦された者でしょうか。神様と交わる者とされているでしょうか。間違いなく罪赦された者、間違いなく神様と交わる者です。目の前に天使が現わされて、祭壇の炭火をつけられたということは経験していません。しかし、それよりもより確かな救い。イエス・キリストの十字架と復活によって、救われたのです。
 私たちは、神の民としてこの世界に遣わされていると信じていますが、なぜそのように信じているのかと言えば、キリストによって、罪赦され、神様と交わる者とされたからでした。


 私たちは皆でイザヤ書を読みたいと思います。かつて、神様から神の民に語られた言葉を、キリストによって神の民とされた私たちが読むのです。自分が、神様から遣わされて、今の生活の場で生きていることを覚えることが出来ますように。イザヤを通して語られた言葉によって、私たちがそれぞれの遣わされた場所で、ますます神の民として生きることが出来ますように。神の民として生きる、そのおおもとに、キリストの十字架と復活があることを覚えて、生きることが出来ますように。皆で聖書を読み、それに従う恵みを味わいたいと思います。

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