2015年12月27日日曜日

マタイの福音書5章7節「山上の説教(5)~あわれみ深い者は~」


ここ一か月、私たちは待降節とクリスマスの礼拝をささげ、イエス・キリスト誕生の意味をともに考えてきました。今日は再びマタイの福音書の山上の説教に戻り聖書が教える幸福論について学びたいと思うのです。

山上の説教からのお話しとしては五回目。イエス様が故郷ガリラヤの山から語られた説教の最初の部分にある「あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです」について考えてゆきます。

マタイの福音書5章1節から12節で、イエス様は八つのことを教えていますが、いずれも「幸いです」と言うことばで始まるため幸福の使信とか八福の教えと呼ばれてきました。今の日本語聖書はそうなっていないので、ちょっと分かりにくいかもしれません。昔の文語訳のように「幸いなるかな心の貧しき者。幸いなるかな悲しむ者、幸いなるかな柔和な者、幸いなるかな義に飢え渇く者、幸いなるかなあわれみある者…」と続く方が、実際にイエス様が語られた雰囲気を良く伝えています。

これら八つの教えを通して人間本来の最も幸いな生き方がここに教えられているわけですが、読んでいて気がつくのは、イエス様が考える私たちの幸せと私たちが感じる幸せ、幸福感とは随分異なるということです。

例えば、「悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです」とあります。これは自分の罪を悲しむ人は幸いと言う意味ですが、その人は本当に悲しんでいるわけで、いわゆる幸せな気持ちなど全く持てない状態にあります。それなのに、どうしてイエス様は幸いと考えているのでしょうか。

皆様二人の人を想像してください。ひとりは自分が深刻な病気に罹っていることを知り、悲しんでいる人。他方、同じ病気に罹っていながら、それに気がつかず楽しそうに笑っている人。どちらの人が幸いな状態にあるでしょうか。

勿論前者でしょう。自分の病気を知り悲しんでいる人は医者の所に行って癒されることができる。しかし、自分の病気に気がついていない人は医者に行くことを思いもせず、従って癒されることがない。非常に悲惨な状態にあるわけです。

イエス様が言われたのはこういう意味での幸いです。自分の罪を認め、自分の力では解決できないと思い悲しむ人はイエス様を求める。イエス様が自分の罪のため十字架に死んでくださったことを信じて慰められる。だから幸いなるかなと言われるのです。

さて、今日は八つのうち五番目の教えを扱いますが、これまでの四つの教えと五番目以降ではその内容に変化が見られます。

神様の前に心の思い、ことば、行動において多くの罪を持つ者、神様に愛される資格のない罪人であることを認める心の貧しい人。神様の前で罪に対して全く無力な自分を悲しむ人。神様の前で自分には頼りとすべきものが何一つないことを認める柔和な人。神様の前で自分は本当の義をもっていないと感じ、義に飢え渇く人。これまでイエス様は、神様との関係で私たちが自分を見つめた時にどうなるのかを教えてきました。

そして、今日の「あわれみ深い人は幸いです」から後では、神様との関係で自分をその様に感じている人が、隣人との関係においてどの様な態度、行動を示すようになるのかを教えておられるのです。

聖書は私たちの人生にとって神様との関係がどれほど重要なものか、繰り返し語っています。神様との関係が土台とすれば、隣人との関係はその上に立つ建物。土台がしっかりしていないと良い建物は建ちません。神様との関係を考えずに、人間関係だけを良くしようと努力しても難しいと言えます。

それは、骨折して骨が砕けた状態の人がリハビリに励む姿に似ています。先ずは骨が成長し結合すること、次に歩く訓練に進むと言う順番が必要なのです。同じく、私たちにとって神様との正しい関係にあることが土台です。神様の前に自分が罪人であると認める人、自分の罪の酷さを悲しむ人、自分の力に頼まず神様を頼る柔和な人、義に飢え渇く人。その様な人が他の人に対してあわれみ深い人になれると、ここでイエス様は教えておられるのです。

ところで、真にあわれみ深い者としてこの地上を歩まれた人は誰かと言えば、それはイエス様を置いて他にはいないと聖書は語っていました。

 

ヘブル4:15「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」

 

私たちの大祭司とはイエス様です。「弱さに同情する」と言うことばが「あわれみ深い」に当たります。あわれみ深いとは人の弱さに同情できる者、ことばを代えれば、他人の苦しみを我がことのように受けとめる者ということになるでしょうか。

そして、イエス様を救い主と信じた者はイエス様のあわれみ深い性質を受け継いでいると、聖書は教えています。しかし、私たちの内に宿るあわれみの心はまだ小さな種の様なもの。それを養い育てるために取り組むことが私たちに求めています。

その様なイエス様が、あわれみ深い人の例として語られたのが善きサマリヤ人の譬えです。自分では隣人愛について良く知っているつもりのある聖書の専門家が「わたしの隣人とは誰のことですか」と質問したのに対し、その頭でっかちぶりをつく為イエス様がなされた有名な譬えで、恐らく実際の出来事を基にしたものと考えられています。

 

ルカ10:30~37「イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎとり、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」

 

主人公のサマリヤ人が旅行の途中で強盗に襲われ傷ついた旅人を見つけます。彼は立ち止り、道を横切って、息も絶え絶えに苦しむ人に近づきました。祭司やレビ人ら普段人々に隣人愛の大切さを説いている宗教家も旅人を見ましたが、通り過ぎてしまいます。彼らもこの人を見て気の毒に思い同情したかもしれませんが、それ以上何もしませんでした。

しかし、サマリヤ人は旅人を可哀想に思い、そばに行き、傷に包帯を巻き、宿屋に連れてゆくと、更に必要な費用を与えたと言うのです。これがあわれみ深い人でした。あわれみ深いとはただ可哀想に思うだけではありません。相手を苦しみから解放するため実際に行動すること、骨を折ることと私たち教えられるところです。

イエス様がこの譬えを語られた聖書の専門家の頭でっかちは、他人ごとではありません。隣人愛について論じることは得意でも実際に隣人となるために行動しない自分、心に同情の思いを抱いても手も足も出そうとしない自分。そんな自分を発見する時、私たち何度でもこの物語を読み、サマリヤ人のように生きることに取り組む必要を覚えるのです。

