2015年10月25日日曜日

マタイの福音書5章5節「山上の説教(3)~柔和な者は~」


今日は、イエス・キリストが故郷ガリラヤの山から語られた山上の説教の第三回目。私たちは説教の冒頭、「幸いなるかな」で始まる八つのことば、幸福の使信とか八福の教えと呼ばれるものの、第三番目「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです」について考えてゆきます。

前回も言いましたが、八つのことばは、元々どれも「幸いですね。幸いなるかな」と言う宣言で始まっています。この三番目に関して言えば、昔の文語訳に「幸いなるかな、柔和なる者、その人は地を継がん」とある通りです。

つまり、柔和な生き方を追い求め、実践している人は、イエス様の眼から見て非常に幸いな状態にあると言うのです。しかし、イエス様の眼から見て幸いな状態は、私たちの感じ方やこの世の常識とは随分違っていることを、先回もお話ししました。

この柔和と言うことばにも、「人々から踏みつけられても、忍耐する」と言う意味があると言われます。皆様は、人々から踏みつけられながら忍耐している人を見て、どう思うでしょうか。自分がその様な状況にあるとしたら、幸せを感じるでしょうか。そんなことはとても不可能と思えます。むしろ、この世の常識からすれば、イエス様の言う柔和さ、「人々から踏みつけられても、忍耐する」様な状態は不幸であり、一刻も早くそこから逃れたいと感じる人が殆どでしょう。

しかし、イエス様は、この地上において柔和な生き方を追い求め、実践する人こそ、真に幸いであると声高らかに宣言されたのです。それでは、イエス様幸いと言うが柔和さとはどのようなものか。聖書に登場する人々の実例を通して見てゆきたいと思います。

先ず取り上げたいのは、イスラエル民族の父、アブラハムです。アブラハムは甥のロトと共に約束の地カナンにやって来ました。そこで羊を飼い、大いに栄えました。しかし、各々の羊が多くなったため互いの雇人同士が競い、争う姿を見たアブラハムは、二つの群れが分かれて生活するのが良いと判断。甥のロトにある提案をします。

 

創世記13:8、9「そこで、アブラムはロトに言った。「どうか私とあなたとの間、また私の牧者たちとあなたの牧者たちとの間に、争いがないようにしてくれ。私たちは、親類同士なのだから。全地はあなたの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。」

 

 驚くべきことに、年齢、能力、経験ともに上の立場にあるアブラハムが、住むべき土地を選ぶ権利を、若いロトに譲っています。権利を譲られたロトは、目の前に広がる豊かな土地を選び、移住して行ったことが、この後聖書に記されています。アブラハムはロトとの争いを避けるため、自分の権利を後回しにしたのです。柔和さとは、相手との平和のため喜んで自分の権利を捨てることと教えられます。しかし、柔和とは権利を譲ることだけではありません。アブラハムは、甥が周りの王に攻撃され、捕えられた時には、自ら救出に向かいました。力を尽くして愛を実行したのです。

 私たちは、無事な時は「私が先に」と自分の権利を優先し、難しい問題が起こると「あなたがお先に」と身を退いて自分を守ろうとしがちです。年齢、能力、社会的立場など、たとえこの世の常識では自分の方に権利ありと考えられる場合であっても、平和のため、自分の権利を喜んで捨てる柔和さをアブラハムから学びたいと思います。

 次に見てみたいのは、ダビデの柔和さです。昔イスラエルをサウル王が治めていた時代、一介の羊飼いに過ぎなかったダビデは、ある時抜群の戦闘能力を認められ、王の側に仕え、王に愛されました。しかし、人々の人気が若いダビデに向かう様子を見たサウル王は、ダビデを妬み、憎むようになったのです。やがて、ダビデはお尋ね者として、王に命を狙われ、苦しめられるようになります。

 その様な逃亡生活の中、ある時偶然にもサウル王が、ダビデたちが身を隠していた洞窟に入ってきました。不当に自分を苦しめる王を倒すチャンス到来と考えたのでしょう。ダビデは思わず王の衣の裾に手をかけ、剣で切り取ります。しかし、その瞬間自分を動かす復讐心に気がつき、それを恥じたダビデはこう告白し、興奮する部下を制しました。

 

 Ⅰサムエル24:5~7「こうして後、ダビデは、サウルの上着のすそを切り取ったことについて心を痛めた。彼は部下に言った。「私が、主に逆らって、主に油そそがれた方、私の主君に対して、そのようなことをして、手を下すなど、主の前に絶対にできないことだ。彼は主に油そそがれた方だから。」ダビデはこう言って部下を説き伏せ、彼らがサウルに襲いかかるのを許さなかった。サウルは、ほら穴から出て道を歩いて行った。」

 

 もし、皆様がダビデの様な状況に置かれたら、果たしてどう行動するでしょうか。ある人から、何の根拠もないのに、酷いことを言われ、不法なことをされたら、その様なことを言われ続け、され続けたとしたら、どうでしょう。言われたら言い返す。やられたらやり返す。その権利が自分にはあると考えないでしょうか。

 しかし、ダビデはその様な状況で、自分が復讐心に駆られて行動してしまったことを悔い改め、怒りに燃える部下を制し、サウル王を逃がしたのです。柔和とは、人に対する悪意や復讐心に駆られて行動しないこと、人に対してその様な思いを抱いたのを神様の前に恥じること。そうダビデから教えられたいのです。

三番目は、最も柔和な人イエス様の姿です。イエス様が私たちを招いておられる有名なことばがあります。

 

マタイ11:29「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」

 

ここに出てくる「心優しい」は、「柔和」と同じことばです。柔和な人は、イエス様がそうであったように、他の人に対して優しく、穏やかに接します。しかし、優しく、穏やかと言うことだけであれば、経済的、精神的に余裕があることの現われに過ぎないかもしれません。その様な余裕がなくなれば、多くの場合私たちは優しく、穏やかに人に接することが難しくなります。柔和な態度を取れなくなってしまうのです。

しかし、イエス様の優しさ、柔和さは、その様なものではありませんでした。当時の宗教指導者から迫害され、あざけられ、批判された時も、悪意や復讐心を抱かず、愛をもって応答する力、強さを、持っておられたのです。弟子ペテロは、その優しさ、柔和さについて、この様に書いています。

