2015年4月19日日曜日

雅歌8章6節~8節 「一書説教 雅歌 ~愛する喜び~」

 断続的に取り組んできた一書説教、今日は二十二回目となります。聖書は全部で六十六巻ですので、これでやっと三分の一。まだまだ長い道のりですが、ここまで進んで来られたことを感謝しつつ、これ以降も皆で聖書を読むことに取り組むことが出来るようにと願っています。
 旧約聖書第二十二の巻は雅歌となります。一つ前の伝道者の書は、聖書の中の珍書、奇書として有名でしたが、この雅歌も同様で、聖書の中でも一際変わった書。ヘブル語では「最も優れた歌」(シール・ハッシーリーム)という書名、日本語では雅の歌。その内容は、男女の恋の歌、愛の歌となっていて、読む者をして、なぜこのような歌が聖書の中に入っているのかと戸惑うことになるのです。
伝道者の書が「全ては空」として人生の空しさを歌うのに対し、この雅歌では、人生の喜び、恋愛、結婚、性の喜びが歌われます。両方ともソロモンの名を冠しながら、全く異なる印象。改めて聖書の広さを実感するところです。

 最近聞いた小噺に次のようなものがありました。
「ある荒くれ者が、敬虔なクリスチャンをからかうために質問しました。『何かお勧めの本はないかい。過激な性的表現のある本が読みたいのだが。』すると敬虔なクリスチャンが『丁度良いのがあるよ』と答えて、聖書を差し出しました。」という話。
 面白い話と感じるでしょうか。荒くれ者は、敬虔なクリスチャンが過激な性的表現のある本を知るはずがないとして、からかうための質問をします。「過激な性的表現の本はないか」と。荒くれ者が想像している本は聖書からかけ離れたものでしょう。しかし、その願いの通りに本を勧めるとしたら、それは聖書であるという答え。
 これが小噺として成り立つのは、聖書の中に雅歌があるからと言えます。雅歌は過激な性的表現が含まれる書。仮の話ですが、私が教会の中で「あの人が私にキスをしてくれたら良いのに」(一章一節)とか、女性にむかって「あなたの太ももは魅力的です」(七章一節)とか、「あなたの胸は素晴らしい」(七章七節)と、言ったとしたら、あの牧師も遂におかしくなったと思われるでしょう。しかし、この言葉は聖書の中、雅歌の中の言葉。やはり、聖書広いのです。

 伝道者の書とは異なる意味で難解な書。今日はこの雅歌に取り組むことになります。次回の一書説教(五月十七日予定)までに雅歌を読むことをお勧めいたします。一書説教が進むにつれて、教会の皆で聖書を読み進めるという恵みにあずかりたいと思います。

 聖書中、一際異彩を放つ雅歌ですが、他の書と比べて何がそれほど違うのかと言えば、「神」の文字が出てこなく、内容も人間的な側面が強く表れていることです。神様からの語りかけ、働きかけの記述はなく、また人から神様への祈り、告白もない。男性から女性へ、女性から男性へ、愛の歌が繰り返される書。(「神」の文字が出てこないのは、旧約聖書で二つで、もう一つはエステル記です。エステル記はその内容から神様の摂理の御業が強くあらわれていました。)
 少し雰囲気を確かめてみますと、
 雅歌1章9節~17節
「わが愛する者よ。私はあなたをパロの戦車の雌馬になぞらえよう。
  あなたの頬には飾り輪がつき、首には宝石をちりばめた首飾りがつけてあって、美しい。
  私たちは銀をちりばめた金の飾り輪をあなたのために作ろう。
  王がうたげの座に着いておられる間、私のナルドはかおりを放ちました。
  私の愛する方は、私にとっては、この乳房の間に宿る没薬の袋のようです。
  私の愛する方は、私にとっては、エン・ゲディのぶどう畑にあるヘンナ樹の花ぶさのようです。
ああ、わが愛する者。あなたはなんと美しいことよ。なんと美しいことよ。あなたの目は鳩のようだ。
  私の愛する方。あなたはなんと美しく、慕わしい方でしょう。私たちの長いいすは青々としています。
  私たちの家の梁は杉の木、そのたるきは糸杉です。」

 雅歌に登場する男性が、女性に語りかける時は「わが愛する者よ。」と語りかけ、女性が男性に語りかける時は「私の愛する方よ。」となります。今確認した中で、男性から女性、女性から男性への言葉が繰り返されています。
 男性から女性へ、「パロの戦車の雌馬のようだ。贈り物をしよう。」との語りかけに対して、女性から男性には「ナルドのかおり、没薬の袋、ヘンナ樹の花。」と、三つの芳しい香りで、男性への喜びを表現されます。するとまた男性から「あなたは美しい。あなたの目は鳩のようだ。」それに対して女性から男性には「私たちの住む家は素晴らしもの」との答え。このようなやりとりがずっと続くのが雅歌です。

