2016年2月14日日曜日

マタイの福音書5章9節「山上の説教(7)~平和をつくる者は~」


私たちはイエス・キリストが故郷の山で語られた説教、いわゆる山上の説教を読み進めています。その冒頭、山上の説教を一つの建物に譬えれば入口にあたるのが幸福の使信です。「心の貧しい人は幸いです」に始まり「義のために迫害されている者は幸いです」で終わる八つのことばから成っていますので、八福の教えとも呼ばれてきました。

 元々は八つの教えのすべてが「幸いなるかな」と言うことばで始まっていまから、イエス様による幸福論と言えるでしょうか。イエス様が「人間として幸いなのはこの様な人ですよ」と、山上から声高らかに語られた姿を私たち眼に浮かべたいところです。

 八福の教えはキリストを信じる人の姿を様々な角度から描いています。キリストを信じる人はどの様な生き方ができるようになるのかを八つの側面から描いていると言っても良いでしょう。ですから、これを読むたびに私たちは自分の罪を示され、心探られます。と同時に、キリストを信じる者に与えられる恵み、祝福がいかに大きなものかを確認することができるのです。

 さて、今日私たちが見る幸いな人の姿は第七番目。「平和をつくる人」でした。

 

 5:9「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもとよばれるから。」

 

 先ず心を留めたいのは、イエス様が「平和をつくる者は幸い」と言われたことです。普通私たちは「平和な家庭に生まれた人は幸いです」と考えます。「平和な社会に暮らす人は幸いです」とも言うでしょう。しかし、イエス様は「平和をつくる者は幸い」と教えられました。何故でしょうか。

 平和は古今東西、誰からも望まれ期待されてきたものです。私の高校時代の友人は子どもに平和な人生を送って欲しいと願い、名前に平和の和の字を入れることに拘っていました。長男は和男、長女は和子、次女が和美で次男は和人。もし、五人目が生れたら何と名づけるつもりだったのか聞いてみたい気がします。

旧約聖書に非常に繁栄した王様として登場する有名なソロモンはその名が平和を意味していました。戦いに明け暮れた父ダビデ王が、これからの時代はわが子も国民も平和である様にと願い命名したのでしょう。日本やユダヤに限らず、平和を願い名をつけられた人は数多いと思われます。

いつの時代も、あらゆる人が願ってきた平和。しかし、人類の歴史を振り返る時、また現在の世界を見る時、平和とは遠くかけ離れた状態にあります。多くの人が指摘していることですが、歴史上戦争がない時代は皆無か、あったとしてもごく僅かと言われます。

20世紀は第一次世界大戦、第二次世界大戦と二つの悲惨な戦争を経験しました。戦後世界平和のため結成された国際連合も上手く機能せず、世界はアメリカを中心とした国とソ連を中心とした国に分かれ東西冷戦。コールドウォー、武器を使わない冷たい戦争と呼ばれる時代となります。ようやくベルリンの壁が崩れ、平和な世界が来ると期待されましたが、その後も戦争、内戦、弾圧、テロは絶えず、平和は遠のくばかりという気がします。

ここ70年戦争がない日本は、世界の中で見れば稀に見る平和な国と言えますが、殺人、強盗、いじめ、リンチ等のニュースは日々絶えることがありません。

何故、私たちの住む世界はどこもかしこもこの様な状態になってしまったのでしょうか。聖書は人間が神様に背いて以来、平和が失われたと教えています。

人類の先祖アダムとエバは神様に背いた時、最初に行ったのは夫婦喧嘩でした。二人の子どもカインは弟を妬み、殺してしまいます。カインの子孫レメクは立派な町を立てますが、そこは暴力が支配する恐ろしい場所でした。さらに時代が下ってノアの時代になると、世界中に暴虐が蔓延り、その余りの酷さに神様は大洪水をもって世界をさばくこととなります。

それでは、大洪水に懲りた人間が心を入れ替え世界は平和になったのかと言うと、さにあらず。人間の罪の酷さは相変わらずでしたが、神様が忍耐とあわれみによってこの世界を支え、守っていてくださるからこそ、人類の歴史は続いてきたと聖書は語るのです。

