2016年3月13日日曜日

マタイの福音書5章13節~16節「山上の説教(9)~地の塩、世界の光~」


私たちはイエス・キリストが故郷ガリラヤの山で語られた説教、いわゆる山上の説教を読み進めています。山上の説教はイエス様の説教の中で最も有名なもの。「右の頬を打つ者には左の頬も向けよ」「豚に真珠」など、聖書を手にしたことのない人にも親しまれている名言の宝庫でした。

山上の説教を一つの建物に譬えるとすれば、その入口にあたるのが幸福の使信です。「心の貧しい人は幸いです」に始まり「義のために迫害されている者は幸いです」で終わっていますので、八福の教えとも呼ばれています。

ここには、イエス様を信じる人の姿が八つの面から描かれていますが、私たちはひとつひとつ確かめてきました。即ち、神様の前に自分には何一つ良いものがなく、イエス様による罪の赦しに信頼することしかできないと認めている心の貧しい人。自分の罪を心から悲しむ、悲しみの人。また、自分の罪がいかに深いかを覚え、へりくだった態度で生きる柔和な人。神様の喜ばれる義しい生き方を追い求める義に飢え渇く人。神様のあわれみを受けた者として、他の人にもあわれみをもって接するあわれみ深い人。罪に汚れた心をきよくしてもらった心のきよい人。神様との平和を与えられているがゆえに、自らも他の人との平和な関係につとめる、平和をつくる人。最後は義のために迫害されたら、それをもって天の御国を与えられていると確認し、喜ぶ人でした。

イエス様を信じる私たちは、今既にこの様に生きることのできる恵みを頂いています。しかし、同時に私たちはこの八つの姿を目標とし、生涯かけて求め続ける者であることも確認することができたかと思います。

さて、今日の箇所は新しい段落となります。ここで、イエス様はご自分を信じる者、私たちのことを「地の塩、世界の光」と呼んでいます。つまり、私たちクリスチャンとこの世界の関係、私たちががこの地上、この世界に生きる意味が教えられているところです。

皆様は、イエス様を信じる者が何のためにこの世界に生きているのか考えたことがあるでしょうか。神様がどのような思いで私たちをこの地上に生かしておられるのかを心にとめながら日々歩んでいるでしょうか。

私たちはイエス様を信じて罪を赦され、神の子とされ、救いの平安を頂いています。死後の復活と天国での生活を確信しています。信仰は私たちの人生に大きな変化もたらしました。しかし、ここでイエス様は、イエス様を信じることが個人的な救い、心の平安にとどまるものではないことを教えているのです。

昔も今も、塩と光は人間の生活にとって欠かすことのできないもの。勿論、他にも欠かすことのできないものは多くありますが、イエス様の時代の人々にとって塩と光は生活に必要不可欠なものとしてとても身近なものでした。

ですから、「あなたがたは地の塩、世界の光」と言われた時、イエス様はご自分を信じる者たちの存在が世界にとって必要不可欠で大切なものであると宣言しているのです。

この世界には様々な人間の組織、団体があります。教育に携わる学校、病を癒すための病院、人々の生活に必要なものを作ったり、交通、運搬の手段を提供する会社、治安を守る警察や裁判所、国全体を治める政府等々、それぞれが大切な働きを担っています。けれども、それらの中でイエス様が最も大切と考え、特別な思いを寄せておられるのは神様が集めた人々の群れ、神の民、イエス・キリストを信じる者の集まり、私たち教会なのです。皆様はこの様な視点で、自分の信仰生活の意味を考えたことがあるでしょうか。

それでは、イエス様は私たちにどの様な期待を寄せておられるのか。具体的に見てゆきたいと思います。

 

5:13「あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。」

 

塩が肉や魚等食べ物の腐敗を防ぐ働きをもつことはよく知られています。生の魚や肉に塩をまぶしたり、塩漬けにすることで腐敗を防ぎ、保存することを昔から人々は行ってきました。イエス様は私たちの存在がこの世に蔓延る汚れや悪習を抑制することを期待し、「あなたがたは地の塩」と言われたのです。