 ところで、私たちと異なる文化の「詩」を理解するのは、難しさがあります。今の日本で女性への褒め言葉として「パロの戦車の雌馬」とは言わないでしょうし、男性への褒め言葉として「没薬の袋」とか「ヘンナ樹の花」とも言いません。
試しに昨晩、妻に「あなたは雌馬のようですね。』と言われたらどう思う?」と聞いたところ、「じゃじゃ馬って意味かと思う。」と言っていました。今の日本では、悪口になりかねない言葉。
 このように、詩を読むということにも雅歌の難しさがあります。文脈から、愛を伝えている、褒めているということは分かっても、何故このような表現なのか、私たちにはあまりピンとこないのです。

 ちなみに、調べてみますと「パロの戦車の雌馬」という表現。エジプトの戦車は通常、雄馬がひくものでした。パロの戦車と言えば、血気盛んな雄馬の世界。そこに雌馬が入りこむというのは、雄馬たちを非常に興奮させるもの。魅力的に見えるという意味。それ程、私にとってあなたは魅力的ですという意味になりますが、かなり強い性的表現と言えます。
 またナルドの香油は媚薬として珍重されたもので、女性から男性への「わたしのナルドがかおりを放ちました。」という言葉も、過激な性的願いと言えます。
 何にしろ、雅歌は男女の愛の歌ですが、相手を褒めたいというだけでなく、私たちが想像する以上に、性的な意味で愛を伝えあう歌となっているのです。

 雅歌の登場人物ですが、基本的には男性から女性への言葉と、女性から男性への言葉(女性から男性への言葉の方がかなり多くなります)ですが、読む際に気を付けたいことが二つあります。
 一つは、主役となる男女ではない、「エルサレムの女たち」がところどころで声を挙げることがあること。
 例えば、雅歌5章9節
「女のなかで最も美しい人よ。あなたの愛する方は、ほかの愛人より何がすぐれているのですか。あなたがそのように私たちに切に願うとは。あなたの愛する方は、ほかの愛人より何がすぐれているのですか。」

 一組の男性と女性しか登場していないと考えると、混乱するので、そうでない人も登場することを覚えておきたいと思います。

 もう一つ覚えておきたいのは、登場する男性は二人いる可能性があるということです。雅歌に記される発言は、発言者が誰なのか記されていないので、その言葉の中身から、様々な推測が必要となります。
 例えば、女性の発言により主な登場人物の男性が二人いると推測されるものがあります。
雅歌1章7節
「私の愛している人。どうか教えてください。どこで羊を飼い、昼の間は、どこでそれを休ませるのですか。あなたの仲間の群れのかたわらで、私はなぜ、顔おおいをつけた女のようにしていなければならないのでしょう。」

 この言葉から、女性が愛している男性は、羊飼いであることが分かります。しかし、雅歌の中では繰り返し王の存在が語られますので、王と羊飼いは別人ではないかとの解釈が出て来ます。
この考え方に立つと、一人がソロモン王で、もう一人が、女性が愛している羊飼いの男性。そして、王は二人の仲を裂こうとする者。女性は王の誘惑にも耳を傾けず、愛する羊飼いの男性に忠実である、という話として雅歌を理解することになります。(この方が、より劇的と言えるでしょうか。)

 ただし、この考え方は決定的なものではありません。羊飼いというのはイスラエルでは一般的な仕事。つまり、男性の仕事を表現しているだけのことと考えることも出来ます。
先の雅歌一章七節は、仕事の少しの休みにも会いたい思いの詩的表現と捉える。そうすると、王と羊飼いは同一人物で、最初から最後まで、一組の男女の話として雅歌が理解出来ます。

 この一書説教までに、主に登場する男性は一人、もしくは二人と、自分の意見を決めたいと願い、雅歌を読んだのですが、申し訳ないことに私は結論付けることが出来ませんでした。二人の男性がいるとみるか、一人の男性だけとみるか、是非とも考えながら読んで頂ければと思います。「私はこちらだと思う」と自分なりの結論が出た方は教えて頂ければと思います。

