2015年4月5日日曜日

イースター礼拝Ⅰコリント15章20節~27節 「キリストによってすべての人が生かされ」 

今日はイースターの礼拝。イエス・キリストの復活の意味を考え、永遠のいのちの望みについて確認する礼拝となります。
 聖書によれば、神様は世界の初め、人間を永遠に生きることができる者として創造されました。しかし、それは無条件にではありませんでした。神様を信頼し続ける時、人間は神様とともに永遠に生きると言う祝福に入ることができたのです。
 けれども、人類の先祖アダムはこのテストに失敗。アダムは神様に背き、それ以降、アダムの子孫である人間は死すべき者となったのです。そして、人間の死には、神様との交わりを失い、罪を持ったまま生きる霊的な死と、肉体の死と言う二つの側面がありました。
しかし、死すべき者となったものの、人間の心から永遠へのいのちへの思いが消え去ることはなかったのです。
形あるものは壊れ、咲いた花は散る。それらが決して不思議なことではなく、自然のことであるのと同じ様に、生まれた人間が死ぬのは自然なこと、当然のことではないかと考える人々がいます。
しかし、それは人間の頭がひねり出した一つの理屈ではないかと感じます。何故なら、親しい者の死に直面して、私たちの心に悲しみが湧き上がるのはなぜでしょう。愛する親や子どもの死をありうべからざることのように感じ、嘆くのは、どうしてなのでしょうか。
私が死後の世界を意識したのは、小学校1年生の時のことです。可愛がってくれた祖母が53歳で亡くなりました。声をかけても答えてくれない祖母の姿に驚き、悲しくなった私は、親戚の叔父に「おばあちゃんはどこへ行ったの?」と聞いたのです。
すると、叔父は「おばあちゃんにはおばあちゃんの住む所があって、そこに今行くことはできないけれど、お盆になると家に帰ってきてくれるよ」と慰めてくれました。叔父は普段、人間は死んだら土に帰り消えてなくなる」と言っている人でした。しかし、さすがにそれを言ったら子どもが傷つくと考えたのか。それとも、自分自身を納得させるためのことばであったのか。ともかく、死後の世界があることを説いて、私の心を静めてくれようとしたのだと思います。こうした深い感情は、頭で考えた理屈では割り切れないものと感じます。
また、古代エジプト人は死者が永遠に生きることを願ってミイラを造り、日用品をも埋葬しました。その涙は病を癒し、その血を口にすると不死のいのちを授かると言われるフェニックス、不死鳥伝説は世界中に残っています。
強大な権力を手に入れた中国の始皇帝は死を恐れ、不老不死を手に入れようと部下達に無理難題を押し付けますが、無謀な命令を受けた彼らが作りだしたのは水銀などを原料とした丸薬であり、それを飲んだ始皇帝は猛毒によって死亡した、とも言われます。
古今東西、多くの人が氏を自然なことと割り切れず、永遠に生きることを強く願ってきたと言えます。
さらに、現代の仏教研究家の一人は、こう語っています。「死後の問題は信念の問題であって、事実や科学の問題ではありません。私は死後はないとみるよりも、有ると信じたいのです。死後の世界がないと考えたのでは、現実の自分の行動を納得のゆくように説明することはできません。私たちは無意識のうちに、死後の世界の存在を認めつつ、現実の世界で決断し、行動しているのです。」
    この様に時代を経て、科学が進歩しても、人々の心から死後の世界を望む気持ちが消えないのは何故なのでしょうか。それは、神様が人の心に永遠への思いを植えつけたからと、聖書は語っています。

    伝道者の書314「…神はまた人の心に永遠への思いを与えられた。」

    時代が変わっても、国が異なっても、人々の心に残っている永遠への思い、死後の世界への関心は、神様の恵みだったのです。
しかし、親しい者の死に直面して誰もが覚える悲しみの感情、世界中に残る不死鳥や不老不死の伝説に見られる死後のいのちへの願い、死後の世界がなければこの世を正しく生きられないとする信念。この様な人間の姿は、聖書の神を抜きにして死後の問題を考える時、私たちに本当の解決はないことを示しているようにも見えます。
    先程も言いました通り、人間は神様に背いてから、永遠のいのちを失いました。しかし、その様な人間を神様はあわれみ、もう一度神様とともに永遠に生きることのできるいのち、人間本来のいのちへと回復するため、イエス・キリストを送られたと、聖書は教えているのです。
    そして、私たちを永遠のいのちへと活かすため、イエス・キリストは十字架で罪の贖いの死を遂げ、復活された。これがイースターの意味であり、私たちがキリストの復活を祝う理由なのです。
ですから、キリストの十字架と復活を、弟子たちはこの世界で起こった現実の出来事、歴史の事実として、いのちをかけて伝えていました。そのいのちがけの思いは、もし、キリストの復活が現実に起こらなかったとしたら、復活が単なる希望にすぎないとしたら、キリスト教信仰のゆえにこれ程苦しめられている自分たちは、この世で最もあわれな存在ではないかと語るパウロのことばに、よく表れています。
 
15:19「もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。」

 しかし、これは実際にキリストが復活したことを知り、目撃した人の逆説的表現でした。だからこそ、復活したキリストに出会い大きく人生を変えられたパウロは、その事実と意味を次の様に告げています。

