2015年4月26日日曜日

使徒の働き18章1節~11節 「わたしがあなたとともに」

「イエス・キリストを信じる前と信じた後で、あなたの生き方はどう変わりましたか」。皆様はこの様な質問をされたことがあるでしょうか。その様に問われた時、どう答えたでしょうか。今後、もし誰かに問われたとしたら何と答えるでしょうか。
様々な答え方がありますし、あって良いでしょう。私の中にもいくつかの答えが思い浮かびますが、もしその中で一つを選べと言われるなら、「自分のための人生から神様とともに歩む人生、神様のための人生への変化」をあげたいと思います。
勿論、今でも自分の利益優先で物事を判断し行動してしまうことが多くあるのが私の現実です。しかし、少なくとも、神様の栄光、素晴らしさを表わして生きてゆきたいと言う願いがいつしか芽生え、この願いが強い時も弱い時もありますが、心の中にあり続けることは、以前は考えもしなかった人生の革命という気がします。
聖書は、私たちがこの地上で神様の栄光、素晴らしさを表わすために創造された者、救われた者であることを教えています。その為に、この地上に生かされている神様の民であることを、首尾一貫して語っているのです。
食べて飲んで寝て、働いて。その虚しい繰り返しが人生だと思い込んでいたのに、あなたの人生には、尊い意味があると教えてくれた神様。広い世界の中の小さなチリの様な命。こんなちっぽけな人生に何の価値があるのかと寂しく感じていたのに、あなたの存在には大きな価値があると、自らの命を十字架につけてくださったイエス・キリスト。
神様の栄光を表わすと言うと、少し堅苦しいと言いますか、所謂立派な生き方をしなければと言う様な緊張感を覚えます。しかし、別のことばを使えば、私たちを愛してやまない神様を喜ぶこと、神様を最高に大切なお方として生きることと言えるでしょうか。
 そして、私たちは何をするにも、神様を喜び、神様を最高に大切なお方とすべきなのですが、特に三つのことにおいてそれができるし、その様な私たちの姿を見て、この世の人々は神様の存在に目を向けると言われます。
 その三つとは、神様を礼拝すること、愛し合う交わりを築くこと、神様を知らない人々に伝道することでした。今日は、使徒パウロの姿を通して、特に三つ目の伝道について考えてみたいと思います。
 今日の場面、パウロはアテネからコリントに移動しています。アテネは芸術と学問の都、コリントは商業の都。全く対照的な町から町へ旅をしたパウロですが、その為すところは変わりません。神様の救いのメッセージを伝えることでした。

 18:1~4「その後、パウロはアテネを去って、コリントへ行った。ここで、アクラというポント生まれのユダヤ人およびその妻プリスキラに出会った。クラウデオ帝が、すべてのユダヤ人をローマから退去させるように命令したため、近ごろイタリヤから来ていたのである。パウロはふたりのところに行き、自分も同業者であったので、その家に住んでいっしょに仕事をした。彼らの職業は天幕作りであった。パウロは安息日ごとに会堂で論じ、ユダヤ人とギリシヤ人を承服させようとした。」
 この頃、ユダヤ教の教師は仕事をしつつ、人々に聖書を教えるのが普通であったと言われます。もとユダヤ教教師の仕事は天幕づくり、テントメーカー。羊の毛からテント等の生活用品を作ることは、パウロのお得意のわざであり、これで生活を支えつつ、安息日には伝道に励んでいました。
 そして、このコリントの町で、パウロは生涯の友と出会います。ローマ皇帝クラウデオが出した退去命令により、都ローマから逃げてきたユダヤ人アクラ、プリスキラの夫婦です。彼らの職業も天幕づくりでしたから、最初は同業者、仕事仲間として知り合い、仲良くなったのでしょう。やがてアクラとプリスキラもキリスト教信仰に導かれ、この後の伝道旅行には、助け手として同行することとなります。
 そうこうする内に、愛弟子のシラスとテモテがコリントに到着。彼らが携えてきたマケドニアの教会からの贈り物は、パウロの生活を大いに支え、伝道に専念する態勢が整えられます。

 18:5、6「そして、シラスとテモテがマケドニヤから下って来ると、パウロはみことばを教えることに専念し、イエスがキリストであることを、ユダヤ人たちにはっきりと宣言した。しかし、彼らが反抗して暴言を吐いたので、パウロは着物を振り払って、「あなたがたの血は、あなたがたの頭上にふりかかれ。私には責任がない。今から私は異邦人のほうに行く。」と言った。」

  パウロが、同胞ユダヤ人に対する伝道に専念できるようになったこと自体は良いことでした。しかし、イエスがキリスト、救い主であることを明確に語るメッセージは、彼らの反発を買ったのです。十字架の木につけられたイエス様が神の子、救い主などと言う教えは、伝統的ユダヤ人の到底受け入れることのできないものだったからです。
 反抗、暴言を繰り返す残念な同胞に、福音を受け入れない責任はあなたがたにあると宣言したパウロは、「今から私は異邦人の方に行く」と語り、背を向けざるを得ませんでした。
 そして、事実異邦人の中に、イエスがキリストであることを信じ、洗礼を受ける人が大勢いたのです。

 18:7、8「そして、そこを去って、神を敬うテテオ・ユストという人の家に行った。その家は会堂の隣であった。会堂管理者クリスポは、一家をあげて主を信じた。また、多くのコリント人も聞いて信じ、バプテスマを受けた。」