 

Ⅰペテロ2:22~24「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」

 

人からののしられた時に、ののしりかえすこと。人から苦しみを受けたら、やり返したいと思うこと。私たちは、それを自然で当然の反応と感じます。しかし、イエス様はそうではありませんでした。イエス様も人からののしられること、苦しみを受けることにより、深い痛みを味わっておられたのですが、それでもののしり返したり、脅すことをしませんでした。

ですから、このみことばは、ののしられたらののしり返すこと、やられたらやり返すことが当然で自然な反応と考えるのは、私たちの内にある罪の性質から来ることを教えています。むしろ、イエス様のように、すべてを正しくさばくことのできる神様に信頼して、ご自分をののしり、攻撃する人々の罪のため十字架を負う、つまり愛を実行することが、人間本来の幸いな生き方であることを教えているのです。

この様なことは、非現実的な理想論と聞こえるかもしれません。私も、もしイエス様の十字架の死の意味を知らなかったら、そう考えたでしょう。しかし、聖書は、私たちが罪を離れ、義に生きるため、私たちの罪の性質を癒すため、イエス様は進んで十字架に死なれたと語っています。癒しとは回復のことです。イエス様の死によって私たちは罪赦されました。しかし、それにとどまらず、イエス様は、私たちが今までは自然で当然と思っていた罪を離れ、愛をもって相手に応答する自由と力を回復してくださったのです。

人から酷いことを言われたり、されたりする時、私たちは悔しさや怒りを相手にぶつけ、一矢報いなければ気が済まないと感じます。その様にして自分を守ろうとします。しかし、その様な行動を繰り返すことで、かえって私たちは悔しさや怒りの感情に縛られ、支配されてゆくのです。

その悪循環から解放されるためには、自分の中にある苦しみや葛藤を認め、告白すると同時に、イエス様が尊い命を犠牲にして、私たちの内に人を愛する自由を回復してくださっていることを信じ、受け入れなければなりません。イエス様が、私たちを愛するがゆえに与えてくださった自由と力を、日々の生活の中で確認してゆくことが大切なのです。

以上、平和のために、喜んで自分の権利を後回しにすること。悪意や復讐の思いにとらわれてことばを語ったり、行動しないこと。イエス・キリストを信じる私たちは、愛をもって応答する自由を神様から与えられていること。聖書が教える柔和さについて、三つのことを確認できたかと思います。

アメリカのある町に孤児院を経営する女性がいました。経営は厳しく、日々の食べ物にも苦労するような状況でした。それでも彼女はクリスマスに子どもたちに贈り物をしたいと思い、町に出てゆき寄付を募ります。ある酒場に入り、テーブルを回って寄付を募っていたところ、突然酔っぱらった男がグラスを投げつけたため、それが彼女の顔に傷をつけ、グラスも割れてしまいました。

場が静まり返る中、女性は割れたグラスを拾い集め、静かに立ち上がると「これは私への贈り物として頂きますが、私の愛する子どもたちのためにも、何か頂けるでしょうか」と語ったそうです。それを聞いた人々は、グラスを投げた男も含め、皆が寄付をしたと言う実話があります。「幸いなるかな、柔和な人」。私たち皆で柔和な生き方、自由で力ある生き方を目指してゆきたいと思います。

最後に、皆様とともに考えたいのは、柔和な人が受け取る祝福についてです。「柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです」。地を相続するとは、どういう事でしょうか。

イエス・キリストを信じる者が、死後復活し、永遠に生きる世界を、天の御国、来るべき神の国、天の故郷、神の都、新天新地など、聖書は様々に表現しています。幸福の使信の最初と最後で、イエス様は、「天の御国はその人のものだからです」と教えていますが、地を相続することと天の御国に入ることは同じ祝福を、別の言葉で表すものでした。

ですから、このことばは、天の御国がこの地上と別にあるのではなく、私たちの住む地上の世界が、やがて神様によってさばかれ、新しくされることを教えています。その新しくされた地上の世界を、柔和な者に造り変えられた私たちが最終的な住まいとして相続すること、受け取ることを、イエス様は約束しているのです。

神様がもたらしてくれる新しい地では、誰も自分の権利を一番にせず、喜んで他の人を優先しますから、争いがありません。皆が自分のものを他の人と分かち合いますから、誰もが豊かに与えられ、心満たされて生きることができるでしょう。私たちはこの様な世界の到来を待ち望みたいと思います。

しかし、柔和な人には、今この地上においても、心満たされて生きると言う祝福があることを、聖書は教えていました。今日の聖句です。

 

ヘブル13:5「金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」

 

何故、金銭を愛する生活をしてはいけないと命じられているのでしょうか。勿論、聖書は金銭がこの世の生活において必要なものであることを認めています。しかし、金銭を神様から与えられたものと認めず、それを愛し、貪り、頼りとするなら、私たちは与えられた金銭で心満たされることがないと、聖書は教えています。

ここでは金銭が取り上げられていますが、同じことが、物質、能力、評判、成功などについても言えると思います。それらを愛し、頼りにする時、私たちの心はそれらに縛られ、自由を失い、感謝も満足も覚えることはできなくなるのです。

しかし、柔和な人は違います。柔和な人は心の貧しい人ですから、自分が神様の被造物であり、頼りにすべきものを何一つ持っていないこと、無力を知っています。神様が命を、健康を、様々な食べ物を与えてくださらなければ、生きられないことを知っています。

また、柔和な人は罪を悲しむ人ですから、自分が神様を無視し、愛することも、信頼することもしてこなかったことを知り、悲しんでいます。神様から受けるに価するのはさばきだけであると考えています。ですから、健康も、様々な能力も、生活に必要な収入や物質、愛する家族も、罪の赦しも、永遠の命も、信仰の兄弟姉妹も、すべては自分の様な罪人が本来受け取るに価しないもの、神様からの恵み、贈り物であると考えます。