また、この譬え話のように相手が瀕死の重傷と言う場合、同情心が湧いてくるのはある意味で自然なことでしょう。しかし、もし相手が私たちのことを意地悪く扱う人、苦々しい気持ちや怒りを表わす人だとしたら、どうでしょうか。私たちはあわれみの心を起こし、手を差し伸べることができるでしょうか。

旧約聖書には、この点に関し非常に興味深い教えがあります。

 

出エジプト23:4,5「あなたの敵の牛とか、ろばで、迷っているのに出会った場合、必ずそれを彼のところに返さなければならない。あなたを憎んでいる者のろばが、荷物の下敷きになっているのを見た場合、それを起こしてやりたくなくても、必ず彼といっしょに起こしてやらなければならない。」

 

人生で出会う人すべてと友となり、親しい仲間となれたらどんなに良いだろうと思いますが、残念ながら現実は異なります。些細なことで対立する。こちらには思い当たることがないのに敵視される。やむを得ない事情があり相手からは敵と見られても仕方のない立場に立たされる。様々な理由で私たちの人生には敵があらわれます。

「あなたを憎んでいる者のろばが、荷物の下敷きになっているのを見た場合、それを起こしてやりたくなくても…」と言うことばは、神様がその様な人生の現実と、私たちの気持ちをよくよくご存知であることを示していて、安心できます。

親しい友人が困っていたらすぐに助けることができても、自分を憎む人の場合気の毒に思ったり、助けの手を差し伸べることは簡単ではありません。至難の業と言っても良いでしょう。その様な場合、聖書にある様に「相手を助けてやりたくない」と感じるのは、私たちにとって自然な反応です。しかし、親しい友なら助けても自分に嫌な態度を取る人は助けないとしたら、私たちの意思と行動は相手の言動に左右されるもの、相手のことばや行動に縛られ支配されていることになります。

イエス様がこの世界に来たのは、私たちの意思と行動を相手のことばや態度に左右され、縛られている状態から解放されるためでした。イエス様によって罪赦された私たちは、相手のことばや態度に支配されず、あわれみの心をもって応答する自由を与えられているのです。ですから、「あなたを憎んでいる者のろばが、荷物の下敷きになっているのを見た場合、それを起こしてやりたくなくても、必ず彼といっしょに起こしてやらなければならない」と神様は命じていました。

そして、あわれみ深い者に対する祝福は、あわれみを受けることです。「あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受け取るからです」とある通り、あわれみ深い生き方をする人はこの地上においても神と人からあわれみを受け取り、天国では完全な形で神と人からあわれみを受け取ることができると、イエス様は約束しているのです。

最後に皆様と考えたいのは、イエス様のあわれみ深い性質を受け継いだ私たちが小さな種の様なあわれみの心を養い育て、あわれみ深い人となるにはどうしたらよいのかです。

お勧めしたいことが二つあります。一つは、神様の前に出て自分の罪を悔い改め、心を整えることです。旧約聖書の時代、神様に背いたイスラエルの民がバビロン軍に敗れ、捕囚されると言う苦しみを経験しました。その時生き残った預言者エレミヤが告白したことばがあります。今日の聖句です。

 

哀歌3:22「私たちが滅び失せなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。」

 

エレミヤは、自分たちが神様のさばきの他何ものにも価しないことを理解していました。自分たちが赦され生かされているのは、神様のあわれみによるのであって、その他の何もののおかげでもないと告白しています。

皆様はこのことばに同意するでしょうか。本当に罪を悔い改めるとは、当たり前の権利のように考えていた健康な体も、日々の食物も、水も、空気も、仕事も、収入も、家族も、友も、すべては本来受け取る資格のない自分に対する神様のあわれみによると考えることです。罪の赦しも、神の子とされたことも、神様のあわれみにのみよると覚え、感謝することです。神様のあわれみがなければ一日たりとて生きることができない立場に自分があることを思い、生活のあらゆる分野で神様のあわれみを求めることなのです。

現代は権利の時代、権利主張の時代と言われます。誰も彼もが自分の権利を主張してやみません。「政府にこれこれをしてもらう権利がある」「親から子どもから、これをしてもらう権利がある」「自分は学校に、社会に、夫に、妻にこの様に扱ってもらう権利がある」。

この様な時代にあって神様から良きものを受け取る価値のない自分の立場を自覚し、すべてを神様のあわれみによると考え、感謝する生き方は人々から好まれないかもしれません。狭き道かもしれません。しかし、「私たちが滅び失せなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。」と言う信仰で心を整えて、イエス様が最も幸いと教えてくださった生き方を私たち選び目指してゆきたいと思います。

二つ目は、その様な思いで心を整える時、私たちの他の人に対する見方や態度は180度変わらざるを得ないということです。

末期がんの方々へのケアで大切なのは「あなたは死にゆく人で、私は生きる人」という姿勢ではなく、「私も同じように死にゆく存在」と言う態度で接することと、日野原重明先生が書いています。そうしないと本当のケア、配慮はできないと。

相手が友であろうと敵であろうと、悩み苦しむ方々に接する場合も同じではないでしょうか。今は特別な問題を抱えていなくても、私たちもいつ同じ様に悩み苦しむ状況に直面するか分かりません。今は大丈夫と思っていても、相手と同じ状況に置かれたら思いもしなかった自分の弱さに失望するかもしれないのです。

自分も相手も同じく神様のあわれみを必要としているという点では全く同じ立場にいるとわきまえて接してゆくこと。そうでないと、たとえ助けようとしても私たちの態度に上からするようなものが混じっているなら、相手から拒絶されることがあるかもしれません。

イエス様が私たちの弱さに心から同情しあわれみ深く接してくださるように、私たちも隣人に対しあわれみ深いことばと態度で接してゆけたらと思います。

 

