2016年2月21日日曜日

ダニエル書2章20節~23節「一書説教 ダニエル書~苦難の中で~」


この世界の創り主を認めない、信じないで生きる時、生きる理由、目的を見定めることは非常に難しいこと。現代の多くの人が、生きる理由を考えることなく、生きていると思います。罪の一つの症状は、生きる目的が分からない。あるいは、そうすべきないことを生きる目的にしてしまうことでした。

世界の創り主を認め、キリストを信じた私たちは、今の時代、この地域で生きていることに、私たちに対する神様の目的があること。生きる目的、果たすべき使命は、自分で決めるのではなく、神様が与えて下さるものだと知りました。大きく言えば、私たちの生きる目的は、神様の素晴らしさをあらわし、神様を喜ぶこと。世界を祝福する使命です。

それでは、その生きる目的や使命を果たすために、具体的にどのように生きたら良いのか。それぞれ遣わされた場所で、一日をどのように使うのか。私たちは、祈りと御言葉(聖書を読む)を通して考えます。祈り、聖書を読み、それでもどのように生きるのか具体的なことは分からないことが多いですが、この地上での歩みが続く限り、繰り返し祈りと御言葉に取り組むのが私たちです。

一生涯かけて、聖書を読むことに熟練した者になりたい。私たち皆、毎日の生活の中で、聖書を身近に味わいたいと願い、断続的にですが一書説教に取り組んでいます。今日は第二十八回目の一書説教。扱うのは、旧約聖書第二十八の巻、ダニエル書です。

 国が亡びる大苦難の最中にあって、政治家であり預言者であるダニエルの言葉を読むことになります。毎回のことですが、一書説教の際には、扱われた書を読むことをお勧めいたします。一書説教が進むにつれて、教会の皆で聖書を読み進めるという恵みにあずかりたいと思います。

 

 まずはダニエル書の背景にあたるイスラエル民族の歴史を簡単に確認します。神様を無視して生きる人間が増え広がる世界にあって、人間のあるべき生き方を示す使命が「神の民」に与えられます。その「神の民」に選ばれたのが、アブラハムとその子孫。

 アブラハムの子孫は、イスラエル民族と呼ばれ、カナン(現在のパレスチナ)の地で、国家として成長します。ダビデ王、ソロモン王の時代、イスラエル王国は大繁栄をしますが、その後、王国が南北に分裂。

南北に分かれたアブラハムの子孫、神の民は、それぞれの歴史を歩むことになります。ところで、「神の民」として選ばれた者たちが、その使命を果たさない時。つまり神様を信じ、神様に従う生き方を止め、異教の神々、本来神でないものを拝するようになった時、裁きが下されるのですが、先に決定的な裁きが下されるのが、北王国。アッシリアに滅ぼされ、北イスラエルは民族としてのアイデンティティを失います。非常に残念な歴史。その後、神の民として残された南ユダは、国家として衰弱していき、最後にはバビロンに敗北します。

 南ユダの終末期。バビロンに敗北を繰り返しますが、その都度、財宝を奪われ、人も連れ去れます。大きく分けて三回。一回目の捕囚にて、ダニエルが連れて行かれ、二回目の捕囚でエゼキエルが。三回目の捕囚で神殿が破壊される決定的なバビロン捕囚となる。

 この時代、南ユダに残り活動したのがエレミヤ。バビロンに連れて行かれ民衆の中で預言者活動をしたのがエゼキエル。バビロンにて高い地位を得て活躍したのがダニエルとなります。

 ダニエルがどのような人物であったのか。次のように記されています。

 ダニエル1章3~4節、17節

王は宦官の長アシュペナズに命じて、イスラエル人の中から、王族か貴族を数人選んで連れて来させた。その少年たちは、身に何の欠陥もなく、容姿は美しく、あらゆる知恵に秀で、知識に富み、思慮深く、王の宮廷に仕えるにふさわしい者であり、また、カルデヤ人の文学とことばとを教えるにふさわしい者であった。

神はこの四人の少年に、知識と、あらゆる文学を悟る力と知恵を与えられた。ダニエルは、すべての幻と夢とを解くことができた。

 

 王族、貴族の子ども。バビロンの王に仕えるのに相応しいと選ばれた少年。才色兼備の逸材。その信仰心も素晴らしく、神様はダニエルと友人たちに、特別な力を与えられたと記されています。その結果、バビロンの王に重宝され、支配国がペルシャに移った後も高い地位に就くことになる。奴隷の身でありながら、支配国の王に多大な影響を与えることになる人物。いかに神様に祝され、用いられた人物であったか分かります。その知恵も、高い地位も、自分のために用いるのではなく、神の民として相応しく用いることが出来た信仰者。大変魅力的。多くの人に愛され人物、日本のクリスチャンネームとして、ダニエルにあやかり「だん」と名付けられる人もいます。

 