つまり、柔和な人は、これらを自分が当然受け取れるもの、自分の権利とは思いません。むしろ、この様な罪人のため神様も、神様が周りに置いてくださった人々も、本当に良くしてくださっていることを感謝し、心満ち足りることができるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」と語りかけてくださる神様に心から信頼する歩み。すべてを神様からの贈り物と認め、感謝する歩み。柔和な者として歩む時、私たちにはこの様な祝福があることを思い、柔和な者として歩み続けたいと思います。

2015年10月18日日曜日

マタイの福音書20章1節~16節「主の前でへりくだる」


説教の冒頭で、私事を話すのは恐縮なのですが、皆様にお分かちしたいことが一つあります。先日、急遽なこととして、四日市キリスト教会の礼拝をお休み頂きまして、父が牧会をしている、千葉の小倉台キリスト教会に行きました。母はアルツハイマーが進み、一人では生活が出来ない状況で、父が骨折し二か月の入院となったためです。父、母の様子を見るのと同時に、牧師不在となった小倉台キリスト教会で説教、聖餐式の奉仕をしました。日曜日の朝、特別養護老人ホームに母を迎えに行った時のこと。どこかぼんやりとしいて覇気がなく、声もかすれている母に出会いました。親が歳を重ね弱る姿に、少し寂しさを覚え、共に教会に向かいました。教会に着き、隣の牧師館へ私が荷物を取りに行くと、母もあれやこれやと部屋を探し、礼拝用の聖書と讃美歌、献金を手にしていました。教会に行くと、教会員の方との会話を弾ませているのです。教会にいる間に、みるみる表情が明るくなり、教会の皆さんと礼拝出来るのが何より嬉しいと繰り返し言っていました。

 母の状態から考えれば、教会員の方と話した内容も、礼拝の説教も、私が説教したということも、すぐに忘れてしまいます。礼拝の前と後で、母の持つ知識、情報は何も変わりません。しかし、礼拝を通して別人のように変わる母の姿に、今更ながら、これがキリスト者にとっての礼拝なのかと、感嘆しました。記憶が混乱し、訳も分からず施設での生活が始まり、弱りに弱った魂を、神様はこのように励まし、強めて下さると確認し、心から主の御名を賛美した次第です。

 この経験を通して、私自身が強く問われたことがあります。それは、どのような思いで礼拝に出ているのか、ということ。一週間に一度、愛する仲間と顔を合わせて、共に神様を礼拝することが出来る。これは実に大きな恵みだと頭で理解しつつも、どこかで当たり前のことと考えていないか。義務と感じていないか。犠牲を払っていると思っていないか。

真剣に仲間との交わりを大切にし、礼拝を喜ぼうとしているのか。それを願い祈りながら、礼拝に集っていたのか。よくよく考えさせられました。いかがでしょうか。皆様は礼拝にどのような思いで集われているでしょうか。

 

信仰生活を続けていますと、残念なことですが、神様との関係において、「当然」「義務」「負担」と思うことが出てきます。礼拝に参加する、奉仕をささげる、交わりを持つ、献金をささげる、伝道する。これらが出来るとうのは、大きな恵みなのですが、いつの間にか、当たり前、すべきこと、出来るならやりたくないことに感じられることがあります。今の自分は、神様との関係をどのようなものと考えているのか。主イエスが語られたたとえより考えたく、聖書を開きます。

 

マタイ20章1節

天の御国は、自分のぶどう園で働く労務者を雇いに朝早く出かけた主人のようなものです。

 

 マタイの福音書には、イエス様が語られた「天の御国」についてのたとえが多く収録されていますが、これもそのうちの一つ。比較的、分量のあるたとえ話となっています。

ぶどう園の労務者を雇う主人を中心に話が展開します。イスラエル地方では、ぶどうは最も一般的な果物。直接話を聞いた聴衆にとっては、身近な場面なのでしょう。このぶどう園の主人が、なかなか厄介な御仁で、その行動も、その発言も、どうも腑に落ちない。シニカルというか、嫌味のある雇い主というか。ところが、この主人こそが、天の御国のたとえの中心というのですから驚きなのです。

 たとえ話の名手、イエス様が何を語ろうとされているのか。考えながら読み進めたいところ。

 

 ぶどうの収穫の時期に、園の主人が労務者を迎えに行き、無事に雇う事が出来たところから話が始まります。

 マタイ20章2節

彼は、労務者たちと一日一デナリの約束ができると、彼らをぶどう園にやった。

 

当時のイスラエルでは、朝六時から夕方六時までを十二時間に分けて考えますので、朝早くというのは朝六時のこと。一デナリというのは、当時の一日分の賃金として妥当なものなのでごく一般的な契約が結ばれたのです。

 働き手を探していた主人も、働きたいと願っていた者たちも、これでこの日は一安心。良かった、良かったという始まりです。しかし、ここから園の主人の、普通ではない行動が始まるのです。

 

 マタイ20章3節~7節

それから、九時ごろに出かけてみると、別の人たちが市場に立っており、何もしないでいた。そこで、彼はその人たちに言った。『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。相当のものを上げるから。』彼らは出て行った。それからまた、十二時ごろと三時ごろに出かけて行って、同じようにした。また、五時ごろ出かけてみると、別の人たちが立っていたので、彼らに言った。『なぜ、一日中仕事もしないでここにいるのですか。』彼らは言った。『だれも雇ってくれないからです。』彼は言った。『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。』

 

 園の主人は何を思ったのか、一日のうちに何度も人を雇います。よほど、人手が足りていなかったということでしょうか。しかし仮に、いくら人手が足りなかったとしても、夕方五時から、新たに人を雇うのはおかしいこと。何しろ、あと一時間で終わりの時間が来るのです。

それも、最後に雇われた人たちとの会話は、「なぜ、何もしないでここにいるのか。」との問いに「誰も雇ってくれなかった。」というものでした。一日かけて、全ての雇い人に、仕事が出来ないと見定められた者たちを、残り一時間の段階で雇ったという話。

この最後の時間に選ばれた人たちの気持ちは出てこないのですが、想像すると感動的な場面。この最後の者たちは、誰からも認められない状況で一日の大半を過ごし、焦り、不安、自己嫌悪の中で、それでも自分を雇ってくれる主人に出会えたのです。感謝、感動の場面。