2015年12月20日日曜日

クリスマス礼拝 ルカの福音書2章1節~14節「誕生~あなたがたのために救い主が~」


皆様クリスマスおめでとうございます。今まで三回にわたる待降節の礼拝で、私たちはキリスト誕生を待ち望む人々の姿を見てきました。今日はいよいよキリスト誕生、ご降誕の場面を見ることになります。

今読んで頂きましたルカの福音書には、一つの特徴があります。それは、キリスト誕生の出来事がこの世界の歴史の中にきちんと位置づけられていることです。このためにルカは歴史家とも呼ばれてきました。そこで、先ず私たちが考えたいのは、一体何のためにルカは救い主の誕生を当時の歴史を背景として書き残したのかということです。

 

2:1~3「そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。これは、クレニオがシリヤの総督であったときの最初の住民登録であった。それで、人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行った。」

 

ここに登場する皇帝アウグストはローマ帝国の皇帝、支配者でした。ですから全世界と言うのは、ヨーロッパ、アジア、中東、アフリカのまで広がっていたローマ帝国全体と言うことになります。そして、このアウグストのもとローマは最も安定した時代を迎えました。

戦争が止んだこと。「すべての道はローマに通ず」と言うことばがある様に、道路網が整備され人々が安全に旅ができるようになったこと。そして、聖書が記すように税金徴収のため住民登録の勅令が出されると、人々が皆自分の町つまり先祖の町に向かって移動したことも、この時代がいかに安定していたかを物語っています。

ちなみに、ローマ帝国の支配者が皇帝と呼ばれるようになったのはアウグストが最初とされます。アウグストと言う名前も「尊厳ある者」と言う意味で、彼が有能かつ人々の信頼厚き支配者であることを示していました。

皇帝アウグストが出した勅令はシリヤの総督に届き、そこから当時シリヤ州に属していたユダヤの国に到達します。そして、ユダヤの国ナザレ村に住むヨセフも先祖ダビデの町に上ってゆくことになります。

 

2:4、5「ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。彼は、ダビデの家系であり血筋でもあったので、身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。」

 

その頃無名の人、ひとりの大工であったヨセフも血筋を辿ればイスラエル最大の王ダビデを先祖とする家系の人でした。ですからダビデ王が生れた町ベツレヘムに上ったのです。

ただし、聖書には「身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するため」とありますが、住民登録は家長のヨセフが行えば十分で、妻マリヤまで登録する必要はなかったとされます。しかも、ナザレ村からベツレヘムまでは120キロ。マリヤが既に出産間近な状態にあったことを思うと、むしろ誰かに世話を頼んで村に置いてゆくと言うのが普通でしょう。それなのに、何故ヨセフはマリヤを連れて旅に出たのでしょうか。

これはやはり、夫ヨセフのものではない子どもを身籠ったマリヤに対し、人々の厳しく、冷たい視線が向けられていたからと考えられます。もし村に一人残されたとしたら、マリヤは身の置き所なく、とても心細かったことでしょう。それを思うとたとえ旅路は困難であっても、一緒に連れて行った方がマリヤが安心できるとヨセフが配慮したのでしょう。

最初に御使いから神の子、救い主を身籠るとのみ告げを聞いて信じたマリヤ。次に同じくみ告げを聞き信じたヨセフ。手を取り合ってベツレヘムへと進む若き夫婦。神様の約束は必ずなると信じたふたりが互いを思いやりながら旅を続けて行く姿が目に浮かぶところです。

そしてついにキリスト誕生となります。それは誰も思い及ばない様な場所で起こりました。

 

2:6、7「ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」

 

世界の都ローマからシリヤ、シリヤからユダヤの国、ユダヤの国ベツレヘムから一件の宿屋に置かれた飼い葉桶に。最初は広く世界の都に焦点を当てていたルカがシリヤ、ユダヤ、ベツレヘムと徐々に焦点を絞り、ついに小さな飼い葉桶に光を当て、キリスト誕生の場所を私たちに示しています。

聖書には預言と成就という考え方があります。神様が預言者を通して語られた預言、約束のことばが時を経て成就実現するということで、神様が世界の歴史を支配しておられること、神様の人間に対する真実を示すと言う大切な意味を持っています。

旧約聖書にはやがて来るべき救い主についても多くの預言が記されています。数え方にもよりますが、少なくとも救い主に関する40以上の預言が存在するとされ、その中に救い主はダビデ王の子孫から生まれること、ダビデの町ベツレヘムで誕生することが含まれていたのです。

 

ミカ5:2「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。」

 

恐らく皇帝アウグストは自分が世界を支配しているという思いで住民登録の勅令を下したことでしょう。事実その命令によりシリヤの総督が動き、ユダヤの国の民が動き、ヨセフとマリヤの夫婦も旅に出て、キリストはベツレヘムで誕生しました。

しかし、この預言の成就により、私たちは世界を支配していたのは皇帝アウグストではなく、アウグストを用いて預言の通り救い主をダビデの町ベツレヘムで誕生させたもう神様であると教えられます。この世界の歴史は全能の神様の御手に導かれていること、神様に背き自分勝手な道を歩むこの世界を神様が愛しておられることを教えられるのです。

しかし、神様の愛はこれにとどまりません。何と最初に救い主を見ることができるよう神様が招いたのは羊飼いたちでした。

 

2:8~12「さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」

 

その頃羊はユダヤ人の生活にとって欠かすことのできない動物でした。肉や乳は食料として、毛は収入源として人々の生活を支えていましたし、小羊は礼拝に於いてささげる罪のためのいけにえとして重要なものでした。

それにもかかわらず、羊飼いたちは世間から見下されていたのです。羊とともに移動し続ける彼らは安息日の礼拝を始め、様々な宗教的なしきたりを守ることができず、汚れた人々とみなされていました。自分の羊を失った羊飼いはしばしば他人の羊を盗んだため、羊飼いと言うだけで泥棒呼ばわりされることも多かったようです。ですから、羊飼いは信頼できないとされ、法廷で証言をすることが許されていませんでした。

しかし、神様の眼はその様に社会の底辺に生きる人々に向けられていたのです。世間から一段低く見られていた人々、貧しい人々、社会の中に拠り所なく心寂しく生きる人々。神様はその様な人々を決して忘れず、心を傾け、救い主のもとに招いてくださったのです。

