2016年3月27日日曜日

イースター礼拝 ヨハネの福音書11章25節、26節「よみがえりの主、いのちの主」


皆様は人間と他の動物の違いについてどのようなことを思いつくでしょうか。一般的には、ことばを使ってコミュニケーションすること、ルールや法律を作ること、遊ぶこと等が、他の動物にはない人間の特徴とされます。しかし、それに加え、死を恐れる、死後自分がどうなるのか想像する、死後の世界について論じる等、死について考えることも私たち人間の特徴とも言われます。

 私の祖母は私が小学校1年生の時、53歳で亡くなりました。おばあちゃん子であった私は祖母の枕元に座っていましたが、その姿が寂しそうに見えたのでしょうか。一人の叔父が「俊彦、おばあちゃんは仏様のいる極楽と言う良い所に行ったんだから、安心して良いんだよ。お盆になったらまた家に帰って来るよ」と慰めてくれました。

 その叔父は普段から「この世の中神も仏もいるものか」と言うのが口癖でした。それで周りにいた親戚の人が少し笑ったのと、私も子供心に「普段言っていることと違う」と感じたのを覚えています。

後から振り返ると、叔父にはおばあちゃん子の私を慰めたいと言う気持ちとともに、愛する母親の死に直面して極楽の存在にすがり、自分自身を納得させたいと言う思いがあったのではないかと想像します。

形あるものは壊れる。咲いた花は散る。そうした自然現象と同じように、人間が死に無になるのも自然なこと。普段はそう考えていたとしても、叔父の様に親しい者の死に直面すると悲しみが湧き死後の世界を思う。それが人間と言う存在ではないでしょうか。

古代エジプト人は死者が来世で生きることを願ってミイラを造り、日用品をも埋葬しました。その血を口にすると不死の命を授かると言うフェニックス伝説の類は至る所に残っています。日本でも「鶴は千年、亀は万年」と言い、不老不死の願いを表わしてきました。何故、人間は死後のいのちについて願い、考えてきたのでしょうか。

 

伝道者の書314「…神はまた人の心に永遠への思いを与えられた。」

 

この世界を創造した神様が、永遠への思いを人の心に与えた、植えつけた。皆様はこのことばをどう考えるでしょうか。

昔から様々な人々が死後の世界、死後のいのちはあるかないかを論じてきました。死後の世界はあると論じる者もいれば、それを否定する人もいる。未だ決着を見てはいません。しかし、時代を越え国を越え、人々が死後のいのちについて論じてきたと言う事実そのものが、神様が私たちの心に永遠への思いを与えられた証拠と考えられます。

親しい者の死に際して誰もが意識する死後の世界。不死鳥や不老不死の伝説に見られる死後のいのちへの願い。死後の世界がなければこの世を正しく生きることはできないとする信念。それでは、この様に人の心に永遠への思いを与えた神様は、死後の世界についてどの様に教えているのでしょうか。

ヨハネ1125,26「イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」

 

このことばは、愛する弟子ラザロが亡くなった時、ラザロの姉マルタに対してイエス様が語ったものです。弟の死を悲しむ姉が「イエス様、あなたがもっと早く来て癒してくださったら、弟は死なずにすんだでしょうに」と嘆く。すると、イエス様はそのマルタにこのことばを語られたのです。

「わたしは、よみがえりです。いのちです」とは、イエス様がこの後十字架に死に三日目に復活すること、それを通して人々にいのち、永遠のいのちを与える者となることを意味しています。そして、「わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」とは、イエス様を信じる者は肉体において死んだとしても、永遠のいのちを生きること、ことばを代えて言えば、死後復活し、天国で生活する者となるとの約束でした。

一般的には天国、聖書では天の御国と表現されていることばは、それがこの地上ではなく天にある国と言う風に誤解されているかもしれません。しかし、当時ユダヤ人は直接神と言うことばを使うのを恐れたため、神の国と言う代わりに天の御国と言い習わしていました。事実、聖書では神の国と呼ばれることも多くあります。

そして、神の国とは神様の支配を意味します。つまり、キリストを信じる者が死後行くことになる天国、神の国は神様の愛を受け入れ、神様のみこころに心から従う人々の住む国であり、その様な国がこの地上に到来すると、聖書は教えているのです。

しかし、天国は非常に豊かな世界で、様々な側面を持っていますので、聖書も様々な表現を用いています。今日はそのうちのいくつかをあげてみたいと思います。

先ずは、祝宴、パーティーです。ある集会で、私が「天国の祝宴でどんなご馳走が食べられるか。とても楽しみです」と言いましたら、ひとりの方が「先生、天国で私たちは肉体を持っていると言うことですか。霊ではないんですか。この地上にあるような食べ物が天国にもあると言うことですか」と尋ねられたのです。

そこで、私は言いました。「聖書は、キリストを信じる者が霊として復活するのではなく、霊的な体で復活すると教えています。霊的な体と言うのは病を患うことも、死ぬこともない体、どんなものも美味しく食べられる健康そのものの体です。イエス様も復活した時、弟子たちと焼いた魚を一緒に食べたではありませんか」と。

食いしん坊の私にとって天国のご馳走はもちろん楽しみです。しかし、祝宴はさらに天国での私たちの交わりがどんなに豊かなものかを伝えています。先ほど神の国とは、神様のみ心に従う人々の国と言いました。神様のみ心の中心は人を愛すること、人を喜ぶことです。ですから、天国の祝宴においては、世界中から集められた兄弟姉妹がお互いに愛し愛され、喜び喜ばれ、仕え仕えられる交わりが実現するのです。