この主人は、ぶどう園の経営など考えていなく、ただ人を雇いたいだけのように見えます。果たしてこの主人で、ぶどう園は破綻しないのだろうかと、不要な心配が頭をよぎるところ。とはいえ、この最後に雇われた人たちにとって、この主人との出会いは、大変良かった。幸せな出来事となりました。

 

 こうして一日が過ぎ、賃金支払いの場面となります。ここにきて、主人の嫌味たらしさが出てくるのです。

 マタイ20章8節~9節。

こうして、夕方になったので、ぶどう園の主人は、監督に言った。『労務者たちを呼んで、最後に来た者たちから順に、最初に来た者たちにまで、賃金を払ってやりなさい。』そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつもらった。

 

 一日の仕事を終え、楽しみにしている報酬の時間。朝一から働いた者たちは、我先に駆けつけるも、最後に来た者たちから報酬が支払われます。「なぜ最後の者たちから?」という疑問を抱き、「まあ、賃金の支払い順など、どうでも良いか」とブツブツ言いながらも、その最後に来た者たちが受けとった金額を見て、驚愕するのです。

 残り一時間になってから来て、ろくすっぽ働かなったあの者たちも一デナリ受け取っている。「何て気前のいい主人だ。これは良い。なるほど、なるほど。なぜ最後の者たちから、賃金の支払いなのかといぶかしんだが、あの者たちに一デナリを渡すのならば、話しは分かる。これからどんどん増えていくのであろう。あまりに多くの額を見ると、悔しがるだろうから、あの者たちには先に賃金を渡し、帰そうということか。あの主人、心得ているな。」と思い、自分がもらう報酬が高くなるであろうことに胸を膨らませていると、もう一つの驚愕が待っているのです。

 

 マタイ20章10節

最初の者たちがもらいに来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らもやはりひとり一デナリずつであった。

 

 「そんなバカな。」という状況。不公平、理不尽、不条理。一時間しか働かなかった者たちが一デナリだとするならば、自分たちはその十倍はもらえるはずではないか。仕事が違う、能力が違うというならまだしも、同じ仕事で、最後に少し来た者たちと同じ賃金。これは許せない。これでは、あの最期に来た者たちと比べて、私たちの力は、十分の一以下ということになる。その上、最後の者たちから賃金を渡し、見せつけておいて、自分たちにも同じとは、一体何なのか。ただの嫌がらせではないか。こんなひどい話はないとして、文句を言います。

 

 マタイ20章11節~12節

そこで、彼らはそれを受け取ると、主人に文句をつけて、言った。『この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。』

 

 涼しくなった夕方から一時間働いた者たちと、一日中、やける暑さの中で苦労した私たちと、同じ賃金であるというのが納得出来ない。あの暑さの中で働いた私たちの姿を、見ていないのですか。私たちの働きは評価しないのですか。最後に来た者たちに、一デナリ渡すのだから、私たちにはもっと多く出すべきでしょう、との声。

 分かります。文句を言って良いと思います。賃金に差をつけるか。皆が一デナリだと言うなら、せめて最初から働いている者たちから賃金を渡し、帰してから、次の者に賃金を払うべきなのではないかと思います。

 

 この文句に対する主人の答えで、このたとえは閉じられることになります。

 マタイ20章13節~16節

しかし、彼はそのひとりに答えて言った。『私はあなたに何も不当なことはしていない。あなたは私と一デナリの約束をしたではありませんか。自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか。それとも、私が気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか。』このように、あとの者が先になり、先の者が後になるものです。

 

 主人の答えは、「契約通り、不当なこと無し。」というもの。そう言われれば、そうなのだけれども、そもそも契約違反だと文句をつけているのではないのです。「私が気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか。」と言いますが、そうではなく、「他人に対して気前が良く、私たちに対して気前が良くない」ことが不公平だと感じているのです。どうも釈然としない。どうもモヤモヤするまま、このたとえ話は閉じられる。

 

 長らく信仰生活を続けてきた方。礼拝を守り、定期的に献金をささげ、奉仕をし、教会生活を大切にしてきた方にとって、このたとえ話は、主人の不公平さが際立つように感じます。信仰生活を守るために、大変なことも多々あるのに。天の御国では、そのような信仰者の労苦は何も関係ないものとされるのかと戸惑います。

そしてイエス様の気になる言葉、「あとの者が先になり、先の者があとになるもの。」を聞くと、それならば死ぬギリギリまで好き放題生きて、人生の最後の最後でキリストを信じるのが一番良いのではないかと思えてくる。

 果たして、このたとえ話は何を教えるものなのか。主イエスは、何を伝えよとされているのか。

 

 考えなければならないのは、この話は「人の雇い方」とか、「ぶどう園の経営の仕方」を語るものではないということ。「天の御国」がテーマとなっていることです。

 そして、天の御国の話だとすると、そもそも報酬に見合った働きをする者などいないはず。つまり、早朝から働いたような者たちは、本来、存在しないはずです。早朝から働いた者たちは、一日働いて、一日分の賃金を受け取りました。賃金を受け取るのに相応しい働きをしたのです。それでは、天の御国に入るのに、相応しい人生を送る人など、いるでしょうか。聖書は次のように宣言していました。

 

 ローマ3章23節~24節

すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。

 

 つまり、私たちは全員、このたとえに出てくる人物で言えば、最後に雇われた者たち。働く力がないと見定められていたはずなのに雇われ、働きに相応しくない報酬を頂いた者たち。それが私たちでした。それでは、本来存在しないはずの、早朝から働いた者たちが、なぜたとえ話には存在するのか。ここが、実にイエス様の巧みなところです。心の底から、自分は価なしに義と認められたのだと思っている者。キリスト者の生活も、神様の恵みと受け取っている者にとって、この話はただただ、良い話なのです。何しろ、価しないのに、素晴らしい主人と出会い、ありえない報酬を手にする話と聞こえるからです。ところが、心のどこかで、神様との関係を、雇い主と雇われ人と考えている者。あるいは、恵みを受けるのは当然と思う時。キリスト者の生活が、義務や負担と感じる時。この話は、気に入らない。納得のいかない話となるのです。自分を何者とするのか。神様との関係をどのようなものと思っているのか。それによって、全く異なる印象を与える実に巧妙なたとえ話でした。

