2016年3月6日日曜日

マタイの福音書5章10節~12節「山上の説教(8)~義のために迫害されている者は~」


私たちはイエス・キリストが故郷ガリラヤの山で語られた説教、いわゆる山上の説教を読み進めています。山上の説教は聖書に残されたイエス様の説教の中で最も有名なもの。「右の頬を打つ者には左の頬も向けよ」「豚に真珠」など一般的にも親しまれている名言、名句の宝庫でもあります。

この山上の説教を一つの建物に譬えるとすれば、その入口にあたるのが幸福の使信です。「心の貧しい人は幸いです」に始まり「義のために迫害されている者は幸いです」で終わっていますので、八福の教えとも呼ばれてきました。

ここには、イエス・キリストを信じた人の生き方、その姿が八つの面から描かれています。今までそのうちの七つを確かめてきました。即ち、神様の前に自分には何一つ良いものがなく、神様に信頼することしかできないと認めている心貧しい人。自分とこの世界の罪を心から悲しんでいる、悲しみの人。また、神様に愛される価値のない罪人の自分がいかに神様に良くしてもらっているかを覚え、へりくだった態度で生きる柔和な人。神様に喜ばれる義しい生き方を徹底的に追い求める義に飢え渇く人。神様のあわれみを受けた者として、他の人にもあわれみ深く接するあわれみ深い人。罪に汚れた心をきよくしてもらった心のきよい人。そして、平和をつくる人でした。

しかし、同時にこの八福の教えは,イエス様を信じる私たちが生涯をかけて目指す生き方、理想の姿でもあります。例えば、私たちは平和を造る者として生きることを願い、実践しますが、なかなか上手く行かないことが多いのではないでしょうか。平和をつくる者として生きることを忘れる程、強い怒りに捕われてしまうこともあるかと思います。

植物に譬えれば、私たちの内にある平和を造る能力は小さな芽の様なもの。確かに平和を造る者としての恵みを頂いていますが、さらに神様の助けをお借りして、この様な生き方を実践し、深め、平和を造る者として成長してゆく必要があるわけです。

同じことが他の教えにも当てはまるのですが、それでは、何故私たちはこの様な生き方を追い求めてゆくことができるのでしょうか。それは、神様が私たちを最終的に八福の教えに示された生き方ができる者、ことばを代えればキリストに似た者へと造り変えてくださることを約束し、保証してくださっているからです。

 

Ⅰヨハネ3:2,3「愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。」

 

罪深い私たちをキリスト似た者、きよい者へと造り変えてくださる神様を心から信頼し、安心しつつ、自らも八福の教えに取り組み続ける。それが、イエス様を信じる者の生き方であることを確認しておきたいと思います。

さて、私たちは「幸いな人」の姿をこれまで七つ見てきましたが、今日はいよいよ最後、第八番目の姿を見ることになります。

 

5:10「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」

 

 幸いな人の八番目の姿、それは意外にも「義のために迫害される」と言うものでした。イエス様を信じる私たちは「義のために迫害される」者となると言われるのです。

 八福の教えには私たちを驚かせるものがあり、「心の貧しい者は幸い」「悲しむ者は幸い」など、その様な状態にあって幸福を感じる人はいないだろうと思える教えが幾つかありました。しかし、この結びのことばには、一際驚かされます。

 迫害され、苦しめられて幸せだと言う人はいないでしょう。誰もが他の人々と平和にやってゆきたいと考えるはずです。しかし、昔から義に生きる人は迫害されると言う例は少なくありませんでした。

 聖書に記録された最初の殺人は、兄カインによる弟アベルへの迫害です。モーセは同胞イスラエルの民を救出しようとしてエジプト人の敵意に直面し、同胞からも攻撃されました。戦いに勝利したダビデはサウル王に妬まれました。心から仕えていた王によって執拗に命を狙われ、身も心もすり減らしたのです。忠実に仕える王ネブカデネザルが金の像を造り、それを拝めとの法律を定めた際、拝むことを拒んだダニエルは燃える炉に投げ込まれました。

 義のために迫害される。果たしてそんなことがあって良いのかと私たちは考えます。義しい行いは賞賛され、その様な人は尊敬されることはあっても、迫害など受けるはずがない。そう思えるところ、いやそう思いたいところですが、現実は逆とイエス様は語るのです。

 怠け者は一生懸命に生きる者を妬みます。悪に耽る者は義を実行しようと努める者の足を引っ張ります。罪ある者はイエス様を憎み、それゆえにイエス様を信じる者を憎むと言うのです。イエス様はこの世がいかに神様に背くものかを見抜いておられました。

 神様のみこころに従って生きる。イエス様とともに生きる。だからこそ疎んじられ、批判され、苦しめられることがあります。イエス様を信じたら良いことしか起こらない。万事物事が上手くゆき、人間関係も順調そのもの。もし、そうだとしたら、誰もが喜んでクリスチャンになるのかもしれません。

 ところが、イエス様は反対のことを言われる。イエス様を信じ、神様のみこころに従って生きようと努めた結果、迫害されることがあるとはっきり教えているのです。私たちはこのことばをどう受けとめたら良いのでしょうか。

 イエス・キリストを信じる者は、神様に従って生きるのか、それともこの世と妥協するのか。どちらかの選択を迫られることがあります。ですから「義のために迫害されるものは幸い」とのことばは、私たちの心を深く探るのです。

 これまでの歩みを振り変える時、果たして自分は義のために迫害されると言うことがあっただろうか。神様に従って生きることより、イエス様とともに生きることより、隣人の批判や世間の冷たい視線を恐れ、妥協する歩みとなってはいなかったか。このことばは、そう私たちの心に問いかけてきます。