ですから御使いは羊飼いたちに言いました。「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」

主とは神様のことです。キリストは救い主と言う意味です。この夜ダビデの町で生まれたみどりごが世界を創造した神様であり、約束の救い主であること。神様が私たちを罪から救うため人となってこの世界に到来したこと。そして、何よりこの喜びの知らせを世界で最初に耳にしたのが皇帝でも、王でも、宗教家でもなく、何の肩書もない羊飼いたちであったことは意味深く思えます。

この世において何一つ拠り所を持たないと感じている人、自分の罪を悲しみ、神様の救いを心から必要としている人。そういう人々のために神様は救い主を与えてくださった。そういう人々にとってこそキリスト誕生は喜びの知らせとなる。そう私たち教えられたいところです。

そして、羊飼いたちが御使いのことばを喜びの知らせとして心に受けとめた時、天の軍勢すなわち天使の軍勢が現われ、神様を賛美したと言うのです。

 

2:13,14「すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現われて、神を賛美して言った。「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」」

 

いと高き所天に栄光が神にある様に。地上に平和がみ心にかなう人々、救い主を信じる人々にある様に。讃美歌では114番、聖歌では138番で歌われる御使いの賛美、天使のコーラス。非常に有名な場面です。

イエス・キリストを信じる人は誰でも罪を赦され、神の子となり、神様と平和な関係の中にあります。しかし、神様との平和を持たない人々は未だに多くいますし、人と人との平和と言う意味においてこの地上は不完全極まりない状態と言えます。

ですから、この賛美を歌う時私たちは今神の平和を頂いていることに感謝しつつ、イエス・キリストがもう一度到来し、完全に平和な世界をもたらしてくださることを待ち望むのです。この地上で神の平和を頂いている者として、人と人との平和を作りだすことに努める者でありたいと思うのです。

最後に考えたいのは、この世界を創造した神様、世界の歴史を支配しておられる神様がみどりご、赤ん坊の姿で生まれたのは何故かということです。御使いが羊飼いたちに告げたことばを思い出してください。「あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」

キルケゴールと言う人が、神様が人になられた事を次の様な物語によって説明しています。ある王様が身分の低い娘を愛するようになりました。王様はどのように愛を伝えるか、どうしたら自分の愛を受け入れて貰えるか考えました。「もし私の愛を受け入れなかったら牢屋に入れるぞ」と脅かして愛を強制しようかと考えましたが、それはやめました。何故なら、たとえ娘が言うとおりにしても強制された愛は本当の愛とは呼べないからです。

それならば眼も眩む様な贈り物を与えて娘の気持ちを捕えようと考えますが、それもダメだと考えなおします。たとえそれでいう事を聞いたとしても、娘が心惹かれたのが王自身なのか、それとも王が持つ富なのか見分けられないからです。最後に王は最善の方法を思いつきます。それは自分の権力と富を捨て、貧しい者の姿を取って近づき愛を求めることでした。

神様は同じことをしてくださったのです。イエス・キリストは神としての権威、力、栄光を犠牲にし、この世界に降誕されました。ひとりの無力な赤ん坊として、それも最も貧しく低い所、飼い葉桶に生まれたのです。そしてご自分の身をもって貧しさ、迫害、故なき非難などを経験し、この世界で傷つき、疲れ、苦しむ者の仲間となられたのです。

皆様は、ここまで身を低くして本気の愛を示してくださった救い主を心に受け入れるでしょうか。それとも、自分には必要がないと拒むでしょうか。クリスマスは、私たちがイエス・キリストとの関係について真剣に考える時です。イエス・キリストを信じた者は自分がどう生きるべきか。特に隣人との平和な関係について振り返り、取り組む決意をすべき時ではないかと思います。

この様な意味で皆様が良いクリスマスを過ごされますように。今日の聖句です。

 

Ⅱコリント8:9「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」

 

 

2015年12月13日日曜日

ルカの福音書1章67節~80節「待降節(3)~日の出の訪れ~」


聖書の神を信じる者、キリストを信じる者、神の民は、どのような生き方をするのか。答えの一つに、「救い主を待つ」という生き方があります。旧約の時代、神の民は救い主の到来を待ちました。新約の時代、今の私たちは、主イエスがもう一度来られる約束を信じて生きる者です。聖書は、神の民に対して、救い主が来られるのを待つ者として生きるようにと教えています。私たちは「救い主を待つ」者。

今日は待降節の第三週目の聖日。「救い主を待つ」というのは、いついかなる時でも、持つべき信仰の姿勢ですが、待降節では、特に「救い主を待つ」ことに取り組みたいと思います。

 今年の待降節、礼拝説教はルカの福音書に焦点を当てています。(これまで、受胎告知、マリヤの賛歌と見てきました。今日はザカリヤの賛歌となりますが、その背景を再確認します。)今の私たちが、救い主を待つとは、どのような生き方なのか。皆様とともに、考えたいと思います。

他の福音書と比べて、ルカの福音書はキリストの誕生にまつわる出来事を詳細に記しています。その冒頭は、ザカリヤとエリサベツという老夫妻の姿からでした。

 ルカ1章5節~7節

ユダヤの王ヘロデの時に、アビヤの組の者でザカリヤという祭司がいた。彼の妻はアロンの子孫で、名をエリサベツといった。ふたりとも、神の御前に正しく、主のすべての戒めと定めを落度なく踏み行なっていた。エリサベツは不妊の女だったので、彼らには子がなく、ふたりとももう年をとっていた。

 

 神が人となるという大奇跡。人類史上、最も重要な知らせを記すのに、ルカの筆は老祭司夫婦の姿から記す。神妙な滑り出しです。

クリスマスと言って、華やかさだけではない。願いながらも子どもがいない寂しさを抱え、それでも神様に仕え続けた老夫婦。敬虔清貧な二人に焦点を当てる。第一級の文化人、ルカならではの筆の渋さ。いぶし銀のルカ。この神妙さ、この厳かさも、キリストの誕生を彩る雰囲気の一つでした。