 

私たちはキリストを信じる際、自分の罪深さを確認し、キリストによって価無しに義とされたことを信じます。そして、だからこそ、その恵みの大きさに応えたいと願い、キリスト者の歩みを送ります。神様の恵みに応えることが出来るというのは、そのこと自体が大変大きな恵みでした。礼拝に出られること、奉仕が出来ること、交わりを喜べること、献金が出来ること、聖書を読めること、真に祈るべき相手を知り祈れるということ。これらは、恵みそのものでした。しかし、いつの間にか、キリスト者としての歩みが、労働のように思われることがある。祈ること、聖書を読むこと、教会のために労すること、礼拝をささげることが、恵みを受けるための対価と思うようになることがあるのです。いかがでしょうか。キリスト者としての歩みを、心から喜ぶ時もあれば、義務や労働のように感じたこともあったのではないでしょうか。そして今、皆様が感じる、神様との関係はどのようなものでしょうか。

 

 神様の前で、ひどい高慢は何かと言えば、自分の力でキリスト者の歩みを送っていると思うことです。私だから、ここまで信仰生活を続けられた。私だから、これだけ奉仕をささげられた。私だから、これだけの人を教会に誘うことが出来た。私だから、これだけささげることが出来た。そのような思いが心の内から湧き出てきたら、もう一度、価無しに義と認められ、良い行いすら備えて頂いている(エペソ2章10節)ことを、思い返したいのです。」皆様とともに、今日、礼拝に来くることが出来た恵みを感謝したいと思います。皆様とともに、教会の交わりを楽しみにしたいと思います。皆様とともに、キリスト者の歩みを、神様の恵みと受け止めて、主の前でへりくだる人生を送りたいと思います。

2015年10月11日日曜日

マタイの福音書5章4節「山上の説教(2)~悲しむ者は~」


先週から、私たちは山上の説教の学びに入りました。イエス・キリストが古里がリラやの山から弟子たちにお互りになった山上の説教は、「幸いです」で始まる八つの教え、所謂八福の教え、幸福の使信よばれるもので幕を開けます。

私たちの聖書には「悲しむ者は幸いです」とありますが、昔の文語訳では「幸いなるかな、悲しむ者。その人は慰められん」とあります。これがイエス様の言われた通りの順序でした。つまり、八つとも「幸いなるかな」で始まり、その後にどういう人が幸いなのかが教えられていたのです。

この八つの祝福が同じ約束で始まり、同じ約束で終わっていることに、皆様は気がつかれたでしょうか。最初イエス様は「天の御国はその人のものだからです」と約束し、最後も同じく「天の御国はその人のものだからです」で閉じておられます。「天の御国はその人のもの」とは、イエス様が幸いだと言われた弟子たちが、すでに天の御国にいることを示しています。

当時、ユダヤ人は神様への畏れから、直接的に「神」と言わず、「天」に置き換えて言い表していました。ですから、天の御国は神の国とも言えますし、事実聖書の他の箇所では多く神の国と言う表現が登場してきます。

そして、神の国とは神様の支配を意味します。ことばを代えて言えば、イエス様を信じて、天の父のみこころに従う生き方をする者、イエス様の弟子たちの心に神の国はあるということになるでしょうか。この八つの教えから始まる山上の説教を、イエス様の弟子である私たちに幸いな生き方を教えるものとして、読み進めてゆきたいと思います。

ところで、イエス様が使われた「悲しい」は、非常に深い悲しみを表わすことばです。それも、今昔悲しいことがあったとか、将来悲しいことが起こるかもしれないと言うのではなく、今現在嘆くほどに悲しんでいる状態を指していました。

心底悲しんでいる人が、同時に幸福を感じていると言うことはあり得ません。それでは、何故イエス様は「悲しむ人は幸いです」と言われたのでしょうか。

それは、悲しむべきことを悲しんでいる人は、イエス様の眼から見て幸いな状態にあるからです。

ここで言われる「幸い」は、私たちが幸福感を感じるているかどうかではなく、イエス様の眼から見て、悲しむべきことを悲しんでいる時、私たちは非常に幸いな状態にあることを意味していました。つまり、私たちは悲しむべきことを悲しむ生き方を実践することにより、真の幸福、真の喜びへと導かれると言えるでしょうか。

聖書によれば、最初私たちはこの世界を創造した神様との愛の交わり、親しい交わりの中に生きる者として造られました。神様から受けとる愛によって、人間は人間らしく生きることができたのです。

しかし、神様に背を向けた人間は、自分の存在価値が分からない、心から愛し合うことができない等、様々な能力を失いました。それら失ったものの一つが、神様の眼から見て悲しむべきことを悲しむことができなくなってしまったと言う問題なのです。

それでは、イエス様は何を悲しむべきと教えているのでしょうか。それは、私たち自身の中にある罪とこの世界における罪の現われです。イエス様はある時、こう言われました。

 

マルコ2:17「イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」

イエス様は、当時のユダヤ人の多くが、自分自身の罪に気がついていなかったから、あるいは、自分の力ではなおせない程、罪が深刻な魂の病気であることを理解していなかったため、この様に語られました。果たして、私たちはどうでしょうか。自分の罪に気がつき、それを悲しんでいるでしょうか。自分の罪が深刻な病であると感じ、嘆き悲しんでいるでしょうか。使徒パウロの告白に聞きたいと思います。

 

ローマ7:18 私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。」

 

自分でしたいと思う善を行わないで、かえってしたくない悪を行ってしまう自分。皆様は思い当たることないでしょうか。相手に優しくしようと思いながら、自分のやり方が受け入れられず、かえって相手を感情的に責めてしまう自分。寛容でありたいと願いながら、つい短気を起こしてしまう自分。頭の中では親切にしなければと分かっていても、不親切で冷淡になってしまう自分。その様な経験はないでしょうか。

また、たとえ、正しいことを実行したとしても、心の動機が悲しむべきものと言う場合もある様に思われます。讃美歌作者のペイソンと云う人が、「私はなんと情けない人間なんだろう。自分の家の草取りをしている時でも、虚栄と高慢と云う罪を貪っている」、と告白しました。ひとりで休日に庭の草を引っ張って抜く。小さな庭の草取りをしながら、そうした時でも自分は虚栄の塊。高慢の塊であることを神さまに告白いたします」、と彼は言っているのです。