次は、新天新地です。聖書は天国を地震など自然災害のない世界、荒れ果てたままの場所のない、豊かな自然が回復した世界として描いています。旧約聖書では、「荒野に水が湧き、花が咲き誇る」と言う様により具体的に語られていました。

さらに、天国は「天の故郷」とも呼ばれています。故郷は私たちにとって懐かしい場所です。慣れ親しんだものや人々のいる自分の居場所と感じられるところです。天国が故郷とは、私たちが地上で親しんだ人々と再会し、私たちが地上で慣れ親しんだ風景を心行くまで楽しむことができる世界を思わせます。

そして、最後に取り上げたいのは「神の都」です。都は人間が作りだした文化、文明の世界を指します。聖書に登場する都で有名なものの一つにバベルがあります。バベルの人々は大きな都を建設し、都の象徴として天にも届かんとする高い塔を建てました。

しかし、その塔には人々が自らを誇り、神様を否定すると言うメッセージが込められていました。「自分達はこの様な塔を作るほどの力を持っている。だから、神など要らない」。その様な思いが込められていたのです。

神様がこの町をさばき、人々を全地に散らされたこと、いわゆるバベルの塔事件を皆さまもご存知かと思います。しかし、神様が裁いたのは文明そのものではありません。人間が自分を誇り神様を否定する、その様な文明を裁かれたのです。

しかし、天国に存在するのは、神様の栄光を表わすようなすばらしい文明、多種多様な文化です。イエス様を信じる者はそこで生活し、その様な文化文明を作り出す働き人となる。神の都には、その様な天国の側面が込められていると考えられます。

神の国、祝宴、新天新地、天の故郷、神の都。イエス様が「わたしを信じる者は、死んでもいきるのです」と言われた世界、キリストを信じる者が生活する世界のイメージを思い描くことができたでしょうか。

一方、イエス様は「生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません」とも宣言されました。「決して死ぬことがない」の「死」とは肉体の死ではありません。聖書では永遠の死と呼ばれるもので、人々が罪を悔い改めて神様に立ち返る能力と機会を失ってしまった状態を指します。言い代えるなら、神様の愛を受けとる能力と機会を失った人々の住む世界、地獄とも呼ばれる世界です。

神様の愛を受けとることができない時、私たちの心がどんな酷い状態になるか。世界がどれ程悲惨な状態となるのか。それを私たちはこの地上でも経験しています。

どれ程物資的に豊かになっても、それを恵みと感じられないため心満たされず、物質欲に縛られる人々。愛し合う交わりよりも、争いと不和が絶えない世界。心に怒りと憎しみを抱えたまま、それを手放すことができない人々。繰り返し襲う天災に苦しめられる世界。自分の居場所を持たず、孤独の痛みに悩む人々。高度な文明はあっても、それを悪用するばかりで戦いと混乱の絶えない世界。

イエス様を信じない者が味わうことになる死、永遠の死とは、この様な悲惨な状態が今よりもさらに深刻になり、それが永遠に続く世界と考えられます。

果たして、イエス様が言われることは不公平でしょうか。そうではないと思います。イエス様を信じるとは、自分が罪人であることを認め、イエス様の十字架と復活に表わされた神様の愛を受けとりたいと願うことです。イエス様を信じないとは、自分が罪人であることを認めず、神様の愛など自分に必要ない、自分は自分の力で人生をやって行けると考えることです。

神様の愛を心から必要とする人は神様の愛に満ちた世界に行き、神様の愛は不必要と考える人は神様の愛のない世界へ行く。結局、私たちは自分の願う世界に進んで行くということです。自分自身がイエス様に対して選択した結果を、この地上でも死後においても受け取ると言うことなのです。

 

ヨハネ11:25,26「「イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」

 

「このことを信じますか」とのイエス様の問いかけは、私たち一人一人に向けられています。いや、これはむしろ永遠の死へと向かう選択をせず、永遠のいのちへと続く選択をして欲しいと願うイエス様の私たちに対する招きのことばとも聞こえてきます。

イエス様の復活と言う歴史の事実を祝うイースターの意味は、私たちがこの愛の招きに応え、イエス・キリストを信じる選択をすることではないかと思うのです。

最後に、死後の復活を確信すること、天国を思うことは、私たちのこ地上での生き方にどの様な影響があるのか考え、確認しておきたいと思います。

第一に、死後の復活と天国を確信することは、私たちが地上で味わう心と体の痛みを和らげてくれます。地上にある限り、私たちは罪と罪の結果から逃れることはできません。自分の罪と人から受ける罪によって心が痛みます。病によって体も痛みます。しかし、私たちに用意されている復活と天国に目を留めるなら、この地上でのあらゆる痛みは一時的なもの。痛みが和らぎ、忍耐しやすくなるのではないかと思います。

第二に、死後の復活と天国を思うことは、人生の優先順位を明確にします。この地上でしか意味のないものを追い求めることをやめ、天国にもってゆける本当に価値のあること、神様との親しい関係、家族や友人との深い交わり、隣人に対する愛のわざに私のたちの心と時間を向けることができるのです。

私たちは経済的豊かさを求める余り、心と行動が金銭に支配されてしまうことがあります。自分の願いや考えに固執するあまり、それを受け入れない相手に対する怒りに心が捕われてしまうこともあります。スケジュールを次から次へと詰め込んで、私たちにとって最も価値のある神様との交わりや、大切な人との和解に取り組むのは後回しということもあるのではないでしょうか。

その様な弱さを持つ私たちにとって、天国を思い、天国を慕い求めることは、人生の優先順位を整理し、最も価値なことに取り組む生き方へと導く力があることを心に刻みたいと思うのです。今日の聖句です。

 

ピリピ313,14「兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」

0 件のコメント:

コメントを投稿