 この老祭司ザカリヤのもとに、御使いが来て、神の言葉を告げます。これが、旧約聖書の最後の預言者マラキの時代から、約四百年経ってのこと。四百年の沈黙が破られる場面。

 御使いが語ったことは、「ザカリヤの願いが聞かれたこと。エリサベツが男の子を産むこと。その名をヨハネと付けるように。その子ヨハネは、主の前ぶれをする者。つまり、約束の救い主の前に来ると言われた預言者であること。」でした。

 

 ザカリヤの気持ちはどうだったのか。この御使いの言葉を大いに喜んだと想像します。長らく願い、ついには諦めていた子どもの誕生の約束。しかも、その子が救い主到来の関わる働きをする。それはつまり、長らく祈ってきた救い主の到来が起こるということです。子の誕生、その子が大きな働きをなし、しかも約束の救い主の到来が起こる。信仰者ザカリヤにとって、これ以上ない喜びの言葉でしょう。しかし、この御使いの言葉を聞いた時、ザカリヤはその喜び以上に不信が勝ったというのです。その応答は次のようなものです。

 

 ルカ1章18節

そこで、ザカリヤは御使いに言った。『私は何によってそれを知ることができましょうか。私ももう年寄りですし、妻も年をとっております。』

 

 神殿で一人、奉仕をしている場面。他に誰もいない。私が見ているのは、本当に御使いなのか。夢か、幻ではないか。自分たちの年齢を考えると、とても子どもが生まれるとは思えない。この言葉が本当だというのは、どうしたら分かるのでしょうか、という応答。

 「神の前に正しい」と評される程の信仰者。旧約聖書に精通した祭司。それでも、この時の御使いの言葉を、そのまま受け取ることが難しかったのです。頭では信じられる。しかし、心がついていかない。いや、信じたい気持ちもある。しかし期待して、それが実現しなかった時が恐ろしい。ザカリヤの応答に、複雑な心境を見ます。

 

 神の言葉を信じきれない。約束の宣言を受け取れきれない。その時、神様は神の民をどのように扱われるのか。このザカリヤに対して、御使いは次のように伝えていました。

 ルカ1章20節

ですから、見なさい。これらのことが起こる日までは、あなたは、おしになって、ものが言えなくなります。私のことばを信じなかったからです。私のことばは、その時が来れば実現します。

 

 約四百年の沈黙を破って語られた御使いの言葉。その言葉の前に、今度はザカリヤが沈黙することになる。不思議な対比です。

 この御使いの言葉は、ザカリヤが話せなくなることが、信じなかったことへの罰であるような言葉です。しかし、ザカリヤからすると、この時から話せなくなることは、御使いの言葉が真実であることを、よく知ることが出来る意味もあります。話したいのに話せない。その都度、ザカリヤはあの御使いの言葉が真実なものであると確信することになる。不信に対する裁きが、恵みでもあるのです。

 この時からザカリヤは「おし」となり、話せなくなりました。その後、妻エリサベツの妊娠。六か月目に、親戚のマリヤの訪問。マリヤを見たエリサベツは聖霊に満たされ預言。そこから三か月、マリヤはともに生活をしますが、受胎告知のことを詳しく聞いたでしょう。

 こうしてザカリヤは、あの時聞いた御使いの言葉が真実であることを徹底して教えられました。あの時、神の言葉をそのまま信じられなかったことを悔いつつ、その子ヨハネ誕生の段階で、ザカリヤははっきりと、神の言葉はその通りになると確信していたでしょう。ところが、ヨハネ誕生の段階では、まだ話せないまま。「おし」が解かれなかったのです。それでは、いつ話せるようになったのか。

 

 ルカ1章63節~64節

すると、彼は書き板を持って来させて、「彼の名はヨハネ。」と書いたので、人々はみな驚いた。すると、たちどころに、彼の口が開け、舌は解け、ものが言えるようになって神をほめたたえた。

 

 ユダヤ人の習慣として、子どもの名前は親族の中にある中から選ぶもの。ザカリヤ、エリサベツの親族には、ヨハネという名前はなく、通常ではつけない名前。ところが、ザカリヤは迷わずヨハネと命名します。御使いの宣言に応答してのこと。神の言葉はその通りになると信じた証でした。

 これを機に、ザカリヤは話せるようになります。あの宣言を聞いてから、ヨハネ誕生までの約十か月。この間に、徹底的に神の約束は実現すると教えられたザカリヤ。そのザカリヤの口をついたのが今日の箇所、ザカリヤの賛歌となります。

 

 ルカ1章67節~75節

さて父ザカリヤは、聖霊に満たされて、預言して言った。『ほめたたえよ。イスラエルの神である主を。主はその民を顧みて、贖いをなし、救いの角を、われらのために、しもべダビデの家に立てられた。古くから、その聖なる預言者たちの口を通して、主が話してくださったとおりに。この救いはわれらの敵からの、すべてわれらを憎む者の手からの救いである。主はわれらの父祖たちにあわれみを施し、その聖なる契約を、われらの父アブラハムに誓われた誓いを覚えて、われらを敵の手から救い出し、われらの生涯のすべての日に、きよく、正しく、恐れなく、主の御前に仕えることを許される。

 

 ベネディクトスとして知られるザカリヤの賛歌。(冒頭の「ほめたたえよ」のラテン語がベネディクトスです。マリヤの賛歌も、冒頭の「あがめる」のラテン語より、マグフィカートと呼ばれます。)十か月もの間、沈黙とともに教え続けられた救い主の誕生。本当に救い主が誕生する、その確信に立った者の賛美の歌。大きく二つに分けられますが、まずはその前半部分。

(ごくごく簡単にまとめるならば、次のようになるでしょうか。)

「主がほめたたえられるように。約束通りに、救い主を送って下さった。その救いによって、私たちは敵から救われる。敵から救われた私たちは、きよく、正しく、恐れなく、主に仕えることが許される。」

 