全十二章のダニエル書ですが、丁度半分で分けることが出来、前半六章が歴史的記録。後半六章が、主に預言に関すること。

ダニエルは「すべての幻と夢とを解くことが出来た。」と言われていますが、前半の歴史的記録においても、後半の預言の箇所においても、幻や夢が多く出てきます。幻や夢にまつわる記述が多いことが、ダニエル書の一つの特徴となります。

 前半から概観していきます。教会学校などでもよく扱われる有名なエピソードがいくつも記録される箇所。

 一章は少年ダニエルがバビロンに連れて行かれ、王に仕える者として養育される記録。この時、旧約聖書が禁じているものは食べたくないとし、水と野菜だけを求めるダニエル。その上で、他の者たちよりも、健康であったと言います。奴隷として連れて行かれた地で、本気で聖書に従おうと生きたダニエル。その思いに、神様が応えて下さった場面。

 二章は大王ネブカデネザルが国中の知恵者を集め、自分の夢を解き明かせと命じる場面。とはいえ、夢の解き明かしなど何とでも言えるとして、本当にその者が解き明かしの力があるかどうかは、自分の見た夢を言い当てるようにと言うのです。誰もその夢を言い当てることが出来ない中で、ダニエルは王の見た夢を言い当て、その解き明かしをした記録。

 三章はネブカデネザル王が自分の巨大な黄金像を建て、それを拝むように迫る中、ダニエルの三人の友人が拝まなかったという場面。(この章では、ダニエルは登場しません。)王は怒り狂い、その三人を炎の中に投げ入れて殺すようにと命じるも、三人とも死なないどころか、服も燃えなかったという場面。大奇跡でした。

 四章は、再度、ネブカデネザルが見た夢の解き明かしの記録。ダニエルの夢の解き明かしを通して忠告を受けるも、変わらずに高ぶった王は理性を失い、しばらく獣のようになったという珍事。やがて理性を取り戻した王は、今さらながらに神様の主権を認めたと言われます。

 五章は時が進み、ベルシャツァル王の時代。王の宴会の最中に、宮殿に人の手の指が現れ、その壁に文字が記されたといいます。その文字を読み解ける者がいない中、ダニエルが解き明かし、ベルシャツァル王の治世が終わることを宣言。事実、その通りとなり、バビロンの時代から、ペルシャの時代へと移ります。

 

 ダニエル書の前半、歴史的記録の部分は、各章とも印象的、含蓄のある出来事だと思いますが、中でも六章は極めて印象的、有名であり、南ユダの人々にとって重要な出来事が記録されます。

ペルシャの王、ダリヨスが王となってすぐのこと。支配国が変わっても変わらず高い地位に就くダニエルを妬む者たちが現れます。権謀術策渦巻く中、何の落ち度も見いだせないダニエルを失墜させるため、提案された「三十日間、王以外に祈る者を獅子の穴に投げ込む」という法令。王はそれを認め、法令が成立する状況でダニエルは変わらず神様に祈ったと言います。

 ダニエルの祈りは、部屋の窓を開け、エルサレムへ向いて祈るもの。毎日、そのように祈っていたのです。

(何故、エルサレムを向いたのか。おそらくは、エルサレムの神殿が建てられた時、ソロモンの祈りが関係していると思います。第二歴代誌6章36節~39節参照。ダニエルからすれば約四百年前の祈り。しかし、まさにダニエルの状況であり、ソロモンの祈りに合わせて、ダニエルはエルサレムを向き祈っていたのだと思います。)

祈る時は窓を開けなければならないと聖書が教えているわけではありません。法令が出されている間、この三十日間は部屋の窓を閉めて祈れば良いのではないかと思うところ。しかしダニエルは部屋の窓を開けて祈ったため、それをとがめられ、獅子の穴に投げ込まれます。

 ところが、獅子の穴の中で、ダニエルは何の害も受けなかった。三章で三人の信仰者が炎から助け出されたのと同様、この時ダニエルは無傷のまま助け出され、この出来事を通して、ダリヨス王は次のように全土に宣言したと言います。

 ダニエル書6章25節~27節

そのとき、ダリヨス王は、全土に住むすべての諸民、諸国、諸国語の者たちに次のように書き送った。『あなたがたに平安が豊かにあるように。私は命令する。私の支配する国においてはどこででも、ダニエルの神の前に震え、おののけ。この方こそ生ける神。永遠に堅く立つ方。その国は滅びることなく、その主権はいつまでも続く。この方は人を救って解放し、天においても、地においてもしるしと奇蹟を行ない、獅子の力からダニエルを救い出された。』

 

 この出来事はダリヨス王の治世が始まってすぐの出来事。(具体的な年数は記されていませんが。)そして、ダリヨスの第二年というのは、南ユダの人々には重要な年でした。それは神殿再建が妨害されていたところから、神殿再建へ取り組み始めた時。

 エズラ記4章24節

こうして、エルサレムにある神の宮の工事は中止され、ペルシヤの王ダリヨスの治世の第二年まで中止された。

 

 妬みによって作られた法令。それでも、いつも通り祈るダニエル。その結果、獅子の穴に投げ込まれながら、奇跡的に助け出され、その姿を見た王が全土へダニエルの神を褒めたたえる宣言を出す。この出来事が、神殿再建へ影響を与えているように読めます。