15:20「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」

「眠った者」とは聖書独特の表現。イエス・キリストを信じた人々の死を、神様の御手の中に守られて眠り、やがて復活という目覚めの時を待つ姿として、美しく描いています。その様な死者の初穂、つまり先駆けとしてキリストが復活したことは、やがて将来キリストを信じるが皆復活する確かな証拠だと言うのです。
3月の上旬。私は教会の姉妹の方々と、なばなの里に行き、河津桜を見てきました。河津桜は一番咲の桜です。それが花をつけると、私たちは日本全国に桜前線が近づいているのを知ることができるからです。
言わば、河津桜は日本中の桜の初穂。それと同じく、二千年前に起こったイエス・キリストの復活は、将来の私たちの復活の初穂でした。
そして、イエス・キリストの存在がいかに大切なものか。それは、神様に信頼し続けることに失敗した人類の先祖アダムが死をもたらしたのとは逆に、十字架の死に至るまで神様に信頼し続けたキリストが私たちにいのちをもたらしたから、と聖書は教えています。

15:21~23「というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。」

私たちが失った永遠のいのちは、私たち自身の努力によっては回復できない。ただ、イエス・キリストの十字架の死と復活を信じることによる。アダムの子孫であり、死すべき者であった私たちも、キリストを信じて永遠のいのちに生かされる。これが、聖書の良い知らせ、福音です。
しかし、よく見ると、復活には定められた順番がありと示されていました。まず二千年前のキリストの復活。これが初穂。その後、将来の再臨の時に、キリストを信じる者たちの復活が続くとされます。
では、何故イエス・キリストを信じた者はすぐに復活せず、将来を待たなければならないでしょうか。それは、親が生れ来るわが子のため最良の環境を用意するようつとめるでしょう。同様に、神様も私たちが生活するにふさわしい世界、最良の世界を整えてくださっているのであり、その完成がキリストの再臨の時でした。つまり、私たちがすぐに復活しないのは、神様の愛であり、配慮のゆえだったのです。
私たちが死んで後、再び生れ来る世界が、もしこの悲惨なままの世界であるとしたら、何の益があるでしょうか。何を好んで、もう一度この罪の世で生活したいと思う人がいるでしょうか。誰もが正義と平和と愛に満ちる世界で生活することを望むことでしょう。
その様な世界は、イエス・キリストの再臨によってもたらされるのです。

15:24~27a「それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。最後の敵である死も滅ぼされます。 「彼は万物をその足の下に従わせた。」からです。」

「滅ぼす」と言うことばは、「無効にする、無用なものとする」との意味です。イエス・キリストが再びこの世界に来られた時、無用なものとする支配、権威、権力の中には、キリストに敵対する権力ばかりか、神様によって立てられたこの世のすべての権力も、そこに含まれるとされます。
人々を苦しめる為政者、貧しい者から搾取する特権階級がいなくなる世界。犯罪も戦争も起こらないため、この世では必要とされた警察や軍隊が無用の長物として消え去る世界。主人と召使、王と平民、身分階級の区別も終わりを告げる世界。ことばを代えれば、すべての人が対等、平等で、自分よりも隣人を尊び、喜び、愛する世界の到来です。
最初に読んだ黙示録のことばを用いれば、神様がともにおられ、私たちの眼の涙をすっかり拭い去り、もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない世界。この世の悪しきものがすべて過ぎ去った世界と言えるでしょうか。この様な最良、最高の世界を準備し終えたタイミングで、神様は私たちを復活させてくださる。これもまた、大いなる
恵みではないかと思います。
最後に確認したいのは、永遠のいのちと言う視点で、人生を考えることの大切さです。その様な視点に立つ時、先ず変わってくるのは、死の意味です。
大きな鎌を持った死神、骸骨、黒いカラス、青ざめた馬。昔から人々は、死を不気味な存在、恐ろしいものと考えてきました。しかし、神様が備えてくださる世界を目指す者にとって、死はもはや恐れの対象ではありません。
永遠のいのちと言う視点に立つなら、一つの通過点です。それも、今よりも遥かに良い世界、今よりもお互いが愛し合い、今よりも神様と親しく生活できる世界であることを思うと、喜ぶべき通過点とも言えるのではないでしょうか。
さらに、永遠のいのちと言う視点で人生を考える時、私たちはこの世のものに捕われ、この世のものに縛られる苦しみから解放される気がします。
この世がすべて、この世でしか生きられないと考えるなら、私たちは、この世での仕事の成功に、この世での財産の獲得に、この世での地位や名誉に、この世での快楽を貪ることに心を向け、いつしかそれらのものに縛られてがんじがらめ。そうした生き方が実に重荷、ストレスとなります。
しかし、私たちの心を縛らず、重荷ともならない、真の成功、真の財産、真の名誉、真の快楽。それらをすべて備えた完全な世界が用意されていると信じるなら、私たちは必要以上の荷物を背負わないことを第一の心得とし、神様と人を愛することに心集中して生きることができるのではないでしょうか。今日の聖句です。

Ⅰコリント15:58「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」

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