 これはヨハネが生まれた時、キリスト誕生の半年前の歌。しかし、ザカリヤはこの前半部分を過去形で歌いあげます。救い主の誕生はこれから起こること。しかし、確実に起こると信じた表現。(ユダヤでもギリシャでも、確実に起こることを、もう起こったかのように表現することがありました。)

 十か月前、御使いの宣言を聞いた時、その宣言を信じきれなかったザカリヤ。しかし、神様はザカリヤを整え、救い主到来を確信する者へとして下さったことが良く分かります。信じきれない者を、信じる者へと変えて下さる神様。救い主の到来を待つ者として、私たちも同じ恵みを頂きたいと思います。

 

 そして特に印象的なのが、キリストのもたらす救いを、主に仕えることが出来るようになると理解している点です。福音書の中に記される、当時の群衆の救い主の理解は、ローマの支配から脱却する政治的な王というものがありました。一般の群衆だけでなく、キリストの弟子たちにも、その思いがありました。しかし、ザカリヤは救い主の働き、救いの本質を見抜いていた。罪からの救いとは、何の妨げもなく、主に仕えることが出来るようになることだと。

 救い主の到来を待つというのは、その結果、自分がどのようになるのか期待することでもあるということです。今の私たちが救い主の到来を待つというのは、キリストの再臨の際、私たちに何が起こるのか期待すること。天の御国で、全く罪のない状態で、愛する者たちとともに、主に仕えることが出来る。その約束に思いを馳せることでもあります。

 

 これから起こることを確実なものとして過去形で歌いあげた前半部分。後半は、一転して未来形の表現となっています。

 ルカ1章76~77節

幼子よ。あなたもまた、いと高き方の預言者と呼ばれよう。主の御前に先立って行き、その道を備え、神の民に、罪の赦しによる救いの知識を与えるためである。

 

 後半部分、まずザカリヤは、その子ヨハネについて語ります。「いと高い方の預言者と呼ばれ、救い主の道を備え、神の民に救いの知識を与える。」と。これは、その子ヨハネが、イザヤ書やマラキ書で預言されていた、約束の救い主の前に遣わされる預言者、エリヤの霊を持つ預言者であるとの宣言。これは、御使いが宣言していたこと。ここにも、ザカリヤが御使いの宣言を信じた証を見ることが出来ます。

 ところで、ザカリヤの子ヨハネは、実際にどのような生き方をしたでしょうか。

 マタイ3章4節

このヨハネは、らくだの毛の着物を着、腰には皮の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった。

 

 荒野で悔い改めを説くヨハネ。そのヨハネの恰好は毛衣を着て、皮の帯をしていました。この「毛衣と皮の帯」というのは、エリヤの特徴的な格好です(Ⅱ列王記一章)。つまりヨハネは、エリヤを真似ていたことになります。なぜヨハネは、エリヤを真似たのかと言えば、自分が前触れの預言者だという自覚があり、なぜその自覚があるのかと言えば、ザカリヤのもとで生まれ育ったから。ザカリヤの信仰が受け継がれたからでしょう。

 神の言葉は必ず実現すると信じるように導かれたザカリヤ。その信仰は、ザカリヤだけのものではなく、その子ヨハネにも引き継がれていく。あの麒麟児ヨハネ、最も優れた人と評されるヨハネは、ザカリヤの子でした。

 このように考えますと、私たちが救い主到来を待つ信仰を持つことは、自分だけの問題ではなく、自分の子、教会の子に影響を与えること。それも重要な影響を与えることだと教えられます。

 

 その子ヨハネについて歌った後、救い主到来を詩的に表現してこの歌は閉じられます。

ルカ1章78節~79節

これはわれらの神の深いあわれみによる。そのあわれみにより、日の出がいと高き所からわれらを訪れ、暗黒と死の陰にすわる者たちを照らし、われらの足を平和の道に導く。

 

 すでに救い主の到来の意味を、神様の約束の実現、神の民を贖うため、主に仕えることを許すためと見定めていましたが、ここでもう一度、確認されます。「日の出がいと高きところから訪れ、暗やみと死の陰にすわる者たちを照らす。」と。ザカリヤにとって、当時の世界は、暗やみの世界、暗黒の世界、悲惨な世界。ザカリヤの目には、死の陰にうずくまっている人たちが映っていました。その世界に、光が来る。その人々に日の出が訪れる。

 今の時代、本当の暗闇を味わうことは難しいと言われます。そこかしこに、明かりがある時代。ザカリヤのイメージする暗やみや、光に込める思いは、私たち以上でしょう。そのザカリヤが「暗やみの世界に、光が来る。」と歌った。闇に光、その喜び、その衝撃が、キリストの到来のそれであると。

 ところで、「いと高きところから、日の出が訪れる」というのは、少しおかしな表現。気にならないでしょうか。日の出は、地平線から訪れるもの。「太陽」は高いところにあっても、「日の出」は地平線です。しかし、「日の出がいと高きところから訪れる」というのが、ザカリヤの表現。詩人ザカリヤのこだわりでしょう。夜の暗闇に、光が来る。日の出の喜び。しかし、それは徐々に明るくなるというのではなく、一気に世界を照らす。この方の到来によって世界は一変する。徐々にではない。いと高きところからの訪れなのだと。

 救い主到来を確信し、ここまで自分の言葉で表現したザカリヤの姿に憧れます。私だったら、救い主の到来をどのように表現するのか。この待降節、考えてみるのも良いと思います。

 

 以上、ザカリヤの賛歌でした。神様の約束を信じきれなかったザカリヤが、様々なことを通して、確信する者に変えられていく。「救い主の到来」を待ち、その到来を確信した時に歌われた賛歌。ザカリヤの姿とその歌から、「救い主を待つ」信仰とはどのようなものか、確認してきました。

 この待降節、私たちはどのように救い主を待てば良いのか。神様の約束は必ず実現すると、より確信する者となれるよう、祈りたいと思います。もう一度、主イエスが来られた時、私たちがどのような恵みを頂くのか。天の御国への期待を持ちたいと思います。救い主を待つ信仰は、自分の子ども、教会の子どもに大きな影響を与えることを覚えます。ザカリヤと思いを一つにし、「日の出がいと高きところから訪れる」として救い主の誕生を祝うと同時に、自分であれば、どのように救い主誕生を表現するか、考えたいと思います。