私の大学時代の先輩は会社の上司の影響でクリスチャンになりました。働き始めて三年が経った頃、先輩は上司のある行動に気がついたのだそうです。それは、会社帰りに仲間同士立ち寄る店で所謂男同士の下品な会話が始まると、その人は顔を下に向けて黙っているか、その場を離れて行くと言う行動です。

ある時その理由を尋ねると、「いやあ、申し訳ないんだけれど自分はそういう話が苦手で、そんな私がその場にいると他の人の邪魔にならないかと思って遠慮しているんです」と答えたそうです。実は先輩自身もその様な場に居づらい気持ちを抱いていたのと、上司の立ち居振る舞いにも共感したので、ある時、自分達夫婦の問題で相談したのだそうです。

すると、「自分は男として外で働いているのだから、奥さんが家事や育児をするのは当たり前という態度はよくない。自分のできない部分を良くやってくれていることを思い、感謝を具体的に表すことが大切」とか「奥さんに仕えることを求める前に、自分が仕えやすい夫になるにはどうしたらよいかを考えると良い」等、それまで聞いてきたのとは一味もふた味も違うアドバイスをされ、それを実行して随分夫婦の関係も良くなったのだそうです。

それで、「課長はそういう考え方をどうやって身につけたのですか」と尋ねると、その時上司が「私の考え方と行動は聖書に全部あるんだよ」と語り、クリスチャンであることを明かしてくれました。成る程と今までの上司の言動に納得した先輩はこれをきっかけに聖書を読み始め、イエス・キリストを信じる者となったということです。

さらに、塩は食べ物本来の味を引き出すと言う特徴があります。ある集会で南米の小さな国に宣教師として派遣されていた方が話してくれたのですが、その宣教師はある時塩を全部使い切ってしまい、日本から送られてくる塩を心待ちにしていたことがありました。その時、塩抜きの食事がいかに味気ないものか、嫌という程体験したそうです。

そして、待ちわびていた塩が届き、ご飯に塩を振りかけて食べた時の美味しさが何とも言えず、忘れられないと証ししてくれました。

私たちも同じ働きをすることができます。自分にあるものを提供することで、気落ちしている人を励ますことで、一人寂しさを感じている人と交わることで、悩む人の話を聞いてその重荷をともに負うことで、あるいはその人のために祈ることで、相手の人が本来持っている生きる力、立ち上がる力を引き出すことができるように思います。

この世の汚れ、悪習を抑制すること、周りの人々の中に眠っている活力を引き出すこと。地の塩として私たちの働きは非常に大きいことを覚えさせられます。

そして、イエス様は「あなたがたは世界の光です。」と語り続けます。

5:14,15「あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。」

 

「山の上にある町は隠れることができない」とは一般的な表現かもしれませんが、ユダヤの都エルサレムを指していた可能性もあります。何故なら、都エルサレムはシオンの山の上に建つ町で、旅人達は遠くからでもそれを目当てに歩くことができました。

また、あかりを枡の下に置くと言うのは、当時のユダヤの家ではよく行われていたことの様です。その頃庶民は小さな窓が一つだけの暗い家に住んでいました。よく使用されていたランプは深皿に油が一杯入った中にシンが一本浮いているタイプであったため、一旦火が消えると再度つけるのは容易なことではなかったのです。そのため、外出する際には火が消えてしまわない様、同時に用心のため、火がついたままのランプを土でできた枡の上に固定しておいたと言われます。

しかし、帰宅したら、人々は当然枡の下に置かれたランプは燭台の上に置くことになります。人々に見られ、人々を照らすのがランプの役割でしたから。イエス様は、私たちもこの世の人々に見られ、人々を照らすために存在していると教えているのです。

それでは、イエス様を信じる者が人々に見られ、人々を照らすとは、具体的にどのようなことなのでしょうか。

 

5:16「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」

 

「あなたがたの光を人々の前で輝かせよ」とイエス様は命じています。人々の前でとは、家庭、職場、学校、地域などこの世でということです。このことばは私たちの心を探ります。

私の信仰は礼拝、賛美、奉仕、祈り、献金など、教会のなかだけで認められるものではなかったか。この世の生活の中で、私はキリスト教信仰をどのように表してきたのか。私たち皆が振り返るべき言葉ではないかと思います。