 当然のこと、この出来事が神殿再建へ影響を与えるとダニエルが意識していたわけではないでしょう。ただ、信仰生活を大事にしていたというだけ。その一人の信仰者を通して、歴史を動かす神様の御手を見る箇所となります。

 

 以上が前半、歴史的記録となります。預言書の中では、比較的読みやすい箇所。七章から後半。幻による預言が多く出てきます。

 四つの獣の幻、雄羊と雄やぎの幻、七十週の預言、終末預言など。幻による預言のため、それが何を意味するのか。解釈が難しいところですが、その殆どがダニエルの時代からは未来の内容となります。

(解釈が難しいと言われますが、バビロン、ペルシャ、ギリシャ、ローマと続く支配者と、それにともなう苦難はよく示されています。ダニエルの時代からすればあまりに明確に未来のことが示されているため、聖書を神の言葉と信じない人たちは、ダニエル書自体、後代に書かれたものと受け止める程です。)

「永遠のいのち」という言葉が、聖書の中で最初に出てくるのがこのダニエル書の後半。人間は全て復活すること。永遠のいのちに復活する者と、永遠の忌みに復活する者がいることを明確に示すのも、ダニエル書の後半が最初です。ダニエルの預言によって、神学的思想が深まっているとも言えます。

 

 後半を読み、今回私が特に印象に残っているのは九章のダニエルの祈りです。

 ダニエル9章1節~3節

メディヤ族のアハシュエロスの子ダリヨスが、カルデヤ人の国の王となったその元年、すなわち、その治世の第一年に、私、ダニエルは、預言者エレミヤにあった主のことばによって、エルサレムの荒廃が終わるまでの年数が七十年であることを、文書によって悟った。そこで私は、顔を神である主に向けて祈り、断食をし、荒布を着、灰をかぶって、願い求めた。

 

 ダニエルがエレミヤの文書を読む。エルサレムで語られたエレミヤの言葉が、時と場所を越えて、ダニエルのもとに届く。ここにもドラマがあったと思います。エレミヤの文書によって、ダニエルはエルサレムの荒廃、神殿が破壊されたままになっている年数は七十年と知ります。

これがいつのことかと言えば、ダリヨスの元年のこと。これは神殿が破壊されてから、もうすぐ七十年になる時です。(六十五年目と考えられます。)ダニエルの人生は、少年の時から捕囚の地に来て、多くの苦難を味わいます。時には命の危険を味わいながらも信仰を守り通しました。よくぞここまで信仰を守り通し、神様に与えられた使命を果たしてきたと、誰もが認めるような歩みです。

ところがエレミヤの文書を読んだダニエルは、ここで悔い改めたと言います。断食し、荒布をまとい、灰をかぶり、悔い改める。(その悔い改めの内容は、個人的な悔い改めだけでなく、神の民を代表する祈りとなっています。)大知恵者、信仰の偉人、ダニエルの最晩年の姿が、悔い改めの人であったとは、私たちが神様の前でどのように生きるべきなのか如実に教えるものでした。

 

 以上、簡潔にですがダニエル書を概観しました。あとはそれぞれ、読んで頂きたいと思います。大苦難の最中、神の民はどのように生きるべきなのか。神様は信仰者をどのように取り扱われるのか。かつての出来事を読むので終わるのではなく、今の私たちは神様の前でどのように生きるべきなのか、意識しつつ読み進めたいと思います。

 最後に一つのことを確認して終わりにしたいと思います。二章の場面。ネブカデネザル王が、自分の見た夢を明かさずに、夢の解き明かしをするよう命令を発し、誰も解き明かせない状況。ここで仲間とともに神様に願い、その答えを示された時のダニエルの賛美の言葉です。

 ダニエル2章20節~23節

ダニエルはこう言った。『神の御名はとこしえからとこしえまでほむべきかな。知恵と力は神のもの。神は季節と時を変え、王を廃し、王を立て、知者には知恵を、理性のある者には知識を授けられる。神は、深くて測り知れないことも、隠されていることもあらわし、暗黒にあるものを知り、ご自身に光を宿す。私の先祖の神。私はあなたに感謝し、あなたを賛美します。あなたは私に知恵と力とを賜い、今、私たちがあなたにこいねがったことを私に知らせ、王のことを私たちに知らせてくださいました。』

 

 ダニエルは自分に与えられた力を、神様から頂いたものだと理解していました。その力は、自分のために用いるのではなく、神様の素晴らしさをあらわすため、世界を祝福するために用いるべきものだと理解していたことが分かります。

 自分に与えられた情熱、力、経験、人間関係。それらは神様が下ったもの。その力をどのように用いるのか。私たちは祈りと御言葉のうちに考える必要があります。何のために、この情熱が与えられたのか。何のための力なのか。何のための経験なのか。信仰の大先輩、ダニエルの姿をならいつつ、神様の素晴らしさをあらわすため、世界を祝福するために、私たちの人生を使うことが出来るようにと願います。

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