 この一週間(それまでに主イエスの到来があるかもしれませんが)、救い主の到来を待ちつつ、次週のクリスマス礼拝を迎えたいと思います。

2015年12月6日日曜日

ルカの福音書1章14節~18節「待降節(2)~わがたましいは主をあがめ~」


 ルカの福音書は女性の書と言われます。他の三つの福音書に比べ、登場する女性の数が多く、女性たちが非常に重要な役割を果たしているからです。キリスト誕生直前の出来事を記す今日の箇所にも、二人の女性が登場します。

先ずは老祭司ザカリヤの妻にして、バプテスマのヨハネを身籠ったエリサベツ。エリサベツが生んだヨハネは罪の悔い改めを説き、人々にイエス様が約束の救い主であると紹介しました。もうひとりはナザレ村の大工ヨセフのいいなづけにして、救い主を身籠るマリヤです。

 エリサベツの夫ヨセフは、妻が男の子をみごもることを御使いに告げられた時、妻が不妊の女性であることを思い、それを信じることができず、口がきけない状態に置かれました。

しかし、エリサベツはみ告げを信じ、既にこの時妊娠六か月。神の子を身籠ると御使いから告げられ、「おことばどおりこの身になりますように」と告白したマリヤは、親戚エリサベツの身に起こったことを知り、彼女が暮らす山地の町まで旅に出かけてゆくことになります。

 

 1:39、40「そのころ、マリヤは立って、山地にあるユダの町に急いだ。そしてザカリヤの家に行って、エリサベツにあいさつした。」

 

 年を重ね不妊の女性となったエリサベツ、まだ正式に結婚していない若き女性マリヤ。共に神様の奇跡によって、男の子を身籠るとこととなったふたりの女性がここに出会いを果たします。特に、行動的に見えるのがマリヤでした。彼女は「立って、山地にあるユダの町に急いだ」とあります。

 ナザレ村から山地にあるユダの町までは、歩いて4日から5日。それ程遠い距離にもかかわらず、何故マリヤは少しも躊躇うことなく、急いで旅立ったのでしょうか。

「ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です。神にとって不可能なことは一つもありません。」(1:36,37)この御使いのことばがマリヤを動かしたと考えられます。同じ神様の恵みを受けた者として語り合いたい、交わりをしたいと切に願ったからでしょう。

 そして、エリサベツの方もマリヤを待っていたかのように、心からのお祝いをもって迎えています。

 

1:41~45「エリサベツがマリヤのあいさつを聞いたとき、子が胎内でおどり、エリサベツは聖霊に満たされた。そして大声をあげて言った。「あなたは女の中の祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。私の主の母が私のところに来られるとは、何ということでしょう。ほんとうに、あなたのあいさつの声が私の耳にはいったとき、私の胎内で子どもが喜んでおどりました。主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」

 

急いで駆け付けたマリヤに対し、エリサベツは正に「打てば響く」と言う応答をしています。マリヤに体に子どもが既に宿っていること、その子が「私の主」であると信じていること、エリサベツの体に宿るヨハネもその子が約束の救い主であることを認め、喜び踊っていること。

エリサベツが語ることばは、いずれもみ告げを信じる彼女の心から生まれたものばかり。それは、どれ程マリヤの不安や恐れを鎮めたことでしょうか。ふたりの交わりは三か月に及んだと36節にありますが、エリサベツとの交わりによって、どれ程マリヤの心は励まされ、神様の約束に対する確信が深められたことでしょうか。

「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう」ということばは、神様の恵みを分かち合う二人の交わりから生まれた、喜びの告白でした。

そして、エリサベツの祝福に支えられたマリヤの答えが、マリヤの讃歌、いわゆるマグニフィカートです。マグニフィカートはラテン語で、讃歌の最初に出てくる「主をあがめる」と言う意味でした。

先ずは、自分自身に対する神様の恵みに、マリヤは感謝を表しています。

 

1:46~50「マリヤは言った。「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私を幸せ者と思うでしょう。力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。その御名は聖く、そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。」

 

マリヤは「私は主をあがめ、私は救い主なる神を喜びたたえます」と言いませんでした。「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます」と歌っています。「わがたましい、わが霊」と繰り返されることばは、マリヤが全身全霊で主をあがめ、主を喜ぶ姿を示しています。私の生活全体において、私の生涯を貫いて、私の命をかけて主なる神様をあがめ、喜びたたえたいとの思いがあふれているのです。

また、「主をあがめる」の「あがめる」ということばには、「大きくする」と言う意味があります。つまり、主をあがめるとは主なる神様を大きくし、自分を限りなく小さく、低くしてゆくことなのです。

ですから、マリヤが「この卑しいはしため」と自分を呼ぶ時、他の人と比べて自分を卑下しているのではありません。主なる神様が大いなるお方であることを思い、大いなる神様が目を留めてくださる価値など全くない、罪人の自分であることを心底認めていたのです。

はしためとは女性の奴隷のことです。マリヤは貧しくはありましたが、社会的な意味で奴隷ではありませんでした。それにもかかわらず、マリヤは何故自分を「いやしいはしため」と呼び、「これから後、どの時代の人々も私を幸せ者と思うでしょう」と告白したのでしょうか。

それは、神様から良いものを一つも受け取る価値のない自分が、神の子を宿すと言う恵みを受けたことに感謝したからです。神様の大いなる恵みをほめたたえる思いで心が満たされていたからです。

そして、自分の受けた恵みが主を恐れるすべての人に及ぶことを信じるマリヤは、次に主なる神様が行うわざについてほめたたえます。

 

1:51~55「主は、御腕をもって力強いわざをなし、心の思いの高ぶっている者を追い散らし、権力ある者を王位から引き降ろされます。低い者を高く引き上げ、飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました。主はそのあわれみをいつまでも忘れないで、そのしもべイスラエルをお助けになりました。私たちの先祖たち、アブラハムとその子孫に語られたとおりです。」