 神を敬う人と言うのは、ユダヤ人ではなく異邦人ですが、聖書の神さまを信じていた人々を指します。パウロのコリント伝道は、異邦人のうちに多くの実を結び、神様に祝福されたのです。
 こうして、ユダヤ人の反抗と暴言はあったものの、アクラ・プリスキラ夫婦との交わり、シラスとテモテが携えてきた経済的な援助、多くのコリント人の洗礼と、パウロの伝道は神様に祝福され、守られてきたように見えます。
 しかし、これ程に順調とも見える状況の中、不思議なことに、パウロの心は恐れに沈んでいました。連日連夜人に襲われ、危害を加えられる夢に苦しめられていたらしいのです。

 18:9~11「ある夜、主は幻によってパウロに、「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わたしの民がたくさんいるから。」と言われた。そこでパウロは、一年半ここに腰を据えて、彼らの間で神のことばを教え続けた。」

 パウロの心が恐れ、弱り果てていたのはどうしてなのか。この後、パウロに反対するユダヤ人は彼を裁判所に引っ張って行きますので、その際痛めつけられることを恐れていたのか。それとも、これまで受けてきた様々な迫害の恐怖が強烈なストレスになっていたのか。あるいは、持病が悪化したのではと推測する人もいます。
 はっきりしたことは分かりませんが、コリントの町での神様の祝福、伝道の進展にもかかわらず、この時パウロが自分ではどうしようもない程の恐れに苦しみ、弱く、無力な状態にありました。
 初代キリスト教会最大の使徒、世界に飛躍した伝道者パウロも、その心は鉄でも石でもなかったということです。迫害を忍耐し、海を越え、陸をかけて、キリストの福音を世界に広めたパウロも、恐れ、悩み、苦しみ、無力を感じる、そんな私たちと同じ心の持ち主だったのです。
 しかし、その様なパウロを放ってはおけず、そばに来て、声をかけ、慰め、励ましたのが主なる神様です。「わたしがあなたとともにいる」とのご臨在のことば。「だれもあなたを襲って、危害を加える者はいない」という守りの約束。「この町には,わたしの民がたくさんいるから」との確かな保証。
 父親がしゅんとして肩を落とす我が子の姿を見て、矢も盾もたまらず近づくと、震える体を抱きしめ、「お父さんがいっしょにいるから安心しなさい。お父さんがあなたを守るから」と語りかける。そんな、力強くて、あたたかい、天の父の愛を思わせる場面ではないでしょうか。
 聖書の神様は人格的と言われます。イエス様は、このお方を天の父と呼んで良いのだよと教えてくださり、イエス・キリストを信じる者はみな、この世界を造られた全能の神様を「アバ、父」と呼ぶことのできる御霊を心に与えられています。
 私たちは、この箇所を通して、私たちの心の恐れ、苦しみを知ってくださる神様、その姿を見ると放っておけず、近づいてくださる神様、全身全霊で慰め、励ましてくださる、優しく、頼もしい父の神様を見ることができます。この様な神様を知っている幸い、この様な神様に愛され、守られている恵みを覚えたいところです。
 こうして、主なる神様に励まされたパウロは、一年半この町に腰を据え、神のことばを教え続け、後の大コリント教会の土台を築くことができたのです。
 最後に、今日の箇所から確認したいことが二つあります。
 ひとつは、神様のことばに立ち、神様のことばに支えられているので、私たちは伝道することができるということです。
 ただ一人孤軍奮闘で伝道の働きを進めるなら、私たちの心はパウロの様に、疲れ果て、様々なことを恐れ、弱り果ててしまうでしょう。しかし、私たちはこの世のどこに置かれても、私たちを愛してやまない全能の神様がともにおられることを知り、覚えることができるなら、語るべきことを語ることができると教えられたいのです。
 また、私たちが語り続けることができるのは、神様がご自分の民をこの町に置いてくださっているからです。パウロがコリントの町に神様の民がいることを信じて、腰を据え、伝道したように、私たちは神様が四日市あるいは菰野、鈴鹿、亀山の町を愛し、この町にご自分の民をおいていることを信じているでしょうか。
私たちがこの町に住んでいるのは決して偶然ではありません。この町に置かれた神様の民に福音を伝えることを、神様が私たちに期待しておられるから、私たちの住まいがここにあるのです。この一年、私たちも神様のことばにささえられ、神様とともに伝道を進めてゆきたいと思います。
 二つ目は、神様が自分に与えてくださった人間関係、伝道のための賜物についてよく考え、実行することです。
 コリントの町で、神様は様々な人間関係をパウロに与えていました。最初に伝道したと思われるアクラとプリスキラ夫婦は同じ民族の仕事仲間。故郷を同じくする職場の同僚です。ユダヤ人の反対のため会堂を去った際、集会を開いたのは会堂のお隣に住んでいたテテオさん。地域の隣人、お隣さんでした。一家をあげてイエス・キリストを信じた会堂管理者クリスポは、コリントの町に多くの知人、友人がいたように見えます。
 神様が私たちに与えてくださっている人間関係はどのようなものでしょうか。職場の同僚、地域の隣人、友人や友人の友人。そう言った人々と信頼関係を築いてゆくことが、伝道の第一歩であることを覚えたいと思います。
 また、パウロは聖書のことばを説き明かすことで伝道を進めてゆきましたし、そこに彼の賜物がありましたが、私たちの場合はどうでしょうか。みことばから福音を説明し、語る。救いの証しや、クリスチャンになって変えられた生き方について証しするなど、語ることが得意な人。教会の集会や牧師の所に、人を連れてくるなど、連れてくる賜物のある人。家での食事に招いたり、相談にのったり、交わりによる伝道に関心のある人。語ることは苦手でも、黙々と愛の行いに励み、生き方で神様を伝える人。
 私たち各々、自分の賜物が何かを考え、それをもって伝道に取り組んでゆきたいと思います。
 今日の聖句です。

使徒18:9,10「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わたしの民がたくさんいるから。」


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