何故でしょうか。どうして泥だらけになって草引きをしている人が、虚栄と高慢の塊なのか。彼はこう言っています。「私は最初何の気なくワイシャツの腕まくりをし、庭の草引きをし始めた。ところがそれをしているうちに、この自分の泥まみれの仕事振りを家の者にも見せたくなった。近所の人にも見てもらおうとしだす。いかにも自分は働き者だと褒められたい思いに駆られてくる。それは虚栄心ではないか。また、人に手助けを請わないで、自分ひとりで庭をきれいにしてみせることによって、俺が自分ひとりでやったんだ。自慢したくなる。高慢の心だ」。こう、彼は自分の心を分析したのです。

人の評判を意識した奉仕、ちょっとした善行を人に見せたくなる高慢、相手からの報いを期待してなす親切。そう考えると、聖なる神様の眼から見るなら、私たちの善行のうち、一体何パーセントが、相手の幸いを願う心からなされた本当の善行なのか。そう思わざるを得ません。

さらに、それをしたら相手が傷つくと分かっていながら、あえてそれを行う悪しき性質が心に潜んでいることに気がつくと、神様に罪赦された者としてその様な事を考えたり、感じたり、実行したことを嘆き、悲しみの思いに打ちのめされるのです。自分の悲しみについて、パウロはこう語っています。

 

ローマ724 「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」

 

罪の性質を宿している自分の体を死の体と呼び、私は本当に惨めな人間ですと、神様の前に頭を垂れ、悲しむパウロ。皆様はこのパウロのことばに同意するでしょうか。同じ告白ができるでしょうか。私たちもパウロと同じく、神様の前に自分の罪を悲しむ者でありたいと思います。

 しかし、私たちは自分の罪を悲しむことで終わってしまってはならないと、イエス様の生き方から教えられます。果てしなく続く戦い、差別、道徳的混乱、病や死。イエス様はこの世界が悲惨で、不幸な状態にあることを見、それらの根っこに罪があることを知っておられました。その故に、深く悲しんでおられたのです。

 

 マタイ8:16,17「夕方になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れて来た。そこで、イエスはみことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみなお直しになった。これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」

 

 イエス様はその生涯の多くの日々を、苦しむ人々の中で過ごされました。彼らに対しておとりになったその態度が、私たちに対する神様の思いを示しているのです。

イエス様は全能の神です。ですから、悪霊を追いだし、病を癒すことができました。癒し自体はイエス様にとって簡単なことであったでしょう。しかし、ここで聖書が伝えているのはその様な事ではありません。イエス様が人間の罪がもたらした様々な痛みや苦しみをご自身が負われたこと。不幸な出来事や病が私たちにもたらす悲しみを理解し、ご自身の悲しみとされた姿を伝えています。イエス様はご自分も深く悲しみながら、苦しむ人、傷ついた人に接しておられたのです。

「悲しむ人は幸いである」言われたイエス様は、私たちも同じであれと、教えています。罪と罪の現われに苦しむ人々のことを、自分のことのように思い、接してゆく生き方が、神様の祝福のうちにある人生であることを教えているのです。

それでは、悲しむ人が与えられる幸い、慰めとは何でしょうか。イエス様は「悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです」と言われ、どの様な慰めかを説明していません。しかし、これは当時ユダヤ人が良く使っていた表現で、神様からの慰めを意味していました。

それでは、聖書が示す神様からの慰めとは何でしょうか。

第一に、罪を悲しむ者は、イエス・キリストを救い主と信頼する思いに導かれ、その人は、神の子とされると言う慰めです。神の怒りの対象であった私たちが、イエス・キリストによる罪の贖いの恵みを信じる、ただその一点で神様の愛される子になると言う慰めです。

 

ローマ8:15「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。」

 

イエス・キリストを信じる者と神様の関係は、奴隷と主人の関係とは全く違うと言われています。奴隷はいつ主人から罰せられるか、責められるかわからない、そんな恐れと不安の中に生きています。しかし、イエス様を頼る私たちはどの様な状態にあっても、神様の愛に守られている子どもであると言うのです。

イエス様が十字架で罪を贖ってくださったので、私たちは神様からさばかれることの無い安全な関係にあります。決して神様から責められることのない関係、ありのままの自分を受け入れて貰った安心できる関係の中に生かされていること、この様な慰めを今私たちは受け取っているのです。

第二に、将来必ずや、私たちは神様の愛で満たされた世界で永遠に生きると言う望みによって、慰められます。イエス・キリストが再臨し、この地上の世界が新しくされる日、神様の慰めにより、私たちは全ての痛み、悲しみから解放されると、聖書は約束していました。

 

黙示録21:3,4「そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」

 

私たちの悲しみを、ご自分のこととして受けとめ、感じておられる神様が、親しく近寄ってくださり、私たちの眼の涙をぬぐい取ってくださる日が来る。人間の罪がもたらした争い、差別、病、死それら一切がない世界がもたらされる。この望みあるがゆえに、私たちは今の世界がどんなに悲惨でも失望しない。この望みあるがゆえに、イエス様の弟子として歩む喜びがある。このことを確認したいと思うのです。

最後に、皆様とともに考えたいことがあります。それは、神様の慰めを受けた者として、私たちはこの地上でどう生きるべきかと言うことです。

ひとつ目は、地上にある限り、罪を悲しむ歩みを続けてゆくと言うことです。罪を悲しむことによって、私たちは本当の自分の姿を知ることができます。すさまじく罪の力に縛られている自分、情けない程弱い自分を見出すのです。つまり、罪を悲しむ人は、本当の自分を知り、認め、謙遜になると言うことです。

罪を悲しむことをしない人は、他の人をさばきがちです。相手の弱さや欠けを見出すと、正当論と言うのか、「~すべし」と言う態度を前面に出して、接することが多いのです。私自身、これでどれ程人を傷つけてきたことかと思います。しかし、これでは苦しむ人を助けることはできません。