 雅歌の概観ですが、これもまた、非常に難しいものです。
 一つの概観の方法は、時間の経過通りに雅歌が書かれていると考えるもの。四章の後半に結婚式のクライマックスが記されているので、前半が結婚前の婚約期間。中盤に結婚。後半は、結婚生活の問題発生や、最終的な和解が記されているという理解です。この理解に立てば、雅歌は愛し合う二人の関係を段階を追って描いていることになります。(しかし、この理解に立つ場合、結婚前であるはずの前半に、かなり過激な性的な願いが出ていることをどのように捉えるべきなのか、考える必要があります。)
 もう一つの概観の方法は、時間の経過通りには記されていなく、テーマのかたまりで五部構成になっていると考えるもの。「愛することへの期待」(1章1節~2章7節)、「愛する相手を失う恐れと見つける喜び」(2章8節~3章5節)「結婚式」(3章6節~5章1節)「(再度)愛する相手を失う恐れと見つける喜び」(5章2節~8章4節)「結語」(8章5節~14節)という概観になります。
 どちらにしても、全体を明確に掴むことが非常に難しい書。繰り返し読んで、自分としての全体のイメージを掴むことが出来ればと思います。

 以上、雅歌を読む備えとして、いくつかのことを確認しました。これから読みましょうと勧めているのに、難解であることを繰り返して申し訳ないのですが、とはいえ私たち皆で雅歌にあたることが出来るのは大きな喜びです。是非とも、読み通して頂きたいと思います。

 最後に、この雅歌をとして教えられるメッセージは何か、確認したいと思います。
キリスト教の歴史の中で、雅歌に示された男女の愛の関係を、キリストと教会の関係、神様と私たちの関係としてとらえることが長らくありました。イエス様が私たちをどれ程強く愛しておられるのか。雅歌に出てくる男性から女性への言葉は、キリストから私たちに語られる言葉として理解するというものです。
確かに、聖書の中には、神様と神の民が婚姻関係として表現される箇所や、結婚の奥義として、キリストと教会の関係が語られる箇所があります。そのため、雅歌も同じように、主イエスと私たちの関係をもとにしたものと考えたくなります。しかし、聖書のどこにも、雅歌に出てくる男女の関係が、私たちと神様との関係であることを示唆する箇所がありません。つまり勝手に、これは私たちとイエス様の関係だと決めつけて、読むべきではないと言えます。

 それでは、雅歌の中心的なメッセージは何なのか。雅歌をそのまま読むと、男女の関係は神様の祝福のうちにあるということが、中心テーマ、中心メッセージと受け取れます。(言うまでもなく、罪の中にある状態での、男女の関係のことではありません。)それも性的な男女の関係となれば、夫婦関係ですので、夫婦の愛について教えられていると読めます。
 罪の影響下にあって、私たちは様々な人間関係が損なわれますが、罪の影響が強く出るのは夫婦関係と言えます。神様の定めた祝福された夫婦関係を維持することは、いかに難しいことでしょうか。本当に良い夫婦関係を持ちたいならば、罪の問題を解決すること。キリストにより罪から解放されることが、必要です。雅歌は、いかに罪から解放されるか、いかに祝福された夫婦関係を持つのかについては沈黙していますが、祝福された夫婦関係がどのようなものか提示しているのです。
一般的に(少なくとも現代の日本では)、相手への興味、関心は結婚前が最も強くなり、結婚してからは減るものとして語られます。しかし、雅歌を読みますと、そのような考え方は聖書的ではないようです。

 雅歌の終わりに出てくる言葉が印象的です。
 雅歌8章6節~7節
「私を封印のようにあなたの心臓の上に、封印のようにあなたの腕につけてください。愛は死のように強く、ねたみはよみのように激しいからです。その炎は火の炎、すさまじい炎です。大水もその愛を消すことができません。洪水も押し流すことができません。もし、人が愛を得ようとして、自分の財産をことごとく与えても、ただのさげすみしか得られません。」

 封印のように、解かれないものとして、あなたとともにいたい。あなたへの愛は、死のように強く、凄まじい炎であり、大水でも洪水でも消すことが出来ず、金銀財宝でも買うことの出来ないもの。
 これ程の強い感情をもって結婚相手を愛することが、祝福の道として示されることに、驚きと戸惑いを覚えますが、とはいえこれが雅歌でした。
結婚相手に、強い関心を持つこと。自分にとってどれ程魅力的であるか伝えること。夫婦に許された性的関係を喜ぶこと。そのような夫婦として、歩んでいく道があること。そのような夫婦となる選択をするようにと、雅歌を通して教えられるのです。

 既に結婚している者は、聖書の示す一つの祝福の道として、雅歌に示されたような愛し合う喜びを味わう結婚生活を選ぶことが出来ますように。これから結婚する者は、結婚への備えの一つとして、雅歌を読むことが出来ますように。結婚相手を、死別、離別した者は、結婚を通して頂いた恵みを感謝する時として、雅歌が用いられますように。よく考えた上で、結婚しない決意をしている者は、聖書の世界観を身に付ける機会、聖書の広さを味わう機会として、雅歌を読むことが出来ますように。

 私たち皆で、聖書を読む恵みを味わいたいと思います。

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