大は国と国との戦争、民族の対立、宗教紛争から、小は夫婦、親子、兄弟の争い、隣人との気まずい関係等々。この様に創造の最初、平和であった世界がそこから落ちて悲しむべき状態にあるのは、私たち人間の中にある罪に問題がある。これを自覚することが平和に取り組む上での大前提ではないかと思います。

イエス様は私たちの心にある罪が争い、対立を生むとずばり教えています。

 

マルコ7:20~23「…『人から出るもの、これが、人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、 これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。』」

 

何故、イエス様が「平和な世界に暮らす人は幸いです」ではなく、「平和をつくる者は幸い」と教えられたのか。それは、私たちの日常生活の中に争いの源である敵意、争い、欲望、ねたみ、悪口、高ぶりが絶えないからです。それと取り組むことなしに、平和な状態はありえないからです。

つまり、平和とは自然とそこにあるものではないということです。お互いに愛し合う平和な関係は、自動的に生まれてくるものではないということです。私たちが自分の罪と取り組み、作り出してゆくべきもの、それがイエス様の言う平和であることを心に刻みたいと思います。

それでは、平和をつくるため私たちは具体的にどうすれば良いと聖書は教えているでしょうか。第一は、争いを避けること、自分が争いのもととならないこと。その為にことばや態度を自制することです。

 

ヤコブ1:19「…だれでも聞くに早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。」

 

「語るには遅くしなさい」とはどういうことでしょうか。私たちは人に何か言われるとそれに言い返したいと言う思いに駆られます。それを言うことは自分の権利だと考える場合もあるでしょう。しかし、そうした感情に駆られて言いたいことを言って問題が解決したと言う経験があるでしょうか。殆どの場合、火に油を注ぐ如く、対立は深まることになるのです。

「語るには遅くしなさい」とは、その様な場合、相手に対する攻撃的なことばや態度を自制することです。もし、どうしても言いたいことがあるなら、どうしたら相手を責めることなく、自分の思いを伝えられるか神様の前で良く考えてから語るということなのです。

また、人に害を及ぼすことが分かっている場合には、第三者から聞いたことを別の人に漏らしたり、伝えたりしないこと。噂や悪口の伝え手にならないことです。旧約聖書の箴言にはこうあります。

 

箴言16:28「陰口をたたく者は親しい友を離れさせる。」

 

他方「聞くには早くしなさい」とはどういうことでしょうか。相手の思いやことばを聞く耳を持てということです。

一般的に怒りは起こった出来事とそれに対する解釈から起きると言われます。例えば、ある人が大切なミーティングの最中に眠そうでコックリコックリしていたとします。これを見て「集中力が足りない」とか「この仕事に不熱心だ」と解釈すれば、その人の心には怒りが湧いてきます。

しかし、私たちの見方、解釈はしばしば自己中心的ですから、そうする前に相手の思いを聞くよう、聖書は勧めているのです。この場合、もし相手に眠気の理由を尋ね、やむを得ぬ事情があることが分かれば、怒りは和らぎ相手を責める程の事ではないと心が落ち着きます。

感情的なことばや態度を自制すること、自分勝手な解釈で相手を責め対立の原因をつくるのではなく、相手の状態をよく聞き、理解する耳を持つこと。平和をつくる人とはこの様な人であることを覚えたいのです。

第二は、自ら進んで平和をつくりだす者になることです。イエス様は平和をつくりだすと言う行いが非常に大切であることを強く説いています。

 

マタイ5:23,24「だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。」

 

祭壇の上に供え物をささげるとは、今で言えば礼拝です。ここで言う兄弟は血の繋がった家族だけでなく、自分の知人、友人など近しい関係にある人すべてを指しています。

もとより、私たちにとって神様を礼拝することは最優先事項です。しかし、イエス様はたとえ大切な礼拝の途中であっても、仲たがいしている人、気まずい関係にある人のことを思い起こしたら、仲直りしにゆくよう命じているのです。