むしろ、自分も同じ罪の性質を宿す者として、謙遜な態度で接してゆく。そうする時、相手も安心して、自分の本当の思いを語ることができるように思います。

二つ目は、神様の慰めを受けた者として、イエス様のように人を慰める生き方をしたいと思うのです。勿論、私たちは、イエス様のように人々の病を癒したりする力はありません。しかし、神様が周りに置いてくれた人々の悲しみを理解しようと努めることや、共感すること、悲しむ人々に寄り添い、その心の声を聞くことはできる者とされたのです。

イエス様は、罪によって苦しむ人間を天から静かに見ておられる方ではありませんでした。自ら天から下り、私たちの仲間になり、私たちの悲しみを知る人となられたのです。クリスチャンとは、この様なイエス様が今自分のうちに生きて働きたもうことを信じている人です。

そうだとすれば、神様が私たちの周りに置いてくださった人々、家族、友人、地域の隣人、教会の兄弟姉妹に対し、イエス様がなされた様な交わりを広げてゆくことが、私たちが地上で目指すべき生き方ではないかと思えます。

果たして、私たちは悲しむ人に心を配っているでしょうか。そうした人々と交わるために、どれだけ時間を使っているでしょうか。今神様の慰めを受け、将来における神様の慰めを確信する私たちが、この地上に生かされていることの意味をもう一度考えたいと思います。今日の聖句です。

 

Ⅱコリント1:4「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。」

2015年10月4日日曜日

マタイの福音書5章1節~3節「山上の説教(1)~心の貧しい者は~」


主の日の礼拝において、これから連続して取り上げてゆきたい箇所。それは山上の説教です。イエス・キリストが故郷ガリラヤの山から語られた説教は、所謂名句、名言の宝庫。「求めよ。さらば与えられん」とか「豚に真珠」など、聖書を開いたことの無い人にも知られている有名なことばが、数多く登場します。

しかし、何と言っても印象的なのは、「幸いなるかな」と呼びかける八つの教えで始まる冒頭の箇所です。聖書的な幸福論、つまり古今東西、私たち人間が求めてやまなかった幸福、今も求めてやまない真の幸福について、イエス様自ら教えてくださっている点が、大いなる魅力と感じられます。

ところで、一般的に幸福とはどの様に考えられているでしょうか。皆様にとって、幸福とは何でしょうか。広辞苑と言う辞書には「めぐりあわせの良いこと、満ち足りた状態」とありました。収入が増えたとか、家族団欒の時が持てたなど、身の回りで何か良いことが起こり、心が満ち足りる状態を幸福と考える。よく分かる気がします。

しかし、これから詳しく見てゆくことになりますが、山上の説教が教える幸福は、それとは随分違っています。この世の言う幸福が、私たちの周りの状況、出来事に左右されるのに対し、イエス様はそれらに左右されない生き方、性質を身につけること、ことばを代えて言えば、本当にイエス様の弟子として生きることが幸いであると教えているからです。

 この様に、キリスト教的な幸福論として、山上の説教を読み進めてゆきたいと思いますが、他方、山上の説教について押さえておきたいことが幾つかあります。私たちがこれを読む時、いつも心に意識しておくと良いことです。

 先ず、山上の説教は、旧約聖書の昔、神様がイスラエルの民に与えた十戒の真の意味を説き明かしたものと言う面があります。私たちも第四週の礼拝で唱えている十戒。それを、イエス様の時代の宗教家たちは歪んだ形で理解し、人々に教えていました。それを正し、そこに込められた神様のみこころを説き明かし、当時の人々の生活に適用したのが、山上の説教なのです。

 次に、ここに語られた教えを真剣に実行しようと試みた人なら、誰でも感じると思われますが、山上の説教は私たちの罪を露わにします。私たちの行い、私たちのことば、私たちの心の願望や思いがいかに汚れているか。イエス様のことばが鏡となって、その汚れが私たちの心の眼に映し出されるのです。しかし、だからこそ、私たちはイエス様の罪の贖いの恵みに頼ることができる。これは、山上の説教を読む者にとっての恵みではないでしょうか。

 けれども、さらなる恵みがあります。山上の説教で語られる教えは、イエス様の弟子としての生き方の目標、それも生涯追い求めてゆくべき目標であると同時に、神様によって最終的に私たちが必ずこの様に造り変えて頂けると言うゴールを示す祝福のことばでもあるのです。譬えるなら、山上の説教は、私たちにとって登るのが難しい険しい山であるとともに、神様によって将来必ずその山頂に導いていただける麗しの山とも言えます。

 これらの点を踏まえながら、山上の説教に入ってゆきたいと思います。

 

 513「この群衆を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた。心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」

 

 イエス様の故郷ガリラヤは風光明媚な所。静かに水を湛えるガリラヤの湖を見下ろす、小高い山に上られたイエス様が弟子たちに顔を向けて発した第一声。それが「幸いなるかな」でした。日本語聖書では「心の貧しい者は幸いです」とありますが、元々は順序は逆。「幸いなるかな、心の貧しい者よ」と、イエス様は語られたのです。

 しかし、心の貧しい者とは、自分には頼るべきものが何一つないと考えている者を意味します。常識で言えば、頼るべきものが何一つないと感じている人は幸せとは言えません。けれども、不思議なことに、以下世の常識からすれば、幸いとは思えない人が幸いと言われています。悲しむ者、柔和な者、これは人から苦しめられ悩む者を指します。それに義に飢え渇く者、続くあわれみ深い者、心のきよい者は良いとしても、極めつけは最後の義のために迫害されている者でしょうか。

 「幸いなるかな」と聞くと、私たちは心が幸福感で満たされている状態を思い浮かべます。しかし、ここで言われる「幸いなるかな」は、神様に祝福されている状態を意味していました。

つまり、私たちがその状況をどう感じるかではなく、「ここに教えられている性質、生き方を身につけることがあなたがたにとって真の幸いであり、神様の祝福のうちにある人生なのですよ。」そうイエス様は語っておられるのです。

 それでは、第一の幸い「心の貧しい者」とは、どの様な者でしょうか。

 先ず、それは神様の前に出て、自分の心の中にあるものに目を向ける人です。聖書は、私たちが神様の前に出るなら、自分の内側にある罪に目を向けざるを得なくなると教えています。神様の聖さに直面する時、自分の中にある汚れた思いを知らされることになると言うのです。