家庭における配偶者や子供に対する態度は支配的で、わがままではなかったかどうか。買い物や食事に出かけた店で、店員に対する態度は横柄ではなかったか。職場の部下のちょっとしたミスに腹を立て、必要以上に怒りを向けたことはないか。同僚や上司に対して尊敬を示し、協力的であったか。

イエス・キリストを知らない人々にとっては、ことばで伝える福音以上に私たちの生活と態度がキリスト教のすべてとみられることになります。

自己中心的な隣人の中にもあわれみ深く接する。嫌なことを言ってくる人、してくる人に言い返す、やり返すのではなく、柔和な態度で応じる。攻撃的な言動で責めてくる人に対しては、あくまでも平和を造ることにつとめる。

私たちは教会と同じく、この世のどこにいてもイエス・キリストを信じる者として、あの八福の教えにある通り振る舞うよう求められていることを覚えたいのです。

さらに心にとめたいのは、ここで「良い行い」と言われている「良い」には、「正しい、善い」と言う意味と「人々の心を惹きつける、魅力的な」と言う意味があると言うことです。

宗教改革者のルターは「水をくみ、皿を洗い、赤ん坊をあやし、ベッドを整えることは、キリストにある仕事で聖なるつとめである」と言いました。もし、私たちがそれら日常的な仕事を嫌々、重い義務の様に果たしているとしたら、周りの人はその様な私たちの存在に魅力を感じるでしょうか。どの様な会話にも聖書の話を持ち出す癖に、仕事に対し勤勉でも、協力的でもないクリスシャンは、人々にとって不愉快ではないでしょうか。

為すべき働きが何であろうと、勤勉に、朗らかに、他者を配慮しつつ働くように召されているのが、私たち神の民です。小さな事であろうと大きな事であろうと為すべきことを勤勉に、明るく、きちんとこなすクリスチャンは千のことばにもまさる証し人なのです。大人にも子どもにも、男性にも女性にも、気難しい人にも、キリスト教反対論者にも柔和に仕える人の生き方は周りの人にキリスト教が魅力的なものと感じさせる力がある様に思われます。

この世の人々は、私たちの行動を見て、クリスチャンが信じている神様とはどのようなお方なのかを思い、神様の存在に心を向けるのです。それを指してイエス様は「人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい」と教えているのです。

良い行いをすること、神様のみ心に従うことが私たちの喜びであり。神様がこの世の人々に素晴らしいお方と認められることが私たちの最大の願いであるなら、このことばはイエス様からの励ましとして心に響いてきます。

最後に確認したいことが二つあります。ひとつめは、イエス様が私たちを地の塩、世界の光と呼び、この世に必要不可欠なものとしたのは、私たちがこの世を祝福するために生かされているからです。私たちが地の塩、世界の光として正しく行動する時、この世の人々は大きな影響を受けます。私たちを通して神様の祝福を受け取るのです。

人々は学校教育を通して知識を受け取ります。病院を通して癒し、健康回復を受けとります。様々な会社を通して生活に必要なものを受け取ります。しかし、この世界を創造した神様の祝福を人々が受け取れるのは、私たちを通してだけなのです。

二つ目は、人々が天の父に心を向けるような良い行いをなす力を、私たちはイエス様から受け取ると言うことです。今日の聖句です。

 

ヨハネ8:12「イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」

 

 イエス様と私たちの関係は太陽と月の関係に譬えられます。月は自ら光り輝くことができない存在ですが、太陽の光を受ける時、それを反射し輝くことができます。同じく、私たちもイエス様との交わりの中を歩む時、いのちの光を持つことができると約束されています。イエス様の十字架の愛に憩い、イエス様がいつもともにおられることを覚えること。イエス様のみことばを聞き、イエス様だったらどう行動するのかよく考えること。この様なイエス様との交わりから、私たちはこの世を祝福する力を頂くことができるのです。

 私たちは皆この世界に必要不可欠な地の塩、世界の光として生かされていることを自覚したいと思います。罪に腐敗している世、暗闇の世界に生きる人々を祝福する者として生きる様にと言うイエス様のご期待を背中に感じながら、日々歩む者でありたいと思うのです。

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