この場合、仲たがいの原因が自分の側にあるのか、相手の側にあるのかは語られていません。つまり、自分の側に非がある場合はもちろん、相手に非がある場合であっても自分の方から出向くべきだと言うのです。いかにイエス様が平和をつくるための行動を大切に考えておられたかを教えられるところです。

私たちの怒りは身近な人、家族や友人に向きやすいと言われます。深刻な争いや対立も、身近な人との間に生まれやすいのです。また、世界平和を願うこと唱えることは誰でもできますが、身近な人を愛し、平和な関係を築くことがいかに難しいか。皆様も感じることがあるのではないでしょうか。

神様が私たちに与えてくれた大切な人間関係を思い出してほしいと思います。夫、妻、親、子ども、教会の兄弟姉妹、先輩や後輩、地域の隣人。その中に、憎しみ、妬み、高慢、無関心など平和とは程遠い関係にある人はいないでしょうか。表立って言い合うことはないけれど、冷たい戦争状態と言う関係はないでしょうか。

自分としては身に覚えがあってもなくても、自分の言動で苦しんでいる人がいる。もし神様がその様な人の存在を示して下さったら、その人の苦しみを思い遣り、自分から近づき、心の思いを聞くこと。謝るべきことを謝り、伝えるべきことを伝えること。その人との平和をつくるためには何でもする。日常生活の中で目の前にいる人、神様が身近に置かれた人々と平和な関係をつくるべくつとめる。この様な生き方を私たち目指したいと思います。

さて、この様に平和をつくる人に対する祝福は何でしょうか。イエス様は「その人は神の子と呼ばれる」と言われました。ところで、平和をつくる人は、誰から神の子と呼ばれるのでしょうか。

一つは神様が私たちを神の子どもと呼んでくださると考えられます。イエス・きリストを信じる者はただそれだけで神の子とされる。これが聖書の教えです。しかし、ここで言われているのは、神の子となるではなく神の子と呼ばれることです。「呼ばれる」には「認められる、評価される、褒められる」と言う意味がありますから、平和をつくることにつとめる者は神様から認められ、褒められる。その様な祝福を頂けると言うのです。

世界を創造した全能の神が無に等しい私たちを、心からご自分の子と認め、喜び、褒めてくださる。人として最高の祝福であり、喜びと感じます。

更に周囲の人からそう呼ばれるとするなら、これも嬉しいことです。聖書で「~の子」と言う時、文字通りの親子関係ではなく「生き方や性質がある人、ある物に似ている人」と言う意味で使われる場合があります。この場合もそれに当てはまるとも考えられます。

平和をつくる働きを通して私たちが神の子ども、つまり平和の神に似ていると人と認められるとしたら、これも神様からの祝福ではないでしょうか。神様から平和をつくる者と認められる歩み、周りの人からも平和をつくる人として喜ばれる歩み。それが私たちにとって真に幸いな生き方であることを心にとめたいと思います。

最後に確認しておきたいことがあります。皆様もそう感じられたと思いますが、平和をつくると言う働きは到底自分ひとりでは為しえないものです。平和をつくる人は幸いと言われても、あなた一人で頑張りなさいと言われたら、誰でも尻込みをしてしまうでしょう。

しかし、安心してください。聖書はこの働きを私たちが神様とともに、また教会の兄弟姉妹とともに行うよう勧めているからです。

私たちが平和をつくる力はどこから来るのでしょうか。先ず、それは神様との平和から与えられます。皆様はキリストの十字架の死によって自分のあらゆる罪が赦され、最早神様が自分の罪を責めず、さばかず、愛する子どもとして受け入れてくださっていることを信じ、実感しているでしょうか。

神様と平和な関係にあるなら、平和をつくる働きに失敗しても失望したり、恐れたりすることはありません。平和の神がともにいてくださるからです。神様との平和、神様と安心できる関係にあることが、平和をつくる力の源であることを確認したいと思います。

また、兄弟姉妹との平和な関係も、大いなる助けです。自分の弱さを言える人。それを知ったうえで受け入れてくれる人、祈ってくれる人、アドバイスや励ましを与えてくれる人。私たちがその様な関係をつくってゆけるよう、神様は教会を建ててくださったのです。

 

ローマ12:17,18「だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。」

 

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