 

詩篇139:23,24「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」

 

ダビデと言えばイスラエル史上最高の王。音楽の名手にして詩人でした。しかし、ここにある様に、ダビデはいつも神様の前に出ると、自分の内側を探り、何がいけないのかを示してくださいと神様に求めていたのです。この様な神様との交わりの時間を取ること、習慣とすること、それが幸いな人生への第一歩と教えられます。

こうして、神様の前に出て、自分の内側を省みる時、私たちは自分に誇るべき物、頼るべき物が、何一つないことを思わされます。

 

ピリピ3:3~8a「神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みにしない私たちのほうこそ、割礼の者なのです。ただし、私は、人間的なものにおいても頼むところがあります。もし、ほかの人が人間的なものに頼むところがあると思うなら、私は、それ以上です。私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。れどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。」

 

パウロと言う人ほど、人間的な目で見れば誇るもの、頼るものを持っていた人物は当時いなかったかもしれません。純粋なイスラエル民族、生粋の神の民として生まれたこと、聖書に対する知識、熱心な行いなど、イエス・キリストを知る以前は、彼自身もこれらを頼みにしていた、得意に思っていたと語っています。

しかし、イエス・キリストに出会い、その愛の深さ、広さを知ると、その余りのすばらしさのゆえに、自分が頼り、得意に感じていたものすべてを損と思うようになった、続く箇所では、「ちりあくた」つまりごみの様なものに見えてきたと言うのです。

自分の生まれ、財産、社会的肩書き、才能や行い。私たちは普段それらを周りの人と比べ優越感を抱いたり、劣等感に陥ったりしていないでしょうか。しかし、イエス・キリストを知る時、その様な生き方から私たちは解放されます。何よりも大切と思い、誇りとしてきたものが、イエス様の十字架の愛に比べるなら、本当に小さなものでしかないと気がつくことになるからです。

さらに、神様の前に出る時、私たちは自分の罪深さを思います。ここでも、パウロを例に挙げますが、神様とともに歩めば歩むほど、パウロが自分の罪の酷さ、救いがたさを認めてゆく様子が分かります。

最初イエス様を信じ、クリスチャンになったばかりの頃、パウロはこう言っていました。

 

Ⅰコリント15:9「私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。」

 

 次に、エペソ人への手紙の中では、

エペソ3:8「すべての聖徒のなかで一番小さな私…」

 と自分のことを呼んでいます。

 

 そして、晩年にはついに罪人のかしらと、自分を認めることになるのです。

 

Ⅰテモテ1:15「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」

 

 キリスト教最大の伝道者とも最高の神学者とも称されるパウロ。しかし、その歩みは自分がいかに救いがたい罪人であるか。いかに心の貧しい者か。その様な思いを深めてゆくものであったのです。自分を誇ることに死に、イエス・キリストとその恵みを誇る者へと変えられてゆく、その様な歩みでした。

 果たして、私たちの歩みはどうかと問われます。神様の前に出て、自分の罪の深さを思う時を持ってきたか。自分を誇ることよりも、イエス・キリストを誇ることが多くなっているのか。

「実るほど頭を垂れる稲穂かな」ということばがあります。成長した稲の穂がこうべを垂れる姿を、人生に譬えたものです。心貧しい者としての歩み。それは、神様と人の前に頭を垂れる謙遜さにおいて成長することと思われます。

それでは、心の貧しい人の幸いとは何でしょうか。イエス様は「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」と言われました。天の御国はその人のものとは、心の貧しい人は、神様の変わることなき愛に守られ、導かれると言う祝福のうちにあることです。

神様の愛に守られている人は、謙遜な生き方をすることができるようになります。聖書の言う謙遜とは、罪のゆえに自分一人では何も良いことができないと認めること、しかし、だからこそ神様と人に心から助けを求めることのできる生き方です。

「自分は何もできない」と座り込んで、何事にも取り組もうとしない人は、謙遜な人ではありません。真に謙遜な人とは、自分の弱さ、無力を認めるとともに、神様と神様が周りに置いてくださった兄弟姉妹、隣人などに、自分ができないことに関しへりくだって助けを求め、みことばの実践につとめる人なのです。

私たち人間は、神様を信頼し、人々と助け合う関係の中にある時、最も自分らしく、幸いに生きることができる者として創造されました。しかし、神様から心離れて生きるようになってから、人間は自分の心の貧しさを認めず、それゆえ神様にも人にも助けを求める謙遜さを失ってしまいました。

ですから、イエス様は、私たちが人間本来の幸いな生き方を回復することができるよう、この世に来られ、十字架の死において神様の測り知れない愛を示してくださったのです。

ここで、皆様に紹介したいのは、イエス様を通して、神様の愛を知った人、エリコの町で収税人の仕事をしていたザアカイの人生に起こった変化です。当時ユダヤを支配していたローマ帝国の手先となり、税金を搾り取る仕事で富を増やし、同胞を苦しめていたザアカイは、町の嫌われ者でした。ザアカイ自身もその様な人生に虚しさを感じていたことでしょう。そんなザアカイがイエス様と出会い、神様の愛に触れた時、イエス様に対しこの様に告白しています。

 

ルカ19:8「ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」」

 

「私がだまし取った物は、四倍にして返します」ということばは、ザアカイが自分の罪を認めると同時に、自分がなすべき償いに取り組む決意を示しています。また「私の財産の半分を貧しい人たちに施します」ということばは、ザアカイの心に貧しい人々の苦しみを思い遣る愛が生れてきたことを伺わせます。

ザアカイと町の人々の関係を考えると、償いも、施しも、決して簡単なことではなかったと思われます。人々の不信、疑い、怒りの目が向けられる中、心貧しい自分を知るザアカイは神様に信頼しつつ、自分のできることに取り組んでいったのです。

私たちも、神様の前に出て心の貧しさを知ることにつとめ、神様と人に助けを求める謙遜な生き方、神様が自分に与えられた賜物を感謝し、それを愛をもって活用する生き方において成長したい、成長させていただきたいと思います。今日の聖句です。

 

Ⅰテモテ1:15「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」