 

心の思いの高ぶっている者、権力ある者、富む者が主にさばかれ、低い者、飢えた者は主に祝福される。この様な世界の到来は、旧約聖書の時代から預言され、賛美として歌われてきました。

「主はそのあわれみをいつまでも忘れないで、そのしもべイスラエルをお助けになりました。私たちの先祖たち、アブラハムとその子孫に語られたとおりです。」この賛美は、神様が旧約聖書でイスラエルの民に約束した救い主がいよいよ到来し、この様な世界を実現してくださると言うマリヤの確信を示していたのです。

なお、「権力ある者を王位から引き下ろされる」とあるので、私たちは国王の様な権力者をイメージしがちですが、これは一つの訳し方です。もともとは「力ある者をその座から引き下ろす」ということばでした。ですから「力ある者」とは、国王や金持ちに限らず、経済力、学力、仕事力、人間関係力、健康力など、自分が持つ様々な力を拠り所として、この世で座つまり安定した立場や生活を確保している、すべての人々を指しています。

そして、聖書は、一握りの権力者や金持ちだけでなく、私たちすべてがこの様な生き方を自然なものと感じ、身につけていると教えているのです。主なる神様を拠り所とせず、自分の力を拠り所とする高ぶる者はさばかれる。しかし、自分の弱さや無力を認め、主なる神様以外には拠り所なしと認めて生きる、心低き者は祝福される。

マリヤの讃歌によって、本来あるべき人間としての生き方、最も幸いな生き方は、神様に心から信頼して生きることと教えられます。私たちが神様に信頼して生きるため、ことばを代えて言えば、私たちが神様だけを真の力と喜びの源とするために、イエス・キリストはお生まれになったのです。

それと同時に、私たちは神様の前に出て、自らの心を探る必要があるのではないでしょうか。実際の所、自分は何を拠り所として生きているのか。何がしかの財産や社会的立場、能力などを拠り所とすることはなかったか。日々の生活において、神様に信頼することなく、自分の力だけで、学び、仕事をし、善い人間関係を築こうとし、教会生活を送っては来なかったか。

家庭生活においても、教会生活においても、学びにおいても、仕事においても、経済生活においても、神様を我が力、我が知恵として信頼する歩みを目指したいと思います。

さて、今日の箇所を読み終えて、皆様と共に確認したいことが二つあります。

ひとつは、私たちの信仰の歩みにとって、兄弟姉妹との親しい交わりがいかに必要で、有益なものかということです。今日の箇所の前半には、マリヤのエリサベツ訪問が記されていました。その期間は三か月に及んだともあります。

この様な親しい交わりによって、二人の心がどれ程励まされ、その信仰がどれ程深められたことでしょうか。神様が与えてくださった恵みを分かち合う。心にある不安や恐れを語り合う。一緒にみことばを読み、神様の約束を確認する。ともに賛美し、共に食事をする。

もし、マリヤが訪問しなければ、エリサベツは聖霊に満たされることはなかったでしょう。エリサベツの支えがなかったら、マリヤが、今も歌われているマグニフィカート、主をほめたたえる讃歌を口にすることはできなかったと思われます。もし、この交わりがなければ、「主によって語られたことは必ず実現すると信じきる」と言う信仰の深みに、彼女たちが進むことはできなかったのではないでしょうか。

 「悲しみは、それを隠すことによって増し加わるが、恵みは、それを分かち合うことで二倍となる。」ライルと言う人のことばです。他の兄弟姉妹との交わりは、神様が私たちを癒し、養うために備えられた恵みの手段です。信仰の道を旅し続ける私たちにとって、信仰の仲間とお互いの経験を分かち合うことは大いなる助けです。

 私たちは神様を信じていながら、神様の与えてくださった交わりの大切さを忘れてしまうことがあります。マリヤがエリサベツを訪問したように、私たちも信仰の友を求めてゆきたいと思います。エリサベツがマリヤを喜んで迎えたように、私たちも兄弟姉妹との交わりを喜ぶ者となりたいと思います。

 二つ目は、「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます」と歌いあげたマリヤの信仰です。「わがたましいは、わが霊は」と繰り返されることばは、全身全霊で、あるいは生活のすべての面で主なる神をあがめ、喜びたいと言うマリヤの思いを表わしていることを、先程お話ししました。

 それでは、全身全霊で、生活のあらゆる面で、主なる神をあがめ、喜ぶとは、どういうことでしょうか。これは、マリヤが自分を主のはしためと考えていたこと、つまり、自分が神様からどのような良いものも受け取る価値のない罪人であると認めていたこと、もし何か良いものを受け取れるとしたら、それは本来受け取る価値のない者に対する神様の恵みであると考えていたことと深く関係しています。

 私たちの体の中で日々休むことなく、動き続ける心臓、愛する人の顔を見ることのできる目、大切な人の声を聞くことのできる耳、日々の食物、経済的な収入、家族や友の存在。これらをすべて神様からの恵み、贈り物と皆様は思っているでしょうか。それとも、あって当然、受けとって当たり前のものと考えているでしょうか。もし、自分が神様の前に罪人であり、本来怒りの対象であることが分かったら、それらのものを当然の権利のように考えることはできないはずです。

 主なる神様をあがめ、喜ぶとは、それら良きものすべてを私たちが神様をほめたたえ、喜ぶために、神様が恵みとして与えてくださったものと認めることです。すべて良きものの中で最大の良きもの、すべての恵みの中で最大の恵みはイエス・キリストですから、キリストの誕生を喜び、神様をほめたたえることです。さらに言うなら、それら神様の贈り物を、神様の栄光、素晴らしさを表わすために活用することでもあります。

 この待降節、私たちは神様の前に自分が本当に卑しい罪人であることを認め、罪を悲しみたいと思います。と同時に、良きものを受け取るに価しない私たちに、神様がどれ程多くの良きものを与えてくださっているかを考え、感謝する時、私たちが与えられたものをどのように活用しているか振り返る時としたいと思うのです。

 

今日の聖句  ルカの福音書1章46節、47節

「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。」