 パウロとシラスがピリピの町で伝道していた時のこと。悪い霊に取りつかれていた可哀想な女性を二人が助けました。彼女を占い師として利用しこき使っていた主人が儲けが減ったことを恨み、嘘の証言で二人を訴えたため、彼らは鞭打たれ、投獄され、足かせをはめられると言う苦しみを受けることになったのです。

 それでは、義を行ったために迫害された二人が不満をこぼし、恨み言を吐き出していたのかと言うと、さにあらず。真夜中の獄中で、彼らは神様に祈り、賛美していたと言うのです。

 

 使徒16:25「真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。」

 

 あわれな女性を助けるという義を行ったため苦難を受けた男たちが不満や恨みを口にするどころか、神様を喜び、賛美していたと言うのですから、聞き入っていた囚人たちも驚いたことでしょう。まさに「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」と言うことばをそのまま実践している姿です。

義のために苦しめられた。それをもって神様の子どもとされたこと、天の御国を与えられたことを確認し、パウロとシラスが喜びを味わっている様子が目に浮かんできます。この様な生き方がキリスト教に人々の心を惹きつけ、イエス様を信じる人々が起こされる機会となったことは言うまでもありません。

勿論、クリスチャンが受ける迫害はこの時だけではありませんでした。キリスト教の歴史の中で、クリスチャンたちは様々な形で迫害を受けてきたのです。また、迫害は過去の歴史ではありません。特に21世紀は迫害の時代と言われます。歴史上、迫害に苦しむクリスチャンが最も多い世紀だったのです。今も、私たちの想像を絶する苦難の中、信仰を貫いて歩む宣教師や兄弟姉妹がどれだけいることでしょうか。

この地上で迫害の中に置かれても、神様に愛されている子どもであること、天の御国を受け継ぐ者であることを喜ぶ。それが、クリスチャンの歩み、私たちの生き方なのだと教えられます。

 但し、念のためですが、イエス様は「迫害に会いさえすれば幸いです」とは教えていません。「義のために」と言う条件が付いていました。つまり、神様のみこころに従って生きたその結果として批判されたり、苦しめられたりするなら、喜びなさいと言われるのです。

 個人的な失敗や怠慢、強情やわがままのために他人から叱責されても、このことばを持って喜ぶことはできないでしょう。

 また、私たちの応答の仕方も大切です。先回、イエス様を信じる者は平和を造る者として生きるようになることを確認しました。ですから、人から批判され、冷たく扱われ、苦しめられても、本当に難しいことですが私たちはあくまでも平和を造る者として応答することを目指すべきなのです。

 

 ローマ12:18~21「あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」

 

 「自分で復讐してはいけない」とは、怒りの感情に支配されて言われたら言い返したい、やられたらやり返したいと言う、私たちが持つ罪の性質を戒めることばです。たとえ相手の言動が悪であり、自分に非はなくても、相手に対するさばきは神様に委ねること、神様の子とされた私たちは相手が飢えているなら食べさせ、渇いているなら飲ませる、つまり敵の必要を満たすための親切な行いで反撃せよと言う勧めです。

 不当な苦しみを受けた時、天の御国をうけつぐ者とされたことを確認し喜ぶことは、私たちにとって祝福です。その喜びその自覚が、「善をもって悪に勝つ」と言う神様の子どもとしてふさわしい行動に私たちを導く力の源であることを、心に刻みたいと思います。

 ところで、この最後第八の教えは、他の教えの様に1節で終わりではありませんでした。さらにイエス様のことばが続きます。

 

 5:11,12「わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。」

 

 今までは、「心の貧しい人は幸いです。」と言う風に、一般的な表現でイエス様は語ってこられました。しかし、ここにきて、弟子たちに面と向かい、体を近づける様にして「あなたがたは幸いです。天においてあなたがたの報いは大きいのだから」と、彼らを直に励ます姿勢を取っておられます。

 ご自分に従う者がやがて受けることになる苦しみを思い、心を痛めながら、懸命に弟子たちを励ますイエス様の姿を眼に浮かべたいところ。ご自分に従う者が迫害を受けることを誰よりも心配し、心を痛め、熱いまなざしを注ぐイエス様の愛を私たち覚えたいところです。

 さらに、「あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。」と言われたことも意味深く感じます。イエス様は、「義のために迫害されるのは決してあなたがただけではないのだよ。同じ苦しみと喜びを経験した信仰の仲間が沢山いるのだからね」と語りかけておられておられるようです。

 私たち人間にとって肉体的精神的苦しみそのものよりも、自分が経験している苦しみを誰も見ていてはくれない、誰も分かってはくれない、誰も受けとめてくれないと感じる孤独感の方がより苦しいと言われます。

 神様は私たちを交わりの中に生きるよう創造しました。私たちは自分が愛し合う交わりの中にいると感じられない時、非常に弱い者です。孤独の苦しみは私たちを肉体的精神的苦しみに耐える力を持つことができない状態へと追いやるのです。

 ですから、イエス様は私たちが信仰のゆえに苦しむ時、決して一人ではないこと、私たちの苦しみを思い、我がことの様に心痛めるイエス様がともにおれれること、苦しみを分かち合える信仰の仲間がいることを思い起こすようにと励ましておられます。

 私たちにはイエス様と愛の交わりがあること、同じ苦しみと喜びを経験した兄弟姉妹との交わりがあること、その二つの交わりは決してなくならないことを心にとめたいと思います。この二つの交わりに支えられて、神様のみ心を知り、従い続ける生き方を目指したいと思うのです。今日の聖句です。

 

 ローマ12:2「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」

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